三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

自爆テロと特攻

2015年08月30日 | 戦争

自爆テロと特攻は似たようなものだと思ってましたが、ネットで調べると、特攻は戦闘行為で、民間人を対象としていないという点が違うそうです。
大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』によると、特攻隊員たちは作戦遂行中に戦死したのであり、彼ら自身も、一般の日本人も、隊員たちの行為を自殺とは考えなかったとあります。

私は費用対効果が違うのではないかと思います。
特攻は最初のうちは多大な戦果をあげましたが、アメリカ軍はすぐさま対策を考えたため、特攻は無駄死になってしまいました。
費用対効果からいうと、大損です。
ところが自爆テロのほうは、無差別に殺害することで効果的に不安や恐怖を与えます。

自爆テロは天国に生まれることを信じ、特攻は靖国神社に英霊として祀られるわけですから、自爆テロと特攻の共通点は宗教的ということだと私は思っていたのですが、大貫恵美子氏は、キリスト教をモデルとして、父なる神としての天皇というイメージが作られたと説明します。

日本の宗教的・政治的背景は、キリスト教のモデルのそれとはかけ離れたものだった。
1 日本の民間神道には全能の神は存在しない。
2 キリストが人間のために自分の生命・身体を犠牲にしたのに対し、天皇が日本人のために同様のことをするとは全く考えられない。
3 近代日本の宗教は来世より現世に焦点をおき、死後の報いを強調していないのである。
4 天皇は行政的境界を超越した王国を統治する存在ではなかった。
ところが、天皇=国のために死ぬことによって神とされた。

国家は、日本の民間の宗教性において死後肉体が存在しないことを利用し、死を義務化し、その代わり「この世のものでない美しさ」を備えた桜の花として魂が生まれ変わることを保証した。国家は日本人の本質は大和魂にあると繰り返し強調し、これがあるからこそ日本人は他国民とは異なり、潔く自分を犠牲にできるのであると主張した。


ヨーロッパ中世初期を通じて、異教徒を殺すことが美徳となり、これにより即座に天国に入ることを保証された。
12世紀までに、キリスト教殉教者は国家的色合いを帯びるようになった。
『ローランの歌』には「我々は王のために死ななければならない。キリスト教への信仰を守るため」とある。
13世紀までには、世俗的国家の戦争犠牲者まで殉教のイメージで語られた。
ドイツではキリスト教信仰の内面化および敬虔化が18世紀から19世紀にかけて復興し、多くのドイツ人はキリスト教の王国のために戦っていると思い、また彼らの使命が神聖であるという感覚を得た。
ドイツやイタリアなどにおける国への犠牲奨励用の戦争プロパガンダは、キリスト教的イメージを利用したものであるが、これは祖国がもはやキリスト教王国を意味しない、という矛盾にもかかわらず動員された。
第一次世界大戦で、オーストリア軍と戦って戦死したイタリア人兵士は、オーストリア戦没兵と同様、キリストによって受け取られ天国に入ったことになった。
ドイツやポーランドの絵葉書は、キリストや天使が戦没兵士に触れているところを描いている。

どの政治国家のために死んだかに関係なく、兵士はキリスト教の王国のために戦死し、したがって主キリストによって引き取られる。

ヨーロッパ諸国の国歌の多くは、兵士が国のために戦死することを讃美し、キリスト教の王国、すなわち天国によみがえることを保証している。

国のために死ぬことを美化しているわけですが、特攻隊や回天の隊員にしても国=天皇のために死んだとするなら、同じことだと思いました。
彼らの死を美化しないほうがいいと思います。

コメント
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