三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

佐伯啓思『自由と民主主義をもうやめる』

2012年04月20日 | 

某氏よりいただいた佐伯啓思『自由と民主主義をもうやめる』を読み、私は保守だったと気づいた。

保守とは何か?
天皇バンザイとかアメリカ追従が保守なのではないし、体制派でもない。

保守=戦後体制(国民主権、基本的人権、平和主義)の批判=変革=反体制派

戦後体制はアメリカが作ったものである。
アメリカと良好な関係を保つ―戦略的親米(保守ではない)
アメリカと距離を置く―戦略的反米

逆に左翼が体制派なんだそうだ。
左翼=戦後体制の擁護=現状維持=体制派

佐伯啓思氏は左翼と保守の違いをこのように説明している。
「「左翼」は、人間の理性の万能を信じている。人間の理性能力によって、この社会を合理的に、人々が自由になるように作り直してゆくことができる、しかも、歴史はその方向に進歩している、と考える。
一方「保守」とは、人間の理性能力には限界があると考える。人間は過度に合理的であろうとすると、むしろ予期できない誤りを犯すものである。したがって、過去の経験や非合理的なものの中にある知恵を大切にし、急激な社会変化を避けよう、と考える」

社会が閉塞状態だと感じると、人は強力な指導力を持つリーダーによる急激な変革を待望しがちである。
それは保守の立場ではない。
伝統や慣習を無視して秩序を大変革しようとすれば、社会が大混乱に陥る。
佐伯啓思氏が小泉純一郎氏や橋下徹氏に批判的なのはこのためだったわけか。
社会を変えていくには漸進主義のほうがいいと私も思います。
凡人が集まって、ああでもない、こうでもないと頭をひねって考えるような。

「社会の変化は必要なものです。しかし、変えていく場合にも、常に歴史に学びながら、何を残せばいいかということを中心に考えていくべきである。これはイギリスの典型的な保守の考え方なのです」

イギリスの戦後を代表する思想家のマイケル・オークショットは「保守主義とは何か」という論説で次のように書いているという。

「保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むことであり、試みられたことがないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限のものよりも限度あるものを、遠いものよりも近くにあるものを、あり余るものよりも足るだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである」

ヨーロッパの保守とアメリカの保守とは考え方が大きく違うそうだ。

「レーガン大統領は、アメリカでは保守と称された。そこで、個人主義的な自己責任に基づく市場競争主義こそがアメリカの保守主義とみなされることとなりました。
しかしヨーロッパからすると、レーガンは決して本来の保守ではない。市場原理主義もピューリタンの原理主義も、決して保守ではありません。むしろそれは、自由主義や宗教的急進主義と言うべきものです」
日本が受け入れたのがアメリカの保守である。
ここまではなるほどと納得。

中東の春は欧米民主主義の押しつけだし、構造改革、グローバル化はアメリカの価値観の押しつけと言っていいと思う。

しかし、『自由と民主過ぎをもうやめる』の後半は賛成できない

というのが、佐伯啓思氏は「その国の歴史に即して社会を変えていくこと、その国の歴史的・文化的なコンテキストに即して問題を解決していくことが、保守の基本です」
と言う。
そのことはもっともだと思うが、後半に書かれている日本の歴史や文化には疑問符です。

追記
佐伯啓思氏は戦後の日本は「アメリカ的なもの」に従属し、「骨抜き」にされてしまっていると考えている。
そのため、日本がはぐくんできた価値、受け継がれてきた価値が何か、よくわからなくなってしまっている。
でも、価値とか伝統は時代社会とともに変わっていくのもだと思う。

コメント (10)
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