三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』と『自立への苦闘』1

2011年04月08日 | 問題のある考え

米本和広『我らの不快な隣人』は、統一教会信者を脱会させるために家族が信者を拉致・監禁して強制脱会させている、という問題を取り上げている。
無理矢理マンションの一室に閉じ込めて脱会させるという強制脱会の後遺症で、脱会して何年もたっているのに、アトピー、抑うつ状態、睡眠障害、情緒不安定などの症状に悩まされている元信者がいるとも書かれている。
そんなことが行われているのかと驚いた。
ところが、某氏から教えてもらった全国統一協会被害者家族の会編『自立への苦闘 統一協会を脱会して』という本にはこのように書かれてある。
「統一協会は、統一協会に反対する牧師を「反牧」と呼び、「反牧は信者の家族に信者を拉致監禁して脱会強要させている」と主張して、この主張をあらゆる方法で宣伝するキャンペーンを展開してきました。
この統一協会の主張は、信者の家族と牧師を引き離して本人を脱会させにくくするためのもので、事実に反するものです。第一に、極端な例外を持ち出してすべてが拉致監禁・脱会強要だと決めつける誤りを繰り返しています。第二に、統一協会が行っている悪質なマインド・コントロールの実態を隠して、カウンセリングによって精神障害が生じているかのような誤りを主張しています。第三に、反牧はお金目的で活動していると嘘を述べ立てています」
「我が子と水入らずの話し合いの場をつくろうとした肉親の努力を「拉致監禁」などと呼ぶことは、日本の裁判所でも否定されたのです」

そうはいっても、『我らの不快な隣人』には山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』から以下の文章が引用されている。
「山崎は一年後に出版した『愛が偽りに終わるとき』で、このときの経緯を明らかにしている。
〈姉たちが〝拉致・監禁〟をするなんて――。到底信じられないような思いだった。けれど、これは間違いなく、統一教会で何度となく聞かされた〝拉致・監禁〟だった〉
〈私は、たまらなくなって、泣きわめいた。
「なんでこんなことする! なんでこんなことしなきゃいけない! 私はどこにも逃げない、東京の私の家でだって話し合いはできる。こんなの話し合いじゃない!」〉
山崎は拉致監禁の言葉を使うかどうか逡巡したようである。曖昧な「保護」は使いたくない。そこでヒゲ括弧付きで〝拉致・監禁〟と表現することにしたのではないかと思う」

統一協会の元信者であり、統一協会を批判している山崎浩子氏自身がこんなことを書いているわけで、やっぱり〝拉致・監禁〟による強制脱会はあるんじゃないかと思い、某氏にそのことを言ったら、某氏は『愛が偽りに終わるとき』を貸してくれた。
読んでみて驚いた。
米本和広氏の引用の仕方がおかしいのだ。

山崎浩子氏は、統一協会に反対する牧師(反牧)が家族をそそのかして〝拉致・監禁〟し、それで金儲けしていると教えられている。
「〝反牧〟といわれ、統一教会に反対する左翼系キリスト教牧師の存在。
この反牧は、神の御言(みことば)を伝える神聖なる仕事をしていながら、その一方で統一教会の信者を〝拉致・監禁〟し、ある事ない事ふきこんで信仰を失わせるのだという」
「道を歩いていたら突然拉致されて、そのままいなくなってしまった人もいるという」
「職業的改宗屋というのもいて、親から五百万円ぐらいふんだくっては、信仰を失わせることを商売にしているというのだ」

『我らの不快な隣人』で引用されている文の前後はこのようになっている。
山崎浩子氏が祝福(合同結婚式)で結婚することになり、相手の両親と山崎浩子氏の姉夫婦が顔合わせすることになった。
姉の家に行ってどうなったか、少々長いが以下のとおり。
「夜になって叔父たちが到着した。一周忌を前に、お墓の話し合いをするのが目的だった。
 しばらくは昔話や世間話に花が咲き、テレビを観ながら談笑していた。
 その時――。
「ヒロコちゃん、叔父ちゃんたちはあなたの結婚に対してやっぱり納得できないんだよ。だから、お互いに納得のいくまで話し合いたいんだけどね。場所を変えて話そうじゃないか」
 叔父のその言葉は、それまでのなごやかな空気をかき消すかのように、突然吐き出された。
 私は、一瞬にして変わってしまった姉たちの表情と、重く緊張した空気で〝そのこと〟を察知した。
(しまった、やられた)
 不意にあふれてきた涙が、私のこわばった頬を、とめどもなく伝う。
(姉たちが〝拉致・監禁〟をするなんて――)
 到底信じられないような想いだった。けれど、これは間違いなく、統一教会で何度となく聞かされた〝拉致・監禁〟だった。
 喉からしぼり出すような声で私は尋ねた。
「ここで話し合いはできないの?」
「いや、時間もかかるだろうから、外に出よう」
 みんなの視線が、私に突き刺さってくる。逃げることはできない。いや、逃げてはいけないと思った。
 私は今まで、この統一教会問題に対して、いつでも堂々と対処してきたつもりだった。自分が信じている統一原理というものに、誇りを持ってきた。
 だから、たとえ〝拉致・監禁〟によって、私に対してどんなことが行われようと、逃げるわけにはいかない。
 私は、教会のある人が、私に対してジョークを交えながら、こう言ったことを思い出した。それは、初盆から無事に帰ってきた日のことだった。
「いやあ、残念でしたね、つかまらなくて。私は、浩子さんが〝拉致・監禁〟されればいいと思っているんです。そうすれば、マスコミに対して、改宗組織や〝拉致・監禁〟の残虐さをアピールできますからね。ホントに残念ですよ。ワッハッハ」
 そんな言葉を聞きながら、「そんな他人事だと思って」と、みんなで笑っていたのだ。
 そのことが今現実となって私の前に現れた。今こそ、〝拉致・監禁〟の実体を知らなければならない――そう心の奥底でつぶやいた」
山崎浩子氏は無理矢理拉致されたわけではないのだ。

「姉がペラペラ一人でしゃべりまくる。
(とんでもない。一生、こんなところにいてたまるか)
 和室が二つとリビング。台所には、十キログラムのお米が三袋。たぶん、もう一袋開いているのがあるはずだから、計四袋。様々な食料品も、きちんと、たくさん備えてある。
 姉の意気込みが半端なものでないことは、それらを見ただけでよくわかる。
 私は、たまらなくなって、泣きわめいた。
「なんでこんなことする! なんでこんなことしなきゃいけない! 私はどこにも逃げない。東京の私の家でだって話し合いはできる。こんなの話し合いじゃない。こんなの話し合いじゃない!」
「ダメよ。家なんかでやったら、すぐ統一教会の人が来ちゃうもの。これしか方法がないの」
 姉は、今度は少し諭すような調子で言った。
「ヒロさん、あのね、私たちは別に強制的にやめさせるために、ここにいるんじゃないの。ただ、別の情報を知ってもらいたいだけなのよ。あんたたちは統一教会の出す本しか読んでないでしょ。だから、両方の情報から判断してくれれば、いいことなのよ。全部知って全部聞いて、それでもあんたがやるっていうなら、そりゃ仕方ないから、私は何も言わない」」
山崎浩子氏が「ヒゲ括弧付きで〝拉致・監禁〟と表現することにした」のは、脱会カウンセリングが拉致でも監禁でもないことを表すためだと思う。

そして山崎浩子氏は、〝反牧〟は金目的ではないと否定する。
「私は、当然ながら、統一教会がいう〝強制改宗グループ〟自体が存在しないことを知った。それは、困り果てた親たちの熱意に打たれ、また統一教会問題の深刻さを知り、一円の得にもならない説得を続ける牧師さんたちなのである」

また、〝監禁〟についてもこのように書いている。
「マインド・コントロールされた私たちにとっては、隔離された世界が必要だった。冷静に考える静かな時間が必要だった。信者をだますための情報ではなく、正しい情報が必要だったのだ」
統一教会を脱会させるためにはマンションなどに隔離し、時間をかけて説得すべきだと山崎浩子氏は言っているわけで、『我らの不快な隣人』の主張とはまったく逆なのである。
『自立への苦闘』にも「家族で話し合っている場所に統一協会員が突如、押しかけてきて話し合いを妨害し、信者をホームに強引に連れ戻す例が少なくありません」とある。

米本和広氏は前後の文脈を無視して『愛が偽りに終わるとき』から一部を引用したのは、山崎浩子氏の意思に反して〝反牧〟の指示を受けた家族が〝拉致・監禁〟したんだ、と読者に誤解させるためとしか思えない。
ほんとがっくりでした。

コメント (14)
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