三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

宗教がからむ死亡事件 3

2010年03月22日 | 問題のある考え

真理の友教会やオウム真理教といった宗教の成人信者たちは、自ら選んでその教えを信じたわけだが、この選びは主体的なものか、それともマインド・コントロールや洗脳によって精神が呪縛されたためか。
マインド・コントロールとは何か、西田公昭氏の定義「他者がみずからの組織が抱く目的成就のために、本人が他者から影響を受けていることを自覚しないあいだに、一時的あるいは永続的に、個人の精神過程や行動に影響を及ぼし操作することである」ということである。

芹沢俊介『「オウム現象」の解読』ではマインド・コントロールを、「スティーヴン・ハッサンの書いた『マインド・コントロールの恐怖』には、個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊してそれを新しい人格と置き換えてしまうような影響力の体系のことであるというように定義されている」と説明し、そして「破壊的カルトにおいてはこの「信じこませる過程」にマインド・コントロールのテクニックが用いられるのである」と言っている。
親の子育てや学校の教育、テレビやマンガを見ることもマインド・コントロールだという話になりがちだが、たんに「影響を及ぼす」だけでなく、「人格を破壊して」「操作する」ことがマインド・コントロールの要件ということだろう。
そして、米本和広氏のカルトの定義にある「人権侵害あるいは違法行為」がなされているかどうか。

たとえば、エホバの証人の輸血拒否は教えに従ってのことで、たとえば宗教的理由によって豚や牛を食べないのと同じ宗教上のタブーである。
子どものころからそういう環境の中で育ち、教え込まれることによって「他者から影響を受けていることを自覚しない」まま、そうした価値観が身についていき、タブーを恐れるようになる。
ただし、菜食主義だからといって病気になることはないが、輸血をしないと死ぬ場合があるところが大違い。
だから、豚肉を食べないのはマインド・コントロールとは言わないだろうが、輸血を拒否するのは命に関わるわけだから、マインド・コントロールだと思う。

『「生きづらさ」について』で雨宮処凛氏はこんなことを語っている。
ヤマダ電機の研修で、20代の正社員の女の子は体重が30キロ台に減ってしまった。
「研修が終わって仕事が始まったら、上司に蹴られたり殴られたり革靴で顔を踏まれたりというのが当たり前にあったそうです。
同僚にノルマが達成できず、とくにひどい扱いを受けている男の子がいた。彼女が「毎日ボコボコにされているのに、なんで辞めないの?」って男の子に聞いたら、「自分のようなダメな人間を使ってくれるのはここしかない。雇ってくれるのはここしかない」って答えたっていうんです。本当に洗脳されている」

それで思いだしのが、証券会社の不祥事が話題になったころだから10年以上前のこと、田中康夫氏の本(題名は忘れた)にこんなことが書いてあった。
アシスタント募集に応募してきた野村証券に勤める女性に、証券不祥事をどう思うかと田中康夫氏が聞くと、
「悔しい。上司があんなにがんばってきたのにマスコミにあることないこと書かれて」と憤慨したそうだ。
「上司のそばにいて、あなたが涙が出ちゃうのはわかるけど、事件全体についてどう思うの」と田中康夫氏が尋ねると、
「やくざとのつながりは昔からあったことで、何が悪いの。どうしていまごろになってうちだけをいじめるの」とほとんど抗議口調だったという。
会社の利益のためなら多少の犯罪行為も許されると考えるようになるわけである。

会社は意図的にこうした社員教育をしているかどうかだが、「生きがいの創造」シリーズの飯田史彦元福島大学教授は「もともと私は、「人間の価値観」をキーワードとして、企業の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインドコントロール」としてとらえようとしたのです」と書いている。
経営者側に立ち、企業の生産性を高めるために、従業員に生きがい、働きがいを与えることでマインド・コントロールをするという研究していたというのである。
こうなるとマインド・コントロールはカルトとされる教団だけの問題ではない。

だけど、芹沢俊介氏は「マインド・コントロールという概念は肥大し、万能性を帯びてきている」とも指摘している。
どんな行為に対しても「それはマインド・コントロールのせいなんだ」ということになれば、これはおかしい。
というのでネットで調べたら、マインド・コントロール論は反証不可能な主張であり、疑似科学だとする学者もいるそうで、ほんとのところはどうなのだろうか。

となると、マインド・コントロールを受けたことを理由にして免責すべきではないことになる。
芹沢俊介氏は「サリンを地下鉄の中で撒いた林郁夫氏が、あなたたちは麻原彰晃のマインドコントロール下にあると言われているけれどどう思うかと聞かれたとき、林氏は一言のもとにそれを否定して、「そんなことはない。自分は宗教性の問題をいろいろ研究した結果、麻原に行き着いた。麻原の良さを認めて自分から麻原に近づいたんだからマインドコントロールではない」と語ったそうです」と紹介し、そして「もしマインドコントロールという観点をとると、彼らはマインドコントロール下にあったから情状酌量の余地があるという帰結になってしまいます。マインドコントロールという言葉を有名にしたのは山崎浩子さんです。彼女はもとは統一教会の広告塔で今は反統一教会の広告塔になった人です。彼女だって統一教会の広告塔として活動したんだから、社会的に引き受けるべき問題は彼女の側にあったはずです。社会的レベルでやったことはそれなりに責任を問われるべきものなのに、マインドコントロールと言ったとたんにその部分は免除されてしまったのです」と批判する。
「破壊的カルトに所属していたときのすべての行動は、マインド・コントロールされていたゆえに、いまのマインド・コントロールを解除された自分とは無関係である。つまりマインド・コントロールの被害者ではあっても、破壊的カルトに所属していたその間に行った加害的行為については責任がないというわけだ」

マインド・コントロールされていたからというのは言いわけにすぎないのだろうか。
そうはいっても、霊感商法や地下鉄サリン事件に関係した信者たちは、統一教会やオウム真理教と出会わなければ犯罪とは無縁の生活を送っていただろうと思う。
ここらはどう考えていいものやら。

芹沢俊介氏はさらに「宗教において被害者という視点は、少なくとも信仰状態においては当人すなわち信者には当てはまらないのではないか。「被害―加害」といった社会的な観点は信仰状態の外にいる家族や親族、さらには第三者の視点ではないか」と言っているが、これは言いすぎである。
だったら須賀川市の事件のように、結果的に死ぬかもしれない教義を説く宗教の信者となって死んだ人たちは被害者ではないことになり、事件はせいぜいが過失致死ということになる。
それとか、インチキ宗教と悪徳商法は手口が似ているのだが、次世紀ファーム研究所の事件のように、万病が治ると健康食品を売りつけるのは詐欺である。
芹沢俊介氏の考えだと、だまされたのは本人にも責任があるということになるわけで、加害者を免責することになってしまう。

ま、あれこれと考えていたら、これらの事件に宗教はどの程度影響を与えたのか、事件に関わった信者の責任をどう考えたらいいのかわからなくなってきました。

コメント
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