三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

なぜオウム真理教は暴走したのか2 傲慢さ

2009年07月28日 | 問題のある考え

なぜオウム真理教は事件を起こしたのか、信者はなぜ従ったのか、その理由の一つは傲慢さかなと私は考えていた。
西田公昭「オウム真理教信者被告人の心理についての法廷意見」に、
「メンバーは強烈なナルシシズムで自己集団をとらえるようになる一方で、外集団は「救済」を必要とする愚かで誤った存在としてとらえ、われわれにとってのいかなる反社会的行為に関与しても独善的に解釈するようになるのだ」
「心理学的には、これらの解脱、輪廻、シヴァ大神の意思による救済の教義は信者の人生観に深く影響して強烈なナルシシズム(自己愛観)とシニシズム(冷笑観)を与え、個人の生き方や具体的な行動体系を完全に決定づける役割を果たしている」

とあり、オウム真理教信者のナルシシズムとは、
「現代社会に生きる人々を、堕落して生きがいを見失った哀れな者とみなす信者にとってみれば、自己とはすなわち、輪廻の中で起こしてきたと言われる悪の行いの蓄積を意味するカルマ(業)にまみれたものではあるが、教団での修行によってカルマを落として魂の価値を高め、その結果、解脱して絶対的な幸福を獲得できるばかりか、他者にも幸福を分け与えられる可能性を秘めた存在である」
「解脱や高い理想の実現や神の権威によって自我が膨張し、自己やオウム真理教を、特別に非凡な存在として自覚していた」
というエリート意識であり、シニシズムとは、
「一方、オウム真理教のことを知らない、あるいは敵対する人々を愚かで哀れなる対象として皮肉り冷笑さえしていた」
という愚民意識である。
「そして教団に出家しその霊的ステージや組織での格付けが上がるごと、さらに一般には、教団に長くいた信者ほど、自我は膨張し、非信者との心理的距離は離れていったといえよう」

実際、元信徒のこういう声がカナリアの会編『オウムをやめた私たち』に載っている。
「誰に対しても優しく接しなければいけないって言うけれど、相手がオウムに入信しなければ自分とは縁のない存在になってしまう。私も、一般の人に対して、自分は修行をしているから、あなたたちよりも上なんだって感じるようになってしまったし、みんなそうでした。
上へ行くことばかりを目指して周りを見下していく…」

「ドンピシャリと教団の教えが私の心を捉えたのです。真理の教えを説く偉大なグルと、そのグルの下に集まった前生からの縁深き弟子たち。われわれが修行で培った神秘的な力によって、この意味もへったくれもない矛盾だらけの世の中をハルマゲドンでぶっつぶし、真理の世界を築くんだ!
「わたしはこーんな素晴らしい偉大な体験をしたんだ!」と思い込ませてくれる教義と修行の先達がいます。それによって、「こーんな素晴らしい体験できた私というものは実は特別な使命を持って生まれてきた選ばれた民なんだ」という気持ちにさせてくれるのです」

「オウムには「自分たちは社会の人たちよりえらい」っていう選民思想があって、中にいたときも、そんな傲慢な考えはやめようって思ったけどダメだった。でもオウムをやめてからよくわかった。自分は他の人たちよりえらいっていう考え方、実はまったく違うのよね。
私の友だちで、口を開けば男の子としか話さない人がいて、ずっと私は彼女のことバカにしていたんだけど、よく話を聞けば、家族が病気だったりとか大変な思いをしている。くだらない話ばかりしていても、陰ではつらい思いをしている人もいるのよね。(略)ああ、みんな大変だったんだ、私の見方が狭かったんだってことがよくわかったの。みんながんばって生きているんだ。自分だけがイヤな思いをしていると思っていたけれど、でも、みんな克服しようとしてがんばっている。それなのに何で私は逃げちゃったんだろうって思った…。(略)
それで、オウムをやめてからいろいろ考えた。自分が他の人と違うって思いすぎてた、バカだったなあって感じるようになった。みんないろんなことを考えているし、それを口に出さないだけってこともあるだろうし、世の中に対して疑問があっても、まずは生活をきちんとしようってことでお金を稼いでいるんだし。私なんて入信したとき学生だったから、お金も稼げないくせに、結局、親に頼っていたんじゃないのって」

あるいは、瀬口晴義『検証・オウム真理教事件』に載っている元信者の声。
「ヨーガ理論の真我(アートマン)の概念だけを取り出し追求すると、他者に対して無関心となり、教義や理念の押し付けが平気でできるようになる」


「肉体に執着しなくなり、過去、未来を見る目が備わり、宇宙の実相が瞬時に分かるような状態。そして、物事にとらわれることがなくなり、多くの人をリードできる知恵が湧き出ることが解脱だと考えていました」

こうした選民意識はニューエイジではよく見られる。
1,今の私とは違う「もう一つの私」があり、それが「本来の私」である。そして、今のこの世界とは別の「本当の世界」がある。
2,「本当に自分」「本来の世界」に目覚めることが「霊性の覚醒」「意識の覚醒」であり、そのためには、瞑想・苦行・薬物などによる神秘体験、あるいは超常体験による「自己変容」「意識の変容」が必要である。
3,「霊性の世界」にはいくつものレベル、ステージがある。生まれ変わりをくり返しながら霊的に成長し、「意識レベル」を向上させ、霊性を完成させることが人間に生まれた目的である。
4,「高次の意識」を獲得する者が増えれば、人類は「進化」する。「個人の変革」が「世界の変革」をもたらす。
一人でも多くの人の霊性が向上することで霊性の高い新人類が生まれる、ニューエイジの思想に目覚めて意識レベルが向上した私は、人類を導く指導者の一人なんだ、ということである。
オウム真理教はニューエイジ系新宗教だと私は思ってます。

諸富祥彦氏も江原啓之氏のこんな人類進化論を著書に引用している。
「私は、江原さんは、「あやしいけど、有益」なメッセージを発している方だと思います。
江原さんのメッセージは明快です。
「私たちが一番大切にしなければならないことは、『たましいの成長』です。それこそが私たちの『人生の目的』なのです」(略)
さらに、次のような壮大な展望をも語っています。
「私たちは実は人間ばかりでなく、日本、そして地球人類全体の進化・向上をも担っているからです。地球のカルマは日本のカルマでもあり、それはまた私たち個人のカルマなのです。
私たちはこの宇宙を、地球という星を浄化させるために生きているのです。私たちの究極の目的は、この星を浄化させ神の国とし、神の光の粒子となっていくことなのです」
ただの霊能者でないことは、このことばだけでもわかりますね」
(『人生に意味はあるか』)
私にはただの霊能者じゃなくて、ただニューエイジャーとしか思えないのだが。
江原氏もカルマの浄化を説いていることに注意。

またまたこじつけだが、ポアと児童虐待をする心理は似ているように思う。
というのが、選ばれた私が一般人を導いてやらなければという使命感(お節介)がポアに結びついたように、子供へ虐待する親も本人のためを思ってのしつけだと言う。
どちらも相手のことを思って行なう善意の暴力である。
本人の将来のためなんだということが、手段(殺人、暴力)を正当化しているわけだ。
傲慢さ、エリート意識は暴力性に結びつきやすいのだろうか。
だけども、エリート意識、教化者根性は既成教団の聖職者や信者も持っている。
やっぱりこじつけかな、とも思ったりするわけです。

コメント
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