三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ジュリアン・シュナーベル『潜水服は蝶の夢を見る』

2008年08月24日 | 

ジュリアン・シュナーベル『潜水服は蝶の夢を見る』は今年のキネ旬ベスト10に入るだろう映画である。
で、ジャン=ドミニック・ボービーの書いた原作を読んだ。
書いたといっても、著者のジャン=ドミニック・ボービーは脳卒中のため「ロックトイン・シンドローム」になってしまった。
「頭のてっぺんからつま先まで、全身が麻痺。けれど、意識や知能はまったく元のままだ。自分という人間の内側に閉じ込められてしまったようなものだった」
ただ一ヵ所動かせる左目でまばたきすることによって意思の疎通をするしかない。
1995年12月8日に脳卒中になり、1996年7月から8月にかけて、アルファベットの文字盤を見ながらまばたきをして書いたのが『潜水服は蝶の夢を見る』である。

毎日新聞3月26日に「人間賛歌 まばたきのラブレター」という、筋萎縮性側索硬化症で寝たきりの女性が、これまたまばたきで意思を伝達しているという記事があった。
ご主人に年に数回手紙を渡すために、16年前から学生ボランティアがまばたきを読み取り、代筆しているそうで、1ページを書くのに少なくとも約1000回のまばたきが必要だそうだ。
私みたいなイラはすぐに切れてしまうと思う。

『潜水服は蝶の夢を見る』(映画)を見たから、ジャン=ドミニック・ボービーがどういう状況に陥ってしまったかがわかるが、本を読んだだけではロックトイン・シンドロームを軽く考えてしまうかもしれない。
というのも、肉体という牢獄に閉じ込められながら、何でこんな目に遭ったんだというグチではなく、ユーモアをまじえた明るくのびやかな文章なのである。

意識を取り戻したら、身体を動かすことがまったくできず、声も出せず、唾液を飲み込むこともできない。
だけども、意識だけは今までと同じであり、記憶も失っていない。
そういう状態に突然陥ってしまったなら、死の受容のプロセスのように、まずは否認、怒り、取引、抑うつといった感情が起きてくると思う。
ところが本を読むかぎり、そのあたりがあまり書かれていない。
それと、痛みも。
書き取りをしたクロード・マンディビルも「私は彼が不平を言ったのを、一度として聞いたことがありません」と言っているそうだ。
第三者が文句をつけるのはなんだが、そこらがなんだか物足りない。

アレハンドロ・アメナーバル『海を飛ぶ夢』も実話を元にした映画である。
主人公は頸椎損傷で首から下を動かすことができなくなり、28年間も寝たきり。
自殺をしようと思うが、身体を動かせないのだから自分では死ぬことができない。
そこで安楽死を認めるよう裁判を起こす。
自宅で家族(兄夫婦と父親)に介護してもらっている主人公がこれまた明るく、家族もいやいや世話をしているわけではない。
どうして安楽死を求めるのか、そこらの説明が不十分で、家族が気の毒になった。
だけど、『潜水服は蝶の夢を見る』(本)を読むと、逆にどうして著者は死を考えないのかと思ってしまう。
身体を動かすことができなくなってしまうことをどう受け入れていくのか、こんなふうになってしまったのなら死んだ方がましだという気持ちとどう折り合いをつけていくのか、そういった葛藤の中でどうして生を選んだのか(あるいは死を選ぶ)を教えてほしいと思う。

寝たきりの人の手記をそんなに読んだわけではないが、筋萎縮性側索硬化症折笠美秋『死出の衣は』と頸椎損傷の可山優零『冥冥なる人間』が私のオススメ本である。
『死出の衣は』はこれもまばたきをして奥さんが書き取ったものである。
まぶたも動かせなくなったら肛門で意思の疎通をしようとまで夫婦で相談する。
どういう状態になろうとも生き抜こうという意欲に納得できる。

頸椎損傷というと星野富弘氏が有名であるが、『冥冥なる人間』は『愛、深き淵より。』とは違った意味で感動した。
交通事故で頸椎損傷になった可山氏が同室の人(知的障害らしい)に文字の書き取りを教えながら自分の人生を語り、それを書き取ってもらってできた本が『冥冥なる人間』である。

私は安楽死を否定するわけではないが、しかし生を選べたらとは思う。
しかし、どんな境遇になっても生を選ぶことができるかとなると自信がない。
だからこそ、日々の苦しみの中で、それでも生を選んだ記録を読んでみたい。

全身が動かせずに寝たきりになったら介助がなければ生きていけない。
『潜水服は蝶の夢を見る』(映画)では病院が至れり尽くせり。
実際にはそうはいかないだろう。
本人はもちろん、家族も大変である。
スザンネ・ビエール『しあわせな孤独』は婚約者(男)が交通事故で寝たきりになるという映画。
私としては主人公(美人です)が婚約者にあくまでも尽くすという美談を期待したのだが、それは男の勝手というものだと自分でも思う。

そういえば『チャタレー夫人の恋人』は夫が下半身不随になってという話だった。
やっぱり夫がかわいそう。

モーパッサンに『廃人(廃兵)』という短編がある。
戦争で両足をなくした男(かつての知り合い)と語り手は汽車の中で一緒になる。
この男にはいいなずけがいたのだが、どうなったのだろうかと語り手は想像をめぐらす。
いいなずけが約束を守って結婚したとしたら自己犠牲は美しいが単純だ、あるいは戦争前に結婚していたとしたら、などと。
男に尋ねると、結婚していない、婚約は自分から破棄した、と言う。
「私の場合のように、片輪者だったら、その男と結婚することによって、相手の女は、死ぬまでつづく苦しみに自分を投げこむことになります」
「一人の女が幸福でいたいはずの生涯を断念する、すべての歓喜、すべての夢を断念する、というようなことは、認めることができません」

いいなずけは他の人間と結婚したが、男とは家族同然のつきあいをしており、この汽車旅行もその一家の家に行くためだった、というお話。
モーパッサンらしいほろっとさせる話だが、障害者自らが身を引くことに感動するということは私自身に偏見があるということだろう。
障害者と一緒に生活することが美談ではなく、普通のことになればいいのだが。

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