三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「開かれた新聞」委員会・座談会「光・母子殺害事件」2

2008年06月14日 | 厳罰化

毎日新聞の「開かれた新聞委員会・座談会」で、吉永みち子委員はこう語っている。
「本村さんが苦しみの中で到達した境地に、弁護団やマスコミなどが群がった格好にも見えました。その構図が私たちにも分かってきたところで判決が出ました。本村さん自身、非常に複雑な思いで今はいるのではないか。メディアを含めてさまざまな力により、加害者の更生、反省の機会が奪われたのです」

加害者の更生、反省ということだが、光市事件の被告に対して最高裁の判決では、「本件の罪の深刻さと向き合って内省を深め得ていると認めることは困難」と決めつけている。
裁判官はどうして内省が足りないと思ったのだろうか。
そもそも被告は拘置所の独房にいて、刑務官と弁護人以外にはほとんど接することがないまま過ごしていた。
それなのに「内省が足りない」と言うのは無茶な注文だと思う。
拘置所に入れっぱなしにして「反省していない」と非難するぐらいだったら、家裁が逆送せず、少年院で処遇を受けさせるべきだったと思う。

では、反省を促すためにはどうしたらいいのだろうか。
村瀬学氏はこう言う。
「多くの犯罪を犯す少年たちは、親に「評価」されず、「関係の相互性」を体験しないで生きてきていることが多い。そこで、罪を犯し、それを償うことをきっかけに、はじめて「家族」と向き合い、家族も少年と向き合うことになる。そこから「関係の取り戻し」がはじまるのだが、その「関係の取り戻し」に長い時間を費やすのが厚生施設の職員たちなのである。(略)
「それが成功するかどうかは、「親」の変化にもかかっている。「少年」が単独で「心の可塑性」を体験するなんていうことはできないのだ。そこで「親」が自分たちの「非」も認め、もう一度子どもとやり直す態度を見せてくれてはじめて、子どもは自分の「非」を認めるようになり、「反省」することができる。(略)
施設での「反省」とか「更生」とかいうことの中身は、実はそういうことなのである。「犯罪を犯した少年」が「施設」に入り、一人で黙々と自分の罪と向かい合って反省する、などという構図は絵空事である。「反省」や「更生」は、「一人」でできるものではない。それは「関係」の中でしか生まれない」
(『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』)

少年院では刑務所と違って〝揺さぶり〟をかけると、藤岡淳子大阪大学大学院教授は言う。
〝揺さぶり〟について佐藤幹夫氏はこう説明する。
「少年院では、たえず生活に揺さぶりをかけられる。〝揺さぶり〟とは、自分が何をしたのか、そのことにどう感じているのか、被害者に対してはどんな気持になっているのか、たえず問われるというような、たえまない教育的関与のなかに置かれるということだろう。こちらの方が、むしろ少年にとっては辛いはずである」

藤原正範鈴鹿医療科学大学助教授もこう言っている。
「保護処分というのはあくまでも教育ですので、本人に変わってもらわないといけないということです。本人自身がそこを意識して変わるというのは、とても辛い作業だと思います」

まず罰することが先で、矯正はそれからだという人がいるが、刑務所に入れたり、死刑に処したりすることが本当に罰することになるのだろうか。
自分の罪と真向かいになることがないと意味がないように思う。
そして、反省を促す教育的処遇は加害者を甘やかすことではないということを理解すべきだ。

秋葉原通り魔事件の加害者のように、死んでもいい、死にたいと思って事件を起こした人間をあっさりと死刑にするよりも、彼らが生を選ぶような人間関係を作っていくことのほうが、再犯や新たな事件の発生を防ぐことになるのではないかと思う。
それにしても、こうした事件を起こすことで初めて、親との関係が作り直されたり、共感してくれる人ができるというのは皮肉である。



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コメント (43)
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