三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

理性と感情

2007年10月08日 | 日記

光市事件の弁護団に懲戒請求するよう煽った橋下弁護士に対して、4人の弁護人が損害賠償を求めた。
橋下弁護士を支持する弁護士はほとんどいないらしい。
弁護士でなくても、橋下弁護士の言ってることはおかしいと思う。

「○○の神様」というブログに、「たかじんのそこまで言って委員会」(9月10日)で行われた討論での橋下弁護士への質問と弁明が書き起こされている。
http://darksome.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_4dd5.html
明らかに返答に窮しているのがよくわかる。

ところが、橋下弁護士を擁護し、弁護士一般を批判する人がネット上では多い。
専門的な事柄については、まずは専門家の意見に耳を傾けるべきだと思うが、反発する人が多い。
橋下弁護士を支持する人たちは、裁判とは何か、弁護とは何かといったことを理解できない、というか、理解したくないと思ってるように感じる。
こういう人たちが裁判員になったらどうなるのか心配になる。

医師から「今の生活を続けてたら死んでしまいますよ」と注意を受けても従わない人はそういないと思うが、弁護士のアドバイスには敵意をむき出しにする。
なぜか。

小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』にこんなことが書いてある。

アメリカの大半の地域では、高等教育を受けた人に対する反感は一方で未だに根強い。本から得た知識や、理屈を捏ね回して出てきた結論よりも、原始的で直感的な判断の方が正しいという感覚や信念が強く、こうした直観的な判断力は、人工的な教育を受けた人ではなく、自然を教師にして素朴に育った純粋な人間の方が優れている、という暗黙の前提がある。だから、人々の感情に訴える現象は、大きな反響を呼ぶ。


光市事件などマスコミで騒がれている事件への言説の多くは、「原始的で直感的な判断の方が正しいという感覚や信念」であり、弁護士に対する反感も反知性主義で説明できると思う。

小林由美は続けて次のように書いている。

その背後にあるのは、開拓時代に普及したエヴァンジェリカル(福音主義。アメリカでは、カソリックに対する宗教改革派の総称)の教えだ。
エヴァンジェリカルの基本思想は、聖書を神の言葉とし、キリストを信じることによって、人々は聖職者というミドルマンを介在しなくても神と直結でき、救われるというものだ。そして神が人間に授けた基本的な知恵は、強い信仰によって強化され、強い信仰をもって優れたキャラクター(人格)に成長した人は、正しい判断が下せる。だから知識や教育よりも信仰の方が遙かに大切である。人工的な教育は信仰を弱め、神が人間に与えた本来の知恵を壊し、優れたキャラクターを作るうえで逆効果である。したがって高等教育を受けた人間は信用できない―、とつながるわけだ。(略)
だから大統領選挙になると、候補者は大統領たるにふさわしいキャラクターであることを強調し、決して学歴を宣伝しない。

キリスト教福音主義は反知性主義と結びついているわけだ。

ところが、日本では福音主義の影響はほとんどない。
だいたい日本人は権威に弱く、先生とよばれる人には従う傾向がある。
それなのに弁護士に対する反感、理性を嫌い、感情でしか語らない風潮はどこから生まれたのか。

いとうせいこうが毎日新聞の「中島岳志的アジア対談」で日本の右傾化について次のように語っている。

彼らは自分たちを代表しないものを支持している。ナショナリズムは支持されるほど彼らを圧迫するのに。レプレゼント(代表)の意味内容を問わないままに言語だけ、外形だけが変に熱を帯びているんです。
これは、カウンターカルチャーの変質という問題でもある。普通は自分たちを抑圧する権力へのカウンターなんだけど、今は権力がよく見えない。それで、理性へのカウンターになっちゃっている。なぜなら、理性が彼らに利益をなさないからでしょう。(略)
自分たちの主張が聞いてもらえない、自分たちは偉くもなれないという不満が全部、ここに流れたんですね。


なぜ理性へのカウンターなのかというと、「権力がよく見えないから」「理性は利益ももたらさないから」というわけだ。

「自分たちは偉くもなれない」という不満は、小熊英二の「現在のナショナリズムの背景には、グローバリゼーション下の社会不安がはっきりと大きな影響を与えている」ということにつながる。
不満や不安を抱えていても、それをどこにぶつけていいかわからない、だから何となく落ち着かない。
感情第一主義はそんな現在の不透明さ、先行きの見通しのなさに通じている。

そんな落ち着きのない感じが弁護士への攻撃になったり、厳罰を求めたり、ナショナリズムにはまったりするのではないか、というのは風と桶屋の関係かしらん。

追記(10月11日)
理性や論理よりも感情論が幅をきかせている背景には格差の問題があると思っていたが、隆蓮房。さんのコメントを読むと、そうとばかりは言い切れないようだ。
そこで思いつきをいくつか考えた。

まず第一に、考えることをしないということがある。
あることについて詳しく知ろうとは思わない。
ザッピングしながらテレビを見てて、次々と起こる事件は消費されていくだけである。

テレビや新聞、雑誌は信用できないと言いながら、本当のことだと思いこむ。
殺人事件は感情に強く訴えるから、被害者の悲痛に共感し、加害者に怒りを持つ。
それは感情であって、理性ではない。

そこで、「実はこうなんだ」と否定されると、気を悪くするのは仕方ない。
だけど、それからだと思う。
たとえば、弁護士への懲戒請求は安易にすべきではないと、データを示されて説明されたら、感情的には納得いかなくても、そうかもしれないと思うのではないか。
それなのに「一般人の感覚とは違う」と耳を傾けないのはなぜなのか。
感情に対して反論することは容易ではない。

コメント (56)
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