三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

カンボジア、そして難民

2006年11月10日 | 戦争

カンボジア難民だった葉沢業久さんのお話を聞いた。
4年あまりのポルポト政権下での間の筆舌しがたい苦労(その時、葉沢さんは6歳から10歳)を、葉沢さんは涙を流しながら話された。
30年前のことなのにである。

ポルポト政権下では、生き延びるためには他人を密告しないといけないこともあった。
密告すればその人は死ぬとわかっていても。
そのため人間関係が壊れてしまい、いまだに人を本当には信用できない、つい疑ってしまう、とある僧侶が言われたそうだ。
そんなの昔の話だ、と言えるのは第三者だからである。
少しは勉強しなければと、山田寛『ポル・ポト〈革命〉史』、小倉貞男『ポル・ポト派とは?』などを読んだ。

カンボジアでは、1975年から1979年までの3年8ヵ月の間に、800万人たらずの人口のうち、約150万人が虐殺や処刑、飢えや病気で死んでいる。
ポル・ポト軍がプノンペンを制圧するや、すぐさま市民を市内から追い出し、農村やジャングルに強制移動させ、重労働をさせた。
知識人(医者や教師、技術者、留学生など)をはじめとして、革命を汚染すると見なされた人は殺された。
通貨や市場を廃止し、外国からの援助を断ったから、食糧や日用品が不足し、飢えが日常化して、死者が続出した。
大人は信用できないというので、子供が兵士になったが、ベトナム軍に蹴散らされて多くの子供兵士が死んだ。
子供が医者や薬剤師になり、治療を受けた病人が死んだ。
どうしてこういうことが行われたのだろうか。

『ポル・ポト〈革命〉史』を読んでやるせない気持ちになったのは、あれだけ滅茶苦茶なことを行なったポル・ポト派が罪に問われていないことである。
それどころか、反ベトナムの三派連合政府の一員となり、1999年まで存続している。
おまけに、帰順したポル・ポト派の幹部たちのほとんどが恩赦を受けて、罪を問われていない。
彼ら幹部たちはポル・ポトに責任を押しつけて、のほほんと生活をしている。
結局、ポル・ポトは死に(病死か他殺かは不明のまま)、二人が逮捕されただけである。
そして、ポル・ポト派を裁く国際裁判はいまだに行われていない。

どうしてこういうことになったのかというと、まずベトナム(=ソ連)の力がインドシナ半島で強くなることを警戒した中国、タイがポル・ポト派を支援し、アメリカもそれに同調したため、ポル・ポト派は生き延びた。
その後も政治の駆け引きと責任逃れ、すなわち中国やタイ、アメリカの思惑と、カンボジア政府要人もポル・ポトと無関係とは言えない人が多いため、裁判が行われないのである。
このことを思うと、イラクのフセイン元大統領の裁判などは茶番である。

ということで、ポル・ポト派の責任が問われないまま、30年がたってしまった。
2003年、「カンボジア・デイリー」の投書欄に、「この国にもヒトラーのように国を愛し、スターリンのように真面目な、立派な指導者が欲しい」という、15歳の高校生の投書が載ったそうだ。
ポル・ポト時代を知らない人が増え、風化しているのである。

桜木和代弁護士はこう言っている。

(ポル・ポト派を裁く)この裁判はなお政治駆け引きに相当利用されるだろう。しかし、事実の検証だけはしっかりやってほしい。たとえ被告人が少なくても、背景の事実をきちんと裁判文書として残すことが大事だ。ベースをしっかり出せば、後で歴史が判断できる。


ポル・ポトはどういう人間なのか。
独裁者というのは目立ちたがりが多いようだが、ポル・ポトは表に出ることを好まず、国民の前に出ることはほとんどなく、私生活を語らなかった。
1976年4月に首相に就任した時も、国際的には知られていなくて、経歴や写真も公表されていない。
ポル・ポトは猜疑心が強くて人を信用せず、つねに暗殺を怖れていたので、側近も次々と粛清している。
そういう人物なのに、話にはユーモアがあり、人を魅了したそうだ。
シアヌークですら柔和で微笑し礼儀正しく話すポル・ポトに感心し、カリスマまで感じてしまう。

葉沢さんはベトナムの国連難民キャンプに約8年間生活していた。
そこで田沼武能『難民キャンプの子どもたち』を読んだ。
田沼武能が写したキャンプの子どもたちの写真を見ると、言葉を失ってしまう。
飢饉、干魃といった天災が原因の場合もあるが、難民の多くは内戦によって生まれる。
1996年に約2600万人(パレスチナ難民を除く)もの難民がいる。
何とかならんのか、と声を大にして言いたいが、じゃ、お前は何をしているのか。

コメント (6)
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