私がハードカバーを初めて買った本は庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』、中学3年の時だった。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』はかなり評判になり、映画化もされた。
私は映画を見に行って面白かったので単行本を買ったのだが、こちらは読むのが一苦労だった。
読み直してみて、『赤頭巾ちゃん気をつけて』が直木賞ではなくて芥川賞を受賞したのももっともと納得した。
で、どうでもいいようなことですが、こんな文章があります。
うちの女中のヨッちゃんは、相当にきっぷがいいっていうか職業(プロ)意識に徹してるっていうか、「オテツダイ」なんて呼ばずに「女中」って言ってくれ、みたいな愉快なところがあるんだ。
なるほど、「女中」という言葉は昭和44年ごろから使われなくなったのか。
第2部である『白鳥の歌なんか聞こえない』には、
ぼくには彼女(恋人の由美)を一目で見つけ出せるというような気持、たとえ彼女がどんなに変装しようと、たとえヤブニラミでセムシでビッコになろうと、いつどこにいてもどんな遠くからでもすぐに見つけ出して、そして思わず、やあ、と呼びかけたくなるようなそんな気持。
と恋人への思いを語っているのだが、これはやはりまずい。
「ヤブニラミ」「セムシ」「ビッコ」がマイナス価値の意味として使われているのだから。
といっても、そうした言葉は差別語だから使うべきではないと言いたいわけではない。
だいたい、「盲人」がよくて「盲(めくら)」(目が亡い)がダメ、「晴眼者」がよくて「目暗(めくら)」がダメというのは変だと思う。
先日、若林一美先生のお話を聞いたのだが、その中で、英米人は「死ぬ」をあらわす「die」という言葉が使うことはほとんどない、「kick the bucket(バケツをけとばす)」、「expire(満期になる)」とか、そういった言葉を使う、こうした死を意味する言葉は100ぐらいある、ということを話された。
そして、
どんなに言葉を置き換えても、人間はいつかは死ななくてはならない。愛する人を看取らなくてはいけない。そういう状況になった時に、私たちの社会は悲しみを見ようとしない。死ぬということをなるべく表面からなくすような形で暮らしている。
と言われた。
死と同じように、言葉を置き換えても差別はなくならない、かえって言い換えることによって差別という状況を見なくなっている。
そういうことがあると思う。