三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

堀川惠子『永山則夫』と石川義博『少年非行の矯正と治療』(3)

2025年03月29日 | 死刑
中学を卒業した永山則夫は上京して渋谷のフルーツパーラーに就職する。
しかし、長続きしない。
牛乳屋で住み込みで働き、定時制高校に通ったことは3回ある。
10~20回転職しており、一番長く続いたのが5か月。

一生懸命働き、高校では生徒会を熱心にする。
しかし、則夫は家族からはかまわれず、小中学校にほとんど行っていないので、世間の常識を何も知らない。
友達を作る知恵も経験もなく、人間関係の作り方も知らない。
小さなミスをすればクビになるとビクビクし、よいことも悪いほうに考え、自分を責める。
「自分が行ったら話が止まる」「自分の悪口を言っている」などと被害妄想や猜疑心をつのらせる。
人を信じることや甘えることができないので、悩みを誰にも相談せずに抱え込む。
そして、孤立して衝動的に身ひとつで職場から逃げ出す、窃盗や密航をして捕まるというパターン。

石川義博医師は「人間不信、そして不安、それが異常なレベルで強いと感じました」と語っている。

職場の同僚や兄たちから馬鹿と言われると、自分も姉のように「キチガイ」になるのではと脅えた。
自殺を考えたり実行したのは19回。

昭和43年8月、米軍基地の住宅からピストルを盗む。
10月に東京と京都で警備員を射ち殺してしまう。
網走で死のうと思い、北海道に行くが、函館と名古屋でタクシーの運転手を射殺した。
なぜか。

石川義博医師の鑑定書には「何かに対して強いうらみが心の中でうずまいてどうしようもないと、まず強いうらみを感じた」とある。
堀川惠子さんは「永山が怨んだ相手とは「兄たち」である」と書いています。
永山則夫も石川義博医師に「兄貴に対する当てつけみたいなのがあったんだ」と語っている。

昭和54年、東京地裁は永山則夫に死刑判決を下す。
石川鑑定について、判断の材料となる前提を間違えており重大な疑問があるとして一顧だにしなかった。
二審判決は無期懲役。
最高裁判決でも、石川義博医師による精神鑑定書は顧みられなかった。

地裁の判決から34年目、一審で右陪席だった豊吉彬元裁判官が、石川鑑定が採用されなかった事情について証言している。
合議で三人の裁判官が話しをするわけなんですが、石川鑑定を読んで驚きましてね。「これじゃ極刑、無理じゃねえか」と言っていた人もいたほどでした。わたし自身あのような立派な精神鑑定書は見たこともなくて、その後の自分の裁判でも何かと参考にさせてもらいました。だけど、当時の裁判官には心理学的な知識もありませんし、どこか「所詮は医者が言っていることだから」というような雰囲気がありましたよね。
裁判の結論は決まっていましたから、排斥するより仕方がない、そう、仕方がないということになってしまうんです。ある結論を導き出すために、ある証拠を否定しなくてはならない。そういう時、良いところは言わないで、悪いところを見つけて、それで敢えてひっくり返すと、そういうことでしたね。それは今だって変わらないんじゃないんですか?

そして豊吉彬さんは、最近の裁判員裁判を見ていると、まるで被害者の仇討ちの場になっているようで危惧を感じると話している。

堀川惠子『永山則夫』には、永山則夫の兄弟と姪についても書かれています。
長女(昭和5年生)は精神病院を入退院を繰り返す。
1992年(平成4年)に死亡(62歳)。

長男(昭和7年生)は高校を卒業して網走で就職する。
その後、栃木でセールスマンをする。
結婚して婿養子に入る。
住宅会社の支店長をしていたが辞め、月賦詐欺で逮捕、実刑判決を受けた。

次女(昭和10年生)は高校を卒業すると家を出て看護婦になる。
結婚して名古屋に引っ越した。

三女(昭和15年生)は中学を卒業し、実家の真向かいの美容院で住み込んで働く。
2年後に美容師の資格を取ると、東京の美容院に勤めた。
実家に帰ったことも、手紙や電話をしたこともない。
結婚して退職、長男が生まれるが、数年後に離婚、ホステスなどをする。

次男(昭和17年生)は、中学を卒業して東京で就職。
運転手をするが事故を起こして、長男が勤める会社でセールスマンをする。
結婚して婿養子になり、息子が生まれるが離婚。
水商売の女と東京に出て、女の稼ぎで暮らし、ギャンブルばかりする。
昭和59年、路上で倒れて病院に運ばれるが死亡(42歳)。

三男(昭和20年生)は中学を卒業して東京で働きながら定時制高校に通う。
法律専門の出版社に就職。
裁判後に退職、妻の姓に変えた。

四女(昭和27年生)は針子、看護師見習いをし、未婚で出産。
ホステスなどするが、心の病で入院。

姪(昭和27年生)は結婚するが離婚。
次男に相談したら、置屋に売られた。

1993年、母ヨシ死亡(83歳)。
1997年、則夫死亡(48歳)。

非行というのは、親のひどい仕打ち等にこれ以上がまんできなくなった少年が、やむにやまれず行動で示すことだ。自分を助けてほしいとの切実な叫びであり、救いを求めるシグナルでもあるのだ。(石川義博『少年非行の矯正と治療』)

みんな被害者だと思いました。
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堀川惠子『永山則夫』と石川義博『少年非行の矯正と治療』(2)

2025年03月23日 | 死刑
昭和28年10月末、冬の網走に置き去りにされた永山則夫と三女、次男、三男の4人は、翌年の春に福祉事務所が母親に連絡して、板柳町の母の家に行った。
堀川惠子『永山則夫』によると、三女、次男、三男は、則夫は母親と一緒に青森に帰ったと記憶している。

青森では生活保護を受給したが、母親の行商と合わせても生活はぎりぎり。
母親は則夫が夫と何から何までそっくりと思いこんでいて(実際は母親似)、憎んでいる夫への憤懣を則夫にぶつけた。

母親に疎んじられた則夫は、薄汚れて穴が空いた服を着ていた。
しかも中学2年まで続いた夜尿のせいでくさい。
則夫は網走で育ち、青森では幼稚園に入らなかったので、津軽弁がしゃべれない。
そうしたことから、小学2年のころ同級生にいじめられた。
石を飲まされたこともある。

次男には毎日殴られ、気絶することもあった。
次男は成績がずば抜けていて、近所の人には愛想がよかったが、中学まで夜尿をしている。
母親は次男が則夫を殴っていると知っても何もせず、時には母親も則夫を道具で叩いた。
三男は暴力をふるわなかったが、無視しバカにしている。

母親は四女には何かと世話を焼いており、四女と姪は幼稚園に行った。
家族の中で則夫は孤立し、小学2年のころから家出を繰り返す。

則夫は小学校にはほとんど行っていない。
5年の時に網走の精神病院に入院していた長女が帰って来ると、学校に行くようになった。
ところが、妊娠7か月でまた堕胎させられた長女は、それから死ぬまで精神病院の入退院を繰り返す。
則夫は再び学校に行かなくなった。

昭和36年12月、中学1年の時に父が死んだという報せが届く。
岐阜県垂水駅で、電車の中で倒れていた。
息を引き取る間際に名前と住所を答えたが、妻の名前は言わなかった。
54歳。
所持金は10円だけ。

父親の葬儀の時、次男が「おふくろが俺たちを(網走に)置いてきぼりにした」と言った。
則夫には母親に捨てられた記憶がない。
この時、初めて母親に捨てられたのかという疑念を抱くが、母親を信じる気持ちもあり悩んだ。

しばらくして、仏壇にしまわれていた父親の死体の写真を見つける。
父親は優しい人だと思っていた則夫にとって、汚い格好をした父親の死に顔はショックだった。
それまで持っていた父親のイメージが打ち壊された。
姉の発狂、父親の死などから、「なんで俺、生まれてきたんだろう」と自殺を考えるようになった。

兄たちが家から出て行くと、則夫は木刀を持つようになる。
姪を木刀でしばしば殴った。
苗字が違っている姪は何度も養女として出されたが、夜尿が止まらなかったため、しばらくすると送り返される。
長男は娘に会いに来ていない。
姪を殴った理由の一つは、父親の葬儀の香典を長男と次男がすべて持ち帰ったことへの復讐。

父親の死後、母親は男と付き合うようになった。
中2の夏、母はテープレコーダーを買うため、天ぷら屋(愛人の一人)ら数人と夏休みの一か月、北海道にリンゴの仕事に出かけた。

石川「則夫君や四女や孫には言って行ったんですか?」
母「言わね。言わねえで行ったの。あのさ、友達に言ったら稼いで来いって言うからさ」
石川「子どもたちは誰が見てくれたんですか?」
母「友達がさ。帰って来たら夏だったからさ、シャツもなんも三人とも真っ黒いの着てさ、ははは」
石川「洗わないと真っ黒でしょうねえ」
母「黙って行っても友達がやってくれると思って。それで二万円稼いでさ、すぐに(テープレコーダー)買いに行ったの」
石川「シャツも真っ黒でね、子どもは痩せてませんでしたか?」
母「いえ、食うもんはちゃんと置いていったの」

中3の秋、母が入院した。
則夫が妹や姪に暴力をふるうので、2人は母親が入院している病院に逃げ出し、病院で寝泊まりする。
母親と妹、姪は11月から則夫が上京する翌年3月まで一度も家に帰って来なかった。

母親は「妹らに時々、食べ物を届けさせたから則夫が困ったはずはない」と言っている。
しかし、則夫は飢えに苦しんだ。
近所の人や同級生が食べ物を持って来てくれることもあった。

永山家は不良少年のたまり場となり、彼らが盗んだ商品が保管された。
盗品を見つけられても則夫は仲間の名前は言わなかった。

上京の支度をする金が一銭もないので、長男、次男、三男に手紙を出して送金してほしいと頼んだが、長男と次男からは音沙汰がなかった。
2月頃、三男から母親宛に3千円が送られてくる。
母親が2千円を取り、則夫は千円を持って東京に行った。
上野駅に迎えに来てくれると思っていた三男は来ていなかった。

永山則夫は青森から上京して3年半で事件を起こしています。
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堀川惠子『永山則夫』と石川義博『少年非行の矯正と治療』(1)

2025年03月14日 | 死刑
堀川惠子『永山則夫 封印された鑑定記録』 は読み応えがありました。
それは、石川義博医師による永山則夫の精神鑑定(録音テープ49本)と、「永山則夫精神鑑定書」をもとに、両親や兄弟たちについて詳しく書かれてあるからです。

昭和43年に4人を射殺した永山則夫は昭和44年4月に逮捕されます。
昭和48年、弁護人より精神鑑定を依頼された石川義博医師は、昭和49年1月から4月までの3か月間、八王子医療刑務所で面接を重ねた。
278日間かけて書かれた「永山則夫精神鑑定」は182ページもあるそうです。

木谷明元裁判官はこのように語っています。
これを読んで、被告人(永山則夫)の心が初めて理解できたような気がします。決して犯罪を正当化する意味ではありませんが、彼がなぜ事件を犯したのか、その疑問がやっと晴れたような気持ちです。
『永山則夫』を読んで同じ感想を持ちました。

永山則夫の両親(どちらも明治43年生まれ)は昭和5年に青森県板柳町で結婚した。
恋愛結婚だった。

父親は2歳で実父を病気で亡くし、義理の父に育てられた。
小学校では常に3番以内の成績だったが、家が貧しくて小学校を中退し、家計を助けるためリンゴ農家を手伝い、リンゴ栽培の技師になった。
義理の父譲りの博打好きなので、母親の親族は結婚に反対した。

長女が昭和5年に生まれ、長男(昭和8年?)、そして次女が昭和10年に生まれた。
父親の稼ぎは多かったが、稼いだ金を博打につぎこむ。
親から受け継いだ家屋敷はすべて賭博の借金のかたに取られた。

昭和11年、網走からリンゴ栽培の技師として声がかかり、借金を残したまま永山一家は網走に渡った。
網走では真面目に働くようになった。

長女は網走女学校を入学から卒業まで首席で通した。
長男も高校を首席に近い成績で卒業、道庁土木現業所に就職した。
次女も優秀な成績だった。
上の3人は高校を卒業している。

昭和19年、父親が召集された。
帰ってきた父親はそれまで飲めなかった酒をひどく飲み、博打にのめり込むようになった。
母親の行商だけでは生活できず、生活保護を申請したが認められなかった。

永山則夫が生まれたのは昭和24年6月。
昭和27年に長男が高校の同級生に妊娠させて生まれた女の子を永山家が引き取った。
母親に代わって家事や育児をしていた長姉(則夫の19歳年上)が堕胎させられて精神を病み、昭和28年に精神病院に入院する。

母親は四女(1歳)、孫(1歳)と次女(17歳、四女と孫の世話をさせるため)を連れ、実家のある青森県板柳町に帰ってしまった。
11月の網走に三女(13歳)、次男(11歳)、三男(8歳)、則夫(4歳)が残された。
母親は一週間分の食料だけ置いていった。
青森から仕送りはしておらず、4人の子供の心配はしていない。
父親や長男が網走にいたはずですが、何もしなかったようです。

母親は永山則夫は逮捕された1か月後に少年鑑別所に送られる。
その4日後、母親が鑑別所に面会に来た。
則夫は「おふくろは、俺を三回捨てた」とだけ言った。

一度目は網走。
二度目は中2の夏。
母親は何も言わずに北海道にリンゴの仕事に行き、則夫と四女と姪が残された。
三度目は中3の秋。
母親が入院し、妹と姪は則夫の暴力から逃れるために病院に逃げ出した。
則夫が中学を卒業して東京に行くまで、母親、妹、姪は家に帰ってこなかった。

なぜそんなことができたのか。
「散々苦しめられてきた夫への〝当てつけ〟でもあった」と堀川惠子さんは書いています。
母親ヨシは子供たちを「捨てた」ことを悪いことをしたとは思っていないようです。
石川義博医師はヨシに生い立ちを尋ねています。

明治43年(1910年)に利尻島で生まれる。
2歳の時に漁師をしていた父親は船の遭難して死亡。
母方の祖父も同じ船に乗っていて死んでいる。

4歳の時、母親はヨシと樺太に渡り、缶詰工場の女工をした。
ヨシは小学校に通わず、子守りをした。
母親が一緒に暮らした男は飲むと暴行した。
母親にも殴られている。
母親から心中を迫られたこともある。

5年後、男は去り、母親は別の男と住む。
ヨシは子守り奉公に出された。
数えの10歳のころ、男は実家がある板柳町に母親と帰る。

樺太に置き去りにされたヨシは料亭に住み込んで子守りなどをした。
1919年、ヨシは料亭の主人らと一緒にロシアのニコラエフスク(尼港)に渡った。
1920年、尼港事件が起きる。
赤軍パルチザンによって日本人731人を含む6000人超の住民が虐殺された。
ニコラエフスクの2年間をヨシはほとんど語っていない。

尼港事件を生き伸びたヨシは、12歳の時に日本軍の憲兵隊に助けられて板柳町の母親のもとに送られる。
母親とは暮らさず、住み込みで働く。
小学校にはほとんど行っていない。
そして、結婚した。

両親からの愛情を知らないまま育ち、母になったヨシはからすれば、子どもを網走に捨てたことは何ら特別なことではなかったのだ。自分がかつて実母からされたのと同じことをしたにすぎない。

母親は石川義博医師に「食べるんだったら、一週間分、置いてきたもん」と語っています。
母親からされたのと同じことを自分の子供たちにしたわけです。
いったい誰が悪いのかとため息が出ます。
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杉山榮『先駆者岸田吟香』と「呉淞日記」

2025年03月09日 | 
岸田劉生の父親である岸田吟香(1833年~1906年)は実業家で、多方面に活躍しています。
どんな人物なのかに興味がひかれ、杉山榮『先駆者岸田吟香』、豊田市郷土資料館編『明治の傑人岸田吟香』を読みました。
岸田吟香は最初に卵かけご飯を食べた人であり、口語文を最初に書いたと言われています。

慶応2年、英語辞典の印刷のため、ヘボンと上海に行ったときに「呉淞日記」を書いています。
『明治の傑人岸田吟香』に「呉淞日記」がいくつか引用されています。

慶応2年12月7日
日本の学者先生たちが、ほんをこしらへるに四角な字でこしらへるが、どういふりようけんでほねををつてあんなむづかしい事をした物かわからねェ。支那人に見せるにハ漢文でかいた方がよからうけれども、日本の人によませて日本の人をりこうにする為につくるにハ、むづかしく四角な文字で、あとへひつくりかえつてよむ漢文を以て書物をつくりてハ、金をかけて版にしてもむだの事なり。労して効なしといふンだ。(略)
世間に学者よりハしろうとの方が多イから、しろうとにハさつぱりちんぷんかんぷんなり。
旧仮名づかいではありますが、下の文章など読みやすくわかりやすい。

慶応2年12月24日
「あゝくたびれた。けふ竹をおよそ三十幅ばかりもかいて見たが、これハよくできたとおもうやうなのハ一幅もなし。かいてもかいてもおもしろくないから、はらがたって来た。

その点、杉山榮『先駆者岸田吟香』はいささか読みづらい。
というのが、1946年に当用漢字表、1949年に当用漢字字体表が告示され、しばらくは旧字体、当用漢字以外の漢字が使われたそうで、『先駆者岸田吟香』は1952年の出版なので、漢字は旧字体だし、今はほとんど使われない漢字が多いからで。

岸田吟香が生まれた垪和村(はがそん)がまず読めない。
呉淞も。

今はほとんど使わない字
殆んど、且つ、俄か、聊か、尤なる
邑、全軀、谿谷、擔当、荊棘、裡、腐蝕、惨澹、汽罐
倚る、繞る、駛せる、欣ぶ、需る、夥しい、舁ぐ

誤字かもしれない字
取り毀す 「毀つ」の間違いか。
晩れる 晩は「おそい」だが、「おくれる」と読ませたのか。
偉きかった 「き」は誤植か。
倚依 「依倚」か。

意味がわからなかった字
暢達、烏鷺、喧伝、濫觴、炯眼

読みも意味もわからなかった字
貶黜(へんちゅう、へんちつ)官位を下げて、しりぞけること。
瀛(えい)大海。沢。池や沼。
怡(い)よろこぶ。たのしむ。

『先駆者岸田吟香』はカタカナが少ないです。
アメリカ、ヘップバーンなど固有名詞か、カッフェ、バス、ダムといった日本語になっている言葉ばかり。

今の本も70年も経てば読むのに一苦労することになるかもしれません。
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徳田靖之「飯塚事件再審 無実の人の死刑執行を暴く」(2)

2025年02月27日 | 死刑
第三の柱
女の子たちを最後に目撃したとされているΟさんの証言が、飯塚事件の死刑判決の第三の柱。

Oさんは事件から26年たって徳田靖之弁護士の事務所に電話をかけてきた。
自分が女の子たちを見たのは事件の日ではないと言っているのに、警察官に強引にその日にされてしまった。
自分のいい加減な証言が久間三千年さんを死刑にしたのではないかとずっと悩んでいた、何か力になれば、ということだった。


第二次再審請求の新証拠としてのΟ証言で第三の柱がつぶれることになる。
もう一人、木村さんが西日本新聞に、自分は真犯人を目撃した、と情報提供している。

事件当日、八木山峠で小型の貨物自動車に運転する男と後部座席にいる女の子2人を見た。
1人は横たわっていて、もう1人は追い抜いた際に自分のほうを見た。
土曜日でもないのに、どうして子供たちが乗っているのか気になった。
ラジオで2人の女の子が行方不明だと知り、翌朝、警察署に連絡をした。
二週間後に来た警察官に状況を詳しく説明し、男は色が白くて久間三千年さんとは別人だと話した。
しかし、法廷で検察官がDNA型が一致したと言ったので、そうかと思った。
ところが、再審請求でDNA鑑定が間違っているという報道を聞き、やはり目撃した男が犯人だと思った。

検察は新しい証拠と古い証拠を比べた際、古いほうが信用できると言い張るので、Oさんの捜査報告書、木村さんの供述調書を出せと言ったら、検察は「不見当」、見当たらないという回答だった。

裁判長は「警察から捜査記録が送られてくるときにリストは一緒に来るんですか」と質問したら、検察官は「それは残ってます」と答えたので、裁判長は「それを開示してください」と言った。
ところが、検察官は「そのような勧告をする権限が、現行法上、裁判官にはない。したがって自分たちは応じる必要はない」と言った。

裁判官が怒ると思ったら、決定は「Oさんの30年を経た供述にはいくつかあやふやなところがあって信用できない。本人が当日ではないと言っているのに、警察が当日だと証拠を作る必要性がないことをするはずがない」ということだった。
木村さんの供述は、具体性、特定性がないから目撃した車両や人物が本件と関係しているとはいえないとした。

裁判所は検察がリストを出さなかったことを批判すべきなのにしなかった。
それは、死刑判決の証拠が全部つぶれると、再審開始する以外にないから。

第一次再審請求の段階で、検察官は提出していない証拠が段ボール1杯ある、探すのに時間をくれと言った。
高裁の裁判長は、提出していない証拠を探し、リストを出しなさいと言った。
証拠が出てくると、再審開始に大きな道が開く。

徳田靖之弁護士は死刑制度についてこのように断じています。
死刑制度を存置しようとする人たちは、冤罪の問題と死刑制度存置の問題は切り離して議論をしようという主張をされる。それは要するに、冤罪を防ぐための方策を確立すればすむ話であって、それがゆえに死刑をなくすのはおかしいという議論なんですけど、冤罪がなくなるということを考えるということ自体が現実的ではありません。冤罪というのは必ず起こります。人間は過ちを犯すんです。

全くそのとおりです。
警察は容疑者に自白を強要し、証人を誘導して供述させ、検察は証拠を隠して開示しない。
これでは冤罪はなくなりません。

部分冤罪もあります。
共犯や従犯なのに正犯とされたり、殺人と窃盗なのに強盗殺人とされたりといったこともあります。
また、同じような事件でも死刑になることがあれば、無期懲役のこともあります。
死刑に賛成の人は、冤罪で死刑になる人がいても仕方ないと思っている気がします。
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徳田靖之「飯塚事件再審 無実の人の死刑執行を暴く」(1)

2025年02月24日 | 死刑
1992年2月、小学校1年生の女の子2人が殺された飯塚事件では、久間三千年さんが逮捕され、死刑執行されています。
飯塚事件のドキュメンタリー木寺一孝『正義の行方』を見て、冤罪かどうか灰色だと思いました。

ところが、徳田靖之「飯塚事件再審 無実の人の死刑執行を暴く」(「FORUM90」vol.194)を読み、有罪はあり得ないと考えが変わりました。
徳田靖之弁護士はこのように語っています。

冤罪事件では虚偽の自白の信用性が問われることが多い。
久間三千年さんはあらゆる強引な取り調べ等を受けたが、自分はやっていないと言い続け、一度も自白はない。

死刑執行は2008年10月28日。
警察庁の科学警察研究所で、飯塚事件の有罪判決の証拠の柱となったMCT118型というDNA鑑定を行なった技官が、同じ方法で同じ時期に犯人を特定したのが足利事件。
この二つの事件の犯人のMCT118型は16-26型だと特定し、菅家利和さんも久間三千年さんも16-26型で犯人に違いないとして逮捕された。
しかし、足利事件は本田克也筑波大学教授、押田茂實日本大学教授たちがこれはおかしいということで再審請求が進み、東京高裁が最新のDNA型鑑定を行なうことを決めた。

この報道がされたのは2008年10月17日。
その直後の10月24日に法務省矯正局は、法務大臣に対して久間三千年さんの死刑執行の上申書を起案した。

通常、死刑執行の上申書が出されると、大臣はどういう事件だったかを調べ、そのうえで判を押すかどうか結論を出す。
しかし、上申書が提出された日に大臣が捺印した。
そして、4日後の10月28日に死刑が執行された。

推測すると、一貫して無実を主張していること、再審の準備をしていることが隠されたと思われる。
記者会見の際に、「大臣、久間さんは一貫して否認しています。再審準備中でした。そのことをご存じでしたか」という質問に、法務大臣は絶句した。

死刑執行は、足利事件で間もなく再審が開始されるかもしれないという想定を置いたうえで、久間さんの飯塚事件の再審が、再審開始無罪の方向に行くことを防ぎたいという思いが、この死刑執行に至ったのではないかと思わざるを得ないのです。

飯塚事件の確定判決の証拠は大きく三つの柱がある。
①科学警察研究所のDNA鑑定
被害者の膣内をぬぐった綿花から犯人のものと思われるDNA型が発見され、それが久間三千年さんの毛髪から検出されたDNA型と一致し、なおかつ血液型も一致した。

②女の子たちのランドセルや着衣、スカート等が発見された山中付近で、不審な車を目撃したというTさんの目撃証言。

③女の子たちが最後に目撃されたとされる飯塚市内の三差路で、女の子たちを目撃したという証言と、その時に付近に居合わせた人たちが、その直後に不審な紺色のワゴン車を見たという証言。

飯塚事件で久間三千年さんの死刑判決が出た証拠の三本の柱はいずれも問題があると、徳田靖之弁護士は語っています。

第一の柱
科警研に保管されていたネガフィルムと鑑定書に添付されていた写真を比べると、鑑定書に添付されていた写真はカットされている。
第一次再審請求のとき、本田克也筑波大学教授が「これは完全に改竄だ。ここにバンドが写っている。これが真犯人の可能背がある。これを見せたくないので写真を切り取っている」と証言した。

最初にマスコミが検察庁に問い合わせた時は、検察庁は鑑定書の台紙に余裕がなかったから切ったと弁明した。
しかし、鑑定書には余裕があった。
すると検察庁は、科警研の技官によると、このバンドはエラーだと実験によって確かめられたと言う。
実験で確かめたという写真を出してくれと言うと、その写真はない、DNA鑑定をした技官が定年で辞めるときに私物として処分したと言う。
エラーであることを確かめるために実験を何回したのかと尋ねると、3回だと言う。
科警研に送った綿花は電気泳動実験を100回以上できる量があった。
しかし、残った綿花はないと言う。

しかも鑑定書に添付されている写真は真っ黒。
なぜか。

被害児の心臓血から採取した試料から行なった実験データに久間さんの型とされた16という部位にバンドが映っている。
しかし、心臓血に他人のDNA型が入ることはない。
完全なエラーなので、実験をした人はまずいと思い、黒く焼き付けてエラーを隠した。

第一次再審の裁判官は、確定審の段階と同じような証拠として扱うことはできない、だから事実認定から外すという言い方をした。
これで第一の柱が崩れた。


第二の柱
Tさんの最初の供述は、カーブが連続する山道を車で下ってきたところ、停まっていた車があり、不審な人物がいたというもの。
「トヨタや日産ではない。車の横にラインがなかった。後ろのタイヤがダブルタイヤだった。中が見えなかったので、フィルムか何かを貼っていたと思う。人物はだいたい30代で、頭の前のほうが禿げていた。カッターシャツを着ていた」と述べた。
この車はマツダの後輪がダブルタイヤのボンゴ車で、久間三千年さんの車と一致している。

厳島行雄人間環境大学教授にこの供述書を見てもらうと、注意力を要するカーブで一瞬見た程度で、これほど多数の特徴を目撃し、なおかつそれを記憶して供述することはあり得ない、という意見だった。

第一次再審請求で、この目撃証言は怪しいと主張した。
裁判長は検察で何か追加して立証することはないかと言葉をかけた。
その時に検察官が開示した報告書に「3月7日捜査員現認 ラインはなかった」とあり、その右に「大坪部長」と書いてある。
3月9日にTさんの供述調書を作ったのが大坪巡査部長。

Tさんから供述調書を作る2日前に久間三千年さんの家に行き、車の特徴を頭に入れた。
マツダのウエストコーストにはラインがあるが、久間三千年さんは車のラインを消している。
そして、Tさんに会って供述調書を作っているので、「ラインがない」という不思議な供述になった。

だから、裁判所はT証言を排斥すると思った。
ところが、ダブルタイヤについては誘導された可能性はないから、証拠として維持できると言った。

しかし、後ろのタイヤがダブルタイヤだと通りすがりに見ることができるのか。
Tさんは窓を開け肘を出して運転してて、10mぐらい通りすぎたところで振り返って見たと説明した。
しかし、事件は2月。
窓ガラスを開けて運転し、カーブを曲がろうとする時に後ろを振り返るか。
https://news.ntv.co.jp/category/society/fsc710c66ec7dd47d889ab3a3ead896343

その後、警察は久間三千年さんの車を入手して検証した。
8m過ぎて振り返らないと、ダブルタイヤだとはわからない。
そこで、後ろを振り返ってダブルタイヤを見たのはおかしいということになって、前のタイヤと後ろのタイヤの大きさか違い、後ろのタイヤが小さかったからダブルタイヤだと判断したという供述調書に変えた。
起訴する前に供述調書を変えたことを裁判所は知っている。

一番許しがたいのは、捜査の指揮をとった主任警察官が高裁で、このT証言を得たので、犯行に使用された車がマツダで、後輪がダブルタイヤだと行きつき、飯塚市内の該当する車を洗い、久間三千年さんがそういう車を持っているという情報があり、久間三千年さんにたどり着いた、と証言したこと。

3月7日に久間三千年さんの家に行って車を見ているのに、嘘の証言を平気でする。
この偽証を裁判官はそのまま受け入れた。

残った証拠は後輪ダブルタイヤだけだから、これを叩けば第二次再審請求は開始決定が出るだろうと確信していた。
しかし、後輪ダブルタイヤだという部分だけを認め、そのほかの状況証拠を総合すると、久間さんが犯人であることに合理的疑いを抱く余地はないと、請求を棄却した。
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2024年キネマ旬報ベスト・テン

2025年02月14日 | 映画
キネマ旬報ベスト・テンです。

日本映画
1位『夜明けのすべて』
2位『ナミビアの砂漠』
3位『悪は存在しない』
4位『ぼくのお日さま』
4位『Cloud クラウド』
6位『ぼくが生きてる、ふたつの世界』
7位『ルックバック』
8位『青春ジャック 止められるか俺たちを2』
9位『ラストマイル』
10位『あんのこと』

11位『箱男』
12位『碁盤斬り』
13位『侍タイムスリッパ―』
14位『一月の声に歓びを刻め』
14位『正体』
16位『ゴールド・ボーイ』
17位『十一人の賊軍』
18位『違国日記』
19位『辰巳』
19位『ミッシング』

外国映画
1位『オッペンハイマー』
2位『瞳をとじて』
3位『関心領域』
4位『哀れなるものたち』
5位『ファースト・カウ』
6位『ホールドオーバーズ』
7位『シビル・ウォー』
8位『落下の解剖学』
9位『夜の外側』
10位『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』

11位『二つの季節しかない村』
12位『チネチッタで会いましょう』
12位『パスト ライブス/再会』
12位『密輸 1970』
15位『フェラーリ』
16位『ロボット・ドリームズ』
17位『アイアンクロー』
17位『WALK UP』
17位『本日公休』
20位『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』

21位『ソウルの春』
24位『デューン 砂の惑星 PART2』
37位『チャレンジャーズ』
37位『マッドマックス:フュリオサ』
45位『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』

日本映画、外国映画、どちらも予想は大はずれで、20位までだと、日本映画は12本、外国映画は13本しか予想が当たりませんでした。
ベストテン上位の常連だった石井裕也、橋口亮輔、大森立嗣、𠮷田恵輔、片山慎三、王兵、ドゥニ・ヴィルヌーヴ、ティム・バートンらの作品が20位以内に入っていません。

映画芸術 2024年日本映画ベストテン&ワーストテン
ベストテン
1位『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』
2位『夜明けのすべて』
2位『ぼくのお日さま』
4位『悪は存在しない』
5位『Cloud クラウド』
6位『SUPER HAPPY FOREVER』
7位『ぼくが生きてる、ふたつの世界』
8位『違国日記』
9位『つゆのあとさき』
10位『ゴールド・ボーイ』

ワーストテン
1位『正体』
2位『ミッシング』
3位『ナミビアの砂漠』
4位『海の沈黙』
5位『湖の女たち』)
6位『碁盤斬り』
7位『スオミの話をしよう』
8位『あんのこと』
8位『十一人の賊軍』
8位『ルート29』

何でこんな映画がベストテンの上位に入るのかと思うことがしばしばです。
外国映画でもワーストテンを選んでほしいです。
でも、私がいいと思った映画がワーストテンだと、何でだ!と思いますけど。

SCREEN映画評論家が選んだ最も優れた映画2024
1位『オッペンハイマー』
2位『哀れなるものたち』
3位『関心領域』
4位『デューン 砂の惑星 PART2』
4位『ホールドオーバーズ 』
6位『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』
7位『落下の解剖学』
8位『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』
8位『シビル・ウォー』
8位『ソウルの春』

11位『デッドプール&ウリヴァリン』
12位『ロボット・ドリームズ』
13位『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
14位『密輸1970』
15位『ビートルジュース ビートルジュース』
16位『フェラーリ』
16位『ボーはおそれている』
18位『異人たち』
19位『カラーパープル』
20位『瞳をとじて』

29位『夜の外側』
キネマ旬報ベストテンとは、1位~10位は7本、1位~20位は11本が重なっています。
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大竹晋『「悟り体験」を読む』(2)

2025年02月09日 | 仏教
大竹晋『「悟り体験」を読む』に、血盟団事件の井上日召(1886年~1967年)の悟り体験が詳しく書かれています。

井上日召は大正元年から参禅し、大正13年に開悟した。
東に向つてお題目を唱へてゐると、アサヒがズン/\上つて、将に山の端を離れた瞬間、私は思はず、
「ニツシヨウ」
と叫んだ。「ニツシヨウ」が何の意味だかも知らぬ。
そのあと、井上日召は悟境を深めるため山本玄峰に参禅したが、玄峰は日召の悟境を認めなかった。

麻原彰晃も似た体験をしています。
広瀬健一『悔悟』によると、麻原彰晃が立位の姿勢から五体を大地に投げ出しての礼拝を繰り返じていると、「アビラケツノミコトになれ」という声を聞きました。
アビラケツノミコトは「神軍を率いる光の命(みこと)」という意味で、シャンバラの実現のためにアビラケツノミコトとして戦うように命じられた、というのです。

見性したかどうかは師が判断します。
しかし、井上日召も麻原彰晃も無師独悟です。
血盟団事件とオウム真理教事件は似ていると思います。

井上日召は門下の若者たちとテロリズムに傾倒し、昭和7年に血盟団事件の首謀者として入獄した。
昭和8年、収監先で悟り体験を得た。
この時はじめて山本玄峰から悟境を認められた。

井上日召がなぜテロリズムを肯定するようになったか、大竹晋さんはこう書いています。
悟り体験によって叡智を獲得したはずの日召がなぜテロリズムを肯定するような短慮に走ったのかは、誰もが不審に思うことである。これについては日召自身が述べているように、日召の叡智がいまだ不十分であったせいと考えることもできる。玄峰も、それゆえに、当初、日召の悟境を認めなかったのであろう。
叡智が不十分なのに悟り体験だと言えるのでしょうか。

悟り体験者の中には戦時中に好戦的な発言を行なった人が複数いる。
叡智と道徳性との間に本質的な結びつきがないことを示唆するように思われる。

宗教と道徳は違います。
悟った人が殺生を肯定することはあり得ないし、人に殺生させないはずです。
見性した人の中には超能力を持つようになった人がいるそうです。

絶大な叡智獲得体験において、超能力のレベルに達するほどの叡智がしばしば獲得される。
経典に覚醒体験に伴って六神通を獲得することが説かれる。

盤珪永琢(1622年~1693年)は、濃尾にいながら大坂のことを言い当て、播磨にいながら大洲のことを言い当てた。
これは天眼通です。

エマヌエル・スエーデンボルグも遠方を透視する能力があると考えられています。
1759年、スエーデンボルグはストックホルムから約500キロ離れたイェーテボリで、「今、ストックホルムで大火災になっている」と友人たちに告げた。

大竹晋さんは田中木叉「日本の光 弁栄上人伝」に書かれた山崎弁栄(1859年~1920年)のこんなエピソードを紹介しています。
(渡辺信孝氏が)織田得能師法華経講義の本が新聞広告に出てゐるのがよさそうなので、読みたくてたまらないが、金はないし、上人に申し上げても御喜びにならないのはわかつてゐるので、黙つてゐた。すると「拙堂、法華経講義は読みたいか」と聞かれたので、驚いて「ハイ」と申し上げると「それでは買ひなさい」と云つて金をくださつた。すると本屋で割引値段で売つてくれて六十銭手に残つたのを、之は割引の金だから頂戴しやうと、勝手な考へをして、つひ鰻飯と焼鳥を食べてしまひ、寺に帰つてかくす為に口を塩で嗽ぎ、次ぎの間から「只今帰りました」と挨拶すると、「鰻飯は甘いか」と問はれた。ハッと思つたがそしらぬ振をして、氏「もう一年もそんなものは食べませんから」上人「イヤ今日のは一ぱいでは足るまい。焼き鳥は甘かつたか」氏「上人、どうしてわかりますか」上人「お前のお腹の中にある」。

中川智正は麻原彰晃に言いつけられた用事をすませ、買い食いをして戻ると、麻原彰晃から買い食いをしたなと言われています。
井上日召も悟り体験によって超能力を獲得したそうです。

日召が超能力を獲得し、悪魔の誘惑を退け、超能力を封印して人間界に戻り、病苦に苦しむ人々の治療のためにやむなく超能力を用い、若者たちの尊敬を得て血盟団を組織していく。

悟り体験者は相手の声や動作の音を聞いただけで、悟り体験をしたかを知るそうです。
白水敬山「老師は障子の内側から「自恭か、やったネ」と声をかけられた」

絶大な悟り体験者には、その人に接した誰もが「この人は確かに悟っている」とわかり、悪念を捨てて浄化されるらしい。
四元義隆「玄峰老師は自分にとって親以上の存在とも云える。傍についているだけで自分の人格が良くなるようなそんな人物だった」

これまた広瀬健一『悔悟』に麻原彰晃の浄化能力が語られています。
(麻原の)このエネルギーこそが私にとって、麻原が神格を有することの証明でした。それが私の身体に注がれると、私の心が〝聖なる〟状態になったからです。心の汚濁は浄化され、意識はどこまでも透明になり、冴えわたりました。

田中木叉は山崎弁栄のこんなエピソードを書いています。
或日日蓮宗国柱会の猛々しい壮漢二三名上人を訪ねて来て、非常なけんまくで、上人が念仏を弘むるのは国家の為めに不都合であると、切(しき)りに詰め寄る勢凄ましかったが、上人は之に一言の答辞もなく、「えゝなんで、如来の光明は神聖正義恩寵の云々」と如来光明のゆわればかり静かに説き立てゝ間を切らず、説き行く内に、其の壮漢等のいかめしい様子は次第に和らぎ、今にも掴みかからんかと思はれた人達が、一同感服した様子で恭しく礼をして帰り去った。

これは親鸞と弁円の話と似通っています。
弁円は親鸞を殺そうと思って親鸞と会いますが、なぜか弟子になりました。
実際にあったことかもしれません。
国柱会の壮漢や弁円は悟り体験者ではないでしょうけど。

悟り体験によって得られるこうした超能力をどう考えたらいいのでしょうか。
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大竹晋『「悟り体験」を読む』(1)

2025年02月01日 | 仏教
悟ったことのないので、悟りとはどういうふうになることなのか興味があります。
大竹晋『「悟り体験」を読む』は多くの悟り体験が紹介されています。

悟りという日本語は大乗仏教の覚醒体験を意味し、おもに禅宗で用いられた。
インドでは悟り体験記はない。
なぜなら、大妄語戒(悟っていないのに悟ったと嘘をつくこと)になるから。

しかし、聖者の知見を得た比丘も大勢います。
『テーラガーター』『テーリーガーター』には、何人もの比丘や比丘尼が悟ったと語っています。
ヴァーセッティーが「師(ブッダ)のことばにいそしみましたので、こよなくめでたい境地を現にさとりました。あらゆる悲しみは、すべて断たれ、捨てられ、ここで終わったのです」と話しています。
ヴァーセッティーの話を聞いたスジャータは、「その場で、正しい教えを理解して、出家することを喜んだ。かれは三夜を過ぎてのちに、三種の明知を体得した」とあります。
三種の明知とは宿命明・天眼明・漏尽明の三明、つまり超能力を得たわけです。
もっとも、その悟りとはどのような体験だったかは述べられていません。

出家者が覚醒体験を語り、悟り体験記を公表することは北宋の禅宗から始まった。
大乗仏教の覚醒体験は真如(空性)の実見である。
歓喜地において真如を実見する。
真如は有情に内在しており、自身に内在する真如は仏性(心の本性)と呼ばれる。

中国仏教では、仏性を初めて実見することを見性と呼ばれるようになった。
悟り体験は一度きりかと思ってたら、何度も見性することで深まっていくそうです。
在家者の見性も紹介されています。

釈尊は在家者の悟りを説いていないので、在家者は天に生まれることを期待するしかありませんでした。
大乗は衆生済度を強調します。
どうすることが衆生を救済することになるのかと不審に思っていましたが、在家者を悟りに導くことかもしれません。

麻原彰晃やオウム真理教の信者は厳しい修行で神秘体験をしています。
オウム真理教の悟りは見性はどう違うのかと思います。

大竹晋さんによると、悟り体験は五段階あります。
オウム真理教での神秘体験は、五段階から構成される悟り体験と正確に符合しないそうです。
神秘体験(大竹晋さんの言葉だと異常体験)と見性はどう違うのかわかりません。
脳のはたらきで悟り体験を説明するできると思うのですがどんなもんでしょう。

辻雙明(1903年~1991年)は円覚僧堂の接心に参加し、予定の三日間は終わったが、見性はできなかった。
「ところが、電車の中で変化が起きた。車中のすべての人の額が光明を放っているように感ぜられた。見るものがすべて光を放っていた。自宅に帰ると、歓喜が沸き起こり、「手の舞い、足の踏む処を知らず」というふうに家の中を踊りまわった。老師の古川堯道にこのことを話すと、「歓喜のある間は、まだ駄目だ」と言われた」

光体験や踊躍歓喜体験は悟り体験ではないわけです。
「車中のすべての人の額が光明を放っているように感ぜられた」ということですが、高見順「電車の窓の外は」に、こんな光体験が描かれています。

電車の窓の外は
光りにみち
喜びにみち
いきいきといきづいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている

青木新門『納棺夫日記』も「ひかり」について述べられています。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/2116cf54cb26c1d8ab3c7bb67300be79
光体験は悟り体験だと思ってました。

歓喜についてですが、法然『和語灯録』にこういうことが書かれています。
「信心の様を、人の意(こころ)えわかぬとおぼゆる也。心のぞみぞみと身のけもいよだち、なみだもおつるをのみ、信のおこると申すはひが事にてある也。それは歓喜・随喜・悲喜と申べき。信といは、うたがひに対する心(にて、)うたがひをのぞくを信とは申すべき也。

信心とは心がぞみぞみ(ワクワク)し、身の毛もいよだち、涙も落ちることだというのは間違いだ、疑いを除くことだと、法然は言っています。

『歎異抄』に唯円が「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」と親鸞に問うています。
天に踊り、地に踊る気持ちが起こらなくても問題ないわけです。

近現代の曹洞宗において悟り体験批判がなされました。
大竹晋さんは、肉食妻帯に代表される世俗化とともに始まっており、悟り体験を批判した宗学者たちのうちには肉食妻帯を許す者が少なくなかったと指摘します。
悟り体験者はそれぞれのレベルにおいてだんだん煩悩を断ちきっていく。

このように大竹晋さんは書いていますが、在家者も悟り体験をしているし、臨済宗の僧侶で肉食妻帯している人は珍しくありません。
臨済宗の僧侶はみんな見性しているのでしょうか。
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テロリストへの攻撃と確率

2025年01月26日 | 映画
イスラエルとハマスが停戦しました。
喜ばしいことですが、イスラエルの対パレスチナ政策が変わるとは思えません。
アサド政権が崩壊すると、イスラエルはシリアを空爆し、ゴラン高原の入植地を拡大するという火事場泥棒的行為をしています。
また、レバノン南部からも撤退しないと声明を出しました。
ヨルダン川西岸地区の入植地はさらに広がるでしょうし、パレスチナ人への弾圧、迫害は続くと思います。

イスラエルの無差別攻撃によるガザの死亡者は約4万7千人、行方不明が約1万4千人です。
ガザの人口は約200万人ですから、40人に1人が死亡、もしくは行方不明なのです。
多くの一般人や子供、病人までもが死傷した責任が問われることなく、結局はうやむやにされると思います。

ギャビン・フッド『アイ・イン・ザ・スカイ』はこんなあらすじです。
テロリストが支配する地域をイギリスの諜報部が無人機で偵察している。
テロリストたちを逮捕する予定だったが、これから自爆テロをするとわかる。
諜報部員たちは逮捕をやめ、建物を無人機で攻撃してテロリストを殺してもいいかとイギリス政府に問い合わせる。
大臣たちは法律的に認められると決定した。
ところが、テロリストがいる建物のすぐ隣で、女の子がパンを売っている。
建物を爆撃すれば女の子が死ぬ可能性が高い。
女の子が死ぬことが分かっていて攻撃すれば、テロリストはそのことを宣伝に使い、ネットで映像を流し、世論は批判するので、それを避けたい。
しかし、何もしないと自爆テロで80人が殺される。
イギリス政府は女の子が死ぬ可能性が45%以下なら攻撃を認めると伝えた。
女の子1人との命と80人の命のどちらを選びますか、というトロッコ問題です。


イスラエルはガザを攻撃する際、民間人に被害が及ばないように作戦を練ることはしていないでしょう。
病院にも攻撃しているわけですから。

子供が何人死のうと、攻撃を躊躇していません。
ハマスだけでなく、すべてのパレスチナ人を殲滅しようと考えていたかもしれません。
子供が餓死や凍死しているのに、イスラエルは食糧や薬品などの支援活動を妨害していると、国連が非難しているぐらいです。

ジュマーナ・マンナーア『採集する人々』は、好んで食べている野草をパレスチナの人が摘むと違法だけど、それらの野草を食べないユダヤ人は合法という状況をフィクションを交えて描いています。
パレスチナの人が野草を摘んでいるのが見つかれば罰金、もしくは逮捕されます。
なので、ユダヤ人は野草を栽培して、アラブ人に売っているのです。
http://www.cinenouveau.com/sakuhin/foragers.html

杉原千畝さんは1985年(昭和60年)にイスラエル政府よりヤド・ヴァシェム賞を受賞しました。
受賞メダルにはタルムードの「ひとりの命を救うことは全世界を救うのと同じである」という句が刻まれていた、とウィキペディアにあります。

大変すばらしい言葉です。
でも、イスラエルによるガザ攻撃をユダヤ教正統派は支持しているそうですから、「ひとりの命」や「全世界」とは、ユダヤ教徒の命であり、ユダヤ教徒だけの世界であって、異教徒は含まれていないと邪推してしまいます。

イスラエル寄りのトランプ大統領は、ヨルダンとエジプトがガザから退避するパレスチナ人の受け入れを拡大することが望ましいとの考えを示した、という記事がありました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e539bf2fd9b3346abfa0cfb0b2a3c95c9c703549

アメリカの不法移民を追放しているのに、ガザの避難民を受け入れるよう要請するとはどういう心づもりなのでしょうか。
人道的なふりをして、実はパレスチナ人を追い出そうとしているように感じます。

「あなたたちにとっての”ふつうの生活”は、私たちにとっては夢です。」
https://note.com/jvcpalestine/n/n19f1ac505b10
パレスチナでパレスチナ人が普通の生活ができる日が早く来るよう願います。
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