おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

海と毒薬

2020-11-07 11:17:57 | 映画
「海と毒薬」 1986年 日本


監督 熊井啓
出演 奥田瑛二 渡辺謙 成田三樹夫 西田健
   神山繁 岸田今日子 根岸季衣 草野裕
   辻萬長 津嘉山正種 千石規子 黒木優美
   ワタナベ・マリア 岡田眞澄 田村高廣

ストーリー
昭和20年5月、敗戦の色が濃く、九州F市にも毎晩のように米軍機による空襲が繰り返されていた。
F帝大医学部研究生、勝呂(奥田瑛二)と戸田(渡辺謙)の二人は、物資も薬品もろくに揃わぬ状況の中で、なかば投げやりな毎日を送っていたが、勝呂には一人だけ気になる患者がいた。
大部屋に入院している助かる見込みのない貧しい患者“おばはん”(千石規子)である。
どうせ死ぬ患者なら実験材料にしたいという教授や助教授の非情な思惑に、勝呂は憤りを感じながらも反対できなかった。
当時、死亡した医学部長の椅子を、勝呂たちが所属する第一外科の橋本教授(田村高廣)と第二外科の権藤教授(神山繁)が争っていたが、権藤は西部軍と結びついているため、橋本は劣勢に立たされていた。
橋本は形勢挽回のため、結核で入院している前医学部長の姪の田部夫人(黒木優美)のオペを早めた。
簡単なオペだし、成功した時の影響力が強いのだが、ところがオペに失敗した。
橋本の医学部長の夢は消えた。
おばはんはオペを待つまでもなく空襲の夜、死んだ。
数日後、勝呂と戸田は、橋本、柴田助教授(成田三樹夫)、浅井助手(西田健)、そして西部軍の田中軍医(草野裕)に呼ばれた。
B29爆撃機の捕虜八名の生体解剖を手伝えと言われ、二人は承諾した。
勝呂は麻酔の用意を命じられたが、ふるえているばかりで役に立たない。
戸田は冷静で、勝呂に代って捕虜の顔に麻酔用のマスクをあてた。
うろたえる医師たちに向かって「こいつは患者じゃない!」橋本の怒声が手術室に響きわたった。
その夜、会議室では西部将校たちの狂宴が、捕虜の臓物を卓に並べてくり広げられていた・・・。


寸評
戦争は悲惨な出来事を引き起こすが、人間が極限状態の中で本性を現わしてしまう空間なのだと思う。
自分が生きたいと言う願望を叶えるためには相手を殺さねばならない。
鬼畜米英が叫ばれている中で、日本と言う国家の犯罪を唱えることは出来たものではないだろう。
世間の雰囲気に同化してしまうのも人間の持つ習性の一つかもしれない。
数多くの特攻隊員は自殺行為を繰り返さざるを得なかった。
この映画も戦時中の狂気を生体解剖という行為に投影している。

最初に描かれるのは患者を人と思わない医者の存在である。
彼らは日常会話の中で患者を捨てると何度も言っている。
どうせ死ぬ患者なのだとの意識があり、その患者をモルモットにして研究の為の手術を試みようとしている。
「白い巨塔」で描かれた医学部の部長職をめぐっての醜い競争も描かれる。
自分の出世の為に行った手術が失敗に終わり、それを隠ぺいするひどい対応は、今でも内部告発がない限り覆い隠されているのではないかと思ってしまう。
手術中の死亡にもかかわらず、手術は成功したとして病室で見せかけの回復治療を装い、後日に死亡したことにしてしまうというひどいものである。
橋本教授の失敗の後始末を浅井医師が指揮して執り行う。
研究医も看護師もその指示に逆らうことができない。
医学部にはそのような雰囲気があるのだろう。

彼らは軍部の要請による捕虜の生体解剖を引き受ける。
軍部の圧力に従わざるを得なかった者もいるだろうし、医者としての興味に誘われた者もいたのかもしれない。
勝呂は弁解もするが、そのことを苦しみながらも考え続ける。
戸田は割切りながらも凄じい自己認識へと至る。
戸田は日記に「罪悪感の乏しさだけではない。僕はもっと別なことにも無感覚のようだ。はっきり言えば、僕は他人の苦痛やその死に対しても平気なのだ」と記している。
この時代に生きていれば、モラルを持ち出して不本意な要求を拒絶することができただろうか。
その時代にその場所に存在していたことは、その人に与えられた運命だったのかもしれない。
それにあらがうことができない雰囲気のようなものもあったのだろう。
運命は母なる海のようなものであり、そこで非人間的な行為をもたらす毒を飲んでしまうのが人間の弱さなのだ。
それが分かるから、僕はヒルダに対する上田看護婦の苛立ちに共感したり、戸田を米軍調査官のように一方的に悪者として罵ったりできないのだと思う。

「海と毒薬」は戦争が引き起こすひどい行為を告発しているだけではなく、人間の本性について問題提起している作品である。
手術の場面は動物を使っているらしいが生々しい映像を提供していて、時代的には実験的な手法だったと思う。