おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

エクソシスト

2020-11-15 07:36:10 | 映画
「エクソシスト」 1973年 アメリカ


監督 ウィリアム・フリードキン
出演 エレン・バースティン
   マックス・フォン・シドー
   リー・J・コッブ
   ジェイソン・ミラー
   リンダ・ブレア
   キティ・ウィン

ストーリー
北イラクの古代遺跡。
アメリカの古生物学者でありカトリックの神学者でもあるメリン神父は、発掘中に悪霊バズスの偶像を発見した。
メリン神父は吹きすさぶ風の中、灼熱の焔を吹き上げ今まさに沈まんとする太陽を背に、いつか再びこのバズスと対決することを異様な戦慄と緊迫感のの中で全身に感じていた。
ここはワシントンのジョージタウン。
ロケのため臨時に借家住まいをしている人気女優クリスは屋根裏で響く異様な物音に悩まされていた。
初めはネズミの仕業だろうとさほど気にしなかったが、まもなく1人娘のリーガンの身に恐るべき事が起こり始めたのだ。
万策つきたクリスは、“悪魔払いの儀式”を行なってもらおうとカラス神父に頼み込んだところ、神父は当初それを信じなかったが、リーガンの腕に“ヘルプ・ミー”の文字が浮かび上がったとき、彼は現代ではすたれてしまった“悪魔払いの儀式”を行なうことを決意した・・・。


寸評
ホラー映画、オカルト映画はきわもの映画であると思うのだが、「エクソシスト」はそのジャンルの中において正しく金字塔と言える出来栄えである。
本作のヒットを得て、その後に類似の作品が数多く生み出されたことがそれを証明している。
描かれている話は単純で何かを訴えるものではなく、あくまでも映画は見世物なのだと言った内容だが、みっちり練られた脚本と演出で異様な世界の映像化に成功している。

冒頭の30分くらいは作品の背景を説明するような内容で、それが簡潔に行われているとは言えないものなので、むしろ退屈な時間に思えるのだが、この一見無駄とも思えるプロローグが後半の支えになっていた。
イラク北部で遺跡の発掘調査していたメリン神父は謎の像を発見するのだが、その像が何かいわくありげなことは分かるが、それが悪霊パズスの像だと言うこと、そしてどのような力を持つものなのかの説明はない。
メインキャストであるクリスとリーガンの母娘が登場するが、仲睦まじい母と娘の姿、母は俳優であることが描かれるだけで、本題となるリーガンの異常はまだ現れない。
やがて重要な人物となるデミアン・カラス神父が母親を見舞いに訪ね、病院の雰囲気が異様なものであり、母の死がデミアン神父のトラウマになるようなことが描かれるが、それらは独立した話の様でまだ絡んではこない。
期待をもって見ていると、まどろっこしさを覚える入りなのだが、リーガンに異常が出てくるあたりから、それまで抑えていたものが噴き出すように迫力を増してくる。
特殊メイクと異常現象が観客の目を一瞬たりとも離させないのだ。

母親のクリスは娘の身を案じて医者に見せるのだが、医者は自分のテリトリーを守るような診断ばかりである。
どんな検査をしても正常と判断されるだけなのに、リーガンの症状は重くなる一方である。
医者は全能でないし、自分の専門分野内で判断するようだし、だからセカンド・オピニオンは必要だと思わされたが、リーガンの症状は医者の範疇を超えるものである。
科学の先端を行く一人であるはずの医者が、暗示療法とはいえ一縷の望みをかけて悪魔祓いを提唱するのは、神を超えて人の命を左右する医者の傲慢さを揶揄して面白い。
そう感じるのは先生と呼ばれる人種を嫌悪する僕のうがった見方ではあるのだが。

リーガンの異常行動はエスカレートしていき症状も悪化の一途をたどるが、母親のクリスは当然としても、執事のカール、メイドのシャロンやメアリーが献身的に尽くしている姿に物語とは関係なく心打たれた。
圧倒するのはリーガンのリンダ・ブレアである。
悪魔の乗り移った少女を、悪魔の声がかぶるとは言え、想像を絶する狂気じみた演技で見せつける。
少女に卑猥な言葉を発せさせるのも興奮を増加させた。
何人かが悪魔へのいけにえのようになって死ぬのだが、その死は必然的なもので見せるためのものではない。
やたら死人を出して見世物効果を増幅させるようにはなっていない脚本は評価できる。
話はまだまだ続くのだぞと思わせるようなエンディングも余韻を持たせた。
十分に堪能して映画を見終えることが出来たのだが、つまりはキリスト教賛歌なのかと思ってしまうのは、無神論者である罰当たりな僕の飛躍だろう。

エグザイル/絆

2020-11-14 11:21:48 | 映画
「エグザイル/絆」

     
監督 ジョニー・トー      
出演 アンソニー・ウォン
   フランシス・ン
   ニック・チョン
   ラム・シュー
   ロイ・チョン
   ジョシー・ホー

ストーリー
中国返還間近のマカオ。
乳飲み子を抱えた妻が夫の帰りを待つとある家。
同じように4人の男が1人の男を待っていた。
2人は男を殺すために、2人は男を守るために。
かつて香港の組織にいたウー(ニック・チョン)はボスのフェイを狙撃し逃亡していた。
そのウーの殺害をフェイから命じられたやってきたのが、ブレイズ(アンソニーウォン)とファット(ラム・シュ)。
一方、タイ(フランシス・ン)とキャット(ロイ・チョン)は、ウーを守るためにやってきた。
5人は一緒に育った間柄で強い絆で結ばれていたが、今は立場を変えていた。

ウーが帰って来て激しい銃撃戦が起こるが、彼等はウーの赤ん坊の泣き声を合図のように銃を下ろす。
それが、かつて幼友達だった彼等の絆だった。
その夜、男たちはウーの妻(ジョシー・ホー)もまじえて夕餉を楽しむ。
そして、生後1カ月の赤ん坊も含めた7人で記念写真を撮った。

やがては命を落とす身で、殺される前に「妻子に金を遺したい」というウーの為に5人は仲介屋に出向き仕事を斡旋してもらう。
選んだのは、マカオノボス、キョン(ラム・カートン)の殺害。
ブレイズは、この仕事で金を得たらカタをつけるとウーに伝える。
5人はキョンを呼び出したレストランに向かう。
しかし何の策略家、その場にブレイズたちのボス、フェイ(サイモン・ヤム)が現れた。
ウーがまだ生きていることを知り激昂するフェイがブレイズの胸に弾丸を撃ち込み銃撃戦が幕を開ける。
そして運命は思いもよらぬ方向へと男たちを導くのだった・・・。


寸評
若者でもない中高年でもないその間の男たちが見せるアンバランスな行為が不思議と引き付ける。
クールなギャングの姿を見せたかと思うと、子供のようなバカ騒ぎをやらかす。
彼等の世代あるいは年齢を感じさせて微妙なアクセントをもたらしていた。
そのような彼等の描き方に加えてスタイリッシュなカメラワークが不思議な雰囲気を醸し出す。
冒頭のモノローグは少し長いような気がしたが、食事場面に至るまでのその長さが彼等の絆の深さを描くアプローチになっていたのかもしれない。
あれだけの銃撃戦をやりながら誰も死なないのに疑問を持っていたし、警察がなぜ来ないのかの疑問もあったのだが、返還直前というマカオの時代背景があって、問題を起こしたくないという官憲の官僚的なことも描かれているので説得されたような気分。
官憲といえば金塊輸送車を襲った時の護衛官のクールさも彼等に通じるところがあって、妙にかっこよかった。
最後に女二人がどうやら金塊の分け前にありつけそうなのは、やたら強かった男どもに比べて、弱かった女が実はしたたかであり強い存在のようでもありエピローグとしてはまとまっていた。
全編に流れる音楽と音響の効果はこの映画の盛り上げに一役買っていた。
女子供を犠牲にしない武士道精神に充ちあふれた作品で、僕にとっての香港映画のイメージを一変させた。
劇終(The END)

栄光のル・マン

2020-11-13 08:03:46 | 映画
「栄光のル・マン」 1971年 アメリカ


監督 リー・H・カッツィン
出演 スティーヴ・マックィーン
   ヘルガ・アンデルセン
   ジークフリート・ラウヒ
   ロナルド・リー=ハント
   リュック・メランダ
   フレッド・アルティナー

ストーリー
アメリカの国際級プロ・レーサー、マイク・デラニーは“ル・マン24時間レース”出場のため、ポルシェを駆ってル・マンに向かっていた。
金曜日、午前6時、とある寺院の前に一台のフェラーリを認めて中に入ったマイクは、そこに顔見知りの男女であるレーサーのクロード・オーラックとベルギーのグランプリ・レースで事故死したピエロ・ベルジェッティの妻モニクを見出したのだが、この事故でマイクも負傷していた。
夜、世界各国から集まったレーサーたちは町のバーで最後のひとときを楽しんでいる。
モニクを得意気にエスコートするオーラック。
彼は不用意にも事故のことを口に出して、マイクと気まずくなってしまう。
今度のレースでマイクが最もマークしているのはドイツ人エーリッヒ・ストーラーである。
彼のレースへの異常な執念、そして彼はフェラーリを運転する宿命のライバルだ。
いよいよ当日、午後3時51分、最後の点検が行われ、いま、午後4時、運命の旗は振られた。
全長約13.5キロのサーキットで24時間という長時間をテクニックと細心の注意力を駆使して乗り切るのである。
夜になって雨となり、雨はしだいに激しさを増し、最悪のコンディションになってきた。


寸評
車好きのスティーブ・マックイーンが、自ら率いるソーラー・プロダクションの総力をあげて作り上げた本格カーレース映画で、特に大きなドラマはなくル・マン24時間耐久レースをセミ・ドキュメンタリー風に撮っている。
製作開始当初、監督はジョン・スタージェスだったが、描き方でマックイーンとの間に確執がおこりスタージェスは途中降板することになった作品である。
スタージェスは人間ドラマの中にレースを持ち込むつもりだったようだが、マックイーン側はレースの中に人間ドラマを持ち込むことを主張したようだ。
実際この映画では大半がレースの模様でドラマは無いに等しいのだが、それでも最後まで固唾をのんで見させる迫力映像が素晴らしい。
冒頭のタイトルバックではル・マンの会場の様子とそこに集まってくる人々の様子を描いていて、人々の関心の高さと盛り上がっていく様子が感じ取れるいい映像となっている。
レースの開催日、前夜からできたテント村、幹線道路から数珠つなぎで乗り入れてくる観客の車、満車になった広大な駐車場、出場者のレースカーが搬入される様子などを捉えた映像がドキュメンタリーを感じさせる。
レース前に場内放送が流れ、365日の内363日は一般道として通行可能な道路をコースとして使用されることなどが説明され、レースとしてのル・マンの情報が提供され、自然と気分は盛り上がっていく。

ポルシェ・チームのデラニーとフェラーリ・チームのベルジェッティがレースで接触事故を起こし、デラニーは一命をとりとめたがベルジェッティが死亡したということが背景にあり、ベルジェッティの未亡人リサがル・マンの会場に来てデラニーと出会う。
それが唯一と言ってもいいドラマなのだが、それ以上の進展はない。
デラニーはリサに縁起でもないル・マンになんで来たのかと聞くと、リサは「自分のため」と答える。
ベルジェッティが事故にあったことをデラニーは「たいしたことじゃない、レースでは何度でも起こることだ」と言う。
リサは「命を賭けるなら他に大切なことがあるのでは。人より速く走ったとしてもそれでどうなるの?」と尋ねると、デラニーは「いい加減な人生ってけっこうあるものだ。何も取り柄がなく人より車を早くはせらせることができる者にとってレースは人生だ」と答える。
二人の間に微妙な視線が存在する。
それがこの映画のドラマ的な部分なのだから、ストーリーなどないようなものだ。

サーキットの外には遊園地があり、ル・マンを訪れた家族連れが幸せそうに遊具に乗っている。
芝生では恋人同士がキスを交わし、ベンチでは平和なおしゃべりをする観客がいる。
デラニーはレースが人生そのものだと言うが、カーレース以外に人生には楽しいことがこれほどあるのだと言ってるようでもあった。
ドラマとしてならマックイーンが最後に大逆転して終わりそうなところだが、ドラマを排除している本作ではそうはならない。
ラストにおいてもその姿勢は貫かれている。
しかし、カーレースだけを撮り続けてこれだけ見せる映画は、僕の知る限りにおいて他にはない。
その意味で、カーレース映画の傑作の部類に入る作品となっている。

映画に愛をこめて アメリカの夜

2020-11-12 06:53:35 | 映画
「映画に愛をこめて アメリカの夜」 1973年 フランス イタリア


監督 フランソワ・トリュフォー
出演 ジャクリーン・ビセット
   ジャン・ピエール・オーモン
   ヴァレンティナ・コルテーゼ
   ジャン・シャンピオン
   ダニ
   ジャン=ピエール・レオ

ストーリー
青年が地下鉄の出口から出てくる。
カメラは彼を追っていくが、やがて広場の向こう側の歩道を歩いている男をとらえる。
青年が男をつかまえ、いきなりその顔に平手打ちを食わせる。
そこでフェラン監督の「カット!」の声。
いままでの映像は映画の撮影風景で、映画のタイトルは『パメラを紹介します』。
父親と息子の嫁が恋に落ちて駆け落ちしてしまう話だ。
映画撮影の進行を軸に、監督の苦悩と、様々な人間模様が描かれ、せっかく撮ったフィルムが現像所のミスで台なしになったり、キャメラの前で演じる恋を実生活の中にまでもち込んでしまって、どうやら一時は本物とお芝居の区別がつかなくなる出演者がいたり、撮影途中で出演者の一人が自動車事故で死んでしまうなどのトラブル続きで撮影は進行する。
撮影が終了し、TVレポーターがやってきて大道具係にマイクを向けた。
“撮影中に何か困難な問題は起きませんでしたか?”という質問だ。
大道具係は微笑を浮かべてそれに答えた。
“なにもかもうまくいったよ。我々がこの映画を楽しんで作ったように、お客さんもこの映画を楽しんで見てくれれば、それでもう何もいうことはない……”と。


寸評
アルフォンスを巡る女性関係が断片的に描かれてはいるがストーリーは有って無いようなものである。
映画ってこんな風にして撮られていくんだと、映画ファンにとっては楽しい作品となっている。
冒頭で起きることは映画の撮影シーンだと分かるが、同じ場面を何回も撮り直すことになる。
市中ロケではなく全ての人がエキストラで、老若男女入り混じった大勢の人たちが撮り直しをするたびに元の位置から只行きかうだけの演技を行っているというもので、監督役はフランソワ・トリュフォーその人自身である。
小道具係がライトが仕込まれたロウソクを持ってきて、ロウソクの火で顔が照らされたように見えると監督に説明するシーンがあるが、これなども小道具の面白さを観客に教えてくれている。
向かいの部屋から両親のいる家に語り掛ける場面ではセットの面白さが描かれているし、大量の泡をまき散らして雪が積もった後の町を作り出したりするトリックも興味をそそる。
「へえ~、こういうシーンはこんな風にして撮られているんだ」と思って見ると実に楽しい映画だ。

多分映画作りはトラブルの連続なのだろう。
描かれたようなトラブルが一つの作品でずっと起きているわけではなかろうが、そのどれもが撮影現場で起きていることなのだろうなと思わせる。
主演女優の到着が遅れてスケジュール変更、現像に回していたフィルムがダメになり撮り直しを余儀なくされる。
秘書役の女優はプールで泳ぐシーンを追加されたが、水着になるのを嫌がったことから妊娠がバレ、撮影スケジュールの加減で彼女が再登場するのは5週間先ということで、妊婦であることが丸わかりとなることから監督は代役を考えるが、プロデューサーは契約違反になると言い出す。
主演男優は行方不明となり、主演女優も「カントリーバターを食べたい」と我儘を言い出す。

ドラマと言えるのはジャン=ピエール・レオが演じるアルフォンスが引き起こす女性問題。
彼は彼女と一緒にいたいがために、彼女をスタッフにしてもらっていたのだが、結局彼女はスタントマンと出来て去ってしまい、落ち込んだアルフォンスを慰めるために夫のいるジュリーは彼と一夜を共にしてしまう。
ジュリーのおかげで残る気になったバカなアルフォンスは“奥さんと寝たので離婚してください”とジュリーの夫であるネルソン博士に電話をかけてしまうという内容で、話自体は他愛のないものとなっている。
ジャン=ピエール・レオはトリュフォーの映画に少年の頃から出続けているが、こういう軽薄な役がよく似合う。

映画ファンを楽しませるのは撮影風景だけではない。
フェラン監督が見る夢の中で、少年がステッキを利用して盗むスチル写真は「市民ケーン」だったりするのだが、一瞬写るスチル写真は名作映画のもので、映画ファンならどこかで見たことがあるものばかりだ。
またフェラン監督が注文した本が届くシーンでは、包装が解かれると出てくるのはルイス・ブニュエル、イングマル・ベルイマン、ジャン・リュック・ゴダール、アルフレッド・ヒッチコック、ハワード・ホークス、ロベルト・ロッセリーニ、ロベール・ブレッソンなどの本で、これもほんの一瞬だけ映るのだが、名前を発見するだけで何故だか嬉しくなってしまうから不思議だ。
インタビューを受ける小道具係が最後で「何もかもうまくいったよ。僕たちが楽しんだように観客も楽しんでくれたらいい」という。 ホント、映画っていいですねえ。

永遠と一日

2020-11-11 07:38:51 | 映画
2019年2月1日から「え」の第1弾をアップしましたが
今日からは第2弾です。


「永遠と一日」 1998年 ギリシャ フランス イタリア


監督 テオ・アンゲロプロス
出演 ブルーノ・ガンツ
   イザベル・ルノー
   アキレアス・スケヴィス
   デスピナ・ベベデリ
   イリス・ハジアントニウ
   エレニ・ゲラシミドゥ

ストーリー
北ギリシャの港町、テサロニキ。
作家で詩人のアレクサンドレ・アレクサンドロスは不治の病で入院を明日に控え、人生最後の一日を迎える。
母の呼ぶ声を耳に3人の親友と島へと泳いだ少年の日の思い出の夢から覚めた彼は、3年前に先立たれた妻アンナが遺した手紙を託すため、娘カテリナの元を訪ねる。
手紙の1通は30年前の夏の一日、生まれたばかりの娘を囲んでの海辺の家での思い出をよみがえらせ、妻の深い愛情を改めて知らしめた。
町に出た彼はアルバニア難民の少年と出会う。
アレクサンドレは国境まで少年を送り帰そうとするが、彼は離れようとしない。
河辺で少年に前世紀の詩人ソロモスの話をするアレクサンドレ。
幻想のなかで、かの人ソロモスに出会うふたり。
痛みをこらえながらアレクサンドレは少年と旅を続けるうち、さらに過去の記憶が甦る。
夏、アンナをともない親戚らと島へ向かったこと、島に残る少年の日の思い出の崖。
少年の仲間の死は病院で別れを告げた母を思い起こさせる。
仲間と旅立つという少年とバスに揺られれば、さまざまな年代の人々が夢かうつつか乗り込んでくる。
結局、少年は深夜、大きな船で去った。
思い出のこもった海辺の家は解体される。
病院行きをやめたアレクサンドレの耳に、亡き妻の声が響く……。


寸評
現代のギリシャの町、テサロニキにおいて老境の作家アレクサンドレは不治の病に侵され、明日入院することになっており死期を悟っている。
自由に動き回れるのが今日一日だけという人生の最後の一日に、街中で偶然に出会ったアルバニア系難民の少年と過ごす短いが充実した時間を濃密に 描いている作品である。
そして、少年と過ごす時間の間に、作家の歩んできた人生が回想する形で挿入される。
すでに亡くなっている妻との関係、作家と社会とのかかわりを内省するように挟まれるが、少し難解さを感じる。
その映像の美しさ、カメラ回しの巧みさに魅了されるが、作品としては一般的ではない。

アレクサンドレは入院することを旅に出ると言っているが、同時に死を迎えることでもある。
その為に飼っている犬の引受先を探さねばならない。
娘の所を訪ねるが、夫が動物が嫌いだからと断られてしまう。
おまけに長年住んでいた海辺の家を娘夫婦が売りに出していることも知る。
結婚した娘は父親に詫びるが、もう以前の娘ではない。
娘は父親よりも夫との今の生活の方が大事なのだ。
そのようにして子供たちは親元から巣立っていくのだろう。
それでも皆に祝福されて誕生したことが妻の手紙で語られ、その時のことが回想される。
僕が死期を向かえたなら、色々あったが娘には「お父さんの子供に生まれてくれてありがとう」と伝えたい。
思い起こされるのは、きっと楽しい思い出ばかりだと思う。
淋しいことではあるが、そう思えたなら幸せなことでもある。

少年はギリシャ難民で過酷な状況で働いており人身売買に晒されていた。
アレクサンドレはふとしたことで少年の危機を救い、なんとか少年を祖国に送り返してやりたいと考えて、少年と厳寒のアルバニア国境を訪れるシーンがある。
少年はその好意に反するわけではないのだが、帰りたいという意思も示さない 。
そして地雷を避けて友人と脱出したことを語る。
国境に張りめぐらされた金網に多くの人々がしがみつき、凍りついて死んでいる。
二人に気がついたナチス・ドイツのような軍服を着た将校が近づいてくる光景は、身も凍るような陰惨さで、現代の国境が持っている冷酷な一 面を一瞬にして観る者に悟らせる。
少年は一言も発しないが、彼の祖国の実態がいかなるものであるかが想像できてしまう。 
少年が祖国に帰ることで少年に幸せが訪れるものではない事を示している。
祖国を捨て去った方が幸せだと言う悲劇だ。
戦争は悲劇的だが、内戦はもっと悲惨なものなのだろう。
平和ボケいしている日本人には国境と言う概念の欠如、内戦とういう実態の認識欠如があるのではないか。

思い出の世界、死後の世界は永遠なのだろう。
現世の一日には何があるのだろう・・・幸せな一日なのか、悲惨な一日なのか。

運命じゃない人

2020-11-10 07:54:19 | 映画
「運命じゃない人」 2004年 日本


監督 内田けんじ
出演 中村靖日 霧島れいか 山中聡
   山下規介 板谷由夏 眞島英和
   近松仁 杉内貴 北野恒安 法福法彦

ストーリー
婚約破棄となり、二人で住む家を出てきた桑田真紀(霧島れいか)。
婚約指輪を質屋に持って行ったが3500円にしかならず、一人入ったレストランはカップル、家族、友達同士でにぎわっている。
寂しさがこみ上げて今に泣きそうだ。

サラリーマンの宮田 武(中村靖日)は、頼まれ事は断れず、すぐに人を信じてしまう典型的ないい人。
結婚前提でマンションを購入した途端、行方知れずになってしまった前の彼女・あゆみ(板谷由夏)のことでさえ、心配しているほどの人の良さだ。

そんな宮田の親友で私立探偵の神田(山中聡)は、宮田のことが歯がゆくて仕方がない。
いつまでも前の彼女とのことを引きずっていても仕方がないと、宮田のために女の子をナンパしてやる。
それはレストランで一人で寂しそうに食事をしている真紀だった。

泊まる家もない真紀に、宮田は自分の家に泊まるようすすめ、二人は宮田の家に帰っていく。
そこに行方知れずだったあゆみが現われる。
あゆみのあまりの身勝手な言動に、真紀はあきれて宮田の家をでていってしまう。
宮田は追いかけ、勇気を振り絞り真紀の電話番号を聞くことに成功する。
宮田にとってはちょっと勇気を出した一晩。
しかし実は彼を取り巻く人々、真紀、神田、あゆみ、そして、あゆみの現在の恋人である浅井(山下規介)の視点から見た一晩はまったく違う夜だった。
複雑な人間関係に、浅井の金2000万円が加わり、事態は誰も予想がつかない方向へと転がっていたのだ──


寸評
二重、三重に張り巡らされたタイムスパイラルの構成が非情に面白い。
「あっそうか、そういう事だったんだ」と何度も知らされる。
したがって同じシーンに同じセリフが何カットも繰り返される事になるが、その間隔が計算され尽くしているような時間で反復されて心地よい感覚をもたらす。
登場人物のすべてが一晩のうちに出会ったり、すれ違ったりで、何らかの関係を持ちながら時間が経過していく。

交わされる会話も、当人が真面目に話すだけに、思わず笑ってしまう内容で、会話にも引き込まれてしまう内容だ。
ベテランの漫才を聞くような感覚で、抜群の”間”なのだ。
神田を補足したヤクザが、宮田からかかってきた携帯に答えた内容に「お前、何をヤバイ話してんだよ」とすごむ。
前後の経緯を知らされた観客としては大笑いする会話だけど、当の本人達は至極当然の顔をしてる。
それが又おかしいのだ。
神田が宮田に言う「電話番号をなめんなよ。あの11桁の数字を知っているか、知らないかで、あかの他人かそうでないかを分けるんだから」とか「三十超えたら、運命の出会いとか自然の出会いとかいっさいないから。もうクラス替えとか、文化祭とかないんだよ。」とかも同様で、神田は必死でアドバイスしてるんだけれど、その必死さの分だけ観客は笑ってしまうのだ。
その事を懇々と語って聞かせるときの、ウェイターが見せる自分にも言われているような気になったかのようなちょっとした態度にも笑わされる。
人の係わりに細かい所にまで神経を使っていて、神田がヤクザと出会う場面で、そのウェイターがトイレから出てくるシーンなどはその一例だ。

登場人物はどこか憎めない連中なのも、常套手段といえばそれまでだが、作品の雰囲気を盛り上げている。
あゆみは金の亡者なんだろうけど、どこかいい女ぽいし、ヤクザの組長の浅井は当然ながら悪人の代表なのだが、どこか世の中知りぬいた大人の雰囲気を持っている。
便利屋の山ちゃんは、見せ金作りをやったかと思ったら、他人の家のドアを簡単に開けてしまう犯罪まがいのことを、仕事内容の一環として淡々とやってしまう。
私立探偵の神田は金にシビアそうなんだけど、宮田やあゆみのことを本当に心配してやったりする。
その代表者が宮田で、最後の最後まで真紀のことを信じてるし、あゆみの真の姿を知らないで荷物の世話をしたりする。
その宮田の純真さに応えるように、真紀があゆみのようになりかけながらも引き返してくることを暗示するラストは良かったと思う。
僕も宮田と同じで、人間を信じたいし、皆良い人で終わる映画のほうが好きだな。
最初の方で登場した会社の先輩が出てこなくて気になっていたが、やはり最後に出てきた。
これも常套手段といえば常套手段かな。
でも解っていても面白い。

レストランのシーンと、宮田が帰宅した時ののマンションのシーンをすべてのシーンの中心に置いた構成は中々巧みだ。
この手の映画は組み立て=脚本が相当ウェイトを占めると思うのだが、脚本も手がける内田けんじの力量は大したものだ。

海街diary

2020-11-09 08:54:10 | 映画
「海街diary」 2015年 日本


監督 是枝裕和
出演 綾瀬はるか 長澤まさみ 夏帆 広瀬すず
   大竹しのぶ 加瀬亮 鈴木亮平 池田貴志
   坂口健太郎 前田旺志郎 キムラ緑子
   樹木希林 風吹ジュン リリー・フランキー
   
ストーリー
長女・幸(綾瀬はるか)、次女・佳乃(長澤まさみ)、三女・千佳(夏帆)は、鎌倉の古い家に一緒に住んでいた。
父は不倫の末に15年前に家を出て行き、その後、母も再婚してしまい、今この家に住むのは3人だけ。
長女の幸は看護師でしっかり者だが両親へのわだかまりを抱えている。
そんな姉と何かとぶつかるのが地方銀行に勤める自由奔放な次女の佳乃だった。
三女の千佳はマイペースな女の子で運動靴店の店員だ。
そんな彼女らのもとに、ある日、疎遠になっていた父の訃報が届く。
父の不倫相手も既に他界しており、3人目の結婚相手と山形で暮らしていたのだ。
三人は父の葬儀が行われる山形に向かい、母親違いの妹・すず(広瀬すず)と初めて対面する。
父が亡くなった今、中学生のすずにとってこの山形で身寄りと呼べるのは血のつながりのない義母だけ。
気丈に振る舞うすずだったが、肩身の狭い思いをしているのははた目にも明らか。
すずの今後を心配した幸は、別れ際に“鎌倉で一緒に暮らさない?”と提案する。
こうして鎌倉へとやって来たすずだったが、最初の頃は自分の母が幸たちの父を奪ったことへの負い目を拭えずにいた。
それでも、異母姉たちと毎日の食卓を囲み、鎌倉での日常生活を重ねていく中で、少しずつ凝り固まった心が解きほぐされていく。
また、入部した地元のサッカーチームでも仲間に恵まれ、中学生らしい元気さも取り戻していくすずだったが…。


寸評
4姉妹のアンサンブルはいいし、新人の広瀬すずも雰囲気を出していた。
今ある生を祖父母から連なるものとして、梅酒やカレーを登場させている。
梅酒やカレーだけでなく、この映画では食事のシーンが頻繁に登場する。
その食事シーンによって人の思いや、その人自身を投影、あるいは人々の関係を表現していたと思う。
だから面白い映画だったはずである。
だったはずというのは、残念ながらそうはなっていないからだ。
映画の途中から湧いていた奇妙な感覚が終盤に行くに従って明確になってきた。
この映画、人の上辺をなぞっていて内面に切り込んでいないのだ。
切り込めていない理由はツバだけをつけておいてトドメを刺さない演出が随所に見られたことだ。
例えば、綾瀬はるか達が看取った患者に対するアライさんの処置が親切で心のこもったものだったと話すシーンがある。
アライさんは登場しないが、それは父を優しく看取ってくれたすずへの思いの投影だったと思うのだが、やけにアッサリとしたものだった。
例えば、都銀から地銀に転職してきた加瀬亮が、なぜ都銀をやめたのかと長澤まさみに聞かれ「ここは自分の居場所じゃないなと思ったから。そんな風に思ったことはないか?」と問い返している。
それもすずの気持ちに対する疑問の投げかけだったと思うのだが、それに対する答えはない。
例えば、父は15年前に女を作り家を出て、母も祖母の7回忌にも姿を見せなかったとの会話があるくらいなので、やはり10年くらい前には子供を置いて出て行ったのだろうから、苦労は相当にあっただろうに3姉妹にはそれが感じられない。
母であり姉である必要があった綾瀬はるかの青春が見えない。
そして幸は不倫相手と交際しているのだから、それは自分たちを捨て去った父と同じなのだが、その結末はこれまた実にあっさりとしたものだ。
例えば、許せなかった母との出会いは、確執があったはずなのにこんなものなのかと思わせてしまう。
そんな風に振り返っていくと、この映画は人間関係のドロドロとした部分をすべて割愛していたことに気づく。
チラッと語られたりするが描かれることは決してないことが、途中から感じていた奇妙な感覚だったのだ。
すずと風太が自転車で駆け抜ける桜のトンネルは美しく、生の謳歌でもあったとは思うし、父との思い出を蘇らせるものだったと思うのだが、しかしこのシーンは一体どういう意味を持っているのだと言いたくなってしまうのだ。
どういう意味を持っているのだと言いたくなるシーンが多かったなあ。
出だしの父の葬儀の挨拶を誰がするかという入りは良かったと思うのだが、そこからの展開というか、膨らみというか、そういう描き方は全くなかったのは意図されたものなのか?
そうだとしたら、なにも映画でやらなくてもいいんじゃないかと思った。
テレビドラマでやれば、気楽にもっと楽しめた作品だったと思う。
最後に「お父さんはとても優しい人だった。だってこんな素敵な妹を私たちのためにおとうさんは残してくれたんだもの」と言われてもなあ・・・。
4姉妹のほのぼのとした感じと淡々と進む日常風景を上手く描けていたと思うが、期待していたものが大きかっただけに反動も大きい。

海辺の家

2020-11-08 08:13:07 | 映画
「海辺の家」 2001年 アメリカ


監督 アーウィン・ウィンクラー
出演 ケヴィン・クライン
   クリスティン・スコット・トーマス
   ヘイデン・クリステンセン
   ジェイミー・シェリダン
   サム・ロバーズ
   スコット・バクラ

ストーリー
ジョージ・モンロー(ケヴィン・クライン)は建築デザイナーの42歳、海が見える崖に立つ古い家に住む変わり者。
犬を放し飼いにしたり、崖から海に向かって放尿するなど、近所から煙たく思われている。
彼には既に別の人と再婚している元妻のロビン(クリスティン・スコット・トーマス)と、16歳になる反抗期の息子サム(ヘイデン・クリステンセン)がいるが、仲は悪く別居していた。
ある日、彼は20年来勤めていた建築設計事務所から突然解雇を告げられる。
怒り狂った彼は、自分が長年作った建築モデルを片っ端から壊し、オフィスを出るが外で倒れてしまう。
挙げ句の果てに医者から余命3ヵ月との宣告を受けてしまう。
再婚して幸せに暮らす妻、そしていまだに父を憎み続ける16歳になる息子。
ジョージは初めて自分の人生に疑問を感じた。
病院から帰ったジョージは、離婚した妻と息子に、この一夏は、息子サムとジョージの家で過ごし、その古い家を壊し、新しい家を建てるつもりだと告げる。
ジョージは残り少ない時間で失った父子の絆を取り戻そうと必死なのだ。
ドラッグとパンク音楽が好きな息子は、父の突然の提案に猛烈に反対するが、ジョージは譲らず無理やり息子と同居を始める。
サムの心の支えは、ジョージの家の向かいに住む娘アリッサ(ジーナ・マローン)。
アリッサの母親コリーン(メアリー・スティーンバーゲン)は、ジョージが離婚直後にちょっと付き合っていたらしい。
やがて病状が悪化しつつも、懸命に新しい家を建てようとするジョージを、皆があたたかく手伝い始める。
彼はサムや、ロビンたちとの愛を取り戻したのだ。
そしてジョージは死んでしまうのだが、家は見事完成するのだった。


寸評
死期が迫った父親が過去を反省して、家を建てることで息子との絆を取り戻そうとする話で、基本は涙タップリの感動物語なのだが、お涙頂戴に陥らず淡々としかもユーモラスに描いているのがいい。
ジョージは建築デザイナーだがコンピューターを使ったプレゼンに対応できないアナログ的な昔人間で、そのために彼は会社を解雇されてしまう。
僕は会社勤務時代は情報システム部に所属していたのだが、コンピューターの自社導入を行いやっとメインフレームに精通出来てきたと思ったら時代はパソコンに移り変わっていった。
流石にその変化に追いつくのは大変だったが、幸いにもその頃には管理職となっていて直接の開発担当ではなくなっていた。
その変遷の中でソロバン、電卓育ちの方々がパソコンに四苦八苦されていた姿を思い出す。
いつの時代でも新技術の台頭に悪戦苦闘する世代はいるものだと思った。

家を建てる話だが、むしろ家を壊すまでが詳しく描かれている。
息子のサムの荒れた生活を描き、元妻であるロビンの新しい夫との隙間風を描きながら、問題から目を背け家庭を維持している様子は、一度出来上がったものを根底から壊すことの困難さを描いていたようでもある。
それは家庭でも言えることで、崩壊寸前でありながらも完全崩壊するためにはそれ相応のパワーが必要なのだ。
ロビンの一家はまさにそのような象徴だ。
この親子は、いったん徹底的に過去を破壊しなければ、新しい関係は作り出せないのだろう。
最初は反抗的なサムだが、ジョージの家族体験も重なって目覚めていくのは筋書き通りではある。
その間に描かれるサムの同性愛相手のアルバイト話とかは珍しい設定だ。

死が近いという深刻な状況なのに、泣き叫ぶような場面はほとんどなくて、自分の病気のを息子に告げる衝撃の場面でさえ、「癌にてこずっている」と告知する抑えたトーンだ。
その演出は心の奥深くまでジワーッと染みてくるさわやかな感動を呼び起こす。
滑稽な場面を挿入していることでしんみりムードを和らげていることも一因をなしている。
ジョージの愛犬の困ったワンちゃんと、お隣りのオッサンとのおしっこを巡るバトルなどは笑える。
ご近所も悪い人はいないような環境だが、一人だけ新しい家に何かと文句をつけてくる人がいる。
最初は名前だけしかわからなかったが、その人物が黒色の日本車に乗っていたことで一件落着となる。
なーるほど・・・、サムのアルバイトがここで効いてきたかというオチも可笑しい。

海辺の家だけに美しい海のショットが効果的に使われているが、少々話を盛り込み過ぎている感がある。
アリッサの母親とアリッサの友人とのイケナイ関係などはあまり意味がなかったように思う。
愛情物語として、前述の母のアバンチュール、本線の父と息子、元妻との愛、彼女と今の夫との関係、そして息子とガールフレンドの話などが盛り込まれているが、そのために本線の影が薄くなってしまっている。
父親の変化も息子に比べれば弱い。
でも単なるお涙頂戴映画になっていなかったのは評価できる。
死を宣告されたら、僕は一体何をするかなあ…。

海と毒薬

2020-11-07 11:17:57 | 映画
「海と毒薬」 1986年 日本


監督 熊井啓
出演 奥田瑛二 渡辺謙 成田三樹夫 西田健
   神山繁 岸田今日子 根岸季衣 草野裕
   辻萬長 津嘉山正種 千石規子 黒木優美
   ワタナベ・マリア 岡田眞澄 田村高廣

ストーリー
昭和20年5月、敗戦の色が濃く、九州F市にも毎晩のように米軍機による空襲が繰り返されていた。
F帝大医学部研究生、勝呂(奥田瑛二)と戸田(渡辺謙)の二人は、物資も薬品もろくに揃わぬ状況の中で、なかば投げやりな毎日を送っていたが、勝呂には一人だけ気になる患者がいた。
大部屋に入院している助かる見込みのない貧しい患者“おばはん”(千石規子)である。
どうせ死ぬ患者なら実験材料にしたいという教授や助教授の非情な思惑に、勝呂は憤りを感じながらも反対できなかった。
当時、死亡した医学部長の椅子を、勝呂たちが所属する第一外科の橋本教授(田村高廣)と第二外科の権藤教授(神山繁)が争っていたが、権藤は西部軍と結びついているため、橋本は劣勢に立たされていた。
橋本は形勢挽回のため、結核で入院している前医学部長の姪の田部夫人(黒木優美)のオペを早めた。
簡単なオペだし、成功した時の影響力が強いのだが、ところがオペに失敗した。
橋本の医学部長の夢は消えた。
おばはんはオペを待つまでもなく空襲の夜、死んだ。
数日後、勝呂と戸田は、橋本、柴田助教授(成田三樹夫)、浅井助手(西田健)、そして西部軍の田中軍医(草野裕)に呼ばれた。
B29爆撃機の捕虜八名の生体解剖を手伝えと言われ、二人は承諾した。
勝呂は麻酔の用意を命じられたが、ふるえているばかりで役に立たない。
戸田は冷静で、勝呂に代って捕虜の顔に麻酔用のマスクをあてた。
うろたえる医師たちに向かって「こいつは患者じゃない!」橋本の怒声が手術室に響きわたった。
その夜、会議室では西部将校たちの狂宴が、捕虜の臓物を卓に並べてくり広げられていた・・・。


寸評
戦争は悲惨な出来事を引き起こすが、人間が極限状態の中で本性を現わしてしまう空間なのだと思う。
自分が生きたいと言う願望を叶えるためには相手を殺さねばならない。
鬼畜米英が叫ばれている中で、日本と言う国家の犯罪を唱えることは出来たものではないだろう。
世間の雰囲気に同化してしまうのも人間の持つ習性の一つかもしれない。
数多くの特攻隊員は自殺行為を繰り返さざるを得なかった。
この映画も戦時中の狂気を生体解剖という行為に投影している。

最初に描かれるのは患者を人と思わない医者の存在である。
彼らは日常会話の中で患者を捨てると何度も言っている。
どうせ死ぬ患者なのだとの意識があり、その患者をモルモットにして研究の為の手術を試みようとしている。
「白い巨塔」で描かれた医学部の部長職をめぐっての醜い競争も描かれる。
自分の出世の為に行った手術が失敗に終わり、それを隠ぺいするひどい対応は、今でも内部告発がない限り覆い隠されているのではないかと思ってしまう。
手術中の死亡にもかかわらず、手術は成功したとして病室で見せかけの回復治療を装い、後日に死亡したことにしてしまうというひどいものである。
橋本教授の失敗の後始末を浅井医師が指揮して執り行う。
研究医も看護師もその指示に逆らうことができない。
医学部にはそのような雰囲気があるのだろう。

彼らは軍部の要請による捕虜の生体解剖を引き受ける。
軍部の圧力に従わざるを得なかった者もいるだろうし、医者としての興味に誘われた者もいたのかもしれない。
勝呂は弁解もするが、そのことを苦しみながらも考え続ける。
戸田は割切りながらも凄じい自己認識へと至る。
戸田は日記に「罪悪感の乏しさだけではない。僕はもっと別なことにも無感覚のようだ。はっきり言えば、僕は他人の苦痛やその死に対しても平気なのだ」と記している。
この時代に生きていれば、モラルを持ち出して不本意な要求を拒絶することができただろうか。
その時代にその場所に存在していたことは、その人に与えられた運命だったのかもしれない。
それにあらがうことができない雰囲気のようなものもあったのだろう。
運命は母なる海のようなものであり、そこで非人間的な行為をもたらす毒を飲んでしまうのが人間の弱さなのだ。
それが分かるから、僕はヒルダに対する上田看護婦の苛立ちに共感したり、戸田を米軍調査官のように一方的に悪者として罵ったりできないのだと思う。

「海と毒薬」は戦争が引き起こすひどい行為を告発しているだけではなく、人間の本性について問題提起している作品である。
手術の場面は動物を使っているらしいが生々しい映像を提供していて、時代的には実験的な手法だったと思う。

ウホッホ探険隊

2020-11-06 08:14:23 | 映画
「ウホッホ探険隊」 1986年 日本


監督 根岸吉太郎
出演 十朱幸代 田中邦衛 村上雅俊 本山真二
   藤真利子 時任三郎 斉藤慶子 陣内孝則
   津川雅彦 速水典子 柴田恭兵 加藤治子

ストーリー
榎本登起子はインタビュア・ライター。
食品会社の研究所員である夫、和也との間に中学生の太郎と小学生の次郎と二人の子供がいる。
地方の研究所に詰めている和也が家に戻って来たので久々に家族揃って食事し、ハイキングにも出かけた。
翌日、子供達を学校に送り届け登起子と二人きりになると、和也は「女がいる。一度会って欲しい」と告白する。
週末、子供達を母親のくに子に預け、登起子は和也のもとを訪れた。
和也の同僚で愛人の美論良子も同席し、三人は飲みながら自分の信じる主張をぶつけていく。
東京に戻った登起子は、ロック・ミュージシャン定岡勉にインタビューし、彼の傍若無人ぶりに呆れかえる。
家族の問題をゆっくり考えようと登起子は暫く仕事を休むことにしたのだが、家に一日中いると何をしたらいいかわからず、子供達も今までと違う家の中の様子にいら立ち、登起子に辛くあたる。
困惑しきっている彼女に定岡の妻みどりから電話がかかった。
とにかく来てくれと悲痛な声に定岡の自宅に飛んで行くと、勉が女を連れ込んでいるのだ。
登起子はみどりを連れ帰り泊めた。
日曜日、登起子は太郎と次郎を連れて公園へ出かけ、その夜、離婚する決意を子供達に打ち明けた。
太郎は和也のもとを訪ね、良子とも会話を交わした。
次郎は登起子に、友達で両親が離婚した子がいるけどしっかりしている、僕もしっかりやると告げた。
登起子は離婚届を提出した。
彼女のもとに以前、インタビューした野球選手、景浦からホームランの贈り物をすると電話がかかってきた。
嬉しがる母親をはやしたてる太郎と次郎、そこに和也から電話で登起子と子供達に会いたいと言ってきた。
登起子の新しい生活が始まり、深夜遅くまで仕事をし、子供達の用意した朝食に微笑する。


寸評
単身赴任にはありそうな話なのだが、それを瑞々しいカメラワークと会話で紡いでいく。
森田芳光の脚本が素晴らしく、根岸吉太郎監督に撮影監督の丸池納を加えた三者のコラボが見事に決まった作品である。
とにかくシナリオがとても繊細で、本音を語る部分と、本音を隠す部分のコラボレーションがとても素晴らしい。
子供たちが添え物ではない重要な役割を果たしていて、彼らのささやかな心使いと、子供ならではの残酷さを見事に台詞化している。

妻と愛人が対面する場面は面白い。
愛人がやってくる前の妻の冷静を装う態度、やってきた愛人の突っ張った態度の対比で、この緊迫した場面を状況に反して深刻なシーンしていない。
愛人女性は酔いつぶれてしまい、酔いつぶれた彼女をふたりでベットに運んであげ、妻は「この人、重いわね」とつぶやくと、夫は「え、そんなことないよ」と返すさりげない会話が楽しい。
愛人と対面し帰ってきた母親は、子供たちと食事をしている時に「お父さんとどんなこと話したの?」と聞かれ、「つまんないことよ」と言葉を濁す。
長男は「そんな言い方するなよ、なんで僕らが話すことは全部つまんないことなんだよ」とむくれる。
冒頭で父親は「子供たちは敏感だよ」と言っているのだが、多感な子供たちの正直な言葉は、時として母親には残酷な言葉として響く。
母親は「どうしてあなたたちはそんなに敏感なの? お母さんだっていろいろあるのよ。たまには知らない振りしてよ」と哀願するのだが、こういう台詞がとてもいい。
長男は父親を訪ねて愛人と会うが、対面した二人はぎこちない。
長男が「はじめまして」と挨拶すると、愛人は「こちらこそ」と返し、言葉に詰まった長男は「・・・あのう、趣味は?」と聞くのだが、思わず笑ってしまうシーンとなっている。
愛人が「読書」と答えると、長男は「どんなものを?」と聞き、愛人は「美内すずえ作のガラスの仮面」と答える。
「ねえお父さん知ってる? 僕知ってるよ」と言うことで、長男と愛人が打ち解け合ったことを暗示している。
この映画は会話劇でもあるのだが、あげればきりがないほど、気の利いた会話が散りばめられている。

妻は離婚届を提出しに行くが、彼女の思いとは違って、届け出はあっさり受理される。
夫婦とは紙切れ一枚で簡単に壊れてしまう危うい関係の上に成り立っているのだろうか。
プロ野球選手やロックシンガーなどが登場するが、彼らの夫婦関係は彼女の思っている夫婦関係とは違う。
妻がいながらも、女性との別な世界を持っている。
その事が妻を戸惑わせ、決断もさせたのだろう。
画面は素晴らしく、気持ちのいい望遠も多用されているが、室内のカットもいいし、顔を洗うシーンや、手前から逆に撮るアングルも良く、兎に角、この作品のカメラは素晴らしい。
これは撮影監督丸池納の力だろう。
本作品の画面構成は文句なく素晴らしく、根岸監督作品のなかでも図抜けている。
離婚を描いているが、新しい家族関係を感じさせる作品でもある。

海猿 ウミザル

2020-11-05 08:02:51 | 映画
「海猿 ウミザル」 2004年 日本


監督 羽住英一郎
出演 伊藤英明 加藤あい 藤竜也 伊藤淳史
   海東健 香里奈 村田充 深水元基
   田中聡元 古畑勝隆 飯沼誠司 恵秀
   青木崇高 斎藤工 田中哲司 國村隼

ストーリー
広島県呉市にある海上保安大学校に、潜水士を目指す14名の若きエリート海上保安官たちが、主任教官・源(藤竜也)の指導の下、50日間に及ぶ潜水技術課程研修に挑むべくやって来た。
ダイブマスターの資格を持つルーキーの仙崎(伊藤英明)は、仲間たちと絆を深めながら、やや実力の劣る“バディ”(相棒)の工藤(伊藤淳史)と共に厳しい訓練をこなす一方、街で知り合った東京のファッション誌の編集者である環菜(加藤あい)とも不器用ながらも愛を育んでいく。
ところがある休日、人命救助に向かった工藤が還らぬ人となった。
ショックから立ち直れない仙崎。
支えであった環菜も仕事を解雇され、失意のまま彼のもとを去った。
しかし、訓練は容赦なく続き、最終実習。
仙崎は、それまでライバル関係にあった三島(海東健)と組み40mの潜行に成功するが、その時、ふたりは突然変化した潮流に流され、三島が岩に挟まれてしまう。
残されたボンベはひとつ。
しかも、片道分しかない。
だが、仙崎はバディである三島を決して見捨てなかった。
勿論、源も、仲間の訓練生たちも……。
50日間の研修が終了した。
仙崎をはじめとする13名の訓練生は、晴れて潜水士となった。
そしてその後、東京へ戻った仙崎は、専門学校へ通い始めた環菜との交際を再スタートさせると、潜水士として新たな最前線の舞台へと向かって行くのだった。


寸評
海上保安庁及び海上保安官への信頼がいやがうえにも植え付けられる作品だ。
この作品のヒットにより海上保安庁への入庁希望者が増えたと聞くが、それも納得させられる描き方だ。
厳しい訓練と同時に彼等の青春が描かれる。
時としてハメをはずす彼等の姿が明るく愉快に描かれ、海上保安大学って楽しいところだなあと思わせる。
訓練中だけの相手として女性をナンパする様子も描かれて、これを見れば希望者が殺到するのもうなずける。
しかし訓練は過酷なものがある。
その様子も海上保安官たちに対する信頼と尊敬を増すのに十分だった。
自分の命を犠牲にするかもしれない任務に従事する者への尊敬の念だ。
だから犠牲者に対する扱いは特別のものがある。
訓練生の工藤が事故死し、それを海上保安庁職員が整列して見送るシーンに身震いした。
訓練生たちが卒業証書を授与されるシーンもカッコいい。
あの白い制服にはあこがれるものがある。

判っていても感動を引き起こす上手い演出も見受けられる。
海上保安庁の全面協力もあって訓練シーンや海上シーンなどはなかなかドラマチックな映像となっていて興味と感動を呼び込むものになっていた。
最たるものが仙崎、三島が救出されるシーンだ。
助けを待つ仙崎が見上げるとわずかな光が届いているだけで何も見えない。
そこにホバーリングしながら仲間たちが一列に並んで浮かび上がってくる。
音楽が重なり思わず拍手したくなる展開で、往年の時代劇で助っ人が土手を走る姿に観客が拍手したことを思い出すのだが、さすがに今は拍手する人はいない。

冒頭の二次災害のシーンの顛末は、後半で明らかにされるが、源がなぜスーパールーキーの仙崎と、体力・技術が違い過ぎる落ちこぼれの工藤とを組ませたのかの答えは語られていない。
工藤とエリカ(香里奈)の恋の顛末もスッキリしないものがある。
少なくとも選ばれた人員であるはずの工藤が簡単におぼれ死んでしまう経緯も説明不足感がある。
それでもオシリを丸出しして「環菜ちゃ~ん」と船上から呼びかけたり、潜水禁止と張り紙がしてある生けすで潜水時間の競争をやるなど、青春を謳歌する彼らの姿に微笑んでしまう。
青春時代は一生のうちでもいい時代だ。
確かにこの作品は海上保安庁の潜水部隊という特殊な場所を背景としているが、仙崎と環菜の恋物語もあって紛れもなく青春映画だ。
訓練シーンが多い割には飽きることなく見続けられるうように撮られていて、なかなかどうして楽しめる娯楽作品となっている。
彼等は潜水士なので、その目的を「人命救助のためです」と答えるが、潜水士も含めた今の海上保安庁には国境警備と言う重要な任務も重きをなしてきている。
彼等が活躍しない方が平和な世の中だということも分かる。

ウディ・アレンの 夢と犯罪

2020-11-04 08:25:21 | 映画
「ウディ・アレンの 夢と犯罪」 2007年 イギリス


監督 ウディ・アレン
出演 ユアン・マクレガー
   コリン・ファレル
   ヘイレイ・アトウェル
   サリー・ホーキンス
   トム・ウィルキンソン
   フィル・デイヴィス

ストーリー
ロンドン南部に暮らす労働者階級の男イアンの夢は、ホテル事業への投資を足掛かりにビジネスの世界で成功して新たな人生へと踏み出すこと。
一方、その弟テリーは酒とギャンブルの退廃した日々にもそれなりの充足感を得ていて、高望みすることなく、恋人ケイトと暮らす家を手に入れるという現実的な夢を抱いていた。
ある日、テリーがドッグレースで大穴を当て、兄弟は格安で売りに出されていた小型クルーザーを共同購入、レースに勝った犬の名前にちなんで“カサンドラズ・ドリーム号”と名付ける。
その後も、イアンが若い舞台女優アンジェラと交際し、彼女との優雅な新生活を夢見るなど運が向いてきたかに思われた兄弟だったが、テリーが危険なポーカーで巨額の借金を背負うハメになってしまう…。


寸評
労働者階級の一家が引き起こす物語だが、憂鬱になるくらい陰惨な話が続く。
長男は父親の店を手伝っているが、かつては家族からもっと期待されていたようだ。
母親は貧しい暮らしから脱却できない父親を見下していて、何かにつけて成功している実兄と比較している。
資金的援助も受けていることで、ますます母親の鼻息は荒い。
叔父は甥たちを可愛がっているようで、甥たちもそんな叔父を敬愛している。
長男は独立して事業を起こそうとしているが、弟は自動車の整備工でギャンブルに目がない。
貧しいながらも賢兄愚弟として兄弟は仲が良い。
特別な家庭ではなくて、一見どこにでもありそうな家族である。
ところがある日弟テリーがドッグレースで穴を当ててちょっとした金を手に入れる。
その金で欲しがっていたヨットを手に入れることが出来たのだが、ギャンブルは怖い。
大金が賭かったポーカーゲムで大勝ちする。
最初は負けて借金したのだが、その借金を元手に大勝ちしたのだ。
ギャンブルで身を持ち崩す人のパターンで、二匹目のドジョウはいない。
負けが込んで前回同様借金して取り返そうとしたが、負けが更に込んで膨大な借金を作ってしまう。
テリーはパチンコ、競輪、競馬にのめり込んでしまったギャンブル好きと何ら変わらない。
僕はそれで身を持ち崩した人を知っている。

兄のイアンはギャンブルはやらないが、とにかく自分を良く見せようとする見栄っ張りである。
弟の工場で預かっている高級車を借りて自分の車のように装うし、まだ計画途中のホテル事業への投資者のようにふるまい、美人の女性と知り合ったとなれば、見栄はますますエスカレートしていく。
一度回りだした歯車は止まらない。
一歩踏み出してしまうともう後へは引けない。
彼等はさらに深みへとはまていくのだが、その様子が悪夢に取り付かれているようで真実味がある。
彼等は夢と引き換えに依頼された殺人に大いに悩む。
実行前も悩み、実行後も悩み苦しむ。
その描写も心の内にまで入っているような緊迫感がある。

兄は罪悪感よりも自分の夢の大きさを見ているが、弟のささやかな夢では罪悪感に勝てない。
弟は犯した罪の深さに苦しむ。
愚弟でありながらも、人間的な心は弟の方が持っていたようだ。
必死で弟を説き伏せる兄の姿も、滑稽なようでありながら人間が持つ悪の部分を叩きつけてくる。
何も知らない兄弟の恋人たちが絡んで、悲劇性を感じさせてくるのもいい展開だ。
とくにイアンが一目ぼれした女優は、本心がどこにあるのかを見せず、そのことでイアンの行動が増幅されていくというキャラクターで、ミステリー性を高めていた。
金のために殺人を犯すが、金ではなく出世を目指している兄の方が殺人に積極的と言う構図が何よりであった。
あっけない幕切れは悪事の破たんだと思うが、何も知らない恋人たち、両親のこの後を思うと悲惨だ。

動く標的

2020-11-03 09:14:16 | 映画
「動く標的」 1966年 アメリカ


監督 ジャック・スマイト
出演 ポール・ニューマン
   ローレン・バコール
   パメラ・ティフィン
   ロバート・ワグナー
   ジャネット・リー
   シェリー・ウィンタース

ストーリー
私立探偵ハーパーが、行方不明になった大富豪サンプスンの探索を引うけたのは、友人の弁護士アルバートが彼をサンプスン夫人に紹介したからだ。
ハーパーは、仲のうまくいかない妻スーザンとの離婚話もそこそこに、早速サンプスン邸を訪ねた。
そこでハーパーは、サンプスン夫人の義理の娘ミランダに会い、彼女の案内でロサンゼルスにあるサンプスン専用の部屋を訪れ、そこで、かつての人気女優フェイの写真を見つけた。
このフェイの夫トロイというのは、密入国させて金をもうけるしたたかな者だった。
早速、ハーパーは、フェイの部屋に入り込み、彼女が莫大な金を持っていることを確かめた。
そのときかかってきた電話で、事件がバー「ピアノ」に関係があることを知り「ピアノ」に乗りこんだ。
だが、そこの芸人である歌手のベティは、ハーパーの質問に答えてくれず、あげくに、用心棒パドラーによって外へたたき出されてしまった。
しかし、この事件でハーパーは、サンプスン誘拐の裏には何らかのシンジケートがあることを確信した。
その頃サンプスン夫人のもとには、現金50万ドルをよこせという脅迫状が舞いこんでいた。
ハーパーは、アルバートに金を用意させ、保安官のスパナーとともに、指定の場所に行った。
やがて乗用車とスポーツカーが前後して現れ、先に金を受け取った乗用車の運転手は殺され、金はなくなっていた・・・。


寸評
僕は高校生の時にこの映画を封切で見たのだが、思春期の時期でもあった為か印象に残こったシーンがビキニを着てプールの飛び込み台の上でクネクネ踊るパメラ・ティフィンの姿であったことを思い出す。
テンポはすごく早いのに話が錯綜している印象なのが、当時の僕を惑わせ乗り切れないものがあった。
再見してもその印象は変わらない。
テンポが速い割には、関係が冷めて切っている妻とヨリを戻そうとするシーンが前ぶれなく挿入されたりして戸惑わせるのだが、このエピソードはハーパーの性格描写の為に必要だったのだろうか。
なくてもあまり変わらないような気がする。

物語は起伏に富んでいるが、小さな出来事が次から次へと展開されるので、ドラマ全体としての興奮度は逆に削がれてしまっている。
ハーパーが依頼主を訪ねると、ひねくれ娘のミランダと遊び人のように見えるアランが登場し、夫に冷めているサンプソン夫人を含め、この一家は何なんだと思わせる出だしである。
ハーパーはロサンゼルスにあるホテルのサンプスン専用の部屋を訪れ、そこでかつての人気女優フェイの写真を見つけて直感を働かせるのだが、フェイから情報を得るための飲み歩きに時間が割かれている。
フェイを酔わせて彼女の家に入り込み、寝込んだスキをついて大金を発見すると同時に、かかってきた電話から、事件がバー「ピアノ」に関係があることを知るが、そこに夫のトロイが現れてハーパーを追い出す。
舞台はバー「ピアノ」に移りベティという女が登場するが、ハーパーは用心棒によって外へたたき出される。
次々と新たな人物が登場してくるのだが、それがすべて伏線であるかのように劇的なことは何も起こらない。

身代金要求も来るが誘拐事件としての緊迫感がない中で、サンプスンが以前宗教団体の指導者クロードに寄付した山頂にある“雲の神殿”が登場し、新たな犯罪が描かれる。
この犯罪自体は本筋に関係ないが、描かれることによって錯綜感が増している。
トロイが身代金の存在を知って割り込んでくるきっかけとなるのだが、どうもその状況が分かりにくい。
脚本が凝っている割には詰めが甘いような所があり、ハードボイルド映画としての雰囲気は出ているが盛り上がりに欠けるのが欠点と思える作品である。

高校生だった僕はこの映画でポール・ニューマンのファンになったのだが、主人公のハーパーが、愚痴はこぼすわ、妻には何度も離婚を突きつけられるわ、敵にはボコボコに殴られしながら、タフネスに軽口をたたきながら、颯爽と事件を解決していく姿がカッコイイと感じたのだ。
飄々としたポール・ニューマンの人間味あふれるキャラクターがすべてと言っていい作品だと思う。

最後の展開も想像できる範囲内にあるもので、語られる理由に憎しみをもっと込められるだけの内容が事前に描かれていても良かっように思うが、最後のストップ・モーションは決まっていたと思う。
ハード・ボイルド映画と言えば「カサブランカ」があげられるのだろうが、僕にとってはこの映画が初めてのハード・ボイルド映画であった。

ウォーターボーイズ

2020-11-02 08:10:28 | 映画
「ウォーターボーイズ」 2001年 日本


監督 矢口史靖
出演 妻夫木聡 玉木宏 三浦アキフミ
   近藤公園 金子貴俊 平山あや
   眞鍋かをり 竹中直人 杉本哲太
   谷啓 柄本明 徳井優 川村貴志

ストーリー
廃部寸前の唯野男子高校水泳部。
部員は、根性無しの3年・鈴木(妻夫木聡)ただひとり。
ところが、そんな水泳部の顧問に美人新任教師の佐久間先生(眞鍋かをり)が就任したことから、たちまち部員が28人に膨れ上がったが、佐久間先生の目的は男子のシンクロナイズドスイミング部を作ることだったのだ!
結局、残ったのは鈴木と、いい加減な性格の元バスケ部の佐藤(玉木宏)、ガリガリのダンス少年・太田(三浦哲郎)、秀才だがカナヅチの金沢(近藤公園)、なよっちい早乙女(金子貴俊)の5人。
しかも、佐久間先生が勝手に文化祭に参加することを申請してしまった為に、彼らは後に引けなくなってしまう。
そんな矢先、頼りの佐久間先生が突然の産休。
これ幸いと5人は文化祭参加を辞退しようとするが、周囲の陰口に鈴木が奮起。
夏休み、水族館のイルカショウの調教師・磯村(竹中直人)の指導の下、5人の合宿が始まった。
新学期に入ると、5人のことがテレビで話題になって部員の数も増え、彼らは本格的な練習に入る。
しかし文化祭前日、学校で小火騒ぎが発生。
プールの水が消火に使われて、注水に時間を取られてしまう。
このままでは、発表会の時間に間に合わない。
その時、近所の桜木女子高校の文化祭委員が特別にプールを貸してくれると申し出てくれた。
こうして、沢山の観衆が見守る中、ウォーターボーイズたちは見事な演技を披露することに成功するのであった。


寸評
始まってすぐに水泳大会となり、妻夫木聡の鈴木が周りを寄せ付けないダントツの1位でゴールと思いきや、皆はゴールして既にプールから上がっているダントツの最下位という幕開け。
これにより、この作品は青春学園ドラマの形を取ったコメディなのだと知らされる。
個性的な男子高校生たちが、気色の悪い男のシンクロに挑むという設定がバツグンにおもしろい。
アフロヘアで頭を焦がしてしまう佐藤や、オカマの早乙女など特異なキャラクターがはしゃぎまくる。
彼らのドタバタぶりをベタな笑いで観客を楽しませるサービス精神満点の映画だ。
ただしリアル感は全くないしドラマ的な魅力もないから、「なんだこの映画?」と思う人もいるかもしれない。
登場人物の精神や行動動機に斬り込むシリアスドラマではないことを理解したうえで見ると、ギャグ満載の軽妙な作品に仕上がっていると思う。

男子の新体操やシンクロは時々目にするが、オリンピック種目にはないマイナーな競技だ。
マイナースポーツを描いた作品といえば、周防正行監督の「シコふんじゃった」などが思い浮かぶが、そこまでの深みのない映画ではある。
しかし矢口監督はそんな路線はハナから狙っていないのだろう。
学校名からして「唯野高校」で、文字を変えれば只の高校となって、彼等の通う学校が偏差値の高い学校ではないことがわかる。
そんあ彼らを取り巻くのが、トレーナー役となる水族館員の竹中直人、オカマスナックのママである柄本明など一筋縄ではいかない役者連中。
こういう役は竹中直人しか出来ないと思わせるし、柄本明のオカマなどは気色悪さ以外の何物でもない。アップで登場した時は吹き出してしまった。
先生役の杉本哲太や眞鍋かをりが随分とまともに見えてしまう。

プールの争奪戦での金魚すくい場面や、早乙女の告白場面など数え上げたらきりがない小ネタが散りばめられている。ただしそれらはあくまでも小ネタであって、漫才が笑いをとり続ける為に次から次へと出す小気味よい会話の様である。
無理やり作った笑いが多いわりには全然イヤミなく仕上がっているのは矢口監督の手腕なのかもしれない。
矢口監督の新しいパターンの作品として記憶に留めておいてもよい作品だな。
使用される音楽はフレーズが短いのになぜか耳に残る。
「伊勢佐木町ブルース」の青江美奈のため息フレーズ、ベンチャーズの「ダイヤモンドヘッド」やフィンガー5の「学園天国」などだ。出演者やスタッフたちが心から楽しんでいるのがわかるので、音楽もウキウキ感で素直に入ってくる。
高校生たちの演技はみんなヘタなんだけど、一生懸命にやっているから好感が持てる。
散々ふざけておいて、スタッフ、キャストの熱意を見事に結実させたのがラストの素晴らしすぎるシンクロ演技だ。
プールサイドで演じる前フリのオーバーアクションから一転して、プールで演じられるシンクロはゾクッとさせられ、これはもう素直に拍手するしかなかった。
前半部分の軽さはここに持ってくるためだったのだと悟らされたシンクロシーンだった。

ウエスト・サイド物語

2020-11-01 09:24:19 | 映画
「ウエスト・サイド物語」 1961年 アメリカ


監督 ロバート・ワイズ 
出演 ナタリー・ウッド
   リチャード・ベイマー
   ラス・タンブリン
   リタ・モレノ
   ジョージ・チャキリス
   タッカー・スミス

ストーリー
ジェット団とシャーク団はニューヨークのウェスト・サイドに巣くう対立する不良少年のグループである。
ダンスパーティーそこで一目で愛し合うようになった二人、マリア(ナタリー・ウッド)はシャーク団の首領ベルナルド(ジョージ・チャキリス)の妹であり、トニー(リチャード・ベイマー)はジェット団の首領リフ(ラス・タンブリン)の親友だった。
しかし、ジェット団とシャーク団はついにぶつかってしまった。
マリアの必死の願いにトニーは両者の間に飛びこんで行ったが、彼らはトニーの言葉に耳をかそうとしない。
そしてリフがベルナルドに刺されて殺されると、リフの死に我を忘れたトニーはベルナルドを殺してしまった。
ベルナルドの恋人アニタ(リタ・モレノ)に責められてもマリアはトニーを忘れられない。
シャーク団のひとりチノ(ホセ・デ・ヴェガ)はベルナルドの仇を打とうとトニーをつけ狙い、警察の手ものびてくる。
アニタはマリアの愛の深さを知り、トニーと連絡をとるために街へ出ていくがジェット団に侮辱された怒りから、マリアはチノに殺されたと言ってしまう。
絶望して夜の町へ飛び出したトニーの前へ拳銃を構えたチノが現れた。


寸評
ミュージカル映画の最高峰だ。
日本映画が総力を結集しても決して作ることができないジャンルの作品だと思う。
原色を背景にしてマンハッタンを思わせるイラストが出て、序章ともいえる軽快な音楽が流れだし背景の原色が次々と色を変える。
そして「WEST SIDE STORY」のタイトルが出ると、マンハッタンを望む遠景が実写で映し出される。
マンハッタンのビル群にズームインするように、ニューヨークのビル群を上空から静かにとらえていくと、パチッ、パチッと指の音が鳴り初め、若者たちがビルの谷間の道路でダンスを披露し、やがてバスケットボールを仲立ちとした喧嘩シーンに入るというオープニングはまさに映画。
何度見てもこのオープニングに感動してしまう。

次の見せ場はダンス・ホールで繰り広げられるダンスナンバー「マンボ」で、ジョージ・チャキリス、リタ・モレノ、ラス・タンブリングなどが軽快に踊りまくる。
ジェット団とシャーク団の対立を滑稽にはさみながら描いたダンスシーンは、若者たちのエネルギーの発散を感じさせる素晴らしいダンスナンバーとなっている。
その中でマリアとトニーが出会い、ダンスを続ける若者たちの背景をぼかしながら二人を浮かび上がらせて愛の芽生えを感じさせる演出もいい。
僕は、もうこの時点で完全にこの映画のとりこになってしまっている。
ジョージ・チャキリスのベルナルド、リタ・モレノのアニタ ―― 紫の服がカッコいいんだよなあ。
ミュージカル・ナンバーはどれもが耳に残る名曲で、僕はサントラ盤のCDも持っているが映像と合体するとアップテンポな激しい曲とシーンが素晴らしいと感じる。
若者たちが主人公だけに、その躍動感あふれるダンスとマッチして、僕は初めて「ウエストサイド物語」を見た時には「これこそ真のミュージカル映画だ!」と心の中で叫んだぐらいだ。
その観点から言えば「クール」もいい。
殺人が起きてしまい、ガレージに追い詰められたジェット団の面々が「クール」の曲に乗って群舞を繰り広げる。
指を鳴らし、手を打ち、飛び跳ね、「冷静になれ」と言葉を発するように歌う。
どうしようもなくなってきた彼等のイライラ感が湧き出てくる曲の導入部から、やがてアップテンポになっていく展開に、自然と体が反応してしまう感動場面になっていたと思う。

ニューヨークの通りに飛び出したダンスと言い、セットすら屋外ロケを思わせる美術も素晴らしく、繰り広げられるダンスナンバーの躍動感は最高だ。
ジョージ・チャキリスのかっこよかったこと・・・。
その細身を称して、当時ジョージ・キリギリスと揶揄されていたが、彼のかっこよさをその後見ることはなかったような気がする(「ロシュフォールの恋人たち」ですら、ベルナルドのカッコ良さには及ばない)。
ロメオとジュリエットが原作だけに悲劇的な結末を迎えるが、その後に示されるエンドクレジットがこれまたイキだ。
路地のブロックや壁の落書きがクレジットとなっていて、最後の最後までウエスト・サイドを感じさせてくれる。
文句なしの名作。