おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

百円の恋

2020-02-14 09:34:09 | 映画
「百円の恋」 2014年 日本


監督 武正晴
出演 安藤サクラ 新井浩文 稲川実代子
   早織 宇野祥平 坂田聡 沖田裕樹
   松浦慎一郎 芹澤興人 根岸季衣

ストーリー
32歳の一子(安藤サクラ)は実家にひきこもり、自堕落な日々を送っていた。
母親の斎藤佳子(稲川実代子)は弁当屋を切盛りしており、父親の孝夫(伊藤洋三郎)は役立たずだ。
出戻りの妹の二三子(早織)が子供を連れて実家に帰ってきたことにより、斎藤家は問題を抱えるようになる。
一子は、二三子の子供とはテレビゲームで良い関係を築いていたいにも関わらず、二三子とは歯医者に母親が治療費を出すかで喧嘩してしまい、母親からもお金を貰って追い出されてしまう。
夜な夜な買い食いしていた百円ショップで深夜労働にありついた一子の唯一の楽しみは、帰り道にあるボクシングジムで一人ストイックに練習するボクサー・狩野(新井浩文)を覗き見することであった。
百円ショップの店員たちは皆心に問題を抱え、そこは社会からこぼれ落ちた不器用な底辺の人間たちの巣窟のような場所だった。
店長の岡野淳(宇野祥平)はうつ病で、店員の野間明(坂田聡)はバツイチで口うるさくてしつこい。
また、元店員で、レジの金を盗んだ池内敏子(根岸季衣)は、毎晩廃棄される弁当を盗みに来るという。
そんなある夜、狩野が百円ショップに客としてやってくる。
狩野がバナナを忘れていったことをきっかけに二人はお互いの距離を縮めていった。
なんとなく一緒に住み始た一子と狩野だったが、そんなささやかな幸せの日々は長くは続かなかった。
どうしてもうまくいかない日々の中、一子は衝動的にボクシングを始める。
やがて、一子の中で何かが変わりだし、人生のリターンマッチのゴングが鳴り響こうとしていた……。


寸評
ストーリー自体はよくあるスポ根ものの陳腐すぎる話なのに、決してつまらない映画にはなっていない。
それは登場人物のキャラ設定と絶妙のキャスティングによるところが大で、特に安藤サクラと新井浩文の役がハマりすぎている。
安藤サクラを初めて見た時にはその存在感に驚いたが、ここでの彼女も圧倒的な存在感を示している。
安藤アクラ演じる主人公の一子は自堕落なだけでなく、無口で何を考えているかわからない女だ。
ジャージ姿でゲームに興じる冒頭から、すさまじい存在感を表す。
この自堕落な女を演じているときの彼女はスゴイ。
ぶよぶよの体で食ってるばかりの生活をしている。
こんな痛すぎるキャラはだれでもやれるものではない。
兎に角、こんな女だけは嫌だと思わせる。
それらを感じさせるシーンが、ここまで徹底するのかと思わせるぐらい続く。

後半になると、それは怒りからだったと思うのだが、彼女がボクシングに没頭するシーンが続く。
一子は見る見る変わっていって、オープニングの時とは似ても似つかないシェイプアップされた肉体になっていくのだが、低予算のため短期間で撮影されたことが信じられない変化で、役者魂を見た思いがする。
鈍かっ た動きもスピーディーに一変していくのはスポ根ものの定番といってもいい。
分かっているが、その変化は心地よいし応援したくなる。
応援したくなる気持ちはボクシング映画の定番でもある試合シーンになって最高潮に達する。
一子は負け犬だ。
試合当日に喧嘩状態の妹が応援にきていて、負け犬から脱出せよと叫ぶ感動的な場面がある。
まさにこの映画は負け犬からの脱却映画であり、自分に自信を取り戻す再生映画でもある。
しかし、人生もボクシングも甘くはない。
簡単には勝てないのだ。

自分を救うのは自分だけで、他人は救ってはくれないのだ。
男と恋愛が自分の人生を救ってくれるんじゃないかと期待している女性には厳しい映画だ。
いや男だって、何かが自分を変えてくれるのを待ちながら、毎日をだらだら生きている者にも厳しい映画なのだ。
自分を変えることとは、どん底から這い上がるということは、こうやって突き進む強さなんだと一子がその態度で示してくれたのだが、僕にはもうその体力がないし気力も衰えている。
一子の若さが羨ましい。
労働者は言う「夢はないのか?」。
父親は「歳を取って自分に自信を持てない生き方をしてほしくない」と言う。
自分が歳を取った為に、かえってこれらの言葉が胸に響いた。
わざとらしさのないラストも余韻が残ったし、安藤サクラの演技だけでも観る価値のある映画だと思った。
多分この二人はこれからも何かといざこざを起こすのだろうが、それでもそれを繰り返しながら何とかやっていくのではないかと思わせるラストだった。

ヒメアノ~ル

2020-02-13 09:10:10 | 映画
「ヒメアノ~ル」 2015年 日本


監督 吉田恵輔
出演 森田剛 濱田岳 佐津川愛美
   ムロツヨシ 駒木根隆介
   山田真歩 信江勇 栄信

ストーリー
清掃会社のパートタイマーとして働く岡田進(濱田岳)は、何も起こらない日々に焦りを感じていた。
同僚の安藤勇次(ムロツヨシ)は自分の恋を岡田に手助けさせるため、阿部ユカ(佐津川愛美)の働くカフェへ岡田を連れていったところ、そこで岡田は高校の同級生だった森田正一(森田剛)と再会する。
気の進まぬまま安藤の恋路を助ける岡田だったが、ユカとの会話で、森田がユカのストーカーをしているらしいこと、そしてユカが岡田に一目惚れしていたことを知る。
安藤に隠れてユカとつきあうようになった岡田。
それを知った森田は同級生の和草浩介(駒木根隆介)に岡田殺しの協力を依頼する。
しかしこれまで森田に金を無心され横領を繰り返してきた和草はそれを裏切り、婚約者の久美子(山田真歩)と協力して森田を亡き者にしようとした。
必死で和草と久美子を返り討ちにした森田は、彼らの死体に火を放ち、自分のアパートともども焼いた。
家を失った森田は街をさまよい、本能にしたがって凶行を重ねていく。
森田はユカや岡田の居場所を聞き出すため、ユカのアパートの隣人や安藤を攻撃した。
一命を取り留めた安藤の見舞いに訪れた岡田は、安藤の「こんなことになっちゃったけど俺たち親友だよね」という言葉で、自身の高校時代を思い出す。
高校時代の友達だった森田はひどいいじめを受けていたこと、そして岡田はそれを救うどころか助長したこと。
森田は岡田のアパートを調べて忍びこみ、帰ってきたユカに襲いかかった。


寸評
ムロツヨシが演じる安藤のキャラクターが面白すぎて、最初はこの映画はラブコメディなのだと思って見ていた。
忘れていたが、40分ほどたってやっとタイトルとキャスティング・タイトルが出て、僕はちょっと変わった映画に変質していくんだろうなと思ったのだが、そこからの変化は想像以上で俄然輝きだす。
見ているうちに、これは弱者に対するイジメを描いた作品なのだと分かってくる。
そのように見ると、可笑しな関係と思えた安藤と岡田の関係もイジメに似たものであることが感じ取れる。
軟弱な岡田は先輩の安藤に逆らうことが出来ない。
暴力を振るわれているわけではないが、岡田は安藤によって支配されている。
拒否する態度を見せても、結局は安藤の言うなりになってしまう。
濱田岳はこういう意志の弱い軟弱な男を演じさせると上手い。
岡田は安藤とユカとの仲立ちをしているが、ユカから告白され「二人が黙っていればバレない」とユカに押し切られるようにして付き合い始める。
岡田にとっては初めての女性だが、ユカは過去に10人程度の男と経験したことがあり、初体験は14歳の時だということを聞き岡田はショックを受けるが、そんなことは気にしていないと精一杯の冷静を装う。
岡田は怒り出すとか、落ち込むとかの態度がとれない男なのだ。
自分の意見を押し通すことが出来ない気弱な男なのだが、岡田がユカに告白したとんでもない過去によって、僕はやはりこの映画はイジメを描いた作品なのだと確信するに至った。

森田は和草を脅迫して金を召し上げているが、その森田もパチンコで稼いだ金を巻き上げられている。
森田はある時は加害者であり、ある時は被害者である。
学生時代に森田は和草と共に河島からイジメを受けていたことが判明し、紆余曲折した挙句に森田は和草とその恋人である久美子を殺す。
それを契機にしたように森田は連続殺人を犯していく。
荒れ狂っている自分のことを携帯電話で噂した見ず知らずの女をつけていき、自宅に戻ったところを殺す。
帰ってきた家族も殺す。
その時、森田が家の中でやっていることが不気味で、完全に狂っていることを感じさせる。
そして、調べに来た警官も殺すが、ここまでの殺人の凶器は包丁で、メッタ刺しにするものである。
凶器は警官から奪った拳銃に代わり、ストーカーを注意した男を殺す。
自動車を奪うために乗っていた男を殺す。
もう殺すのが趣味みたいになっている殺人鬼と化していく。

僕がこの映画を面白いなあと感じるのは、この間の描き方である。
森田を描くときはサイコ・スリラーのような緊迫した描き方をしているのに、岡田とユカを描くときは思わずクスリと笑みを漏らしてしまう喜劇映画のような描き方で、その対比がとても魅力的だ。
森田は電柱に激突し、記憶が変になってしまったのか、過去を思い出すような言葉を発する。
人は孤立すると追い込まれるし、誰かと、社会と関わっていかないと生きていけない動物なのだと思わさせる。
悲しくなるし、森田に少し同情してしまうラストシーンだ。

ヒミズ

2020-02-12 08:53:51 | 映画
「ヒミズ」 2011年 日本


監督 園子温
出演 染谷将太 二階堂ふみ 渡辺哲
   諏訪太朗 川屋せっちん 吹越満
   神楽坂恵 光石研 渡辺真起子

ストーリー
15歳の住田佑一(染谷将太)の願いは誰にも迷惑をかけずに生きる“普通”の大人になること。
大きな夢を持たず、ただ誰にも迷惑をかけずに生きたいと考える住田は、実家の貸ボート屋に集う、震災で家を失くした大人たちと平凡な日常を送っていた。
同年齢の茶沢景子(二階堂ふみ)の夢は、愛する人と守り守られ生きること。
他のクラスメートとは違い、大人びた雰囲気を持つ住田に恋い焦がれる彼女は、彼に猛アタックをかける。
疎ましがられながらも住田との距離を縮めていけることに日々喜びを感じる茶沢。
しかし、そんな2人の日常は、ある日を境に思いもよらない方向に転がり始めていく。
借金を作り、蒸発していた住田の父(光石研)が戻ってきたのだ。
金の無心をしながら、住田を激しく殴りつける父親。
さらに、母親(渡辺真起子)もほどなく中年男と駆け落ち。
住田は中学3年生にして天涯孤独の身となるが、茶沢はそんな住田を必死で励ます。
そして、彼女の気持ちが徐々に住田の心を解きほぐしつつあるとき、“事件”は起こった……。
“普通”の人生を全うすることを諦めた住田は、その日からの人生を“オマケ人生”と名付け、その目的を世の中の害悪となる“悪党”を見つけ出し、自らの手で殺すことと定める。
夢と希望を諦め、深い暗闇を歩き出した少年と、ただ愛だけを信じ続ける少女。
2人は、巨大な絶望を乗り越え、再び希望という名の光を見つけることができるのだろうか……。


寸評
結論から言えば、僕はこの作品に東日本大震災を持ち込んだのは失敗だったと思う。
何回も見せられた津波で破壊された瓦礫の中での芝居に違和感を覚え、少年に未来を託すアジテーションにも違和感を持った。
これがもう少し年数を経ていたらそうでもなかったのだろうが、記憶に新しい中での必然性を感じ取ることが出来なかった。
「住田、がんばれ!」と二人で走るラストシーンはもっと感動が持てても良かったのだと感じた。
子供たちの苦悩と被災者の苦悩をリンクさせるのは少々無理があったのではないかと思うのだ。
もっとも、それだけの違和感を持ちながらも、胸の奥から熱いものが突き上げてくるようなパワーは失われてはいなかった。

あえて大震災へのエールを切り離すと、負がいくつも重なりあう少年が希望を見出して明日に向かって走り出す感動作で、絶望の住田君を支えようとする茶沢景子の姿は、好意の押し売りとも思えるが、一方で温かみも感じさせる。
よくもまあこれだけ個性的な出演者を集めたものだと感心させられて、それだけで面白い。
登場人物達がお互いに欠落感を持って結びついているところがユニークな設定で、住田の周りには彼を慕ってホームレスの大人達が集まって来る。
中学生の彼を一人の人間として接し「住田さん」と尊敬すらこめて呼ぶ連中だ。
渡辺哲が演じる夜野正造が面白い存在だ。
彼は住田の父親の借金を肩代わりしてやるが、その理由は「住田の未来に託すのだ」という。
自分もヤクザの金子(でんでん)も過去の人間で、自分は若者の未来に賭けるのだという。
どうやら住田君を取り巻いている連中は、震災で全てを失くしてしまった連中の様なのだ。
彼等との交流が重いテーマの清涼剤になっていて、住田は彼らとのパーティ(?)の場で唯一ほんの少し笑顔を見せる。
登場人物たちは自分を見失っている人間ばかりだが、ここのホームレスたちはそれから抜け出し巣立っていく。
そして住田は頑張ることを決意するのだが、単純な復活でないのがいいと思う。

景子が収集している住田語録のなかに「モグラのように生きたい、ヒミズになりたい」とある。
ヒミズとはモグラに似た哺乳類らしいが、すでに彼は”日不見(日見ず)”の生活を送っている。
親の愛情もなく、安定した生活もない。
それは景子も同じで、裕福そうな過程であったようだが、今は住田と同様に父親の借金がありそうだし、両親の愛情にも飢えている。
住田の様子に景子は涙を流すが、それは自分も住田に同化した絶望の涙だったのかもしれない。
事件後は「オマケの人生」と名付けた住田は、自らの未来を捨て去る選択を行うが、そこから明日への希望を取り返す姿が感動を呼ぶ。
普通に生きることが許されない少年が、普通になりたいと願ってもがく物語だが、青春とは泣きながらも明日に向かって走るものでもある。
ラストシーンは被災者へのエールでもあるのだろうが、僕は単純に住田君に「住田、がんばれ!」と叫びたい。

緋牡丹博徒 お竜参上

2020-02-11 10:50:37 | 映画
「緋牡丹博徒 お竜参上」 1970年 日本


監督 加藤泰
出演 藤純子 菅原文太 若山富三郎
   山城新伍 夏珠美 安部徹

ストーリー
お竜は数年前、死に追いやったニセお竜の娘お君を探しながら渡世の旅を続けていたが、長野の温泉町で知り合った渡世人青山常次郎から浅草にいると聞き、東京へ向った。
浅草にやってきたお竜は鉄砲久一家に草鞋をぬいだ。
鉄砲久は娘婿の鈴村が、六区に小屋をもっている関係で、一座の利権をにぎっていた。
だが、同じ浅草界わいを縄張りとする鮫洲政一家は一座の興行権を奪おうと企んでいた。
鮫州政一家の勘八のふところをねらったスリのおキイだが、しくじり危ういところを彼女に思いをよせる銀次郎に救われた。
お竜はおキイがお君であることを知り、そしておキイは鉄砲久に養女として預けられた。
一方、鈴村は鮫洲政一家の博奕に手を出し、多大な借金を背負い、小屋の利権を渡すよう迫られていた。
鉄砲久にこの片をつけるよう頼まれたお竜は、筋の通らない金は受け取れないと拒絶した鮫州政に差しの勝負を挑み、いかさまを見破り、証文を取り戻した。
この夜、常次郎が浅草にやってきたが、彼を追う二保は鮫州政一家に草鞋をぬいだ。
ある夜、鉄砲久は鮫州政の謀略にかかり、殺された。
翌日、下谷一帯の権力者金井が仲裁人となった和解の席上、鮫洲政一家はお竜と代貸喜三郎に匕首を向けたが、お竜を尋ねきた義兄弟熊虎に救われた。
一方、銀次郎は鮫州政に人質にされていたおキイと鈴村を助けたことから、殺されてしまう・・・。


寸評
藤純子の色香は言いようのないもので、その色香は大きな瞳とえくぼのせいだけではなかったはずだ。
歌舞伎的な様式美と、じわじわと心にしみ込んでくる情感は最近の映画にはないものだ。
特に雪の今渡橋で常次郎に渡すミカンがコロコロと転がるシーンなどは、あまりの美しさにため息が出る。
やっと探し当てた妹の形見を持って両親の墓がある故郷に帰る菅原文太演じる青山常次郎を、緋牡丹のお竜が見送る場面である。
降りしきる雪の中を急ぐお竜。
橋の袂で待つ青山常次郎、雪の中に霞んで見える凌雲閣。
お竜さんに故郷のことを語る青山常次郎。
そして「こいは、汽車の中であがってくださいまし」とそっと包みを差し出すお竜。
そしてさらに渡そうとした時にミカンが滑り落ちて、降り積もった真っ白な雪の上を黄色いミカンが転がっていく。
それを再び拾って青山に渡して見詰め合うお竜さんと青山常次郎。
無言で礼をして立ち去る青山。
ミカンが言うに言われぬ愛情表現の小道具として使われ、お互いの胸の内を代弁していた。
この美しいシーンを見るだけでも、この映画を見る価値があろうというものである。
この今戸橋は、お竜さんが暴力団まがいの親分の鮫洲政(安部徹)との凌雲閣における対決に行く場面においても再び現れる。
故郷の旅から戻った青山常次郎が、鮫洲政との対決に行こうとするお竜さんを今土橋で待っている。
お竜さんが今土橋を渡ってきて、青山常次郎に一礼する。
そして、二言三言、言葉を交わしてから鮫洲政の待つ凌雲閣に向かう。
ここで「娘ざかりを渡世にかけて、はった体に緋牡丹もえる・・・」という緋牡丹博徒の歌が流れてくるのだが、もうこの時点で僕たちはこのふたりに同化してしまっている。
圧倒的多数の敵方を倒していき、お竜さんによる最後の決めゼリフ「鮫洲政さん、死んでもらいますばい」が出たときに、我々は拍手喝采し「よくやった!」の気持ちが湧いてくる。
この時代の東映任侠映画の手順そのものなのだが、「緋牡丹博徒 花札勝負」から引き継がれたストーリーも練れており、シリーズの歴代共演陣ではこの青山常次郎が一番だと思わせる上記のシーンを有していることで、東映任侠映画史に残る一篇となっている。

「姓は矢野、名は竜子、人呼んで緋牡丹のお竜と発します」という純子さんの甲高い仁義は、車寅次郎の「私、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯を使い・・・」とともに脳裏に残る仁義の名セリフである。
お竜は富田流小太刀の使い手でなかなか強いのだが、それでも危なくなると必ず誰かが助けてくれる。
それが鶴田浩二や高倉健だったり菅原文太という客演の男優陣の時もあれば、兄弟分の四国道後の熊虎親分(若山富三郎)やその子分の待田京介だったりする。
彼らはこちらが思っている場面で必ず登場するのだが、その場面はもうここしかないないというドンピシャ場面だ。
わかっているからなおさら楽しいのがプログラムピクチャのいいところだった。
純子さんは当時の若者にとっては憧れのスターだった。

火火(ひび)

2020-02-10 11:52:46 | 映画
「火火(ひび)」 2004年 日本


監督 高橋伴明
出演 田中裕子 窪塚俊介 黒沢あすか
   池脇千鶴 岸部一徳 遠山景織子 
   石田えり 山田辰夫 塩見三省
   鈴木砂羽 東ちづる 石黒賢

ストーリー
滋賀県の焼物の里、信楽町に暮らす陶芸家の夫婦に破局が訪れた。
作風の違いなどから衝突を重ねていた夫の学(石黒賢)が、若い愛人と出奔。
残された妻、神山清子(田中裕子)は、長女・久美子(遠山景織子)、長男・賢一(窪塚俊介)を、女手一つで育て上げると心に決め、そして陶芸家の意地から、長年の夢である独自の古代穴窯による信楽自然釉をなんとしても成功させたいと執念を燃やす。
女の意地もあったが苦しい生活が続き、米びつの底は尽き、米のとぎ汁を飲んで飢えをしのぐような毎日。
窯炊きの挑戦も失敗を繰り返し、何度も失意に打ちひしがれる。
それでも、子供たちの成長と、なにかと後ろ盾になってくれる先輩陶芸家・石井(岸部一徳)の励ましに支えられて、なおも清子は挑戦を続ける。
そして、数年のち。真っ黒な夜空に煙突から真っ赤な炎が吹き上げるほどに焚き続けた2週間が過ぎた窯出しの日、窯に入った清子の瞳に小さな光が反射する。
花入れや壷、水指がビードロをつけ可憐な色に染まっていて、貧しさもいとわず穴窯に賭けた清子の挑戦がついに報われた瞬間だった。
清子は日本全国で個展も成功させ、女性陶芸家の先駆者として押しも押されぬ存在となる。
月日は流れ、久美子は東京の短大に進学し、賢一は窯業試験場を卒業して陶芸の道を歩み始める。
みどり(池脇千鶴)という恋人もできるが、なぜか賢一の腰はすわらない。
そんななか、賢一が突然倒れた。
医師の診断は白血病、HLAの適合する骨髄の移植が生存の唯一の道だが、家族はおろか清子の妹の幸子(石田えり)ら血縁者の骨髄は賢一に適合しない。


寸評
信楽焼の陶芸作家神山清子(こうやまきよこ)さんをモデルにしたドラマなのだが、僕はこの作品で初めて神山清子さんを知った。
僕は釉薬を使っていない備前焼とか丹波焼の焼き物が好きなのだが、何かの書物で信楽焼きは土が良すぎて作家を育てないと目にした記憶があり、信楽焼=狸のイメージが強すぎてあまり興味を持っていなかった。
この映画で自然釉の色合いを追い求める神山さんの姿を見て、どこにでもすごい作家は存在しているのだと認識を新たにしたのだが、自分の偏見、不明を恥じ入るばかりである。
田中裕子演じる神山清子がどこまでご本人に近いものなのかは知る由もないし、ドラマ仕立てなので多少の誇張、脚色があると思われるが、とにかく前向きでバイタリティのある女性だと感じ取れる。
田中裕子はスゴイ!

ドラマの当初は作家神山清子の苦闘が描かれる。
古代穴窯で焼かれた信楽焼の破片を見つけ、何とかそれを再現しようとする。
登り窯ばかりになっていた信楽に穴窯を築き、そこで自然釉の作品作りに没頭する。
失敗ばかりで家は貧しい。
金にはなる1000個のカップ作りの仕事などを先輩陶芸家の石井に紹介してもらい暮らしを維持している。
子供たちを厳しく育てているが貧困は逃れがたく、長女の久美子が短大入試に臨むときには「落ちてこい」と言う始末で、久美子はそんな母に反感を抱いていく。
何日も燃やし続ける穴窯での作陶は男でも辛い作業だが清子は執念でやり遂げ、失敗続きだった自然釉の製作もついに成功する。
伝記物だが、そこに力点を置いていないので、成功の感激はそんなに伝わってこない。
それよりもその間の出来事を通じって描かれる清子の言動が可笑しくて仕方がない。
男以上の乱暴な口を利くが愛情を持った強い母としての姿が心を打つ。
孤高の芸術家の苦悩を描いた重苦しいものではなく、笑ってしまうシーンも多くあってここまでは楽しい映画だ。
借金取りに追われているのも笑い飛ばしている。

一転するのは長男の賢一が白血病になってからで、映画の大半はそこからの出来事となっている。
恋人と別れる経緯は胸が熱くなるし、骨髄の移植を求めて活動する仲間の姿も胸を打つ。
ドナーを求める活動にもお金がかかるのだ。
検査費用はバカにならず1000万円もの借金が出来てしまい、寄付金だけでは活動が維持できない。
ドナーを探すことに目が行きがちだが、現実問題としてお金が必要で街頭募金の重要性を改めて思い知る。
そして仲間の重要性も分かり、果たして自分が同じ立場になったら、どれだけの人に協力を頼めるだろうかと、人脈のなさに心細くなった。
賢一の伯母さんの様な人も少ない。
この伯母さんはいい人で、賢一が遺体で帰ってきた時の言葉に僕は大泣きしてしまった。
最後に清子が作家魂を見せるのがいい。
賢一の窪塚俊介が熱演しているけれど、やはりこの映画は田中裕子だろう。

日の名残り

2020-02-09 11:46:34 | 映画
「日の名残り」 1993年 イギリス


監督 ジェームズ・アイヴォリー
出演 アンソニー・ホプキンス
   エマ・トンプソン
   ジェームズ・フォックス
   クリストファー・リーヴ
   ピーター・ヴォーン
   ヒュー・グラント
   
ストーリー
1958年。オックスフォードのダーリントン・ホールは、前の持ち主のダーリントン卿が亡くなり、アメリカ人の富豪ルイスの手に渡っていた。
かつて政府要人や外交使節で賑わった屋敷は使用人もほとんど去り、老執事スティーブンスの手に余った。
そんな折、以前働いていたミス・ケントンから手紙をもらったスティーブンスは彼女を訪ねることにする。
離婚をほのめかす手紙に、有能なスタッフを迎えることができるかもと期待し、それ以上にある思いを募らせる彼は、過去を回想する。
1938年、スティーブンスはミス・ケントンをホールの女中頭として、彼の父親のウィリアムを副執事として雇う。
スティーブンスはケントンに、父には学ぶべき点が多いと言うが老齢のウィリアムはミスを重ねる。
ダーリントン卿は、第二次大戦後のドイツ復興のため非公式の国際会議をホールで行う準備をしていた。
会議で卿がドイツ支持のスピーチを続けている中、病に倒れたウィリアムは死ぬ。
1936年、卿は反ユダヤ主義に傾いてユダヤ人の女中たちを解雇し、ケントンはそんな卿に激しく抗議した。
2年後、ユダヤ人を解雇したことを後悔した卿は、彼女たちを捜すようスティーブンスに頼み、彼は喜び勇んでこのことをケントンに告げ、彼女は彼が心を傷めていたことを初めて知り、彼に親しみを感じる。
ケントンはスティーブンスへの思いを密かに募らせるそんな折、屋敷で働くベンからプロポーズされた彼女は、スティーブンスに結婚を決めたことを明かすが、彼は儀礼的に祝福を述べるだけだった。
20年ぶりに再会した2人だが、孫が生まれるため仕事は手伝えないと言うケントンの手を固く握りしめたスティーブンスは、彼女を見送ると、再びホールの仕事に戻った。


寸評
執事としてストイックにその職務を遂行するアンソニー・ホプキンスの姿が目に焼き付く作品だ。
かれは主人であるダーリントン卿を尊敬しており、身を粉にして彼に尽くしている。
その献身ぶりは僕などにはとてもまねできないもので、重要な会議に居合わせてもその会話の内容に聞き耳を立てるようなことはしない。
主人であるダーリントン卿のいう事には無条件に従う、卿にとっては忠実な執事なのである。
しかもそれは彼の保身からくるものではなく、執事と言う対場と職務に対する忠実さから来ているのである。
その為には父親のプライドを気にしながらも副執事から掃除係に降格を告げることもいとわない。
そのストイックな姿が印象深い。

物語はミセス・ケントンからの手紙を読むことから始まり、そのことで過去の出来事を回想する形をとっている。
この家には社交界、政界の名士たちが集まって来て、大戦前夜のヨーロッパ状況が話し合われるのだが、ダーリントン卿はナチス・ドイツの支持者であることが含みを持たせている。
後世の我々はヒトラーの率いるナチス・ドイツがどんなにひどかったのかを知っているが、当時のヨーロッパの人々にはここで描かれたような考えが交錯していたのだろう。
ダーリントン卿は人格者の様でもあるし、独善的な行為を取る人ではなさそうだ。
第一次世界大戦後のドイツへの対処があまりにも過酷だったことから、なんとかドイツの再興を助けようとしているのだが、そのドイツとはナチス・ドイツであることでダーリントン卿の人格とのギャップが全体構成を覆っている。
イギリス、フランス、アメリカ、ドイツを巻き込んだ政治的な会合が行われているのだが、執事が各国の要人をもてなす姿が興味本位的に僕を引き付ける。
イギリス貴族の生活とはこのようなものなのだと。

ストイックなスティーブンスに対してメイド頭のケントンはひるむことなく意見もする。
そんなケントンにスティーブンスは好意を持っていそうなのだが、その感情を表すことはない。
自分を引き止めてほしいような言いようをされても、スティーブンスは素直な言葉を返せない。
僕も経験があるが、極めて冷静を装う精一杯の強がりなのである。
過去を振り返るところから、ケントンに会いに行く現実シーンが展開されるが、この現実は切ないものだ。
おそらく離婚も視野に入れている彼女はメイド頭として復職のつもりだったのだろうが、孫が誕生したことで娘と孫のためにとどまることを選択する。
スティーブンスは彼女に「努力して幸せになってほしい」と告げる。
幸せな結婚生活は我慢と努力で得られるものなのだ。
お互いに愛する気持ちを持っていても、それを口に出すことはなく、二人は強く握手した手を放さねばならない現実を受け入れざるを得ない。
スティーブンスは新しい主人の執事として屋敷に戻るのだが、その間の彼の心情を描き込んで欲しかった気持ちは残った。
ケイトンを訪ね、そして彼女との別れは彼の一生における最後の思い出となったのかもしれない。
愛した人との最後のひと時はなかなか持てるものではない。

陽のあたる場所

2020-02-08 14:03:43 | 映画
「陽のあたる場所」 1951年 アメリカ


監督 ジョージ・スティーヴンス
出演 モンゴメリー・クリフト
   エリザベス・テイラー
   シェリー・ウィンタース
   アン・リヴェール
   レイモンド・バー

ストーリー
ジョージ・イーストマンは母子2人きりの貧しい家に育ち、シカゴのホテルでボーイをしていたが、水着製造工場を経営している伯父のチャールズ・イーストマンに会い、幸い彼の工場に職を得た。
伯父の邸で社交界の花アンジェラ・ヴィカースに会い、心を惹かれたが、ジョージにとっては、身分違いの遠い存在に思えた。
ジョージと同じ職場にいたアリス・トリップは、身よりのない娘で、ある夜映画館でふと隣合わせになったことから、2人の仲は急に深まった。
会社では男女社員の交際が御法度になっていたので、2人は人目を忍んで逢瀬を楽しまねばならなかった。
ジョージは伯父の邸のパーティに招かれてアンジェラと再会し、彼女はジョージの純真さに惹かれた。
その日はちょうどジョージの誕生日で、アリスは下宿でささやかな祝宴の準備をして待ちかねていた。
彼女は妊娠していたのである。
思い余ったジョージは彼女に堕胎をすすめたが、医者は引き受けてくれなかった。
アンジェラとジョージは、ますます愛し合うようになり、2人は夏をアンジェラの別荘に過ごした。
2人は許婚同様の間柄となったが、ある夜ジョージの元にアリスが電話をかけてよこし結婚を迫った。
翌日ジョージは出世の妨げになるアリスを溺死させようという下心から彼女を湖に誘った。


寸評
エリザベス・テイラーが美人女優の代名詞になっていた時期もあったが、僕が彼女の作品を見だした頃には、演技的にも体格的にもすっかり貫禄が出ていたリズだった。
ここでのリズは細身で彼女の美しさを強調するため、アップのシーンではソフト・フォーカスが多用されている。

ジョージは野心家ではあるが、日陰の人生を歩いてきたために、どこかおどおどしたところがある。
アリスも貧しい育ちの様で、この二人の雰囲気に明るいものは感じられない。
逢瀬を楽しむ間柄になっても、溌溂とした青春を感じさせない。
アリスという卑屈なウィンタースの役柄は、同情を買うものではあるが、ともすると観客の総スカンを喰うかもしれない微妙なものである。
時折見せる微笑だけが彼女の愛嬌となっているのだが、この陰湿なイメージがエリザベス・テイラーの演ずる令嬢アンジェラの気高さを際立たせている。
アンジェラは上流階級の娘だが、金持ちの嫌みがあるわけではない。
彼女の生活環境を巡る描写など甘さがないわけではないが、快活で性格も良さそうな令嬢である。
まさに彼女は陽のあたる場所に居る女性である。
当然、日陰にいるジョージから見れば輝いている。
ジョージは彼女に一目ぼれしたようなのだが、そこから彼女に寄せる片思いの心情は描かれていない。
手っ取り早く、近くにいたアリスといい仲になったという風でもなかったので、アンジェラとアリスの間で揺れ動くジョージの心境の描き方は少し希薄だ。

しかし、ボートに乗ってアリスの殺害をためらうジョージの心の揺れはモノトーン画面ゆえに響くものとなっている。
モノトーン画面の良さは、医者に行ったアリスが車の中でジョージと会話する場面でも発揮されている。
暗闇の中でアリスの顔がかすかに浮かぶが、ジョージの姿は見えない。
お腹の子供を何とかしなくてはならない、アリスとの結婚を何とか回避したいという心の闇にジョージが居る。
僕はライターの火でジョージの顔が浮かび上がるこのシーンの描き方に感心した。

アリス殺害の瞬間の多義的なロングショットはいいし、雨の晩の窓際に置いたラジオの効果など小道具の扱いも決まっている。
そして打算的で身勝手な男であるはずのジョージに憎しみが湧かないのは、演じているのがモンゴメリー・クリフトというだけでなく、子供の頃に母の伝道活動に引きずり回された過去を背負わせていることにもよると思う。
この設定は作品を支える影の部分に貢献していると思う。
子供の頃のこの人間的なつまずきと、母親の宗教活動があることによって、ジョージは殺人は犯していないが、心の中では殺人を犯していて、それを悟ったジョージが罪を受け入れていくという組み立てが生きていた。
ラストでのアンジェラの登場は映画的には有りなのだろうが、それでもやはり甘い。
貧困家庭に育ったばかりに、上流社会に憧れた若者が殺人まで犯してしまう悲劇性は薄れてしまっている。
その薄れた部分はリズの美しさと清廉さを強調することに転嫁されていた。
僕には若いリズ・テイラーを見ることが出来るだけでも価値ある作品となっている。

ひとり狼

2020-02-07 14:49:13 | 映画
「ひとり狼」 1968年 日本


監督 池広一夫
出演 市川雷蔵 小川真由美 岩崎加根子
   長門勇 長谷川明男 丹阿弥谷津子
   遠藤辰雄 新田昌玄 小池朝雄

ストーリー
これは中年のやくざ上松の孫八(長門勇)が語る話である。
孫八は塩尻峠で追分の伊三蔵(市川雷蔵)が一瞬のうちに三人の男を斬り捨てる現場に遭遇する。
同じやくざだが、孫八は伊三蔵という人間に、一目会った時から興味を覚えた。
上州坂本宿で伊三蔵と再会した孫八とその弟分の半次(長谷川明男)は、礼儀正しく博打も強い伊三蔵に驚異と憧れを抱く。
たまたま孫八はやくざになりたての半次と共に、ある一家に草鞋を脱いだが、そこに伊三蔵も客になっていた。
伊三蔵は博奕にも強く、剣の腕も確かで、追われる者特有の油断のない身構えが周囲の者を威圧していた。
翌年の春、孫八は三州のある花会で伊三蔵と三度目の出合いをした。
この土地の人間と伊三蔵は、何か因縁があるようだった。
小料理屋の酌婦お沢(岩崎加根子)は伊三蔵のかつての女だったという。
間もなく分ったことだが、伊三蔵は、郷士上田家の奉公人だった。
それが跡取娘由乃(小川真由美)と愛しあい、由乃が身篭るまでになったが二人の関係が知れると、酷い別れ方をさせられ、しかも由乃の従兄平沢(小池朝雄)が伊三蔵を斬ろうとさえしたので、こうなると由乃もあえて駆落ちしようとはしなかった。
それ以来、伊三蔵は剣の腕を磨き、女も信用しなくなり、兇状持ちのやくざになっていった。
伊三蔵が再びこの土地に姿を現わしたのは、由乃と子供の由乃助が幸福に暮しているかどうか見たいためだったのだが、由乃は仕立物をしながら由之助を学者にするべく、ひとり身を守っていた。
だが、平沢は、再び伊三蔵を斬ろうと計り、由乃と由之助を人質にして伊三蔵をおびき出した。
悽惨な戦いで、伊三蔵が平沢を斬ったとき、自分自身も重傷を負っていた。


寸評
上松の孫八を語り部として伊三蔵に関する出来事が描かれていくので、場面の切り替えに違和感がなく物語が進んでいき、タイトルバックが出るところから無宿渡世人の厳しい世界が伝わってくる描き方がいい。
渡世人の掟が要領よく描かれるのが、ヤクザに憧れる百姓上がりの半次が上松の孫八とともにある親分のところで一宿一飯の世話になる場面である。
ご飯は2杯まで、おかずは一汁一菜の決まりであり、残った魚の骨も手ぬぐいに包んで懐に入れ始末する。
布団は1枚を折りたたんで柏餅状態で眠るし、親分、おかみさんへの挨拶は欠かさない。
博打場では勝ち続けないで、ある程度は負けてやり、心づけを残して退去するなどである。
一連の場面を通じて、伊三蔵が人と交わらないが筋目を通す男であることが描かれ、彼の性格描写は適格だ。
ただ冒頭で伊三蔵は女を手籠めにしたとののしられていて、その事だけは謎のままで話は進む。
伊三蔵に関する謎の部分を残しておかないと後半への繋ぎが弱くなるから、これは適切だ。
その意味でも、女に対しての過去をそれとなく匂わせるのは当然とはいえ的を得ている。

小料理屋の酌婦お沢が登場するあたりから、伊三蔵の女性関係が表に出てくる。
伊三蔵が立ち尽くしている所へ雨が降り出し、それが激しい雨に代わって足元を映し出すと過去の場面に切り替わるというのも常套手段ではあるが、観客の目をくぎ付けにして作品全体のテンポを崩さない。
伊三蔵は虚無的で心を見せない男だが、ここからは人としての弱さを見せる。
それは由乃の子供、すなわち自分の息子への思慕の情である。
その前にでんでん太鼓をもてあそぶ姿が描かれていたことが、伊三蔵が子供を想う気持ちの伏線となっている。
金を託していたのがこの村に住む老人なのだが、伊三蔵と老人の関係がよくわからない。
送金した金は貯まりに貯まって200両にもなっているらしいが、その金は老人が保管しているのだろうか。
子供に託した金はどうなったのだろう。

途中で出入りの決着がついてしまい、伊三蔵は「出入りが終われば助っ人家業も終わりだ」と刀を収めてしまうのだが、これも彼の処世術として合理的に描かれている。
そして、雇人の親分が挨拶したいと子分たちが伊三蔵を迎えに来てラストシーンへと突入していく。
待ち構えているのはヤクザに手引きさせた上田家の平沢達である。
由乃たち母子を人質に取られた伊三蔵は刀を棄て、平沢の槍で太ももを突かれる。
いたぶるように槍先で伊三蔵の頬を切り裂くのも、以前に平沢が伊三蔵に頬を斬られていたことの意趣返しで、この立ち回りはラストシーンへの布石となっている上手い演出だ。
無宿渡世人になるしかなかった伊三蔵は父親としての名乗りを上げることが出来ない。
子供に修羅場をよく見ておけと言うのは、こんな男にだけはなるなとの精一杯の父親の教えだ。
伊三蔵は傷つきながらも孫八の助けを得て平沢達を討ち果たし去っていく。
由乃が「あんな男にだけはなってはいけませんよ!」と叫べば悲劇性がもっと増していたかもしれない。
場面が変わり道を急ぐ伊三蔵の顔に斬られた時の傷が残っているという心地よいラストシーンとなっている。
大映の股旅物として、池広一夫の股旅物として「ひとり狼」は光彩を放っている一遍だ。
後年人気を博した「木枯し紋次郎」は、この人斬り伊三蔵の虚無性を発展させたものだと思っている。

瞳の奥の秘密

2020-02-06 09:19:19 | 映画
「瞳の奥の秘密」 2009年 スペイン / アルゼンチン


監督 フアン・ホセ・カンパネラ
出演 リカルド・ダリン
   ソレダ・ビジャミル
   パブロ・ラゴ
   ハビエル・ゴディーノ
   カルラ・ケベド
   ギレルモ・フランセーヤ

ストーリー
刑事裁判所を定年退職したベンハミン・エスポシトは、仕事も家族もない孤独な時間と向き合っていた。
残りの人生で、25年前の殺人事件を題材に小説を書こうと決意し、久しぶりに当時の職場を訪ねる。
出迎えたのは、彼の元上司イレーネ・ヘイスティングス。
変わらずに美しく聡明な彼女は、今や検事に昇格し、2人の子供の母親となっていた。
彼が題材にした事件は1974年にブエノスアイレスで発生したもの。
幸せな新婚生活を送っていた銀行員リカルド・モラレスの妻で23歳の女性教師が、自宅で暴行を受けて殺害された事件で、現場に到着したベンハミンは、その無残な遺体に衝撃を受けたのだ。
やがて、捜査線上に1人の男が容疑者として浮上。
ベンハミンは部下で友人のパブロ・サンドバルと共に、その男の居場所を捜索したのだが、判事の指示を無視して強引な捜査を行ったことで、事件は未解決のまま葬られることとなってしまった。
そして1年後。ベンハミンは駅で偶然、モラレスと再会。
彼は毎日、曜日ごとに駅を変えて容疑者が現れるのを待っていた。
彼の深い愛情に心を揺さぶられたベンハミンは“彼の瞳を見るべきだ。あれこそ真の愛だ”と、イレーネに捜査の再開を嘆願。
ベンハミンとパブロはようやく容疑者逮捕の糸口を掴み、事件の真相に辿り着くが…。
25年後、タイプライターを前に自分の人生を振り返るベンハミンに、イレーネの存在が鮮やかに甦る・・・。


寸評
高卒のたたき上げベンハミン、アル中で妻にも見放されそうなパブロ、大卒のエリートの女性上司イレーネ、亡き妻を愛し続ける銀行員リカルド。
それぞれのキャラクターが巧みに描き分けられて物語を盛り上げていく。
現在と多く描かれる過去を交差させながらサスペンスとしても盛り上がりを見せる。
その構成の上手さに感心させられ、どこの国にもスゴイ監督っているものだと再認識させられる。

ベンハミンとイレーネが初めて顔を合わせた時のベンハミンの気持ちは、彼がイレーネに語る「小説の書き出しは決まっているんだが、物語とは関係ないんだ」に表されていて、細部にわたる配慮がなされていた。
そして彼女のことが気になる自分の態度と重ね合わせて真犯人を推測するくだりも衝撃的である。
イレーネを秘かに愛しているベンハミンの頭の中は常に彼女のことでいっぱいでいつも彼女を見つめていたのだが、それをスナップ写真を使ってそれとなく表現し、真犯人のゴメスとうまく対比させている。
そして犯人と同様にキャリアの違いから彼女は高嶺の花で、自分には手が出せない人とのコンプレックスを秘めているので愛している気持ちを口に出せない。
イレーネはベンハミンの気持ちを感じているようだが、お互いに一歩踏み出せない。
ベンハミンが話があると部屋に来た時には、それは愛の告白だと思ったはずでその描写もいい。
愛しているから一歩踏み出せないベンハミンの気持ちが僕にはわかる。
後年になって、イレーネは自分を連れ去らなかった意気地のなさを指摘するが、真の愛は切ない一面を持つ。

サスペンス性も持っているが、犯人探しが目的でないので、そのことをやたら盛り上げる展開にしなかったことで、むしろこの作品を奥深いものにしている。
それは夫モラレスの妻への愛と、犯人への憎しみの深さだったと思う。
駅で犯人を見つけ出そうとする執念とそしてラストの衝撃。
そしてそのラストに至る直前に、今までに描かれたシーンや言葉がこれでもかとたたみかけてくる。
その歯切れの良さに思わず画面に引きよせられて息を止めている自分に気づかされる。
上手い! 思わずうなってしまった。

僕はこの映画を見て日本の無期懲役はよくないのではないかと思った。
僕は死刑存続論者なのではあるが、なくすなら無期をなくして終身刑を制定すべきだと思う。
結果的に犯人のゴメスは終身刑を受けるが、その時再開したベンハミンに「彼に何か話すように言ってくれ」と懇願するシーンは強烈だったなあ。
またダメ男のパブロも特異なキャラクターで、終盤で見せるベンハミンに対する友情も泣かせた。
現役時代に使っていたタイプライターのAが打てないことは、現在のイレーネがベンハミンにそのタイプライターをあげる場面で述べられていたが、過去のシーンでもAが打てない場面が描かれる。
その長い伏線があるので、「怖い」というスペイン語にAを足して「愛してる」に書き換えるくだりが生きてきた。
分かってはいても最後にベンハミンがイレーネのもとに駆けつけるシーンは感動させられる。
傑作だ!

羊たちの沈黙

2020-02-05 11:00:35 | 映画
「羊たちの沈黙」 1990年 アメリカ


監督 ジョナサン・デミ
出演 ジョディ・フォスター
   アンソニー・ホプキンス
   スコット・グレン
   テッド・レヴィン
   アンソニー・ヒールド
   ケイシー・レモンズ
   ダイアン・ベイカー

ストーリー
FBIアカデミーの訓練生クラリスは、若い女性の皮を剥いで死体を川に流す連続殺人犯のバッファロー・ビルの捜査に手詰まりを感じたFBI上司ジャックの密命を帯び、州立の精神病院を訪れる。
それは、患者を9人も殺してそこに隔離される食人嗜好の天才精神科医ハンニバル・レクター博士に、バッファロー・ビルの心理を読み解いてもらうためだった。
初めはレクターの明晰さに同居する薄気味悪さにたじろいだクラリスも、自分への相手の興味を利用し、自分の過去を語るのとひきかえに、事件捜査の手掛かりを博士から少しずつではあったが導き出すことに成功するようになる。
そんな時、捜査態勢が急転直下、変貌する。
上院議員の愛娘キャサリンが、バッファロー・ビルと思われる者に誘拐されたのだ。
また、精神病院院長のチルトン博士も、クラリスがレクター博士と接触する理由に気づき、自分の出世欲のために、レクター博士を牢内から出し、彼の陣頭指揮の下に、大々的に捜査を始めることに協力する。
やがてレクターは捜査官に最後の手がかりを語った後、隙を見て精神病院職員を襲い、まんまと脱獄に成功、姿をくらましてしまう・・・。


寸評
アンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターの独断場だ。
この様な作品を生み出すアメリカ映画の懐の深さを感じる。
サイコ・サスペンスとして出色の出来で、私が見た中ではテレンス・ヤングの「コレクター」とこの作品が双璧だ。

物語は猟奇連続殺人の手がかりを得るために、FBIの訓練生クラリスが同じく人肉を食ったという猟奇連続殺人の犯人でありながら天才的心理学者のハンニバル・レクター博士に接見するところから始まる。
バッファロー・ビルと称される犯人の殺人は、女性を殺してその皮を剥ぐという凄惨なもので、すでに5人の犠牲者が出ている。
6人目の女性が連れ去られる場面は描かれるので、犯人の姿は早くから観客に知らされる。
そして彼のアジトの様子も描かれ、そこは異常な性格が想像できるような薄気味悪い雰囲気で、飼育された蛾が飛び交う様子が不気味さを示す。
本来なら、この異常な犯人をどのようにして追い詰めるのかに注目が行くのだが、犯人追及のスリルと猟奇殺人の不気味さはそこにはいかない。
それを凌駕するものがこの作品には存在しているからだ。
それはハンニバル・レクター博士の存在で、彼を演じたアンソニー・ホプキンスの怪演が光る。
ジョディ・フォスターとのやり取りが、禅問答の様でありながらも異様な緊張感をもたらすのだ。
そしてレクター博士の天才性と凶暴性が徐々に描かれていくにしたがって、体全体に力が入っていくのを感じる。
レクターはクラリスに一目ぼれしたのかもしれない。
彼女に無礼を働いた隣の囚人を言葉でもって自殺に追い込んでしまう。
それほど心理学に長じた男だということが分かる。
やがて彼は脱獄するが、そのシーンは見ているこちらも息をひそめてしまう緊迫したものになっている。

レクター博士がクラリスに心を通わせる心理描写も、抑揚のきいた演出で映画に深みを持たせていたと思う。
書類を渡すときにわずかに触れる指の感覚などはゾクッとさせるものがある。
クラリスが自分の過去を話す場面などは、大した話でもないはずなのだがやけに緊張感がある。
「羊たちの沈黙」というタイトルの意味も明かされるが、サスペンスというより心理劇の様相を呈したシーンになっていて、それが体全体を覆う緊張感を引き出していたのだろう。
ジョディ・フォスターとアンソニー・パーキンスの一騎打ちなのだが、それにしてもこのハンニバル・レクターというキャラクターは映画史に残る強烈なキャラクターである。
ラストシーンでレクターがFBIの捜査官に合格したクラリスに電話をかけ、最後の言葉として「友人と食事に・・・」を残して電話を切る。
彼の復讐を恐れて逃げているチルトン博士の後を追っていくのだが、彼の犯行手口からくるこの会話が小粋で、ここでクレジットタイトルが出るエンディングも素晴らしい。
静かに、静かに、彼の後をついていく姿を小さくなるまで固定アングルで追い続けるものだが、最後までレクターの不気味さを表すものとなっていた。
ジョディ・フォスター、この人、「タクシードライバー」の子役時からすごい!

彼岸花

2020-02-04 13:55:15 | 映画
「彼岸花」 1958年 日本


監督 小津安二郎
出演 佐分利信 田中絹代 有馬稲子
   久我美子 佐田啓二 高橋貞二
   桑野みゆき 笠智衆 浪花千栄子
   渡辺文雄 中村伸郎 北龍二
   堀江平之助

ストーリー
大和商事会社の取締役平山渉と元海軍士官の三上周吉、それに同じ中学からの親友河合や堀江、菅井達は会えば懐旧の情を温めあう仲で、それぞれ成人してゆく子供達の噂話に花を咲かせる間柄でもある。
平山と三上には婚期の娘がいた。
平山の家族は妻の清子と長女節子、高校生の久子の四人で、三上のところは一人娘の文子だけである。
その三上が河合の娘の結婚式や、馴染みの女将のいる料亭「若松」に姿を見せなかったのは文子が彼の意志に叛いて愛人の長沼と同棲していることが彼を暗い気持にしていたからだった。
その事情がわかると平山は三上のために部下の近藤と文子のいるバーを訪れた。
その結果文子が真剣に結婚生活を考えていることに安堵を感じた。
友人の娘になら理解を持つ平山も、自分の娘となると節子に突然結婚を申し出た青年谷口正彦に対しては別人のようだった。
その頃、平山が行きつけの京都の旅館の女将初が年頃の娘幸子を医師に嫁がせようと、上京して来た。
幸子も度々上京していた。
幸子は節子と同じ立場上ウマが合い彼女の為にひと肌ぬごうと心に決めた。
谷口の広島転勤で節子との結婚話が本格的に進められた。
平山にして見れば心の奥に矛盾を感じながら式にも披露にも出ないと頑張り続けた。
結婚式の数日後平山はクラス会に出席したが、親は子供の後から幸福を祈りながら静かに歩いてゆくべきだという話に深く心をうたれて・・・。


寸評
中身は何もなくて、ただ単に父親が娘の結婚にやきもきするだけの話なのだが、それが上質のホームドラマに昇華している。
言い換えれば、名人による落語の人情話の様である。
ホロリとさせられたかと思うと、クスリと笑いを誘われる。
小津にとっては初めてのカラー作品とかで、赤いヤカンや赤いラジオなど赤に凝っていることに気づく。
居間のシーンでは湯呑に至るまで小道具をピタリと構図に収めている。
物の配置に最新の注意を払ったことをうかがわせるシーンも多く、小津の粘りを感じることが出来る。

浪花千栄子は当然としても、山本富士子の関西弁(京都言葉)も違和感がなく、ポンポン飛び出す二人の会話は楽しく愉快なものだ。
浪花千栄子の料亭の女将初が手土産をもって平山宅を訪問する。
その手土産を「つまらんものどすけど」とお手伝いに渡し、お手伝いが「ありがとうございます」と受け取ると、再び初が「あんさんにやおまへんで、当家のでっせ」と念を入れる。
お手伝いは「わかっております」と返事するのだが、このやり取りなどはまるで落語を聞いているような可笑しさがあって、このようなユーモアは随所にみられる。
平山はおしゃべり好きな初に閉口して、トイレにと言って席を立ち仕事を始めたりするシーンもそうだし、長居しそうな初がトイレに行くときに逆さに置いてあった箒をかけなおすのもそうだ(箒を逆さにするのは客人に早く帰ってもらためのオマジナイとされている)。
京都で旅館をやっているというこの親子は面白く描かれていて、可笑しい場面を独占している。
大映所属の山本富士子が初めての他社出演をしているが、美人女優として名高いだけのことはある艶やかさで、有馬稲子との対面シーンは美人女優かくあるべしといった華やいだもので、スター女優と呼ばれた特別な俳優さんがいたのだと思わせる。

平山一家の4人が家族旅行に出かけているシーンがあり、ボートに乗る姉妹とそれに手を振る両親の姿が描かれ、幸せで平穏な家庭を感じさせる。
その次のシーンでは、長女の節子に彼氏がいることが分かり、その結婚話に平山家は険悪ムードになってしまう。
娘の結婚話によって、幸せムードが一気に険悪ムードに変わってしまう激変ぶりを上手く処理している。
平山は他人の娘の男女問題なら冷静でいられるのに、いざ自分の娘となると冷静でいられない。
自分に相談もなしで結婚話が進んでいることにむくれる。
ふくれっつらの父親・佐分利信に対して、母親の田中絹代はわずかな微笑みを見せる。
娘の理解者となった母親として、横暴な父親に切れて居直り言い返す時の田名絹代の表情もいい。
田中絹代がこの映画の中で見せる微妙な表情は味がある。
男優人はいつものメンバーで、どこか風采が上がらないといった感じなのだが、女優さんたちは皆輝いている。
小津は男の気持ちを描いているようで、実は女優を美しく、可愛く描くのが好きなのかもしれない。
山本富士子のひと芝居で話がトントン拍子で進んでいくが、話をはしょった感じがなく上手く処理している。
ラスト―シーンでの浪花千栄子と山本富士子の掛け合いも絶妙のものがあり、名人芸を見る思いであった。

ビートルズがやって来る/ヤァ!ヤァ!ヤァ!

2020-02-03 11:36:16 | 映画
「ビートルズがやって来る/ヤァ!ヤァ!ヤァ!」 1963年 イギリス


監督 リチャード・レスター
出演 ザ・ビートルズ
   ジョン・レノン
   ポール・マッカートニー
   ジョージ・ハリソン
   リンゴ・スター
   ウィルフリッド・ブランベル
   アンナ・クエイル
   ノーマン・ロシントン
   ジョン・ジャンキン
   ヴィクター・スピネッティ

ストーリー
リバプールにポール、ジョン、ジョージ、リンゴー(全部本人)ら4人の若者が「ビートルズ」という楽団を作って国中を回り歩いていた。
ポールの祖父ジョン(ウィルフリッド・ブランビル)は彼らをなんとかして世に出したいものと、思案していた。
また、ノーム(ノーマン・ロシントン )は彼らのマネージャーで、大変な行動派だった。
仕事はだんだん忙しくなり、ノームやジョンの働きでテレビ出演の機会も来た。
若者たちは僅かな時間でも、解放されると遊び興じた。
ジョンがかねてからリンゴーの“やわらかさ”を苦々しく思っていたので、彼を除こうと冷たくあたっていたのが、いつのまにかほかの若者たちにも影響し、リンゴーはついにいたたまれなくなって仲間から逃げ出してしまった。
残された3人はすべてを放り出してリンゴーを探しに街にとび出した。
やがてリンゴーは世間の冷たさや、仲間の良さが身に沁みてわかるようになった。
浮浪者として警察に連れて来られたリンゴーは、そこで保護拘留されていたジョンに会い、彼は策略でテレビ局に逃げこむことに成功、皆でリンゴーを救け出し、観客の待ちあぐねたショウは幕をあけた。


寸評
僕はこの映画をビートルズ映画の最高峰、アイドル映画の最高峰と位置付けている。
僕が正しくビートルズ世代だということでも、この作品は感慨深いものがあるのだが、映画的に見ても随分と洗練された作品だ。
一見ドキュメンタリー風でありながら、ウィットにとんだシーンが随所にみられる喜劇性も含んでいる。
ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターという若者たちが、所狭しと暴れまくる青春映画でもある。
ビートルズは音楽史に燦然と輝くグループで、アイドル性はもとより、音楽としても革命をもたらしたと思う。
いまでは違和感を持たないヘアー・スタイルもロング・ヘアーだと、大人たちからは敬遠され不良のように扱われもしたことが、今から振り返ると滑稽な出来事だった。
日本公演が実現してテレビ中継もされ、幸運なことに僕はそのテレビ中継を見ることが出来た。
直前の番組などでは、分かったような音楽評論家がそのスタイルやらをけなしていたのを思い出す。
擁護していたのは僕の記憶では湯川れい子さんぐらいだった。
僕は「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」までのLPをすべて保持していたが、レコードプレーヤーがCDプレーヤーに代わって行ったこともあり、すべてを甥っ子にあげたのだがその後の行方は不明である。

ここに出てくるビートルズの面々はやんちゃな若者たちだが、その若者たちよりも厄介な存在がポールのおじいさんというウィルフリッド・ブランビルが演じるジョンだ。
この爺さんがトラブルメーカーとして騒動を引き起こし続けるのだが、ウィルフリッド・ブランビルの表情がとぼけていて何ともおかしいのである。
オペラのシーンで舞台の下からせりあがってくるシーンなんて包括絶倒だ。
この爺さん、最後のコンサートシーンでもせりあがってくる。
この老人の存在がこの作品を一級のコメディ作品に押し上げていたとも思う。
コメディといっても大笑いを誘うギャグを連発するようなものではなく、ちょっとした小ネタをさりげなく描き込んでいくというもので、その描き方の小気味よさが何とも言えない快感をもたらしている。
トランプをシャッフルするのだが、実はシャッフルできていないと言ったもので、ともすれば見逃してしまいそうなたわいのないものがあちこちに散りばめられている。
そのギャグを発見するだけでも楽しくなってくる。

楽曲はフルコーラスではないが、ビートルズファンなら英語の歌詞の一部分くらいなら口ずさめそうで懐かしい。
いまでこそ郷愁に浸れる作品となっているが、当時の映画館(僕は2番館で見た)は入れ替え制ではなかったので、何回も見るファンがいたし立ち見の客もいて、館内は熱気と若い女性の叫び声で想像を絶するものだった。
その熱狂は娯楽性の強い次作の「ヘルプ!4人はアイドル」で最高潮に達した。
僕はビートルズも魅力的だったが、モノトーンが生み出す映像が時としてニュース映画の様であり、時としてノスタルジックな雰囲気を醸し出すなどの映像にも酔いしれていたことを思い出す。
再見してもこの映像は素晴らしく、作品を単なるアイドル映画に押しとどめていない。

ヒア アフター

2020-02-02 11:09:01 | 映画
「ヒア アフター」 2010年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 マット・デイモン
   セシル・ドゥ・フランス
   ジェイ・モーア
   ブライス・ダラス・ハワード
   フランキー・マクラレン
   ティエリー・ヌーヴィック
   マルト・ケラー

ストーリー
パリで活躍するジャーナリストのマリーは休暇を取って、恋人と一緒に東南アジアでのバカンスを楽しんでいた。
だがそのさなか、津波に襲われ生死の境をさまよい九死に一生を得る。
それ以来、死の淵を彷徨っていた時に見た不思議な光景(ビジョン)が忘れられないマリーは、そのビジョンが何たるかを追究しようと独自に調査を始めるのだった。
サンフランシスコ。かつて霊能者として活躍したジョージ。今では死者との対話に疲れきって自らその能力と距離を置き、過去を隠して工場で働いていた。
彼は人生を変えようと通い始めた料理教室で知り合ったメラニーに好意を寄せるが、図らずも霊能力が介在してしまい、2人は離ればなれに。
ロンドンに暮らす双子の少年ジェイソンとマーカス。
ある日、突然の交通事故で兄ジェイソンがこの世を去ってしまう。
もう一度兄と話したいと願うマーカスは霊能者を訪ね歩くが、本物の霊能力者には出会えない。
だがある日彼は、ジョージの古いウェブサイトに行き着く・・・。
そんな中、調査の結果を本に書きあげ、ブックフェアに参加するためロンドンにやって来るマリー。
すべてから逃げ出してロンドンにある大好きなディケンズの博物館を訪ねるジョージ。
こうしてマーカスの住むロンドンで、3人の人生は引き寄せ合うように交錯していくこととなるが…。


寸評
監督としてのイーストウッドはすごいと思う。
西部劇だろうが戦争ものだろうがスポーツものだろうが何でも作って、それぞれがそれなりに良質で奇をてらうような所がなくオーソドックスに堂々と撮りきるところが素晴らしい。
今回は死後の世界の話で霊能力者が登場する。
普通ならアホらしくて見ていられないか、CGを駆使して見世物的になりがちな題材なのにまともな大人が真剣にみられるドラマに仕立て上げている。
全体のタッチは静かで抑制的で、イーストウッドの作品らしい心に染みるような描写が目立ち、押し付けがましい強引な表現はない。
マット・デイモンが演じるジョージは恐山のイタコみたいなもので、愛する家族の唐突な死に直面した人々に、その霊と会話して依頼者に伝える能力を持っている。
もう一方の主人公であるマリーは死後の世界を垣間見て、そのことに取りつかれる。
しかし、それらの表現は極力抑えて興味がそちらに移らないようにして、あくまでも生きることをメインテーマに持って行こうとする努力をしている。
ジョージが見るのは現在からみると過去の死後の世界で、マリーが見るのは現在からみると未来の死後の世界(来世)である。
同じ死後の世界でありながら、二人の死後の世界の対比が知らず知らずのうちに物語に深みを持たせていっていたと思う。
無関係な三つのドラマが同時進行しながら、マーカス少年を触媒にしてジョージとマリーが巡り合い、それぞれの呪縛から解き放たれ未来に向かって生きようとするエンディングが余韻を残す。
大上段に振りかぶらないこのエンディングがイーストウッドの世界なのだろう。
僕には彼のワールドと相性がいいとの思いがあるのか、イーストウッド作品と言うだけでつい映画館に足を運んでしまうのだ。

ピアノレッスン

2020-02-01 13:56:33 | 映画
「は」で始まる映画は結構思いつきました。
続いて「ひ」に入ります。


「ピアノレッスン」 1993年 オーストラリア

監督 ジェーン・カンピオン
出演 ホリー・ハンター
   ハーヴェイ・カイテル
   サム・ニール
   アンナ・パキン
   ケリー・ウォーカー
   ジュヌヴィエーヴ・レモン
   タンジア・ベイカー

ストーリー
19世紀の半ば、スコットランドからニュージーランドへ、エイダは入植者のスチュワートに嫁ぐために、娘フローラと一台のピアノとともに旅立った。
エイダは6歳の時から口がきけず、ピアノが彼女の言葉だった。
だが、迎えにきたスチュアートはピアノは重すぎると浜辺に置き去りにする。
スチュワートの友人で原住民のマオリ族に同化しているベインズは、彼に提案して自分の土地とピアノを交換してしまう。
ベインズはエイダに、ピアノをレッスンしてくれれば返すと言う。
レッスンは一回ごとに黒鍵を一つずつ。
初めはベインズを嫌ったエイダだったが、レッスンを重ねるごとに気持ちが傾いていった。
2人の秘密のレッスンを知ったスチュワートは、エイダにベインズと会うことを禁じる。
彼女はピアノのキイにメッセージを書き、フローラにベインズへ届けるように託す。

寸評
エイダは聾唖者なのでホリー・ハンターが言葉を発することはなく、彼女の言葉はすべて手話で表現される。
言葉のない世界とピアノが発する美しい音色の世界が見事なまでに調和を見せる。
スチュワートは悪い人間ではないがエイダに受け入れられない。
受け入れられない理由はたったひとつで、かれがエイダのピアノを海辺に置き去りにし、さらに土地と交換してベインズに譲ってしまったからだ。
スチュワートは入植者なので、彼にとっては土地を増やしていくことが生きることであり、ピアノなどは眼中にない男なのだが、エイダにとってはピアノがすべてだったことで溝が出来てしまう。
スチュワートには、やがてエイダが優しく接する自分を認めてくれるだろうとの思いがあるが、最初に掛け違ったボタンのためにどこまで行っても溝は埋まらない。

スチュワートは「犠牲に耐えるのが家族」だと言うが、その一方で、決して「犠牲」にはできないものがあることが理解できなかった。
皆が欲しいものを好き好きに手に入れることはできない。
家族を維持するために手放さなければならないものはある。
たとえば自由。
しかし、その一方で自分が自分であるために要なもの、犠牲にはできないものもある。
それは自分の存在を示すものであり、エイダにとってはピアノがそうだったのだ。
スチュワートはエイダに犠牲を強いたが、自分は犠牲を払うことが出来なかったといえる。
家庭はお互いの犠牲の上に成り立っているのかもしれない。

フローラは当初、新しい父親を認めないような発言をしていたが、最後には母を密告するようになっていたのだからある程度なついていたのだろう。
母親の情事現場をのぞき見してしまったショックにもよるのだろうが、そのことを通じてスチュワートを全くの悪人としては描いていない。
ひたすら時が来るのを待ち続けるスチュワートは哀れにさえ見えてくるのだが、価値観の違いは埋めることが出来ないし、自分の想像が及ばぬものへの無理解は如何ともしがたい。

一方、ベインズはエイダのピアノを聴き、その音色と曲に魅了される。
ピアノとエイダを同化させ、ピアノを大切にするベインズはスチュワートと対極にいる。
彼は最後までピアノを守ろうとする。
それはエイダを守ることでもあったからだ。
エイダは愛を貫くため、家族を守るためピアノを捨てるという犠牲を払う。
"犠牲"を介在したこのあたりの対比的な描き方は作品を奥深いものにしていたように思う。
フローラを演じたアンナ・パキンはしゃべれない母に代わって通訳をする子供を見事に演じていたが、同時に子供は怖いとも感じさせた。
名演である。