おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

千利休 本覺坊遺文

2019-09-15 15:54:26 | 映画
「千利休 本覺坊遺文」 1989年 日本


監督 熊井啓
出演 奥田瑛二 萬屋錦之介
   上條恒彦 川野太郎
   牟田悌三 内藤武敏
   芦田伸介 東野英治郎
   加藤剛  三船敏郎

ストーリー
千利休(三船敏郎)が太閤秀吉(芦田伸介)の命で自刃してから27年後、世の中は徳川の時代に入っている。
愛弟子だった本覺坊(奥田瑛二)は心の師と語らうのみの生活を送っていた。
ある日本覺坊は、利休がなぜ秀吉の怒りを買って死んだのか、理由を解明しようと情熱を傾ける織田有楽斎(萬屋錦之介)に会って感動を覚えた。
そして一年後、本覺坊は有楽斎に、利休の晩年山崎の妙喜庵で催された真夜中の茶会について話した。
客は秀吉と山上宗二(上條恒彦)だったが、もう一人が不明だった。
床の間には不吉な「死」の一文字が書かれた掛け軸が掛けられていた。
さらに一年後、有楽斎は残る客の一人は利休の弟子の古田織部(加藤剛)だと見抜いた。
山上宗二は、小田原城落城の際秀吉に刃向かって面前で腹を切っている。
織部も大坂夏の陣で豊臣方に内通したかどで、利休や山上宗二と共に自刃したが、実は三人とも死を誓い合っていた。
「妙喜庵での茶席は、死の盟約だった」のだと、本覺坊と有楽斎はこの解釈で納得する。
翌年有楽斎は体が弱り危篤となったが、なお利休の最期の心境を知りたがっていた。
本覺坊は夢にみた利休と秀吉の最期の茶事の光景を語り始めた。
秀吉は一時の感情で下した利休に対する切腹の命を取り消したが、利休は茶人として守らなければならない砦のために切腹すると言い切った。
本覺坊の話が利休の切腹に及ぼうとするところで、有楽斎はもうろうとした意識の中で刃を取って切腹する態度を見せ死んでいったのだった。


寸評
この映画の特異なところは女性が全く出てこないことだ。
登場しても可笑しくはない場面もあるが、秀吉の周りにも、利休の周りにも全く登場しない。
男だけの世界である。
主演の奥田瑛二も頑張ってはいるが、利休役の三船敏郎を筆頭に脇を固める人達がとにかく素晴らしい。
秀吉から切腹を命じられた利休が最後に秀吉と二人で茶室で対峙する場面では、三船が己の道を突き進む利休の強い意志を見事に演じきっており、秀吉の芦田伸介がかすんでしまう貫禄を見せる。
そして織田有楽斎を演じた萬屋錦之介も最後の映画出演を汚さない演技を見せる。
死を誓い合っていた利休、古田織部、山上宗二にあわせるように、死を悟った織田有楽斎が幻の刀で腹を切るその演技は鬼気迫るものである。

奥田瑛二が演じた本覺坊というのは実在した人物らしいが、実在していたというだけの人物に利休の弟子として利休との思い出を語らせるのは原作者井上靖の着想の妙だろう。
利休の切腹理由は諸説あるが、本覺坊は朝鮮出兵を批判したこと以外に考えられないと述べている。
大徳寺の山門に自分の木造を置いて秀吉に下をくぐらせようとして秀吉の勘気をこうむったとする有名な説は難クセとして一笑に付している。
利休の重用をねたんだ側近からの「安い茶器を高額で売りさばいて私腹を肥やしている」との讒言とか、娘を側室に差し出すのを拒んだからだという説も聞くし、実際その事を題材にした「お吟さま」という作品も存在しているが、前述のように女性は登場しないので、この説は全く登場しない。

山上宗二はむごい死に方をし、古田織部も徳川秀忠の茶道を務めながらも徳川から切腹を命じられ非業の死を遂げている人物である。
織田有楽斎は自らの死に臨んで「まるで名のある茶人はみな腹を切らねばならんようではないか。わしは切らん」と叫んでいる。
この有楽斎は信長の弟でありながら、主人を織田信忠、織田信雄、秀吉、家康、秀忠と替えて生き延びているので、はたして描かれたような剛毅な男ではなく、要領の良い男とのイメージが僕にはある。
秀吉は「意地を張らずに詫びればそれで済むのだから切腹などしなくてよいのだ」と無責任なことを言い出すが、利休はきっぱりとそれを断る。
利休は戦場で茶をふるまい、それを名残りに出陣していった多くの武将たちを死なせている。
古田織部もそうで、彼等にとっての茶道は武人の茶だったのだろう。
命を惜しむ庶民の侘茶ではなかったのかもしれない。
多くの人を死なせることで得た天下の覇権なのに、人の命を軽んじる秀吉への反抗であったような気もする。
しかし利休と秀吉の仲が険悪になってから利休から遠のいていった人が多かった中で、古田織部と共に堺に蟄居する利休を見送ったとされる細川忠興がその後何事もなく肥後細川家の初代となっているから秀吉の勘気は本気ではなく、本当に利休が詫びれば済む程度のものだったのかもしれない。
歴史に現れる男の意地は面白い。

セント・オブ・ウーマン/夢の香り

2019-09-14 09:21:27 | 映画
「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」 1992年 アメリカ


監督 マーティン・ブレスト
出演 アル・パチーノ
   クリス・オドネル
   ジェームズ・レブホーン
   ガブリエル・アンウォー
   フィリップ・S・ホフマン
   リチャード・ヴェンチャー
   サリー・マーフィ
   ブラッドリー・ウィットフォード
   ロシェル・オリヴァー

ストーリー
全寮制の名門ハイスクール、ベアード校の奨学生チャーリー(クリス・オドネル)は、アルバイトで盲目の退役軍人フランク(アル・パチーノ)の世話を頼まれた。
翌朝、トラクス校長(ジェームズ・レブホーン)が全校生徒の前でペンキまみれにされるというイタズラが起き、校長はその犯人の顔を知るチャーリーと同級生のジョージ(フィリップ・S・ホフマン)を呼びつけ、犯人の名を明かさないと週明けの特別集会で退学を申し渡すと脅し、さらに校長はチャーリーに大学進学の奨学金を交換条件に提示した。
バイトの初日、チャーリーはフランクに無理矢理ニューヨークへの旅に同行させられることになり、一流ホテルや高級レストランを使うその超豪華な旅に仰天した。
フランクはこの旅の最後に自殺すると平然と語り、チャーリーの学校での一件の話を聞くとジョージに裏切られる前に友を売って自分を救えと言う。
翌日フランクはチャーリーと共に郊外に住む兄を訪ねるが、歓迎されずに寂しく立ち去った。
さらに2人の旅は続き、あるホテルのラウンジで、偶然近くに座った美しい女性ドナ(ガブリエル・アンウォー)に近づき、ダンスを申し込んだフランクは優雅なタンゴを披露した。
次の日にはフェラーリに試乗してはしゃぐかと思うとすぐ塞ぎ込むフランクにチャーリーは不安を覚えた。
予告通りフランクは自殺しようとするが、チャーリーの必死の説得で断念し、2人の頬に涙が伝った。
そして旅は終わり特別集会の日がやって来た・・・。


寸評
アル・パチーノの存在感が際立っていて、彼の一人芝居と言ってもいいぐらいの熱演ぶりを見せている。
退役軍人のフランクを演じているのだが、ベトナム戦争時代に手榴弾をもてあそんでいて爆発させ、そのため盲目となっているという設定で、目は開いているが光を失っていることを表現するために視線を動かすことがない。
試しにやってみたが短時間でも無理な作業で、瞳がどうしても動いてしまう。
役者の演技力はスゴイと思わせ、スゴサの根源は目の演技だと気づかされる。

フランクは傲慢な態度を見せ、観客にもその傲慢さに対する嫌悪感を抱かせるのだが、面倒を見ている姪のカレン(サリー・マーフィ)だけは本当は優しくていい人なんだと言っているのは一種の伏線だ。
そして徐々にフランクに内在している優しさや人を見る目の的確さが示されていくのだが、最後まで彼の傲慢な態度が変わることはなく、自信に満ちた態度とは裏腹に、光のない世界で生きる自分に絶望感を抱いている姿が徐々に見え始める脚本はなかなかよくできている。
彼の思いが一番現れるのが兄の一家を訪問する場面だ。
そこでも悪態の限りを尽くすのだが、それは兄との別れを意識してのもので、最後に兄に謝って去っていくシーンに象徴されていた。
兄の息子である甥はフランクをなじるが、兄は甥の言動を制止するわけでもなく、また弟を非難するようなこともしていないので、この兄弟の間には兄弟として理解し合えるものがあったのではないかと思う。
フランクは兄に最後の別れを言いに来たのだが、傲慢な彼は素直になれない。
そしてやっと兄に許しの言葉を伝えて去っていく場面は僕の好きなシーンの一つになっている。

最も輝いているのは、やはりフランクがドナとタンゴを踊るシーンだ。
まずドナのガブリエル・アンウォーの美貌が目を引き付ける。
「タンゴは足がもつれても踊り続ければいいんだ」と言って踊りだすが、このダンスシーンにうっとりしてしまい、思わず笑みがこぼれてしまうといういいシーンとなっている。
フランクもドナも幸せな時間を共有しているような気がした。
遅れてやって来たドナの彼氏はドナの相手には不足と思われるサエない男で、人を待たせているから出ようと言ってドナを連れ出していくが、それは口実で姑息な男を印象付ける。
この男に比べればはるかにフランクの方が好人物だ。

フランクは目が見えない代わりに嗅覚が発達していて香水の銘柄を言い当てる場面がいくつも用意されている。
「セント・オブ・ウーマン」というタイトルもそこから来ているのだが、このタイトルは中身を表しているとは言い難い。
フランクは最後に演説をぶち「チャーリーは決して自分の徳のために友を売る人間ではない。それが人間の持つ高潔さだ!それが勇気だ。指導者が持つべき資質はそれだ。チャーリーも岐路に直面した。そして彼は正しい道を選んだ。真の人間を形成する信念の道を。それは困難な道だ。しかし、さあ彼の旅を続けさせてやろう」と訴え、政治学の先生からも支持される。
この先生とのやり取りにも香水が出てきて、なかなか粋な会話となっている。
フランクの発する言葉が魅力的な傑編で、「A・パチーノは見事!」というほかない。

戦争と人間 第一部 運命の序曲

2019-09-13 07:22:57 | 映画
「戦争と人間 第一部 運命の序曲」 1970 日本


監督 山本薩夫
出演 滝沢修 芦田伸介 高橋悦史
   浅丘ルリ子 中村勘九郎
   佐藤萬理 三国連太郎
   高橋幸治 石原裕次郎
   高橋英樹 二谷英明 三条泰子
   伊藤孝雄 吉田次昭 田村高廣
   加藤剛 岸田今日子 山本学
   地井武男 江原真二郎
   南原宏治 栗原小巻 水戸光子
   松原智恵子 丹波哲郎

ストーリー
昭和三年。新興財閥伍代家のサロンでは、当主伍代由介(滝沢修)の長男英介(高橋悦史)の渡米歓送会が開かれていたが、話題は期せずして、張作霖打倒のため蒋介石が北伐をはじめた満州の状勢に集まった。
関東軍を出兵させ張作霖軍を武装解除させるべきだという強硬論者は、英介と喬介(芦田伸介)であった。
とくに“満州伍代”と呼ばれる喬介は関東軍参謀河本大佐(中谷一郎)等の強硬派と気脈を通じ、より大きな利権を求めて画策していた。
その両腕が、匪賊との生命がけの交渉によって運送ルートを作りあげた男、高畠正典(高橋幸治)と阿片売買やテロルなどに暗躍する凶暴な男、鴨田駒次郎(三国連太郎)であった。
喬介や英介の意見に反対を唱えたのは、まだ中学生の俊介(中村勘九郎)であり、それに無言の支持を示したのは自由主義者の矢次(二谷英明)だった。
由紀子(浅丘ルリ子)は妻帯者である矢次を愛していたが、にえきらぬ態度に彼女は若い柘植中尉(高橋英樹)との恋に走った。
出兵のための奉勅命令が得られないあせりから関東軍は列車爆破によって張作霖を暗殺するという挙に出たが、その陰謀は張作霖の息子張学良と蒋介石の和解、統一抗日勢力の強化という方向に事態を動かした。
喬介は新参謀石原中佐(山内明)の依頼で、運送隊の中に偵察特務員を潜入させたが、匪賊はその報復に、高畠の愛妻素子(松原智恵子)を連れ去り、そして彼女はふたたび帰って来なかった。
昭和六年九月、関東軍は奉天郊外の柳条溝付近で、自らの手で満鉄列車を爆破、それを張学良の謀略挑戦であるとして一斉攻撃を開始したが、それはいわゆる満州事変の始まりであった。


寸評
僕は太平洋戦争は自衛戦争だったが、満州事変とそれに続く日中戦争はやはり侵略戦争だったのではないかと思っている。
「戦争と人間」の第一部である本編では、大正時代に勃興した新興財閥の伍代家の人々を中心に、昭和3年(1928年)から昭和7年(1932年)の第一次上海事変が起きるまでの満州及び関東軍の状況が描かれている。
伍代財閥は満州での権益を強化しようとしているが、流通業だけでなく裏ではアヘンを扱う闇の部分もある。
当時大陸へ進出していた企業の総てが悪徳企業ではなかったと思うが、伍代財閥は悪い資本家の象徴として描かれ、関東軍を軍国主義の急先鋒として描いている。
歴史的に見れば関東軍の暴走が日本を悲劇へ導いたと思うし、軍隊は戦うために存在している組織だから、当時の軍人達は戦いたい気持ちを内在していたのだろう。
現在の自衛隊は戦えない軍隊として存在しているが、だから、そこがいいのかもしれない。

張作霖爆殺事件を策略した関東軍の参謀・河本大作大佐の名前は知っているし、柳条湖事件を起こした板垣征四郎や石原莞爾の名前も知っている。
だから「戦争と人間」は大勢の人物が登場する人間群像ドラマであると同時に歴史ドラマでもある。
群像ドラマとして見れば、ここで描かれる図式は案外と単純なものだ。
伍代財閥は戦争を食い物にしようとする資本家の代表だが、その中で大人たちに異を唱えて疑問を呈するのが中村勘九郎の伍代俊介少年である。
高橋悦史の伍代英介をひどい人物として描いているので、物語を考えた場合、同じ伍代家に対極の人物を登場させる必要があったのではないかと思われる。
このあたりは脚本というより、原作者である五味川純平の構想によるものだろう。
そのような対比は、同様に伍代喬介の部下として働いている二人、高畠と鴨田にも言える描き方であるし、軍国主義に警告を発する人物として二谷英明の矢次や、石原裕次郎の篠崎書記官を登場させバランスをとっている。
これだけ多くの登場人物を描くと、どうしてもこのような二極化した描き方になってしまうのかもしれない。

満州の混とんとした状況や、関東軍が暴走していく様子をお堅い部分とすれば、色恋と言う柔らかい部分を担う名うのが、浅丘ルリ子の伍代由紀子、松原智恵子の素子、栗原小巻の端芳である。
端芳は英介によって犯され、素子は朝鮮族にさらわれ自殺するという悲劇に会う。
由紀子は矢次に思いを寄せていたが、やがて軍人の柘植に魅かれていくのだが、なぜ柘植に乗り換えることになったのか、微妙な女心の変化は描かれてはいない。
それを丁寧に描けばメロドラマになってしまうからだろう。
とにかく由紀子は柘植に思いを寄せることになるが、柘植は軍部批判により台湾に行かされたり、金沢に行ったり、最後には上海へと飛んでいくことになる。
すれ違いドラマの要素を持っているが、二人の別れの描き方は湿っぽいものではないので、やはりこの映画は男性映画なのだと思う。
第一部の最後で柳条溝事件がおこり、上海事変へと突入していくが、なぜ日本はその道をたどってしまったのか、僕は山本薩夫なりの解釈で深層に斬り込んでいるとは言い難い物を感じて、その点に少し不満が残る。

戦場のメリークリスマス

2019-09-12 07:38:28 | 映画
「戦場のメリークリスマス」 1983年 日本/イギリス


監督 大島渚
出演 デヴィッド・ボウイ
   坂本龍一  ビートたけし
   トム・コンティ
   ジャック・トンプソン
   内田裕也  ジョニー大倉
   室田日出男 戸浦六宏
   金田龍之介 三上寛
   内藤剛志  本間優二


ストーリー
1942年、ジャワ山岳地帯の谷間レバクセンバタに日本軍の浮虜収容所がある。
まだ夜が明けきらない薄闇の中、日本軍軍曹ハラは将校宿舎に起居する英国軍中佐ロレンスを叩き起こし、閲兵場に引き連れて行く。
広場にはオランダ兵デ・ヨンと朝鮮人軍属カネモトが転がされていた。
カネモトはデ・ヨンの独房に忍び込み彼を犯したのだ。
ハラは独断で処置することを決め、万一の時の証人として流暢に日本語を操るロレンスを立ち合わせたが、そこへ収容所長ヨノイ大尉が現れ、瞬時にして状況を察した彼はハラに後刻の報告を命じて、軍律会議出席のためバビヤダへ向かった。
バビヤダ市内の第16軍拘禁所にある法廷では、英国陸軍少佐ジャック・セリアズの軍律会議が開かれていた。
セリアズはレバクセンバタ浮虜収容所へ送られてきた。
ヨノイは浮虜長のヒックスリに、浮虜の内、兵器、銃砲の専門家の名簿をよこせと命ずるがヒックスリは、敵に有利となる情報を提供するわけにいかないと拒否する。
時は流れ、1946年、戦犯を拘置している刑務所にロレンスが処刑を翌日に控えたハラに面会にきた・・・。


寸評
僕がこの映画を振り返るときに真っ先に思い浮かぶシーンが二つある。
一つはデビット・ボウイのセリアズが坂本龍一のヨノイのほっぺにキスをするシーンで、もう一つはビートたけしのハラ軍曹がロレンスに「メリー・クリスマス」と言うラストシーンである。
真っ先に思い浮かぶのだから僕にとっては印象的なシーンだったはずで、なぜそのシーンがそんなにインパクトを持ったのかと振り返ってみると、この作品の持っている側面、あるいは隠されたテーマの様なものに行きつく。

セリアズがヨノイにキスをするのは、収容所長であるヨノイ大尉に理不尽と思える処刑を行わさせないためであるのだが、しかしその後にヨノイが興奮のあまり倒れてしまうのを見るとホモ・セクシャルな感情を見てしまう。
戦争、俘虜収容所という異常状況のなかで形作られる崇高な性愛表現だ。
対応しているのが朝鮮人軍属カネモトが、オランダの男性兵デ・ヨンを犯して処刑されることである。
カネモトは事におよんでしまうが、ヨノイはセリアズに興味を示しながらもそれを態度に表すことはない。
しかしセリアズにキスされたことでヨノイは錯乱状態に陥る。
画面は揺らぎ、ヨノイは卒倒してしまう。
まるで恋い焦がれる女性にキスされたような状況に思えた。
ヨノイはセリアズの髪の毛を切り取るが、これなども恋人の髪の毛をもって出陣した兵士を連想させる。
この様な日本人の精神性は宗教観や武士道精神を通じて作中でも描かれている。

その精神性の一端として表されたのがラストの「メリー・クリスマス」の呼びかけだ。
ハラは典型的な日本軍人として描かれている。
時が移り、彼は逆に連合軍の戦争犯罪人として俘虜収容所にいる。
ロレンスとは立場が逆転していて、どうやら処刑が待っているようだ。
俘虜収容所での交流を通じ、ロレンスは今の自分の立場ならハラ軍曹を助けることが出来ると告げるが、ハラはその申し出を受けることが出来ない。
日本軍人は助命を願わず死を選ぶと教え込まれているからだ。
彼は「助けて…」とは言えないので、「メリー・クリスマス」と言ったのだと思う。

断片的には面白いシーンをたくさん有している作品だと思うが、あまりにも多くのことを描きすぎて散漫になってしまったきらいがあるのは残念だ。
二二六事件の影響とか、セリアズのエリート意識や階級意識なども印象的なものにとどまっている。
坂本龍一もビートたけしもうまい演技をしているとは言い難いが、特に坂本龍一の演技はひどいと思うのだが、それでもビートたけしの存在感だけは際立っていて、彼がいなかったらこの映画は成り立たなかったのではないか。
D・ボウイはなかなかよくて、僕にはロック歌手としての認識が強い人だが、あちらでは芝居もやっているらしいし、いい雰囲気を生み出していた。

ハラが酔っぱらって「ファーザー・クリスマス」と発するあたりから、僕は非常に興奮状態になった。
どちらも正しいと思ってやっていることが悲劇をもたらしてしまうのが戦争だと訴えているようにも思う。

戦場のピアニスト

2019-09-11 05:09:14 | 映画
「戦場のピアニスト」 2002年 フランス/ドイツ/ポーランド/イギリス


監督 ロマン・ポランスキー
出演 エイドリアン・ブロディ
   トーマス・クレッチマン
   エミリア・フォックス
   ミハウ・ジェブロフスキー
   エド・ストッパード
   モーリン・リップマン
   フランク・フィンレイ
   ジェシカ・ケイト・マイヤー

ストーリー
1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻したとき、シュピルマンはワルシャワの放送局で演奏するピアニストだった。
ワルシャワ陥落後、ユダヤ人はゲットーと呼ばれる居住区に移され、飢えや無差別殺人に脅える日々を強いられる。
やがて何十万ものユダヤ人の移送が始まるが、家族の中でシュピルマンだけが引き離され、かろうじて死の収容所行きを免れる。
必死の思いでゲットーを脱出し、市内の隠れ家で息をひそめて生きるシュピルマン。
だが、ワルシャワ蜂起とともに街は戦場と化した。
砲弾と火の海をかいくぐり、心の中で奏でる音楽だけを支えに生き延びるが、ある晩、ついにひとりのドイツ人将校・ホーゼンフェルト大尉に見つかってしまう。
だが、彼はシュピルマンを殺す代わりにピアノの前へ連れて行き、何か弾くように命じた。
静かに演奏を始めるピアニスト。
暗闇に包まれた廃墟の街にショパンが響きわたる・・・・。


寸評
ひたすら物音をたてずに潜んでいたシュピルマンがドイツ人将校に発見されて、これが最後とばかりに覚悟を決め、また今までの物音を殺した生活を打ち破るように引くピアノの演奏シーンがたまらなく力強く印象深い。
そしてこのドイツ軍将校の存在がこの映画と物語を救いのあるものにしている。
彼はピアノ演奏の素晴らしさと、音楽の民族を超えた素晴らしさに心打たれ、ユダヤ人シュピルマンを見逃し、そればかりか救いの手を差し伸べたのだ。
「ナチス=悪」という常識とは違うドイツ軍将校の登場は、少々食傷気味なっているナチス告発映画と一線を画していた。
思えば、主人公シュピルマンは彼を取り巻くあらゆる人々から救いと援助をもらい生き延びている。
その救いと援助の積み重ねの展開は、見ているものを引き付け、2時間半の時間を感じさせない。

時折事件めいた出来事を挿入しながら物語を進めていくポランスキーの演出はすばらしい。
ユダヤ人に対する虐待や虐殺行為が日常茶飯事に描かれ、当然の如くそれらのシーンが処理されていくことに戦慄を覚える。
戦争も民族紛争も虐待も絶対によくない。
シュピルマンが生き延びる姿は、生き残るのも地獄と思わせるほどで、ただ一人身を潜めて逃げ続ける彼の恐怖と孤独が痛いほど伝わってくる。
僕には現実として迫り来る戦争の恐怖はないが、年齢を重ねてしまった今は生きたい思う気持ちが湧いた時のことを恐怖に思うようになった。
生と死の狭間は誰にでも訪れるが、このような状況だけは避けたいものだ。

エンディングのクレジットタイトルに重なる演奏シーンも、先の演奏シンに匹敵する盛り上がりを見せ感動ものだった。
振り返ると、主人公がピアニストなのにピアノの演奏場面が極端に少なく、それがかえって効果をもたらせて来たことに気づく。
隠れ家にピアノがあるのに、音を立てられないから弾くことはできず、鍵盤の上で弾くマネをするだけ。
こういう伏線があるから、クライマックスで久々にピアノを弾くシーンが、実に美しかったのだと思う。

それでもポランスキー作品としては「水の中のナイフ」や「反撥」、あるいは「吸血鬼」や「ローズマリーの赤ちゃん」などの初期作品の方が個人的には好きだし、印象的で脳裏に残るシーンが多い。
何年か経ってこの映画を思い出したとき、はたしてどのシーンを思い出すだろう。
今からの楽しみでもある。
私の場合の記憶に残るシーンは、例えば「水の中のナイフ」で、指を一本立てて片目を交互に閉じてヨットのマストを見ると、マストがその指の右に行ったり左に行ったりする、物語上何の影響もないシーンだったりするのだ。
そして、それは何年か経過しないと判らないことだけれども、振り返ってみた時、出来るだけたくさん思い出されるシーンを有している作品が、自分の中ではいい映画として思い出に残っている。

戦場にかける橋

2019-09-10 06:32:29 | 映画
「戦場にかける橋」 1957年 アメリカ


監督 デヴィッド・リーン
出演 アレック・ギネス
   ウィリアム・ホールデン
   早川雪洲
   ジャック・ホーキンス
   ジェフリー・ホーン
   ジェームズ・ドナルド
   アンドレ・モレル
   アン・シアーズ
   ピーター・ウィリアムズ
   ヘンリー大川

ストーリー
第2次大戦下のビルマ・タイ国境近くにある日本軍捕虜収容所長の斎藤大佐は教養の深い武人だった。
ここに収容されているアメリカの海軍少佐シアーズらは激しい労役に脱出の機会を狙っていたが、そんなある日、収容所にニコルスン大佐を隊長とする英軍捕虜の一隊が送られてきた。
バンコック・ラングーン間を結ぶ泰緬鉄道を貫通させるためクライ河に橋梁を建設せよとの命が司令部から斎藤大佐に下り、その労役に送られてきた捕虜である。
斎藤大佐は捕虜全員に労役を命じたが、ニコルスン大佐はジュネーブ協定に背反すると将校の労役従事を拒否したため、営倉に監禁された。
その夜シアーズは仲間2人と脱走し、1人だけ助かってコロンボの英軍病院に収容された。
一方、収容所では三浦中尉の工事指導が拙劣なためと捕虜のサボタージュのため架橋工事が遅れていた。
斎藤大佐は焦慮の余りニコルスンら将校の翻意を促したが彼らは応じない。
やがて陸軍記念日となった日、斎藤大佐はニコルスンらの頑固さに負け彼らの恩赦を伝えた。
ところがこのとき、意外にもニコルスンは自ら架橋工事に当ろうと申し出た。
彼は、サボタージュが軍紀の弛みだとみて捕虜たちに建設の喜びを与えることによって本来の軍人の姿へ鍛え直そうと考えたのである。
架橋の主導権はニコルスンに移ったが、期日までに橋を完成するために、斎藤大佐はその屈辱に甘んじた。
その頃英軍病院にいるシアーズのもとにワーデンという英軍少佐が訪れ、落下傘で挺身隊を降下させ橋を爆破する為の道案内を依頼した。


寸評
戦後の証言によれば、日本軍の行った捕虜を使っての労役にはもっと非人道的なものがあったとも言う。
木の根を食べさせられたという証言もあるようだが、どうやらそれはゴボウのことだったらしい。
日本軍も自分たちと同じものを食べていて、過酷な状況下に置かれていたのは同じだったとの証言も目にしたような気がする。
敵味方を問わず、戦場の最前線は悲惨な状況を呈していたのだろうことは想像に難くない。
戦争を題材とした作品として、その内容が史実に基づいたものであるかどうか、時代考証的に疑問があるかどうかなどの詮索は無意味であろう。
歴史上の事実とこの作品の良さは別次元で語られるべきであろう。
僕たちはこの戦争映画をドラマとしてしか観る事ができないかもしれないが、描かれた内容は非常に感動的で、人間ドラマとしての素晴らしさとスペクタクルの醍醐味を持っている。

米英の合作映画であるが、描かれるのはニコルスン大佐に代表されるイギリス人の誇りの高さである。
アメリカ兵のシアーズが命こそ一番で、捕虜としてとどまっていても死ぬことに変わりはないと脱走を試みるのに対して、ニコルスンはシンガポールにおいて司令部から降伏を命じられたので脱走は軍律に反するとして軍隊規律を律を遵守する。
そして建設作業の指揮は日本軍ではなく自らが率いるイギリス軍が行うと申し出る。
彼のイギリス人としての誇りの高さは、橋の完成と同時に英国軍が建設したとのプレートを打ち付けることでも表現されている。
もちろん最も現れるのが友軍による爆破を知った時にそれを阻止しようとする場面にあることは言うまでもない。
彼らが提案する工事計画を検討する場面では主客転倒する様が描かれていて滑稽だ。
そして彼等は自分たちの威厳をかけて工事を進めていくのだが、同時にそれは敵国に積極的な協力をすることでもあり、軍医はその矛盾を問い詰めるが、ニコルスン大佐には歴史上に名を残すことしか頭にない。
その姿勢は、橋の完成後に自分の人生を振り返り斎藤大佐に独白する場面につながっている。

現地の住民がシアーズ達に協力する背景が不明確で、特に若い現地女性が積極的に協力している動機がよくわからなかった。
日本軍にひどい目にあわされている反日感情からなのだろうが、命を危険にさらしてまでゲリラ活動まがいの行動を取る理由が描かれていなかったのは、日本軍への敵対行為は周知の事実ということなのだろうか。
途中ではピクニック気分の様なシーンもあるので、そのあたりの状況説明に物足りなさを感じた。
ニコルスン大佐の粘りに負けて、斎藤大佐が頭を抱えて悔し泣きする場面は少々漫画的だったし、ラストで軍医が「狂気だ」と叫ぶのは、もちろんそうなのだが何か通り一辺倒な叫びのような気がした。
戦争における狂気はもっと悲惨なものなのではないかと思ったりもするのである。

「クワイ河マーチ」は名曲で、いつまでも耳に残るテーマ音楽の一つである。
英国人捕虜たちの威厳の象徴として用いられており、ニコルスン大佐一行が収容所に登場するシーン、同じく完成した橋の上を行進するシーンには、感動を呼び起こされる。

ゼロ・ダーク・サーティ

2019-09-09 09:42:33 | 映画
「ゼロ・ダーク・サーティ」 2012年 アメリカ


監督 キャスリン・ビグロー
出演 ジェシカ・チャステイン
   ジェイソン・クラーク
   ジョエル・エドガートン
   ジェニファー・イーリー
   マーク・ストロング
   カイル・チャンドラー
   エドガー・ラミレス
   ジェームズ・ガンドルフィーニ
   クリス・プラット
   フランク・グリロ
   ハロルド・ペリノー
   レダ・カテブ

ストーリー
CIAは巨額の予算をつぎ込みながらも9・11テロの首謀者ビンラディンの行方を掴めずにいた。
そんな手詰まり感の漂うビンラディン追跡チームに、情報収集と分析能力を買われたまだ20代半ばの小柄な女性分析官マヤが抜擢される。
マヤは中東を専門に扱い、さっそくCIAのパキスタン支局へ飛んだ。
マヤはアメリカ同時多発テロ事件に関連して捕らえたテロリストの過酷な拷問にも立ち会い、取り調べの過酷な現実に戸惑いを見せる。
そんなマヤの奮闘もむなしく捜査は依然困難を極め、その間にも世界各国で新たな血が次々と流されていく。
捕虜の尋問から、ビン・ラディンの連絡係であるアブ・アフメドという名を聞き出すマヤ。
だが、上司の支局長はその情報の信憑性を疑い、頻発する自爆テロの阻止を優先した。
アルカイダの医師を買収し、情報を聞き出そうとするCIAだったが、会談場所に現れた医師は身体に爆弾を巻いた偽物で、自爆によってマヤの同僚のジェシカが死亡した。
さらに、アブ・アフメドがすでに死んでいるという情報も、マヤにもたらされた。
膨大な情報の解析から、アブ・アフメドの本名が割り出され、死亡情報は誤りだと訴えるマヤ。
懐疑的だった上層部もついに折れて、アブ・アフメドの親族の電話番号を知るために大金が使われた。
電話の盗聴から、アブ・アフメドの居所がパキスタンだと特定された。
さらに追跡を続け、アブ・アフメドがアボッターバードという町の屋敷に住んでいることが判明した。
この屋敷にビン・ラディンがいると確信し、及び腰な上層部に攻撃を訴え続けるマヤ。


寸評
冒頭に9・11で死にゆく被害者の声を集めた音声だけの映像(?)が流れる。
かなりの時間を割いているが、画面は真っ暗なままであの日の記憶を呼び起こす。
日本語字幕がないところもあり、僕に語学力が有ればその効果はさらに増長されていただろう。
アルカイダ及びウサマ・ビンラディンに対する憎しみを植え付けるが、我々よりも米国人にとっては尚更のものが有るに違いない。
ではこれは「復讐」を賛美し、さらには国威発揚を図るプロパガンダ映画なのかというとそうではない。
映像が流れだしてから延々と続く卑劣な拷問は、人格を無視した内容で気分的に滅入ってしまい、むしろ国家の威信失墜を象徴しているようですらあるのだ。
水攻めというひどい拷問も行われており、後半に入ると非人道的な捕虜の扱いに異を唱えるオバマ大統領のニュース映像が挿入される。
CIAという組織のある意味でスゴイ部分を見せられるのだが、どうしても日本の現状を想像してしまう。
日本はスパイ天国とも言われ、CIAのような組織はない。
あれば、このような行動がとれる部門と人員を作り出さねばならない。
情報を得るためには超高級車のランボルギーニも与える組織活動に目を見張ってしまう。
前半ではアルカイダ撲滅に向かって暗躍する国家組織の姿に日本人の僕は目が釘付けとなってしまうのだ。

ビンラディンを殺すという発言が度々発せられて、この作戦はビンラディン探索計画ではなくビンラディン殺害計画だったのだと知らされる。
それでもその後に起きた数々の自爆テロやらを見せられると、やはり首謀者の抹殺は妥当だと思ってしまう。
マヤの同僚の女性ジェシカが情報提供者になりすました人物の自爆テロによって殺害されてからは、拷問に戸惑い気弱になっていたマヤがビンラディン殺害に執念を燃やすようになる。
復讐の鬼と化すようになるマヤの変化に疑問を挟めないような説得力がある。
上司に食って掛かる強い女に変質するのは、別な視点で見れば恐ろしいことなのだと思う。
ビンラディンの捕縛作戦当日の内容などは興味深いし描き方にも本物らしく見せる緊迫感が有る。
否応なしに襲撃作戦に興奮を覚えてしまうのだ。
襲撃班は抵抗する敵をためらいもなく射殺していく。
やらなければ自分たちがやられるのだから当然の行為なのかもしれないが、男性であろうと女性であろうと容赦なく、さらにはためらいもなく止めの銃弾を撃ち込んでいく(さすがに子供たちを殺すことはない)姿にゾッとする。
その冷徹な行動の背後にあるものにも恐ろしいものを感じる。
憎しみが憎しみを呼ぶ負の連鎖を見てしまうのだ。
そして場内の暗転がおわり明るさが戻った時、僕たちは戦争に潜む快楽の罠に気づかされるのだった。
ラストで「どこへ行くのか?」と問いかけられたマヤの標的の消えた喪失感を漂わせる顔を思い起こすと恐ろしくもあった。
ビンラディンを殺害したが、アメリカを敵とみなす組織のジハードは終わるわけではない。
20世紀が戦争の世紀だとすれば、21世紀はテロとの戦いの世紀になるのだろう。

セルピコ

2019-09-08 17:13:57 | 映画
「セルピコ」 1973年 アメリカ


監督 シドニー・ルメット
出演 アル・パチーノ
   ジョン・ランドルフ
   ジャック・キーホー
   ビフ・マクガイア
   トニー・ロバーツ
   コーネリア・シャープ
   バーバラ・イーダ=ヤング

ストーリー
1971年2月、ニューヨーク市警の警官フランク・セルピコが重傷を負ってグリーンポイント病院に担ぎこまれた。
これより11年前、セルピコは希望と使命感に燃えて警察学校を卒業した。
82分署に配属され、はりきって勤務についたものの、日常茶飯事として行なわれていたのは同僚たちの収賄、さぼりなどで、理想と現実のギャップはみるまに彼の内部で広がっていった。。
犯罪情報課勤務に変わって、彼は向上心の満足と息ぬきをかねてニューヨーク大学へ勉強に行くようになり、そこで会ったレズリーというバレー・ダンサーと知り合い、やがて同棲するようになった。
私服刑事になるための訓練を受け始めた彼は、ブレアというプリンストン大学出の同僚と仲良くなった。
訓練が終わると、2人は私服刑事として、セルピコは93分署に、ブレアはニューヨーク市長の調査部に配属されることになったのだが、配属された最初の日、セルピコは何者かにワイロの分け前を渡された。
ブレアに相談し、調査部長に報告したが、部長はただ忘れてしまえと忠告するだけだった。
それと同じくして私生活の面でもレズリーを失った。
失意のセルピコは再びマクレインに会い、ブロンクスの第7地区に勤務を変えてもらうが、ここはさらに酷いもので、前の分署で顔見知りだったキーオという男が、ここの分け前は今まででも最高だとセルピコに耳打ちした。
彼が受け持たされたのは、ルベルという同僚とワイロ回収の仕事だったが、どうしても金をうけとろうとしないセルピコの立場は徐々に孤立せざるを得なかった。
ブレアとセルピコは、市長の右腕として働いていたバーマンに実情を訴えたが、この夏には暴動がおこる公算があり、市長としても警察と対決するわけにはいかないという理由でとりあげてもらえなかった。


寸評
セルピコは実在の人物で描かれた内容は事実と言うことだから、その人物像はリアルである。
主人公のセルピコはダーティ・ハリーのようなスーパーマンではなく、組織や社会に対する怯えを抱え、人間不審や苛立ちによって愛する人も失ってしまう人間的な弱さを持つ、いわば普通の男だ。
しかし、何処にでもいる普通の人であるセルピコが悪から目を背けることができなくなり、打ち負かされそうになりながらも自らを奮い立たせて組織悪に立ち向かう姿が観る者の心を打つ作品となっている。

それにしても警察組織の腐敗はひどい。
警察組織だけではない。
市長だって警察との摩擦を避けたいばかりに、セルピコの訴えを無視してしまう有様である。
警察庁長官だって、組織の存続を第一に考え報告を無視していた。
セルピコは警官になることを夢見て、それを実現させた警官だったが、その組織は汚職にまみれていた。
警官たちはまるで日本の暴力団がみかじめ料を取り立てるように、悪の組織から取り立てを行っている。
そのなかで清く正しく任務を遂行しようとするセルピコはのけ者となっていく。
セルピコは誘われても金の受け取りを断るが、仲間を売るようなことはしない。
そんな極限状態ともいえる仲間との関係の中で、理想の警官を追求すればするほど、警察社会からのけ者になっていくという理不尽さが痛ましい。

内部告発への報復だと思うが、セルピコは最も危険なブルックリンの麻薬地帯に転勤を命じられる。
捜査中に同僚に見捨てられ顔を撃たれたセルピコは一命をとりとめるものの聴力を失い、左半身が麻痺した身体となってしまい警察を退職する。
ラストシーンはセルピコが巨犬となった友人アルフィーとボストンバックひとつを持ってスイスへと旅立つ姿を映し出すが、それは晴れ晴れとしたものではなく淋しい姿だ。
しかしこのラストシーンは僕達にアメリカを捨てスイスへ旅立つ勇敢なヒーローを見送らせていたのだと思う。
麻薬課への転属時にランドルフ局長が「ワナにも気をつけろ」と忠告していたが、セルピコが撃たれたのはワナだったのだろうか。
その前に、「危ない目にあっても助けようとしないで抹殺を図る」というようなことが語られていたから、やはりあの二人はセルピコを見捨てたのだろう。
それでも彼等は金バッジを貰ったというひどい話が付け加えられている。
パチーノが演じたフランク・セルピコは、警察組織内の汚職と闘い、1971年には汚職を告発した警察官としてアメリカでは有名な人物らしいが、なんだか報われない人生を送った人物に見えてしまう。

瀬戸内少年野球団

2019-09-07 11:20:42 | 映画
「瀬戸内少年野球団」 1984年 日本


監督 篠田正浩
出演 夏目雅子 郷ひろみ 伊丹十三
   岩下志麻 山内圭哉 佐倉しおり
   大森嘉之 大滝秀治 加藤治子
   渡辺謙 ちあきなおみ 島田紳助

ストーリー
昭和20年9月の淡路島。
江坂町国民学校の初等科5年男組の級長、足柄竜太、バラケツ(ヤクザ)志望の正木三郎らは担任の中井駒子先生の指示に従って、国語の教科書の不適表現箇所を墨で塗りつぶしていた。
生徒の人気の的、駒子先生も、新婚早々に出征した夫正夫が戦死し、婚家にとどまるかどうか迷っていた。
義理の両親は、次男の鉄夫との再婚をすすめるのだが、気がすすまなかった。
新学期が始まって、海軍提督だった父に同行して島にやってきた波多野武女という女生徒が転校してきた。
そんなある日、竜太の祖父で巡査の足柄忠勇のもとに進駐軍が島へやってくるという報せが入った。
中井家では将校を招いて大宴会が催された。
手伝いを途中で抜け出して自分の部屋に戻った駒子を、鉄夫が力づくでねじ伏せ、体を奪った。
翌日、バラケツと竜太は学校の帰りがけに天神さまに寄ると、一本足で松葉杖をついた白衣の軍人に声をかけられたのだが、それは駒子先生の夫正夫だった。
しかし、駒子先生は前夜の鉄夫とのことがあるため、正夫に会うことはできなかった。
正夫は、竜太とバラケツに暮らすところが決ったら連絡すると約束し、島を去った。
桜が満開になる頃、竜太、バラケツ、武女は6年生に進級、担任は駒子先生だった。
間もなく、武女の父は巣鴨プリズンに出頭し、武女は島に残ることになった。
それとは反対に、バラケツの兄、二郎と愛人のヨーコが島に戻ってきた。
成金、軽薄を絵に描いたような二人が教室にやってきて、キャンデーをばらまいた。
争ってそれを拾う生徒たちの姿を見て、駒子先生は子供たちに野球を教えようと思った。


寸評
妻が淡路島出身ということがあって、それだけで親しみが持てる作品となっている。
玉音放送を聞いてからの話だが、淡路島って終戦時はこんなにもノンビリしてたのかと思ってしまうほどおおらかな人々の交流が描かれている。
「瀬戸内少年野球団」というタイトルであるが、前半では終戦を迎えた大人の世界が描かれる。
この時点で駒子先生(夏目雅子)は戦争未亡人である。
戦前の結婚は「家」の思想のもとに行われていたから、駒子先生は中井家の長男正夫(郷ひろみ)と結婚したが中井家に嫁いだ形でもある。
中井家を維持していくためには兄嫁は残された次男の鉄夫(渡辺謙)と一緒になってもらうのが都合がよい。
そのような事例は随分あったように思うが、鉄夫が一方的に兄嫁の駒子を好いているから両親はそのようになることを駒子に強要している。
正夫への思いと家の存続の間で苦悩する駒子の姿が中心となる前半部分だが、起きていることに比べて映画の雰囲気は随分と明るくほのぼのとしたものである。
田舎を思わせるためか、登場してくる人物がいずれもあけっぴろげの明るさを持ち合わせているのだ。
子供たちは終戦になっても涙を見せず快活である。
床屋を営む 穴吹トメ(岩下志麻)は明るい性格で、床屋をやめてバーをやりだすバイタリティ溢れた女性だ。
巡査の大滝秀治も善良な好々爺だし、途中から登場する島田紳助やちあきなおみも可笑しな連中である。
もちろん夏目雅子の教え子である少年たちは生き生きとしている。
特にバラケツの大森嘉之が生命力のある不良少年を見事に体現していて、終戦後の田舎の子にはこんな子がきっと居ただろうと思わせたが、僕が知る淡路弁は駆使していなかった。

後半は正夫が登場しいよいよ少年たちが野球を始めることになる。
正夫のユニホームは「KAISO」とあるから思い起こすのは海草中学だ。
となると、正夫のモデルは嶋清一ということになる。
嶋は1939年(昭和14年)、第25回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)で前人未到の全5試合を完封、準決勝・決勝では2試合連続ノーヒットノーランで優勝という偉業を成し遂げた伝説の投手である。
彼は徴兵され1945年(昭和20年)3月29日、シンガポールから門司に向かう輸送船団の護衛任務中、アメリカの潜水艦の雷撃に遭い戦死してしまったのだが、満で24歳の若さだった。

少年たちの野球は物語のスパイス的な役割だし、戦後の混乱と犯罪の様子、戦争犯罪人の処罰と残された家族の物語、正夫が淡路島にキンセンカの花畑を作るくだりなどが短いエピソードで紡いでいかれるは、少々盛り込み過ぎではないかと思われる。
しかし父親がシンガポールで絞首刑にあった波多野武女(佐倉しおり)との別れは泣けた。
バラケツが教えてもらった「SO LONG」を叫ばず、ふ頭で歌う姿も良かったけれど、武女(佐倉しおり)を見送りたい気持ちを抑えてじっと耐える竜太(山内圭哉)と、その姿を見て涙ぐんでくる駒子先生のアップが胸に迫ってきた。

本作は早逝した夏目雅子の最後の出演映画であり、渡辺謙の映画デビュー作としても記念碑的作品だろう。

接吻

2019-09-06 08:56:18 | 映画
「接吻」 2006年 日本


監督 万田邦敏
出演 小池栄子 豊川悦司
   仲村トオル 篠田三郎
   大西武志 青山恵子
   馬場有加 菅原大吉

ストーリー
坂口秋生(豊川悦司)は、閑静な住宅街で何の縁もない一軒家に侵入し、親子3人を鈍器で惨殺。
まもなく警察とマスコミに自ら犯人であることを告げ、多くのテレビカメラに取り囲まれる大混乱の中、身柄を拘束される。
偶然、自宅のマンションのテレビを通じてその逮捕劇を目にした遠藤京子(小池栄子)は、テレビモニターの中で謎めいた笑みを浮かべる坂口に一瞬で恋をする。
すぐさまコンビニへ行き数冊のノートを購入した彼女は、一家惨殺事件に関する新聞記事のスクラップを開始し、坂口に関するすべての情報を集めはじめるのだった。
一方、逮捕後の坂口は、警察の取り調べに対し沈黙を貫いていた。
拘留中の坂口に接見した弁護士、長谷川(仲村トオル)は「思い出すのがつらいことでも、素直に話してください。私はあなたの味方です」と誠実に語りかけるのだが、坂口は何一つ言葉を発しなかった。
初公判から熱心に裁判を傍聴していた京子は、長谷川に近づき坂口への差し入れを取次いでくれるようお願いする。
見ず知らずの坂口に対して他人とは思えない親近感を抱いていると告白する京子は、長谷川には奇異な存在に映った。
しかし、そんな彼女を気にかけているうちに、いつしか心惹かれるようになってしまう。
ある日、長谷川と京子は坂口の唯一の肉親である兄の元を訪ね、坂口の不幸な生い立ちを知る。
長谷川の心配をよそに、京子は自分とまったく同じ孤独と絶望を内に秘めた坂口に対し、「あなたの声が聞きたい」と手紙に記し、ついに獄中で坂口との面会を果たすが……。


寸評
犯人・坂口の兄役で篠田三郎が出てくるが、この映画は小池栄子、豊川悦司、仲村トオルの三人芝居といえる内容だ。
中でも小池栄子は凄い。不気味なほどの目の表情を見せる。
映画初めの死んだような目をしたOLから、坂口と出会って次第にその生を取り戻していく心の変化を上手く表現していた。
それも単にセリフではなく、その目その雰囲気で演じているのだからスゴイ。
坂口を演じた豊川悦司も言葉を発するのは映画が始まって1時間ほどしてからなので、前半におけるこの二人の無言芝居が作品の両輪となって支えていた。

世の中には一生懸命にやっていても世間に受け入れられない人がいて、坂口や京子がそれらの人種に入る。
京子は同僚の仕事を残業までして処理してやっても、事情を知らない上司から誉められたのは肩代わりしてもらった方で、依頼者が出すと言っていたタクシー代をもらい損ねているという日陰の女だ。
 事務能力に長けてはいるが、京子自身は陰気で自殺しそうな女と思われていると思っている。
自殺しそうな女と見られているということは、生きている価値がないと見られていることだとも言う。
都合よく何でも押し付けるくせに、けっして仲間に入れないとも言うが、それは同僚の会話でも実証されている。
それを一言でいえば、京子の言葉を借りれば運が悪い人間ということだ。
 彼女は無視され続けた人生を歩んできたようだが、坂口がもたらした笑に同様のものをとっさに見出したのだろう。それを京子は親近感だと言う。
坂口が漏らした笑と同様の笑みを京子も見せる。
この時の小池栄子の笑顔には背筋がゾッとした。 怖~ッ!という感じだ。
この笑顔は、"無視され続けた自分がやっと注目を浴びるようになってやったぞ"という勝ち誇った笑みだったのだろうか。
 確かに満たされない人生で、理由のない偏見によって鬱積したものが蓄積しているのは分かるが、こんなに加害者側に立って描いてもいいのかなとも思ったりした。
殺害シーンはなくて、その現場での坂口の狂気じみた行動が少し映し出されるが、兎に角この男は理不尽な殺人を犯したのだ。
そのことを弁護士の長谷川に語らせているが、言われた京子は聞く耳を持たない。
自分の被害者意識からこのような誰でもいいから殺したかった的な殺陣など許されるはずがない。
坂口、京子両人、特に京子に心情移入しそうになりながらも、すっかりその気になれなかった理由がその辺にあるのかもしれない。
 坂口が控訴を考え出したことで京子の坂口に対する感情は変化を見せるが、それは京子が坂口はこの世から抹殺されるべき人間で、そして自分も同様なのだと考えていたためなのだろうか?京子がこの世での存在価値がない人間ならこの世から相当数の人間が消えなければならない。そのへんは乗れないなあ・・・。
 ラストシーンで京子が引き起こすことは、ある瞬間から予想が出来ることだと思うが、それでもラストシーンでの長谷川の叫びに応える京子の叫びに続いて映し出された映画タイトルの「接吻」の赤い文字。
いやあ~、これには一番驚かされ、感動させられた。

切腹

2019-09-05 10:29:17 | 映画
「切腹」 1962年 日本


監督 小林正樹
出演 仲代達矢 岩下志麻 石浜朗
   稲葉義男 三國連太郎 三島雅夫
   丹波哲郎 中谷一郎 青木義朗
   井川比佐志 小林昭二 佐藤慶

ストーリー
寛永七年十月、井伊家上屋敷に津雲半四郎(仲代達矢)と名乗る浪人が訪れた。
「切腹のためにお庭拝借…」との申し出を受けた家老斎藤勘解由(三國連太郎)は、春先、同じ用件で来た千々岩求女(石浜朗)なる者の話をした。
窮迫した浪人者が切腹すると称してなにがしかの金品を得て帰る最近の流行を苦々しく思っていた勘解由が、切腹の場をしつらえてやると求女は「一両日待ってくれ」と狼狽したばかりか、刀は竹光を差しているていたらくで舌をかみ切って無惨な最後をとげたと・・・。
静かに聞き終った半四郎が語りだした。
求女とは半四郎の娘美保(岩下志麻)の婿で、主君に殉死した親友千々岩陣内(稲葉義男)の忘れ形見でもあった。
孫も生れささやかながら幸せな日が続いていた矢先、美保が胸を病み孫が高熱を出した。
赤貧洗うが如き浪人生活で薬を買う金もなく、思い余った求女が先ほどの行動となったのだ。
そんな求女にせめて待たねばならぬ理由ぐらい聞いてやるいたわりはなかったのか。
武士の面目などとは表面だけを飾るもの…と半四郎は厳しく詰め寄った。
そして、井伊家の武勇の家風を誇って威丈高の勘解由に、半四郎はやおら懐中よりマゲを三つ取り出した。
沢潟彦九郎(丹波哲郎)、矢崎隼人(中谷一郎)、川辺右馬之介(青木義朗)、髪についた名の三人は求女に切腹を強要した者たちで、さきほど半四郎が介錯を頼んだ際、病気と称して現れなかった井伊家きっての剣客たちであった。
高々とあざけり笑う半四郎に家臣達が殺倒した・・・。


寸評
生活に困窮した武士が、藩邸の門前を借りて切腹をして武士らしく死にたいと申し出る。
どこの武家屋敷でも玄関先を血で汚されたくないので、いくばくかの金を与えて追い返す。
津雲半四郎なる武士も彦根藩邸でそれを申し出るが、それはたかりであって以前にも同じような若者がいた事を、伊井家の家老が話し始める。
物語はふんだんに回想形式を取り入れ、半四郎の真の目的を明らかにしていく。

権力者の体面を取り繕う偽善を、切腹と言う形で鮮烈に描いた小林正樹監督にとって始めての時代劇だが、僕は場末の名画座でこの映画を初めて見たとき、なによりもカラー映画にないモノクロ映画としての美しさを感じたことを覚えている。
今の映画は、ブツブツ文句を言いながら、木片をナイフでチマチマ削っているような作品が多いと思うのだが、この作品はナタで薪を割るようなところがある。
権威社会の虚構に対する告発なのだが、描き方は本当にきわめてストレートだ。
最近はそうしたシンプルさを嫌味に思うようになったのだろうか?
なにか目新しいテクニックや感性をやたら見せたがる作品が多くなった昨今だと感じている。
そうなると逆に、このような単純な作品の質的高さを再認識させられる。
変にひねらない、わかりやすい作品をもっともっと作って欲しいものだ。

オープニングとラストは井伊家の象徴である赤備えの鎧が写しだされるが、これは権威の象徴だ。
セットは緻密で立派なものだし、狭い空間ながらもそこで繰り広げられる人間模様を抜群のカメラワークとアングルで捉えていく。
俯瞰からとらえた絵画を思わせる庭先の見事なアングルと、スムーズに移動しながら人物を捉えていくカメラワークに惚れ惚れする。
白黒画面によって呼び起こされる無常観などもでていて効果抜群だ。
モノクロ映画の白美といってもいい。

目ん玉をギョロリとさせるオーバー演技が鼻につくこともある仲代達矢だが、この作品ではそれがはまっていた。
回想を語る津雲半四郎の決意の並々ならぬことを感じさせる名調子だ。
それぞれのシーンでは息を止めて画面に食い入らせる迫力があり、そのシーンが終わるとフーッと大きく息をせざるを得ないようなことも度々である。
矢崎隼人や川辺右馬之介との対決は、どちらかといえばアッサリとしたもので、わずかに
沢潟彦九郎との一騎打ちだけがそれなりに描かれている。
彼らはあくまでも体面を保つ権威主義の偽善性を描くための道具なので、対決そのものに興味が行くことを避けたのだろう。 その分、すべてを吐露した後の彦根藩邸での大立ち回りは随分と描かれている。
その争いの音を聞きながら別室でじっと正座する家老の姿が、権威を守ることにのみ生きる男を感じさせた(歳をとった三國連太郎がやればもっと迫力が出ていただろう)。
橋本忍の脚本力が生きた作品でもあった。

セッション

2019-09-04 06:03:52 | 映画
「セッション」 2014年 アメリカ


監督 デイミアン・チャゼル
出演 マイルズ・テラー
   J・K・シモンズ
   ポール・ライザー
   メリッサ・ブノワ
   オースティン・ストウェル
   ネイト・ラング

ストーリー
偉大なジャズ・ドラマーになるという野心を抱いて、全米屈指の名門校シェイファー音楽院に入学した19歳のアンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は、フレッチャー教授(J・K・シモンズ)が指揮する“スタジオ・バンド”に所属すれば成功は約束されたも同然だから、何とかしての彼の目に留まりたいと考えていた。
ある日、一人で練習するニーマンの前にフレッチャーが現れるが、ほんの数秒聴いただけで出て行ってしまう。
数日後、ニーマンのバンドのレッスンに顔を出したフレッチャーは、メンバー全員の音をチェックすると主奏者のライアン(オースティン・ストウェル)を差し置いて、ニーマンにだけ自分のバンドに移籍するよう命じる……。
異様なまでの緊張感に包まれた教室でレッスンが始まり、フレッチャーが生徒たちを恐怖で支配する中、トロンボーン奏者が僅かな音程のズレを責められ、その場でクビとなる。
「17小節の4拍目」のテンポが違うと怒りで豹変したフレッチャーに椅子を投げつけられたニーマンは、ビンタでテンポを矯正され、悪魔のごとき形相で罵られる。
泣いて帰ったニーマンだが、翌日からその悔しさをバネに肉が裂け血の噴き出す手に絆創膏を貼ってひたすらドラムを叩き続けるのだった……。
ニーマンの母は彼が幼い頃に家を出て行っていて、音楽以外は何の興味もなく友達もいないニーマンにとって、今は別々に暮らす高校教師の父と映画館へ行くことが唯一の娯楽だった。
その映画館の売店でバイトをしているニコル(メリッサ・ブノワ)との初デートに出かけるニーマン。
そんな中、スタジオ・バンドが出場したコンテストでのあるトラブルをきっかけに、フレッチャーは主奏者をニーマンに任命したのだが、フレッチャーは有頂天のニーマンを残酷なまでに奈落の底に突き落とす。
ライアンを新たな主奏者候補として連れてきたのだ。


寸評
言ってみれば、名門音楽大学に入学したドラマー志望の若者が、鬼教官からシゴかれるというだけの話で、それ以外のドラマはないといっても過言ではない。
若者映画に付き物のガールフレンドとの出来事があり、それが重要なファクターでもあるのに深く描かれていないのだから、きわめてシンプルな映画だ。
ニーマンが主奏者になる経緯だって、本来ならそれでひと悶着あるだろうし、他のメンバーとの間にも何がしかの軋轢ドラマが描かれてもいいようなものだが、ちょっと嫌みを浴びせられるだけで深く描くことはしていない。
ガールフレンドの一件も、主奏者昇格の一件も、ごく簡単な描き方で処理している。
あくまでも鬼教官のシゴキが描き続けられていくのだが、それがハンパではないのだ。
他のエピソードをそぎ落としているので、鬼教官のシゴキが否応なく際立っていく。

教官のフレッチャーは生徒の人権を完全無視、汚い言葉で罵倒し、肉体的にも精神的にも徹底的に追い込んでいくのだが、それは所が代われば生徒への虐待として大問題になりかねないようなものだ。
対するニーマンは鬼教師のハラスメントに耐えながら、恋人、家族、人生さえも投げ打って主奏者に這い上がろうとする。
前半ではそうしたニーマンへの同情とフレッチャーへの嫌悪感が高まっていくのだが、途中から主奏者になるためのニーマンのズルサも見えてきて、ちょっとニーマンに対する距離を観客に取らせるようにしている。
そして最後はハッピーエンドと思いきや、オイオイそこまでやるかとなる。
ほとんどをレッスンでの罵倒シーンにしておいて、少しのエピソードで人間ドラマを盛り込むという演出は新鮮で、その組み立て方に唸らされた。
フレッチャーは音楽に関して妥協を許さない堅物だが、反面複雑な性格を見せる。
小さな女の子に声を掛ける姿などを見ると、結構優しい一面もあるじゃないかと思わせるのである。
それがあるから、フレッチャーがゲスト演奏しているクラブで二人が再会するシーンが生きてくる。
時に優しそうな表情も見せるからニーマンでなくても騙されてしまう。
まさにJ・K・シモンズの独断場で、最後の場面の驚きを生み出している。

ラストは凄まじすぎるニーマンのドラムソロ。
「キャラバン」と言えば、僕らの時代の者にとっては、ベンチャーズのキャラバンが懐かしい。
記憶の中にあるそのメロディが流れ出すと自然と足踏みしたくなる。
その足踏みを止めさせる凄まじい演奏で、まさしくフレッチャーとニーマンの音楽を通じた対決だった。
ニーマンはここでベース奏者だけでなくフレッチャーに対しても指示を出す。
フレッチャーを乗り越えた瞬間で、青春映画のひとつのテーマが消化された瞬間だ。
僕は音楽にそれほど造詣が深いわけではないし、楽器も何一つ引くことができない。
それでも最後の最後に映し出される2人の表情は、秀でたものだけが感じる音楽の持つパワーだったのだろうと思わされたし、やはりこれは音楽映画だったんだとも思った。
日本映画にはこのような作品はないし撮れない。
フレッチャーのJ・K・シモンズの演技を見るだけでも一見の価値アリ映画だ。

関の彌太ッペ

2019-09-03 08:25:58 | 映画
「関の彌太ッペ」 1963年 日本


監督 山下耕作
出演 中村錦之助 木村功 十朱幸代
   上木三津子 大坂志郎 武内亨
   夏川静江 鳳八千代 遠藤辰雄
   月形龍之介 岩崎加根子 安部徹

ストーリー
常陸の国結城在、関本に生れた、若くていなせな弥太ッぺは、十年前両親に死に別れ、祭りの晩にはぐれた当時八つの妹お糸を探して旅を続けていた。
途中、甲州街道吉野の宿で、旅の娘お小夜が溺れかかっているのを救ったが、お糸のためにと肌み離さず持っていた五十両の大金を、お小夜の父和吉にすり盗られた。
がその和吉も箱田の森介にきられ、お小夜を旅篭“沢井屋”に届けてくれと頼みながら息をひきとった。
沢井屋の女主人お金は、緑のない子供と拒絶したが、13年前誘拐された娘の落し子と知って驚喜した。
それから十年弥太ッぺは、お糸の病死を賭博仲間の才兵衛から知らされ、すさんだ生活に身をおとし、飯岡の助五郎一家の客人となっていた。
笹川の繁蔵一家との喧嘩に加わった弥太ッぺは五十両が縁で兄弟分の契を結んだ森介の姿をみつけた。
一緒に大綱楼にくりこんだ弥太ッぺに、才兵衛は、お小夜の恩人を探してくれるよう依頼されたと話した。
しかし弥太ッぺは黙秘し森介と別れたのだが、吉野宿の祭礼でお小夜らしい娘を見つけてハッとした。
沢井屋の裏手で、夕闇の中にお小夜の姿を認めて身じろぎもできない、純心な弥太ッぺなのだ。
才兵衛から話を聞いた森介は、お金の前に自分がお小夜の恩人だと名のり出て、お小夜を嫁にときり出した。
恩人と信じこむお金も、あまりのたけだけしい森介に当惑する毎日だった。
腕ずくでもと血迷う森介の噂を聞いてかけつけた弥太ッぺは、宝物のように大切にしてきたお小夜のために、兄弟分の縁を切って森介を斬り捨てた。
そして森介が詐し取った四五両の金を返す弥太ッぺをじっとみつめるお小夜の脳裏に、十年前の弥太ッぺの面影がよみがえって来た。
“待って下さい”と追いすがるお小夜をあとに、かねて約束の助五郎一家との果し合いをせかせる、暮六つの鐘の音が鳴り響いた。


寸評
股旅ものというジャンルがあるとすれば、本作は間違いなくその中の傑作のひとつに数え上げられるべき作品だ。
所々でとらえられるショットが素晴らしい。
例えば関の弥太郎(中村錦之助)が女郎となっている妹を訪ねて、その死亡を女郎仲間のお由良(岩崎加根子)から聞かされるシーンだ。
薄暗い小部屋をとらえた画面の左半分で二人が悲しげに話し込んでいる。
右半分は女郎屋らしい建具がぼかし気味に映り込んでいる。
カメラは二人に向かってゆっくりとゆっくりとズームアップしていく。
妹を亡くした弥太郎の悲しい気持ちが徐々に高まっていく効果を狙った美しい画面構成だ。
10年後、助っ人家業に身を落とした弥太郎の顔がいきなりアップで登場する。
先ほどまでの若々しい弥太郎とは似ても似つかぬ顔となっていく。
頬に傷を負い、目元は黒ずみスゴミを増した顔つきで、10年の間に弥太郎が歩んできた苦難の道を無言のうちに物語っていて、観客をドキリとさせ無駄なセリフなど必要としないいいシーンだ。
甘い雰囲気を出すのが弥太郎と成人したお小夜(十朱幸代)が語らうシーンだ。
二人の間には紫のむくげの花が垣根のように咲き誇っていて二人を隔てている。
瞼の君を慕うお小夜と、助っ人家業に身を置く弥太郎をわけ隔てる境界の様でもある。
ラストシーンに於ける飯岡の助五郎(安部徹)一家の待ち受ける二本松へ向かう弥太郎の姿をローアングルからとらえたシーンも余韻を残す素晴らしいものとなっている。

弥太郎は助けた少女に「悲しいことや辛いことが一杯ある。だが忘れるこったあ。忘れりゃ明日になる」と言ってはげますのだが、この粋なセリフが最後にもう一度登場する。
お小夜の十朱幸代がハッと気がつくいいシーンだ。
成人したお小夜の登場シーンはそんなに多くは無いが、この作品のヒロインにふさわしい存在感があった。
最初に登場する祭りのシーンでの、赤い風車を落として弥太郎に拾ってもらうシーンから可憐さを出していて、後にその赤い風車が小さな壺に生けられているショットを挟むなどして細かい配慮がなされている。

木村功の箱田の森介は悪そうな雰囲気ながら案外といい男として登場し、やがてその本性を見せることで作品に大きな転換を与える。
堺の和吉(大坂志郎)に盗まれた金を取り戻したら、それが50両もあって弥太郎のものと知り、いつの日か返そうとずっと持っていて、それが縁で弥太郎と兄弟分の盃を交わす。
また飯岡の助五郎と笹川の繁蔵の出入りでは、示し合わせてトンズラを決め込むなど、このあたりまではひょうきんな面も見せるいい男として描かれている。
それが沢井屋に現れた時から豹変するということで、この作品に変化をつけているのだが、この構成の面白さは原作者の長谷川伸によるものだろう。
ほとんどが撮影所のセット撮影だが、野外シーンにおける手の込んだセットは職人の腕を感じさせる。
山下耕作、会心の一作といえる中の1本であると思うし、前述したラストシーンは数ある時代劇中でも指折り数えられるラストシーンとなっていたと思う。

青春の蹉跌

2019-09-02 09:27:37 | 映画
「青春の蹉跌」 1974年 日本


監督 神代辰巳
出演 萩原健一 桃井かおり 檀ふみ
   河原崎健三 赤座美代子
   荒木道子 高橋昌也 上月左知子
   森本レオ 泉晶子 くま田真

ストーリー
大学の法学部に通う江藤賢一郎(萩原健一)は、学生運動をキッパリと止め、アメリカン・フットボールの選手として活躍する一方、伯父・田中栄介(高橋昌也)の援助をうけながら、大橋登美子(桃井かおり)の家庭教師をして小遣い銭を作っていたのだが、やがて、賢一郎はフットボール部を退部、司法試験に専念した。
登美子が短大に合格、合格祝いにと賢一郎をスキーに誘った。
ゲレンデに着いた二人、まるで滑れない賢一郎を背負い滑っていく登美子。
その夜、燃え上がるいろりの炎に映えて、不器用で性急な二人の抱擁が続いた。
賢一郎は母の悦子(荒木道子)と共に成城の伯父の家に招待された。
晩餐の席で栄介の娘・康子(檀ふみ)と久しぶりに話をする賢一郎。
第一次司法試験にパスした賢一郎が登美子とともに歩行者天国を散歩中、数人のヒッピーにからまれている康子を救出したことから、二人は急速に接近していった。
第二次試験も難なくパスした賢一郎は、登美子との約束を無視して、康子とデートをした。
やがて賢一郎は第三次試験にも合格したが、それは社会的地位を固めることであり、康子との結婚は野心の完成であった。
相変らず登美子との情事が続いたある日、賢一郎は康子との婚約を告げたが、登美子は驚かず、逆に妊娠五ヵ月だと知らせた。
あせる賢一郎は、登美子を産婦人科に連れて行き堕胎させようとするが医者に断わられる。
不利な状況から脱出しようとする賢一郎だが、解決する術もなく二人で思い出のスキー場へやって来た。
雪の上を滑りながら賢一郎は登美子の首を締めていた。
賢一郎と康子の内祝言の宴席。
賢一郎は拍手の中、伯父や康子を大事にしていく、と自分の人生感を語るのだったが・・・。


寸評
僕はこの映画を見るまで蹉跌という言葉を知らなかった。
蹉跌=つまずくこと。失敗し行きづまること。
監督の熊代辰巳は日活ロマンポルノでもって秀作を連発していたが、東宝から招聘されて撮ったのがこの「青春の蹉跌」である。
公開当時に劇場で見た時には学生運動の終焉も感じ取った記憶があるのだが、今見るとその感情は湧いてこないので、学生運動は遠くなりにけりということだろうか。

自らの野望ゆえに滅んでいく青年の物語なのだが、神代監督の独特な演出は主人公の屈折した人物像を浮かび上がらせていく。
「エンヤドット、エンヤドット」という斎太郎節の歌いだしを主人公が何度もつぶやいているのが印象的だし、ゼロックスのコマーシャルのような即興的な映像が挿入されるのも特徴的。
賢一郎は登美子と雪山で若い男女が凍死している現場に出会うが、女を置き去りにして逃げれば自分は助かったのにと勝手なことをつぶやくような男だ。
賢一郎は打算的な男で、登美子は愛を信じる純真な乙女のように見えるが、実は登美子もそんな女ではなかったことが明らかとなる。
この展開は衝撃的である。

主人公は私大の法学部に籍を置き試験にも合格していくが野望に燃える上昇志向の強い男ではない。
どこかさめていて優柔不断なところがある。
叔父は後継者にと考えているようだが、叔父のヨットでは顎で使われるようなこともあり、叔父の会社に入った後が思いやられるようなしぐさも見せる。
賢一郎も康子も泳げないと言っていたが、二人とも泳ぐことができるという虚構の関係だ。
登美子を背負って戯れた賢一郎は同じようにして康子と戯れる。
そんな男が二人の女性の間を浮遊し、翻弄され、どうしようもなくなって殺人を犯し破滅していく。
賢一郎は母親と共に叔父から援助を受けているが、貧しさゆえに充たされぬ野望をもって社会に挑戦し挫折したという男ではないので、僕は賢一郎に悲劇性を感じない。
それに比べれば二人の女性の方がしたたかだ。
登美子は薄幸な女を演じ、「別れてもいいよ」なんて言いながら、妊娠を口実に徐々に外堀を埋めていき、子供を堕胎したと嘘を言って賢一郎との関係を続ける。
康子は聡明で「新宿の時の女性のことは気にしない。今後は私だけにしてほしい」と迫る高慢な女だ。
二人に比べれば賢一郎などは青臭い。

賢一郎は登美子の実態を知らないで死んでいく。
ラストシーンは賢一郎の死を暗示していたと思うが、賢一郎の死で締めくくるのは公開当時の映画における風潮だったかもしれない。
原作者の石川達三が映画に対して怒りを表明したことが漏れ伝わっている。

青春の殺人者

2019-09-01 09:47:05 | 映画
「す」はあまり思いつきませんでした。
それでは「せ」に入らせていただきます。


「青春の殺人者」 1976年 日本


監督 長谷川和彦
出演 水谷豊 内田良平 市原悦子
   原田美枝子 白川和子
   江藤潤 桃井かおり
   地井武男 高山千草
   三戸部スエ
   
ストーリー
彼、斉木順は二十二歳、親から与えられたスナックを経営して三カ月になる。
店の手伝いをしているのは、幼なじみの常世田ケイ子である。
ケイ子は左耳が関えなかった。
その理由を順はケイ子のいう通り、中学生の頃いちじくの実を盗んで食べたのを、順がケイ子の母親に告げ口をし、そのために殴られて聞えなくなったと信じていた。
ある雨の日、彼は父親に取り上げられた車を取り戻すため、タイヤパンクの修理を営む両親の家に向った。
しかし、それは彼とケイ子を別れさせようと、わざと彼を呼び寄せる父と母の罠だった。
母親が野菜を買いに出ている間に、彼は父親を殺した。
帰って来た母は最初は驚愕するが、自首するという彼を引き止めた。
二人だけで暮そう、大学へ行って、大学院へ行って、時効の十五年が経ったら嫁をもらって、と懇願する。
だが、ことケイ子の話になると異常な程の嫉妬心で彼を責める。
ケイ子と始めから相談して逃げようとしていたのだ、と錯乱した母は庖丁を手に待った。
もみ合っている内に、彼が逆に母を刺していた。
金庫から金を奪った彼は洋品店で衣類を替えてスナックに戻り、ケイ子に店を今日限りで閉めると言った。
何も知らないケイ子は、自分のことが原因だから両親に謝りに行くというが、彼はもう取り返しがつかないと彼女を制した。
順はケイ子と一緒にアル中の母親の家に行って、いちじくの件をたずねるが母親はなかったと言う。
両親の死体をタオルケットで包んでいる時に、ケイ子が家の中に入って来たが平然としている。
彼の脳裏に幼い日の彼と、貧しい父と母が浮かぶ。


寸評
長谷川和彦は本作と、「太陽を盗んだ男」という特異な2作品だけを残して、その後映画を撮らなくなってしまった伝説の監督である。
その寡作性と作品のインパクトが伝説化させているのだが、この作品は彼のデビュー作である。
制作費の安さもあって内容は荒っぽいが、その荒っぽさが主人公の青年らしさ(むしろ子供ぽさ)、嘘の無さみたいなものを感じさせ、何かに導かれるように破滅に向かっていく様子を際立たせていた。
父親は欲しい物を与えるくせに熱中すると奪おうとしたと順は言うのだが、そんな事は分かっていて与えてもらう事を選んでいた自分の弱さも知っていたのだと思う。

母親の市原悦子と、息子の水谷豊のやりとりはこの映画の白眉だ。
母親は素直に警察に行くと言う息子に、「これは家の中の問題なんだから、法律やら国家やらに口出しされてたまるもんですか」という屁理屈を展開する。
家と土地を売り払って遠くへ逐電し、時効成立まで息子の嫁替わりにおさまろうとする。
父を殺してしまった息子にスリップ一枚の姿になって「ねえ、二人でアレしようよ…」と迫る場面は怖い。
嫁の代わりになろうとする気持ちを考えると、この母親の息子に対する猛愛の異常性も感じ取れる。
さすがにこのおぞましい近親相姦を順は本能的に拒絶する。
死んだ父親を浴槽に運び込むシーンでは「やめてー! もっと、そーっと!」といたわりを見せ、順から「「うるせーや! そーっとやったって荒っぽくやったって同じなんだよ!」と言われると、「ごめんね・・・海にきちんと沈めるまで我慢してね・・・」などと、わけのわからぬ事を言う。
圧巻なのはふたりの格闘シーンで、結局殺人に至るその場面で母親は「痛くないようにそーっとやってー」、「痛いようー! ああっ! 死ぬー! 死ぬよー!」と叫びながら殺される。
事前のシーンと重ね合わせると、この殺人は擬似セックスだったのではないかと思わせる。
市原悦子はこのようなネットリとした女をやらせるといい味を出す。
清純派女優にはできない役柄だ。

息子を愛してはいるものの、あくまで自分の所有物とみなしている父親対して、順は反感を抱きながらも口では父親に負けてしまい、自分ではどうしたらいいか解らない。
それは親離れし切れず確固たる意志を持てない若者の姿でもある。
順は自分でも理解できないくらい強い衝動が発端となって親を殺してしまう。
しかし順はそうまでして守りたかったものすらも理解できてないし、その後の生活も以前と変わらない。
両親の苦労を思い浮かべたり、楽しかった過去の日々を思い浮かべてしまう矛盾を抱えている。
主人公は父を殺し、母を殺し、女を捨てるが、全ては自分の弱さから出たことで、死にたくても死ぬ事すらままならない憶病さによるもので、燃え上がる黒煙を見る順の姿は小さな虚栄心が崩れさった青春の終わりを示していた。

原田美枝子は体の成熟さに似合わない子供っぽい顔と、素人っぽい台詞回しで役にはまっていたと思う。
彼女の豊満ボディはどうしても印象に残ってしまう。