「あん」 2015年 日本
監督 河瀬直美
出演 樹木希林 永瀬正敏 内田伽羅
市原悦子 竹内海羽 高橋咲樹
村田優吏愛 太賀 兼松若人
浅田美代子 水野美紀
ストーリー
春ともなれば桜の咲き乱れる公園に面した場所にどら焼き屋「どら春」がある。
オーナー(浅田美代子)に代わってこの店を切り盛りをしているのは雇われ店長の千太郎(永瀬正敏)なのだが、ワケありそうな中年男で単調な日々を過ごしていた。
千太郎のもとにある日、アルバイト募集の張り紙を見た徳江(樹木希林)が雇ってほしいとやってくる。
年齢的に無理と判断した千太郎は断ったが、再び訪れた徳江は手作りのあんを置いていく。
千太郎が試食してみると、粒あんが絶品だったことから雇ってみることにした。
徳江は手が変形していて不自由なので、重い鍋釜を操作しないあん作りを担当することになった。
徳江の作った粒あんはあまりに美味しく、店はみるみるうちに繁盛していく。
評判が評判を呼び行列ができるまでになった。
つぶれたどら焼きをもらいにくる女子中学生・ワカナ(内田伽羅)もだんだんと徳江に馴染んでいく。
しかしかつて徳江がハンセン病患者だったことが広まり、客が一気に離れていった。
この状況に徳江は店を去り、千太郎やワカナの前から消えてしまう。
それぞれの思いを胸に、二人は徳江を探す……。
寸評
徳江はハンセン病患者である。
ハンセン病はかつてはライ病と呼ばれ、誤った知識と対応から患者は隔離され差別を受けてきた。
その隔離政策と差別の非道性は度々作品に取り入れられてきたのだが、本作でもそれを正面に据えている。
徳江は登場した時から手に異常があることが示され、ハンセン病患者らしいことが観客に知らされる。
徳江の作るあんは絶品で、そのため彼女はやがて「どら春」に雇われるのだが、あん作りの講釈は食べ物映画ではよくある描き方で、言い換えれば食べ物映画の王道でもある。
徳江は材料の小豆に人格を与えて語りかけ、小豆を精一杯もてなしてやる。
早朝、夜が明ける前から仕込んで作られたあんを入れたどら焼きは今までのものとは別物となり、千太郎ですら「初めてどら焼きを食べる気がした」というものに仕上がる。
ここまではグルメ映画としての面白さを十分に備えていて、どら焼きが食べたくなってくる。
「どら春」には女子中学生がよく出入りしていて、ワカナもその一人である。
ワカナの家はアパート暮らしの母子家庭で、母親(水野美紀)には男がいてそうな雰囲気があり、暮らしはけっして裕福とは言えない。
どこか孤独なワカナなのだが、どうもこのワカナと千太郎の結びつきがよくわからない。
単なる店の主人と常連客以上のものがあるのだが、それが何によるものなのかは描かれていなかった。
ワカナは出来損ないのどら焼きをもらっているのだが、それは単に貧乏に同情した千太郎の好意によるものだったのだろか?
千太郎とワカナの心の結びつきがイマイチよくわからなかった。
二人が行動を共にする理由が不明確なことで、僕には徳江が辞めた後のエピソードが少しかすんでしまっているように見えた。
それでも、「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ」と語る徳江の言葉は重かった。
徳江はワカナと同じような年齢の頃から、施設に隔離されてきていたのだ。
ハンセン病患者による叫びの代弁でもあったように思う。
どうやら噂はワカナの母親から広まったようなのだが、誤報や思い込みも含めて噂が支配していく世の中は怖いものがあり、千太郎もその怖さを実感している。
千太郎の過去も明かされ、徳江の思いを受け止めて桜の下でどら焼きを売る姿に希望を持つが、その他の後始末がされていないので関係者のその後が気になった。
ワカナは家出していたはずだが、母親とはどうなったのだろう。
家に帰ったのだろうか。
店を改装することになったが、やって来ることになったオーナーの甥とは上手くやって行けそうになく、店と彼はどうなったのか。
前途不安も残したままで終わったような気もするのだが・・・。
パンチ力はないけれど、河瀬直美監督らしい視線を感じる映画担っているとは思う。
監督 河瀬直美
出演 樹木希林 永瀬正敏 内田伽羅
市原悦子 竹内海羽 高橋咲樹
村田優吏愛 太賀 兼松若人
浅田美代子 水野美紀
ストーリー
春ともなれば桜の咲き乱れる公園に面した場所にどら焼き屋「どら春」がある。
オーナー(浅田美代子)に代わってこの店を切り盛りをしているのは雇われ店長の千太郎(永瀬正敏)なのだが、ワケありそうな中年男で単調な日々を過ごしていた。
千太郎のもとにある日、アルバイト募集の張り紙を見た徳江(樹木希林)が雇ってほしいとやってくる。
年齢的に無理と判断した千太郎は断ったが、再び訪れた徳江は手作りのあんを置いていく。
千太郎が試食してみると、粒あんが絶品だったことから雇ってみることにした。
徳江は手が変形していて不自由なので、重い鍋釜を操作しないあん作りを担当することになった。
徳江の作った粒あんはあまりに美味しく、店はみるみるうちに繁盛していく。
評判が評判を呼び行列ができるまでになった。
つぶれたどら焼きをもらいにくる女子中学生・ワカナ(内田伽羅)もだんだんと徳江に馴染んでいく。
しかしかつて徳江がハンセン病患者だったことが広まり、客が一気に離れていった。
この状況に徳江は店を去り、千太郎やワカナの前から消えてしまう。
それぞれの思いを胸に、二人は徳江を探す……。
寸評
徳江はハンセン病患者である。
ハンセン病はかつてはライ病と呼ばれ、誤った知識と対応から患者は隔離され差別を受けてきた。
その隔離政策と差別の非道性は度々作品に取り入れられてきたのだが、本作でもそれを正面に据えている。
徳江は登場した時から手に異常があることが示され、ハンセン病患者らしいことが観客に知らされる。
徳江の作るあんは絶品で、そのため彼女はやがて「どら春」に雇われるのだが、あん作りの講釈は食べ物映画ではよくある描き方で、言い換えれば食べ物映画の王道でもある。
徳江は材料の小豆に人格を与えて語りかけ、小豆を精一杯もてなしてやる。
早朝、夜が明ける前から仕込んで作られたあんを入れたどら焼きは今までのものとは別物となり、千太郎ですら「初めてどら焼きを食べる気がした」というものに仕上がる。
ここまではグルメ映画としての面白さを十分に備えていて、どら焼きが食べたくなってくる。
「どら春」には女子中学生がよく出入りしていて、ワカナもその一人である。
ワカナの家はアパート暮らしの母子家庭で、母親(水野美紀)には男がいてそうな雰囲気があり、暮らしはけっして裕福とは言えない。
どこか孤独なワカナなのだが、どうもこのワカナと千太郎の結びつきがよくわからない。
単なる店の主人と常連客以上のものがあるのだが、それが何によるものなのかは描かれていなかった。
ワカナは出来損ないのどら焼きをもらっているのだが、それは単に貧乏に同情した千太郎の好意によるものだったのだろか?
千太郎とワカナの心の結びつきがイマイチよくわからなかった。
二人が行動を共にする理由が不明確なことで、僕には徳江が辞めた後のエピソードが少しかすんでしまっているように見えた。
それでも、「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ」と語る徳江の言葉は重かった。
徳江はワカナと同じような年齢の頃から、施設に隔離されてきていたのだ。
ハンセン病患者による叫びの代弁でもあったように思う。
どうやら噂はワカナの母親から広まったようなのだが、誤報や思い込みも含めて噂が支配していく世の中は怖いものがあり、千太郎もその怖さを実感している。
千太郎の過去も明かされ、徳江の思いを受け止めて桜の下でどら焼きを売る姿に希望を持つが、その他の後始末がされていないので関係者のその後が気になった。
ワカナは家出していたはずだが、母親とはどうなったのだろう。
家に帰ったのだろうか。
店を改装することになったが、やって来ることになったオーナーの甥とは上手くやって行けそうになく、店と彼はどうなったのか。
前途不安も残したままで終わったような気もするのだが・・・。
パンチ力はないけれど、河瀬直美監督らしい視線を感じる映画担っているとは思う。
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