時間には2種類のイメージの仕方がある。一つは、時間を線状のものとしてイメージするものであり、もう一つは、円状のものとしてイメージするものである。
前者は、電車がその上を走る、ある種レールのようなものとして時間をイメージし、後者は、秒針がチクタクとその上を回る、ある種時計の文字盤のようなものとして時間をイメージする。
歳月を春夏秋冬の循環としてイメージする日本人の感性は、明らかに後者に属する。これに対して、「♫ああ片道切符 もう戻れやしない去年の夏♫」と歌うチャットモンチーの歌は、前者に属すると言ってよいだろう。
この2つの時間イメージを1つのものとしてイメージすることはできないか、ーーそう考えた私がやっとたどり着いたのが、時間を「らせん階段」のようなものとしてイメージすることである。
去年の12月、「今年を振り返る」と第して、私は本ブログで次のように書いた。
「思い切り大雑把にいえば、今年もこれまで通りである。なんの変哲もないラセン階段をえっちらおっちら這い登って、一段上の踊り場にでた印象がある。
けれども、これもこれまで通り。そこから見る光景は相も変わらぬ日常のよく見慣れた光景だ。新しさは何もない。自分があの(カミュが描いた)シーシュポスになったような、虚しさに似たある種の徒労感を覚えている。」
(2023/12/30)
以上、時間のイメージについて喋々してきたが、なぜそういう仕儀になったかというと、けさの朝日新聞のコラム「天声人語」の中に、次のように書かれていたからである。
「(漫画「ドラえもん」の)作者の藤子・F・不二雄さんが雑誌で、くるくる回る床屋の看板を人に例えていた。上へ上へと夢を追いながら、じつは同じ場所にいる。「しまいには、その『上昇の夢』さえ忘れてしまう。そうじゃなくて、挫折しても明るく夢を見続ける『自分を見捨てない人』に共感してほしい。」」
漫画家の藤子・F・不二雄さんは、時間を「くるくる回る床屋の看板」のようなものとしてイメージしていた。なるほど、これは私の中にはなかった新しい発想である。新しい発想でありながら、時間に関する(上述した)2つのイメージをしっかり押さえている。さすがと言わなければならない。
私と藤子・F・不二雄氏とでは、何がどう違うのか。人生論的な展望である。藤子・F・不二雄氏は人生を、上へ上へと夢を追う上昇の過程と捉え、「挫折しても明るく夢を見続ける、自分を見捨てない人」を肯定的に捉えている。
ここに見られるのは、人生行路を長く歩き続け、くたびれ果てた老人の感性ではなく、洋々たる前途に充ちた若者のそれにほかならない。
私にも、そんな時代があったのだろうか。
前者は、電車がその上を走る、ある種レールのようなものとして時間をイメージし、後者は、秒針がチクタクとその上を回る、ある種時計の文字盤のようなものとして時間をイメージする。
歳月を春夏秋冬の循環としてイメージする日本人の感性は、明らかに後者に属する。これに対して、「♫ああ片道切符 もう戻れやしない去年の夏♫」と歌うチャットモンチーの歌は、前者に属すると言ってよいだろう。
この2つの時間イメージを1つのものとしてイメージすることはできないか、ーーそう考えた私がやっとたどり着いたのが、時間を「らせん階段」のようなものとしてイメージすることである。
去年の12月、「今年を振り返る」と第して、私は本ブログで次のように書いた。
「思い切り大雑把にいえば、今年もこれまで通りである。なんの変哲もないラセン階段をえっちらおっちら這い登って、一段上の踊り場にでた印象がある。
けれども、これもこれまで通り。そこから見る光景は相も変わらぬ日常のよく見慣れた光景だ。新しさは何もない。自分があの(カミュが描いた)シーシュポスになったような、虚しさに似たある種の徒労感を覚えている。」
(2023/12/30)
以上、時間のイメージについて喋々してきたが、なぜそういう仕儀になったかというと、けさの朝日新聞のコラム「天声人語」の中に、次のように書かれていたからである。
「(漫画「ドラえもん」の)作者の藤子・F・不二雄さんが雑誌で、くるくる回る床屋の看板を人に例えていた。上へ上へと夢を追いながら、じつは同じ場所にいる。「しまいには、その『上昇の夢』さえ忘れてしまう。そうじゃなくて、挫折しても明るく夢を見続ける『自分を見捨てない人』に共感してほしい。」」
漫画家の藤子・F・不二雄さんは、時間を「くるくる回る床屋の看板」のようなものとしてイメージしていた。なるほど、これは私の中にはなかった新しい発想である。新しい発想でありながら、時間に関する(上述した)2つのイメージをしっかり押さえている。さすがと言わなければならない。
私と藤子・F・不二雄氏とでは、何がどう違うのか。人生論的な展望である。藤子・F・不二雄氏は人生を、上へ上へと夢を追う上昇の過程と捉え、「挫折しても明るく夢を見続ける、自分を見捨てない人」を肯定的に捉えている。
ここに見られるのは、人生行路を長く歩き続け、くたびれ果てた老人の感性ではなく、洋々たる前途に充ちた若者のそれにほかならない。
私にも、そんな時代があったのだろうか。
いや〜、「記憶にございません」。
なんちゃって。