「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

信長が、信秀の棺に抹香を投げつけた理由!

2010年09月15日 | 信長論考!
おはようございます!

いやあ、なんだか、すっかり涼しい感じですね。

今日は天気が悪くなるとかで、なんとなく朝から暗い感じですね。

まあ、夏の終わり、秋の気配!ということでしょうか。

ま、9月も中旬ですからね(笑)。遅せーよ!って感じでしょうかね(笑)。


さて、水曜日の信長論考!ということですが、

信長のことをいろいろ考えるのは、なかなか楽しいですね。

彼が後年、突出していく理由が、すでに若年の時に、現れているのではないか、

という目で見ていますが、まあ、前回、彼は戦国武将として、自分を鍛え上げるために、

模擬戦を初めとして、多くの経験を積むことを若年の頃から、目的としていた、ということを論考しました。

まあ、読書で得られる情報なんて、高が知れてますからね。


そして、信秀は、末盛城を居城として、三河、美濃の両面作戦を新たに実施しようとしていた、

というのが、前回、見てきたところです。


さて、天文十七年(1548年)三月、駿河、遠江、の太守、今川義元が、太原崇孚雪斎を総大将に

三河の松平広忠の三河勢も加えて西三河へ侵攻してきたそうです。

信秀は、四千の兵を率いて、三河安祥城に入り、岡崎城外の小豆坂で遭遇戦になります。

今川軍は、坂上にいたため、一気に坂を下った今川軍が信秀勢を撃破、信秀の三河攻略は、事実上、不可能となったわけです。


信秀から、すれば、かなりやばい状況ですよね。


信秀は、三河攻略、美濃攻略の両面作戦を考えていた。しかし、弱体化していると見た松平広忠の三河は、今川が後ろ盾になり、

信秀の力だけでは、戦えない状況に陥るわけです。

さらに、尾張国内も、同じ織田氏の反乱を招いたばかりで、不穏な状態。

美濃攻略すら、できない状態なんですね。

信秀は、困ったと思いますね。

そして、何か、策を考えたというわけです。


それこそ、美濃斉藤氏との和睦なんですね。

まずは、斉藤氏と和睦し、国内の人心を再度糾合し、安定化させてから、対三河攻略に専念しようというのが、

信秀の腹積もりだったと思います。

まあ、そうせざるを得ない状況ですもんね。

最も強い敵は、あとにまわし、まず、できうる小さい障害の取り除きから、最初に実行する。

まあ、普通の考え方ですよね。


さらに、斉藤氏には、斉藤氏の問題があるわけです。

道三は、自分が擁立した土岐頼芸を追放して、自分が美濃国主になっちゃっていたんですね。

そりゃ、土岐氏の血の元に、結集していた、武将達ですから、信秀と同じように国内が不安になっていたわけですね。

このあたり、時代の変わり目なんですよね。それまでは、血への信頼性があった。

血に、神秘性を感じ、それを担ぎ上げることで、人心も安定した時代がまずあったんですね。

それが、力に対する信頼性に変わっていく、境目なんですよね。

まさに、それを体現したのが、この道三であり、信秀であるんですよね。

だから、国内が、安定していない、という同じ境遇にあるわけです。


お互いの状況を知っているだけに、それに経験者であるだけに、両者の同盟は、するすると行ったと思いますね。

そして、天文十七年(1548年)の暮れ、信長と、道三の娘、帰蝶の婚約が成立するわけです。

信長、十五歳だったんですね。


さて、信長は、どういう目で、美濃という国を見ていたんでしょう。道三のことは、知っている。

その道三は、人を見る能力に優れる信長にすれば、魅力的な人物に映ったことでしょう。

要は国盗りを実行した人間なんですからね。しかも、信秀とは、いいライバルでもあったし、

道三のほうが、一枚も二枚も上でしたから、ちょっとあこがれの目で見ていたかもしれませんね。

そして、国富む美濃。

僕は信長は、日本を平和にする!というところから、論考を開始した人物だ、と見ていますが、

その論考は、いつごろ成ったか、ということに、興味があります。

なぜなら、彼がこの時すでに、答えを出しているとしたら、美濃は、尾張統一以後、次に攻略すべき国だったからです。

そういう目で、美濃を、道三を見ていたのか、どうか。

まずは、そのあたりを考えながら、次に進んでいきましょう。


濃姫と信長が、婚約してから、まだ、三ヶ月余り、天文十八年三月三日、信秀は四十二歳で没してしまいます。

これ、信長の気持ちを考えたら、どう思います。

信長にすれば、信秀のあとを継ぐべく、自身を成長させている最中なんですよね。

父親を尊敬していたであろう信長、また、道三という信秀のライバルをも、見た信長は、自身を、信秀や道三に匹敵するくらいの

人間になりたかっただろうと思います。でも、それを考えれば、自身がまだまだ、ひ弱で経験も少ない少年に過ぎないことを

思わせるわけで、自身の力の無さを嘆いていた時代ではないか、と僕は思うわけです。


そんな時に、自分を監督する立場の信秀が、死んじまうわけです。


これ、普通、怒るでしょ!


「何でおめえ、こんな時点で、死んでるんだよ!」

つまり、信長が、信秀の棺に抹香を投げつけた、その思いって、これでしょ?

「おめえ、俺を、おめえの後継者に養育し終わってねえだろ!」

これですよ。だから、約束を破られた少年は、怒ったわけですよ!


さて、これについて、加来耕三氏は、「信長の謎」において、

「信秀の葬儀に参列した人々の関心事と言えば、数多い織田氏の中から誰が「旗頭」となり、真に信秀のあとを継ぐかだけだったかもしれません」

「すでに尾張の一大勢力となった信秀亡き後を狙う、織田一族が虎視眈々と隙を狙っていた。そうした事態を信長が知らぬはずがない」

「父信秀亡き後の己の行く末に信長なりのなんらかの固い決意もあったであろう。信秀の棺に抹香を投げつけた彼の奇行の真意たるや」

「まさしく”信長流”の亡父への決別と決意表明だったのでは、あるまいか」

と書いています。

なにこれ?はあ?って感じです。

信長流の決意表明?その理由を書かなきゃいけないのに、なんだいその説明。答えになってないじゃん。こんなの、なんでも、答えられちゃうじゃん。

信長が安土城を建てた理由は?まさしく、”信長流”の築城だった。

信長が義元亡き後の今川領を狙わなかったのは?まさしく”信長流”の戦略だった。

信長が天下に近づけた理由は?まさしく”信長流”の戦略だった。


なんでも、言えちゃうじゃん。そうじゃないでしょう?信長は、自分が、まだ、信秀どころか、織田の下四郡を治めるだけの力量やら何やら、が

圧倒的に不足していることを感じていたからこそ、感情的に、

「死んでんじゃねー!」

って、信秀に怒ったってことでしょ。どうして、こういう簡単なことが、わからんかねー?


武田鏡村氏は、その行為については、「小説や映画でよく知られた若き信長の姿」としているだけです。

他の資料についても、それについて、細かく書いた説明がないのですが、この信長にこそ、とても重要な要素が提出されていると、僕は見ます。


彼がなぜ、それだけ、怒ったか。


彼の中には、すでに、やるべきことが、決まっていたのでは、ないか。


そして、それが、信秀が死ぬことによって、実現不可能になる可能性が出てきた・・・だから、信長は、感情的になったのではないでしょうか。

というのも、信長が感情的になった情景を、この信長の若い時代においては、あまり聞かないからです。

だから、信長が狼狽した、ということは、彼の人生の目的が脅かされた・・・それは、戦国武将として、日本を平定すること・・・、

それが、できないかもしれない、と思ったからこそ、信長は怒ったのではないでしょうか。


つまり、この時点で、すでに信長は、


「自分が日本を平定し、日本を平和にする」


と決めていた、ということになるのです。


そして、もう、そのための論考に入っていた、とわかっちゃうわけです。


そして、もうひとつ。


怒るというのは、信頼が裏切られたから、ということなんです。


だとすれば、若い信長は、それだけ、信秀を信頼していた、ということになるわけです。

信秀を信頼し、自分を成長させることに、注力していたんでしょう。

日本を平定するための実力を自分に備えるために。

それまでに、時間がまだ、かかる、と信長は、思っていたでしょう。

だから、それが、怒りに変わったんだと、思います。


つまり、怒れるだけ、自分の実力を、冷静に見れていたんだと、思います。

16歳ですよ。なかなか、できることでは、ないと思いますね。


さて、武田鏡村氏は、「武功夜話」を資料として、使い、信秀の三周忌に、はじめて葬儀が行われた説を取っていますが、

「武功夜話」は、一般のひとが書いた小説という説が一般的ですので、この三年後にはじめて葬儀が行われたというのは、否定します。


ただ、鏡村氏は、信長が、抹香を投げつけた理由として、

「それは、この葬儀を取り仕切った者に対する当てつけ以外考えられない。その人物こそ平手政秀である。なぜなら、信長の力をもってしても」

「僧三百人余りを集めることは到底できるものでない。そこには、やはり今川氏と手を打ち、斉藤道三と同盟を築き上げた政秀の実力によって」

「葬儀が営まれたと考えるのが正しい。信長はそのことが腹立たしかったのである」

としています。

何を考えているんでしょうね?

まあ、間違った資料を採用しているところが、まず、問題ですが、まあ、それがあったとしても、おかしいところが、山積です。

まず、平手政秀が実力者となり、盛大な葬儀をしたのなら、信長は、別に怒る必要もないでしょう。

死より三年経っているとすれば、感情もおさまってしまうし、そのことからも、三年後に、葬儀を実施したことがおかしい、となるわけです。

さらに、それも、受け入れたとして、平手政秀は、家来筋だし、信長とすれば、平手政秀の力をうまく利用し、自分の実力を養えばいいだけなのだから、

家来筋に嫉妬なんか、しないですよ、普通。このあたりが、わかっていれば、自分の実力がなく、平手政秀の実力に嫉妬なんて、ありえないことだって、

すぐわかるでしょ?だから、この説明が、全然おかしい、ですね。

もし、平手政秀が、秀吉のように、織田家を利用しながら、自分の実力を養い、主筋さえ殺そうと画策するのなら、信長は、もっと違う手に出るでしょう。

それこそ、抹香なんか投げませんよ。血で血を洗う謀略戦になるはずです。ですから、解説自体全然間違っている、ということになるわけですね。


なんつーか、浅い説明だったり、変なこじつけだったり、なんだか、おかしいひとばかりですねー。

普通に眺めているだけだと、

「まあ、そんなもんかなあ」

なんて、思ったりするわけですけど、こう、論考すると、あらが見えるわけですよ。

だいたい、加来耕三氏なんて、戦国武将ブームに乗っていろいろ儲かっているひとですよ?

信長は、それこそ、戦国武将の基本中の基本的な人物ですよ?

それが、今まで、浅い説明に終始ですからね。笑っちゃいますよね。

まあ、今後も、どんどん、信長を詳しく見ていきましょう。


さて、今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。


ではでは。





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