「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

議論倒れに価値はなし!(西郷が謝った理由!:日本人的美学からの論考)

2010年05月27日 | 先人の分析
おはようございます!

というわけで、今日は天気が持ち直すようですね。

なんだか、少し寒いし、ほんとに天気が持ち直すのかなあ、と思いながら

熱い紅茶をぐびびと、飲んだりしています!


週間天気予報を見ても、週末、あまり天気が良さそうではないですね!

うーん、やっぱり、本格的なつゆの季節という奴でしょうか。

あまり、感心しませんねー。

ま、それでも、楽しくやっていきましょうか!

まあ、今日は木曜日!ということで、西南戦争シリーズです。

そのあたりを、ゆるゆると、論考していきましょうか!


さて、前回は、宮崎ら熊本共同隊が、協力を申し出たところ、篠原は、沈黙をもってこれに対したばかりでなく、

熊本城についても、作戦などいらず、軽くこれを抜く旨を申したため、共同隊側に協力についての異論が出た、ということまで、

書きました。まあ、信念のない人間や、対面ばかり重んじるアホな人間はどの時代にもいるわけです。

まあ、そういう人間は、信頼すべきではない、ということも言いました。

そして、熊本共同隊は、結局、篠原の言い分を認め、それについて行ったのだろう、ということを書きました。

さて、その結論の前に点景というのを紹介しなければいけませんね。


宮崎八郎が篠原からの返答を同士らに報告したあと、会議は薩軍に見切りを付ける意見まで出て混乱してしまったということを司馬氏は書いています。

「薩人は信頼できない」

「かれらは傲慢である。とてもこういう連中とともに戦う気になれない」

という議論が百出した、と書いているわけです。

家主の有馬源内というひとが、

「天賦の民権をとりもどすという大目的こそ大事で、そのために利用すべき薩人がどうであれ、構わぬではないか!」

と言い続けても誰も説得されなかったそうです。そして、

「薩人は、自藩こそ天下第一等の雄藩であるという自負を持ち続けている。今更それを嫌っても仕方あるまい」

と言っても、誰も聞かなかったそうです。

まあ、これは、正論という奴でしょうね。確かにその通りなわけです。宮崎八郎も同じ気持ちなわけです。

でも、一座の人間は、目的が違うわけです。

僕が彼らを信頼すべきではないと言ったわけが、ここで、解き明かされるわけです。


このとき、「翔ぶが如く」では、あるストーリーが用意されているので、それに乗ってみましょうか。

「このとき、誰かが要は死ぬと言うことだ。死ぬと言うことをここで、決めればいいだけのことで、議論は要るまい、と言うと、他の者が、」

「「死ぬ覚悟なら始めから決まっている。いまここでやかましく議論しているのは、ああいう粗笨な連中と一緒にやって犬死したくない、ということだけではないか」と言った」

と、まず、書いています。そして、結局、彼らが徳者として敬服している平川唯一というひとの言葉をもらうことにし、

「私は他のひとに強制はしないが、私自身の気持ちをまとめた。犬死することにきめた」

と言う言葉をもらったそうです。そして、それを受ける形で、野満富記というひとが、

「私はその犬死の先駆けをして死のう」

と言ったために議論が決したそうです。実際、このひとは、戦の初日に亡くなっているそうですから、言葉通り実行した、ということなんでしょう。


これ、議論倒れの肥後人を批判するストーリーなんですよね。

もう、熊本城攻撃が明日の朝だというのに、議論ばかりしていて、結局、行動につながらない。そして、この野満富記というひとが、

「肥後人の議論倒れに業を煮やすように」

あのセリフを言ったので、議論が決した、と書いているわけです。要は、宮崎八郎以外の肥後人を馬鹿にしているわけですね。

また、タニクサ行為ですよ。

まあ、司馬氏の臭みは、もういつものことなので、ほっておくとして、僕もこういう態度をとる肥後人を「信頼すべきでない」と斬って捨てていますから、

その説明をしなくては、いけませんね。


結局、議論倒れの人間というのは、「自分をよく見せたい」だけの、目的や信念がない人間なのです。

そうです。彼らの目的は、「自分をよく見せたい」なのです。

宮崎八郎のように「人民主権の獲得」という崇高な目的など、とは、比較にならないほど、だめな目的なんです。

肥後人達は、犬死はいやだ、という理論を展開していますが、要はカッコよく死にたい、というだけなんです。

要は、見栄をはっているだけの人間で、その意見をいれる必要などないし、信頼しちゃいけないわけです。

中身がない人間達ということで、議論倒れの人間達というのは、そういうひと達なわけです。

だから、行動を共にしちゃいけないし、そもそも人間として扱うべきでもありません。

だから、この熊本共同隊というのは、だめ人間の集まりだったと言えるわけですね。

まあ、いつの世にも、だめな人間というのは、いるものです。

宮崎八郎と、この野満富記というひとだけが、熊本共同隊としては、価値のある人間だったようですね。

目的と信念を持つ人間だけが、価値がある。

そう断ずると、価値のある人間なぞ、相当少なくなるような気がしますがね。


さて、二月二十二日、薩軍は、さらに攻撃をしかけるわけですが、それについて、司馬氏は、次のように書いています。

「本来、攻城の主役は砲兵であるはずだが、しかし薩軍はその認識に欠けていた。彼らが故郷から引きずってきた砲の多くは、この日なお運送の途上にあった」

「奇妙なことに、戊辰戦争における薩軍の特徴といえば、砲兵の運用の巧さということであったが、それより十年後の薩軍はまったく別の集団のように」

「これを軽視した」

これは、どういうことか、と考えてみれば、大山巌の存在が、政府軍側にあった、ということがまず言えるでしょう。大山は、大山砲と言われるものを

作ったくらい砲の運用に明るく、そのために欧州に留学したくらいですから、薩軍の砲兵のエキスパートとも言えたわけです。

その存在が薩軍から消え、政府軍側についたことで、薩軍での砲への意識が薄らいだということが、まず、挙げられると思います。

また、桐野ら指導者が、戊辰戦争当時、まだ、部隊の小隊長程度だったので、抜刀銃撃を繰り返してきた、ということがあると思います。

全軍を統率し、戦略を考える経験なぞないままに、それぞれ、指導者になってしまった人間達ですから、結局抜刀銃撃程度の戦い方にしか、

頭が回らなかったのでしょう。

そういう意味では、彼らは戦争のエキスパートでもなんでもなく、10年前に自分が経験したことをただ繰り返していたに過ぎない人間達なんです。

戊辰戦争で、華々しく勝ち抜いた経験からのみ、物事を考えているから、戦争の常道もとれず、戦のプロである鎮台をなめた、ということなのでしょう。

つまりは、戊辰戦争で勝ち抜いた経験が、彼らの頭を暗くし、「まあ、勝てるだろう」程度の頭で、物事にあたったのが、この西南戦争の

薩軍の指導者達だった、といえるのではないでしょうか。

極端な成功の経験というのは、人間を暗くし、物事をしっかりと見えなくさせる原因となるのです。

だから、

「勝って兜の緒をしめよ」

という言葉があるのです。

その失敗をしようとしているのが、この薩軍だったのです。

そして、砲兵の必要性を知っていながら、何も話さず、地獄への道を指し示しているのが、西郷なのです。


さらに司馬氏は、こう書いています。

「それにひきかえ、篭城軍のほうは、砲兵をよく運用した」

あのさ。戦のプロをなめるなよ。おいバカ芝!戦車兵程度の経験しかないくせに、プロをなめるとは、何事なんだよ!

仕事もまともにできないくせに、偉そうにするんじゃねー、このくそ馬鹿!

ちょっと考えるだけだって、砲のほうが威力があるんだから、積極的に使うのは、あたりまえだろうが、このボケ!

ったく、ほんとうにむかつく野郎だぜ、このバカ芝は!


さて、二月二十二日の薩軍の攻撃は苛烈で、鎮台側も負傷者や戦死者が続出したようです。

しかし、攻城兵器としての砲が未だに戦場に届いておらず決定的な被害を与えるに至らず、膠着状態に陥るわけです。

僕は普通におかしく感じますね。だって、鎮台側はさかんに砲を使い、薩軍側に被害を与えているわけですから、

「俺らも、あれを使おう」

ということに気づかないはずはないんですね。

まあ、二十二日は、砲の輸送途中ということだったので、砲が戦場につき次第、薩軍側も使うはずなのですけど、

それにしては、砲を最初から先頭に押し立てて輸送しておかなかったことこそ、薩軍がぬかってしまったことだと、僕は指摘しますね。

もちろん、バカ芝は、この指摘ができていません。


さて、この二月二十二日の午後、西郷は熊本城下に入ったそうです。この報は、各部隊長にも知らされ、士気の鼓舞に使われたようです。

そして、西郷の意識について、司馬氏は、次のように書いています。

「(あすまでかかるだろうか)と、城攻めの見通しについては、西郷はその程度の認識だったであろう」

西郷は、神風連の乱後に、熊本鎮台が強力な補強を受けて、対薩軍戦に戦い抜けるようになっていることを知っています。

だからこその大久保の挑発だったわけですからね。だから、西郷は、

「ここが、薩摩士族の死に場所か」

という意識だったと思います。バカ芝は、まったく見当はずれなことを書いているに過ぎません。


さて、このとき、例の熊本共同隊から、二人の使者が西郷の元にやってきます。

松崎、高島の二人で、この二人は

「西郷がどういう人間か見てきて欲しい」

という熊本共同隊の要請によって、西郷に会いにきたわけです。

西郷は二人に対面すると、西郷は両手を畳の上につけて、ながく頭を垂れてから、

「自分が西郷吉之助でございます。このたび、貴県を騒がせておわびする言葉もございません」

と言ったとしています。また、

「西郷大将、身体肥満、眼孔闊大、荘重ニシテ威風アリ。シカシテ面貌温和、語辞隠静、礼遇最モ至る」

という印象も記しています。これやっぱり目力が強かったんですね。まあ、多くの民衆の視線を浴びたおかげでしょう。

この時の西郷の意識からすれば、熊本鎮台を薩摩士族削除装置に勝手に選んだのが西郷ですから、

「貴県を騒がせておわびする言葉もありません」

というのは、もうそのまんまなんですよね。

司馬氏のストーリーを信じていた頃は、

「鎮台が勝手に、通り抜けようとする薩軍に挑みかかったのだから、なんで、西郷が謝る必要があるんだろ?」

と思っていたのですが、僕の論考通りに西郷の意識を考えると、するっと通じるわけです。

まあ、このことを考えても、司馬氏の見方が、全然間違っているということが言えるわけです。

彼は自分で書いていて、この西郷のセリフと整合性がとれないことすら、気がついていないわけですから、ほんまもんのバカですね。


さて、この二月二十二日の戦闘は、もちろん、夜になっても続くわけですが、薩軍は、夜の食事の用意もしていなかったそうです。

これを司馬氏は、

「薩軍が、一日で、熊本城を落とすつもりだった証拠」

としていますが、戦争が祭りと感じるほど好きな薩軍だったから、

「食事はそのときになって考えればよい」

と考えていたに過ぎないと思います。はっきり言って針小棒大なんだよね、この芝と言うバカは。

ちょっとしたことを「証拠だ」と言ったり、指摘すべきことができなかったり、見当違いのことばかりで、アホくさくなります。


さて、夜遅くなると、流石に薩軍も、眠らなければいけませんから、各所に堡塁をつくって警戒しながら、睡眠をとるわけです。

このとき、熊本に到着したのが、四番大隊の三番小隊長、野村忍介です。司馬氏は、こう書いています。

「彼らが川尻についたのは、二十二日の夕刻で、このとき、薩軍が全力をあげて熊本城を攻撃中であることを知った。野村忍介はおどろき」

「「熊本城に足をとられていてはすべてを失うことになる」と言い、(途中略)いそぎ西郷に面談することにした」

というわけで、薩軍きっての作戦能力をもつ野村忍介が登場してくるわけです。


このひとは、鹿児島県の警察署長ですから、まあ、大警視川路利良と似たところがあるわけです。

まあ、薩軍きっての作戦家というわけで、西郷にとって、この野村は、実はじゃまな存在なわけですよ。

野村は、薩軍を勝たせようといろいろ献策するわけですけど、西郷からしたら、そんなことされたら、困るわけです。

まあ、だから、いろいろ対応があれになってくるわけですけど、まあ、見ていきましょう。

というか、僕がそもそもこの司馬氏のストーリーがおかしいなあ、と思った契機になったのが、この野村忍介に対する西郷の対応がどんどんおかしくなっていったからです。

まあ、かなりあとにならないとその徴候が出てこないので、今はまあ、ゆっくりと眺めることにしましょう。


さて、日没後、諸将が西郷の本営に集まり、自然、軍議のような形になったとしています。

このとき、西郷は奥座敷にひっこんだままで、軍議には参加していないそうです。彼は作戦に口出しすることを極度に避けているようだ、としています。

これについて、司馬氏は、

「その理由はむろん執行面は桐野篠原以下にまかせきっているということであろうが、見様によれば、暴発以来、自分の運命を自分で開くというようなはからいを」

「断ち運命を天にゆだねきっているようにとれなくはない」

としています。しかし、このひとは、すぐ逃げをうちますね。断定をしない。間違いを指摘されたくない極度のこわがりです。

さらに、ものがまったく見えていないバカです。西郷をバカにすることで、自分をほこり、金を強奪する低脳うんこバカです。

西郷が作戦に口出しできないのは、桐野以下に薩摩士族削除を任せているために、申し訳ないと思っているからです。

それに、作戦に口出ししたら、薩摩士族削除の考えがわかってしまう恐れもある。だから、西郷は、何も口出ししないんです。

もう、すべてが論考できているから、運命が見えているから、何も言わないのです。


さて、このあと、野村が参加してきて、ちょっといろいろあるんですが、まあ、これは、次回ということにしましょう。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございます。

明日は、自由論考としたいと思います。

さて、何を論考しようかな!

今から楽しみですね!

その時に、また、お会いしましょう!

ではでは。


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