「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

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京都にいる信長軍に、もし、武田軍が戦いをしかけていたら?(信長論考!)

2011年07月20日 | 信長論考!

さて、僕は、人生の指導役として、織田信長さんを指名しています。

まあ、織田信長さんの人生をしっかりと論考し、生き方のヒントを貰おうと思っているわけです。

だから、信長論考をやっているわけです。

これまで、信長さんには、いろいろ教わりました。

まあ、これ、この記事だけでなく、ゲーム「信長の野望」「太閤立志伝」などをやっていて、

「信長って、そういうこと考えていたんだー。すげー」

と、気づいたこともあります。


例えば、信長さんは、

「日本の人口を100人として、仕事が出来る順に1番から、100番まで、順番をつけたとして、1から50番までの仕事の出来る奴を」

「俺の元に置き仕事をさせて、51番から、100番までは、敵に置いて戦えば、ぜーったい、俺の方が勝つじゃん!」

と考えていたんですね。これ、すごいよねー。でも、合理的だよねー。


というわけで、僕も高い目標を持ち、仕事の出来るプロと出会い、ガンガン周りにおいて、仕事しています。

まあ、男性のプロ、女性のプロを味方につけちゃえ、ということです。

これねー、いいよー。いろいろ人生よくなっていくからねー(笑)。


まあ、信長さんっていうと、まあ、あの戦国時代に、

「今さー、平和じゃないけどー、この国を平和にするには、どうしたらいいー?そっか、この性格のいい、僕がこの国を占領しちゃえば、いーんじゃん!かーんたーん!」

と、考えて、論考に入っていますからね。


だから、今川義元さんを倒した時に、実収200億とも言われる今川義元の領地、駿河、遠江、三河の国に目もくれず、

京都への回廊、美濃攻撃を開始しているんですよね。


まあ、明確な目標を早いうちに立てていたもんだから、行動にブレがないんです。

ここですよね。信長の素晴らしいところ。

だから、僕も目標立てて、毎日、楽しく、人生歩んでいるんですよねー。


というわけで、実際に、論考進めましょ(笑)。


前回は、六角承禎を倒したところでした。六角承禎は、自分の腕に酔いしれてしまった、酔いどれ者でしたから、

戦うことに喜びを感じるだけで、現実を引き寄せられなかっった。

信長のような論考者が、現実を引き寄せていくんですね。


まあ、前回、六角承禎が領地を捨て、逃走したので、近江は、織田信長さんの支配下になっちゃったんだよね。

実際には、六角氏の家臣が、織田家の支配下に入ったということなんだよね。


そして、近江を確保した、信長は、実質的に、京への回廊を確保したことになるわけです。


9月14日、この時、時の天皇、正親町天皇が、信長に、禁中警護と、京都市中での、軍勢の乱暴狼藉の禁止を要請したんですね。

六角承禎が敗走したのは、9月13日ですから、情報が速いことがわかります。というより、京側は注視していたんですね。

なにしろ、京は、玉ですからね。日本の中心ですからね。時の権力者に翻弄させれる運命にあるのが、京の人間達ということで、

「おお、また、権力者が来はってーなー。織田信長ってどない人間なんやろな」

なんて感じだったんでしょうねー。


というわけで、京の人間の代表として、正親町天皇が、

「京を守ってな。木曽義仲には、ならへんでくれな」

と言っているわけです。まあ、京を守る立場だし、当然ですよね。

というか、ここから、信長の時代が始まるわけですよね。


そして、9月26日。信長は、足利義昭を奉じて入京するわけです。

出陣が、9月7日ですからね。

20日足らずで、京都へ上がっちゃったわけですけど、これ、要は、前から織田信長の頭に、想定があったということなんですよ。

つまり、予定の行動だから、準備も頭の中で、何年も前から、出来上がっていたから、

「さーて、やっとこの時が、来たか。もう、シミュレーションは、とっくに終わっているし、やっちゃお」

という感じで、さらりとやっちゃった、ということなんですよね。


でもね、これ、すごいことなんですよ。

将軍奉じて京都に上ったら、日本全国の武将に命令を出せるということですからね。


さて、ここでわかるのは、

「信長は、もう、京に登るのは、シュミレーション済みだった」

ということです。だから、簡単にできちゃった。

そして、この時、日本の他の武将を見回したら、

京に登ろうなんて、考えている武将なんて、ひとりもいなかったんですよ。


このあたり、司馬遼太郎や安す手の時代劇製作者が、

「戦国時代、日本中の武将が、京に登ろうとひしめきあっていた」

的な表現をしたから、変な情報が広まっただけであって、

「京都に上り、将軍の権威を使い、日本占領の初手を打つ」

というのは、信長しか、やっていなかったんですよ。

信長が、日本占領の初手として考えていただけであって、最終的な目標は、全国制覇ですからね。


だから、京都に上っただけでは、何も出来ないんですよ。


だから、武田信玄が京都に登ろうとしたとか、もし、登っていれば、信長なんて・・・なんて話が出てくる。

兵站なんか、どうするんですか?武田信玄。

信長は、兵站の問題を解決して、京都に登ってきているんですよ?

このあたりからして、信長と武田信玄は、比べ物にならないんですよ。

だって、武田信玄が、京都にのこのこやってきたところで、目標は、信長の京都追放くらいで、

それも、兵站がしっかりしているわけではない。

日本占領を目標にしている信長なら、戦略的撤退だって、簡単に出来るし、

兵站が出来上がっているから、一旦京都に武田軍を引入れた後、攻撃をかければ、兵站のない消費都市京都に閉じ込められた武田軍は易々と破られます。

その戦法は、過去幾度と無く繰り返されていますから、信長が知らないはずないんですね。


だから、歴史にIFは無くても、シミュレーションをしてみれば、

「武田信玄が、京都に突入し、織田軍を撤退させても、結局は、京に閉じ込められた武田軍は、信長軍の徹底包囲によって、殲滅される」

ということが、わかっちゃうんですねー。


ま、今回、それを結論にしましょうか。

やべ、時間が、ねー!


ではでは。


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