「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

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プライドなんて、邪魔なモノ!(酔いどれ者になっては、いけない!)

2011年03月22日 | 信長論考!
どうも、ゆるちょです。

まー、この記事は、夜向け記事なんですけど、

書いているのは、超朝の時間帯です。

というわけで、朝の記事、というか、コメントについて関連するんですが、


まあ、僕が親と同居していることについて、

「いい年をして、親と同居!」

みたいなことを否定的に書いていましたが、

「アホか?」

と、言いたいですね。

大人になれば、誰でもわかると思いますが、

人間年をとれば、いろいろ障害なり、病気になり、なっていくものです。

「老いては子に従え」

というのは、

「年齢を重ねて親の身体が効かなくなってきたら、それを見るのは、子供の当然の役目なんだぞ」

ということを言っています。


つまり、僕は親孝行のために、同居しているわけですね。


親が病気になったり、弱っていくのを見るのはつらいものがあります。

でも、大人としてそれを受け入れ、親孝行をしながら、生きて行くのは、親にとっても、子にとっても、しあわせなことなんです。


そんなの人間として、当たり前のことでしょ?


要は、このコメントを書いたひとは、


「親孝行を考えたことのないひと」


というのが、だだわかりになってしまうんですね。


仕事ができないばかりか、親孝行もしたことのないひと。


これ、人間として、最低じゃないですか?


まあ、人は何を話すかで、何を考えているか、どういう状況の人間か、すらすらわかられちゃうんですよ。

中途半端にしか、仕事もできず、親孝行から逃げいる人間なんて、そんな最低な人間、関わりたくもありませんね。


さて、今日は、論考シリーズ、再開しちまいますか!


信長論考・・・ずっとやってませんでしたからね。

ひさしぶりに、やってみましょうかねー。


えー、前回の信長論考では、

「浅井長政が、信長の妹お市をもらったのは、将軍家足利義昭の意向に沿った形をとったから」

というのが、わかりました。


まあ、それだけ、あの時代、将軍家の権威というのは、高かったということなんでしょうねー。


さて、時代は、永祿11年(1568年)に移ります。

2月、信長は、北伊勢を攻略します。

信長の三男信孝を神戸友盛の嗣子に送り込み、さらに、信長の弟の信包を長野氏の名跡をつがせるべく送り込みました。

そして、津田一安を安濃津城の守将に送り込み、北伊勢を支配下に納めました。

まあ、謀略の得意な頭の回転の速い信長ですから、血を流さずに(秘密裏に、血を流したかもしれませんが)、

北伊勢を支配下においたのでしょう。北伊勢側も、信長に抗するより、支配を受けた方がなにかと今後いいだろうという

判断があったんだろうと思いますね。


信長はこの時期、支配を広げるのと同時に並行して、上洛に立ちはだかる近江の六角氏に懐柔策をしかけてます。

4月27日、六角氏の家臣、永原、佐治氏と盟約を結び、所領を安堵しています。

ですから、信長としては、できるだけ戦わずに、上洛することを狙っていたことが、このあたりで、わかってきます。


まあ、でも、それは、当然でしょうね。戦力はできるだけ、減らしたくないでしょうからね。


そういう意味では、硬軟両方の手段で、論考者信長が、事実を引き寄せようとしているのが、わかります。

もちろん、今の信長の目標は、上洛して、将軍家の権威の元、日本を牛耳ることですから、

最終的には、武力が必要になるということです。はい。


さて、信長は、いろいろと準備を整えながら、この時期、村井貞勝らを越前の一乗谷に遣わし、

足利義昭を美濃に迎える使者としています。

そして、7月25日、美濃の立政寺に足利義昭を迎え、上洛への供奉を承諾します。

すごいですね。美濃を平定したのが、前年の9月ですからねー。

まだ、一年も経っていないわけです。まあ、信長としては、目標は、自らの手による

全国平定ですから、この足利義昭の美濃入りは、カモネギ状態ですよねー。

「鴨がネギを背負ってやってきたわ」

と、信長が思ったかどうかわかりませんが、似たような感想を持ったことは事実でしょう。


つまり明確な目標を持って生きていれば、目の前にあるモノが、

自分の人生に役立つものか、どうか、がシビアに理解できる、ということをこの事実は教えてくれるわけです。


少なくとも朝倉義景には、この足利義昭の価値はわからなかった。

朝倉義景は、全国平定など考えていなかったし、

「朝倉家さえ立ち行けば・・・」

くらいの思いだったんでしょう。

だから、目の前の人間の価値などわからなかったんですね。


つまり、人間は、明確な人生の目標を持っていないと、いけない、ということなんですよ。

もちろん、僕は明確な人生の目標を持っています。もちろん、信長さんに教訓を教えてもらったからです(笑)。


さて、それは、さておいて、

信長は京都へのパスポートをゲットしたわけですが、

その直後からいろいろと工作を開始します。


8月2日、まず、近江甲賀の土豪に対して、近江に進発する日程を告げ、忠節を要請しています。

8月7日には、信長自ら近江の佐和山城に趣き、観音寺城の六角承禎に所司代職を約束して、足利義昭への

忠節を要請しています。信長は、7日間逗留して、六角承禎を説得しますが、結局、六角承禎は、承諾せず、信長は岐阜城へ

戻っています。


信長は、自ら、六角承禎を説得した、というところから考えると、信長にすれば、

「ここは、俺自らが説得しないとダメだろう。ダメもとだ。説得してみるか」

と、考えたということでしょうね。

つまり、上洛に関して言えば、この六角承禎を味方につけることが、その後の京をとりまく情勢にも有利に働くと

信長は踏んだ、ということでしょう。

そして、信長は、自分の説得能力に自信があった。なにしろ、朝倉家に恩義のある浅井長政すら、落とした信長ですからね。

信長の手にした将軍家というツールはそれだけ最高に説得力を持つものだったわけです。そして、信長はその効能を知っていた。

さらに、信長は、説得の勘所も知っていたんでしょう。

だから、信長は、7日間も、説得に費やしたと見るべきでしょうね。


じゃあ、六角承禎は、なぜ、そんな信長の提案を拒んだのでしょう?

武家として、将軍家に従わない、ということになるんですよね。

それは、武家として、あってはならないことです。

実際、将軍家の信長に城を落とされてしまうわけですけれど、つまり、信長の協力者になりたくなかった、ということでしょう。

割と単純な浅井長政とは、違って、六角承禎は、信長の真意を悟っていたのでしょう。

「こいつは、将軍家を道具に使って、自分の力を伸ばそうとしているだけに、違いない」

多分、それがわかった・・・つまり、実際に直に話したことで、信長の考えていること、その恐ろしさを理解してしまったのでしょう。

そして、信長が並の男ではないことも、わかってしまった。


つまり、信長を恐れたんですよ。六角承禎は。


だから、信長に協力したら、いいように使われて、適当なところで、後ろから斬られる、ということを想像したんでしょう。

要は、六角承禎は、信長を理解できなかったということです。


信長は、仕事のできる人間は、とことん使い続けます。

それに、信長は、人間に美を求める。

美しくない行為を行った人間を激しく嫌うんですね。

佐久間信盛は、後年、追放されますが、彼の折檻状には、信盛の美しくない行為が書き連ねてあった。

それだけ、信長が、人間の行為に、美を求めていた、ということでしょう。


あるいは、六角承禎は、自分の行いが美しくないことを知っていたから、信長を恐れたのかもしれません。


まあ、杉谷善住坊を使って、信長を射殺しようとした男ですからね。六角承禎は。


いずれにしろ、六角承禎は、信長とは、相容れなかった。

そして、それがきっかけになって、信長に滅ぼされるわけです。


あるいは、六角承禎は、信長の力を侮っていたのかもしれません。いや、実際、侮っていたんだ。

「観音寺城の守りがあれば、信長なぞ、恐るるに足りん!」

と考えていたのが、明白です。

ま、それが、彼の想像力の足りなさを証明してしまうんですけどね。


さて、織田家とすれば、六角承禎の説得に失敗したことで、実際に大軍を率いて実力による上洛作戦をすることに、

方針転換するんですね。


つまり、それまでは、平和裏に上洛しようと考えていた、ということがわかるわけで、

状況に合わせて、戦略を変えていける信長というものが、ここで、見えています。


それも、信長が自身で、六角承禎という人物を見極めているから、できることで、

やはり、信長は、自分の目というものをしっかり、使っていたということです。

一番大切なのは、人物をこの目で見て、どういう人物か、見極めることなんですね。

だから、信長が、7日間も説得にかけた、ということは、

「六角承禎を敵に回したくない」

という信長の気持ちの表れでもあるんですね。

それだけ、六角承禎という人物は有能な人物だったんでしょう。


実際、巧緻な戦闘は、得意な人間だった、ということが言われています。

いわゆるゲリラ戦のプロ的な、今で言えば傭兵部隊の隊長みたいな人物だったのでは、ないでしょうか。

戦いのプロだから、信長の考えている底がわかった。

だから、戦で、迎え撃つ気になったんでしょう。

自分の実力にも、観音寺城の実力にも自信があった。

いや、だからこそ、信長と戦ってみたい、という欲にかられたのかもしれない。

このあたり、信長のような、現実を引き寄せる論考者とは、違う人種です。

自分のプロの技術に酔いしれ、さらに敵を撃破する魅力に酔いしれた、酔いどれ者です。

論考者が、しれっと事実を引き寄せるのに対して、

酔いどれ者は、戦いそのものを好むに過ぎない。結果なんて、あまり考えていない。

「たぶん、いつものように、俺は勝てるだろう」

という安易な思い込みしかない。

論考者と酔いどれ者が戦えば、現実を引き寄せる論考者が勝利するのは、当たり前です。


さて、信長は、9月7日、尾張、美濃、北伊勢、さらに家康の援軍を合わせて、6万(一説には4万)とも言われる大軍を催し、

美濃の平尾に陣取ります。

しかし、6万の大軍って、ちょっと想像ができませんねー。その大軍を自分の意の元に動かせるんですから、

信長のこころの中は、アゲアゲだったでしょうねー。

人間、経験だけが、人を成長させます。

6万の軍団を統率する経験は、彼をさらに成長させたでしょうねー。


さて、信長軍団は、9月13日、観音寺城を落とします。

前夜、支城が、一気に落とされて、六角承禎は、あわてたと言います。

観音寺城は、山上の城で、多くの支城と共に連携することで、敵軍を撃退できるようになっていたわけですから、

六角承禎は、今回もその戦法で、行こうとしたのでしょう。

ゲリラ戦的な巧緻な戦いで、信長軍を悩ましながら、弱らせていこうとしたのでしょうが、

6万という大軍は、それを許さず、一気に支城群を落としてしまった。

さらに、一日で観音寺城まで、軍勢が迫り、六角承禎は、何をする暇もなく、一族を率いて伊賀に落ちたのでした。


酔いどれ者は、論考者の前に、何もできずに逃げたのです。


現実をシビアに見ている信長と、自信の腕と城に溺れた六角承禎という構図が見えてきます。


やはり、現実をシビアに見ている人間には、勝てないのです。

自分の実力を過大評価してしまった、城の能力も過大評価してしまったのが、六角承禎ということになりますね。


信長は、これまで、常に戦いに身を置いていた。だから、自分と自分の実力をいつも試されてきたので、自分の力を知っていた。

六角承禎は、これまでに、小規模の軍隊との戦いしか経験してこなかった。

だから、6万という大軍の戦闘というものを、想像でなかったのが、敗因ですね。


つまり、人間というのは、想像力も必要だ、ということなんです。

目の前の人間の能力というものを、過大評価する必要はないが、シビアに見定める必要があったんです。


6万もの軍隊を率いる人間が、目の前にいたのに、それを見抜けなかった六角承禎。

多分、プライドが邪魔をしたんでしょうね。


だから、プライドなんて、ただの邪魔者なんです。えてして、それは、人生を敗北させてしまう、アイテムだ。


ひとを見る目を持つこと、その大切さと、想像力。

プライドなんて、いらないってことが、この信長VS六角承禎の構図から、わかりましたねー。


それが、この記事の結論かな。


信長の生き方から、たくさん、教訓がもたらされます。

僕らはその教訓を胸に、明確な目標をしっかり持って、生きていくべきなのです。

それが、自分のしあわせにつながっていくのです。


ここまで、長くなりました。

ここまで、読んで頂いてありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。


ではでは。




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