えーというわけで、今回は、信長論考特別版として、書きたいと思います。
ま、昨日、平清盛関係の番組を、民放で見たからですねー。
まあ、以前から、指摘してきましたが、織田信長と、平清盛の共通点というのは、非常に多いですね。
昨日も、平清盛は、厳島神社において、ライトアップを行なっていたという話を新たに聞きましたけど、
信長も安土城のライトアップをやっていて、
「史上初ではないか?」
などと言われてましたが、なんのなんの・・・清盛がやってるじゃーん、ということで、これも、清盛を意識してのことだと推測されますね。
元々、信長については、
「なぜ、信長は、当初、平氏を私称していたのか?」
という問題について、思考したんですね。
そこにどういう理由があるか?
で、信長の思考を考えた時、信長は自家を強くする方法論として、
「商業地からの税金収入を重視し、足利義昭を奉戴し入京した際には、堺、近江の大津、草津に代官を起き、交易による収入管理へ移行していった」
ということから考えて、同じような方法論をとった平清盛を、先人として、理解していたからこそ、
信長は、平清盛を尊崇し、平氏を私称したと考えられるわけです。
また、清盛は、仏教の末法思想が跋扈した、平安の世に生きていながら、非常に合理的な考え方を示しています。
例えば、陰陽師が、祈祷し、雨が降りだした時も、
「4月5月の春の嵐が収まれば、梅雨になって雨が降るのは至極当然」
として、陰陽師の功を、否定しています。
あるいは、大河ドラマ「平清盛」でも描写されていますが、当時の「平清盛」以外の人間が恐れた神輿に対して、
その神輿を、
「あれは、ただの箱じゃ」
として、神輿を矢にて射る、という事件を起こしています。
平清盛は、明らかに合理的にモノを考えることが出来た・・・当時の人間の中で、唯一、合理的精神を持った人間だったということが証明出来るでしょう。
このありかたは、信長に共通するモノであることは、明白ですね。
「仏が来世利益を約束し、神と崇められるなら、実際に現世利益を約束し、実行している、この織田信長は、神以上ではないか!」
そう喝破した信長は、神輿を「ただの箱」とした清盛と同じ合理性の海にいる人間と見ていいでしょう。
清盛にしろ、信長にしろ、この合理性に裏打ちされた精神力を持っていたからこそ、数々の困難を打ち破り、
貿易による巨利を背景に、政治課題を解決していったと見られるわけです。
清盛に至っては、宋銭の輸入まで、行なっている。もちろん、日本初のことです。
つまり、二人の武将は、どうやって、自家の力を伸ばすかという課題について、貿易を選択したのです。
お金こそが、人の心を取る、お金こそが、自家の軍事力を養うのだ、ということを理解していたのは、信長であり、清盛だったんですね。
さらに人の心を取る、ということでは、信長も清盛も、自身がシンボルとした安土城、厳島神社を、両者とも、ライトアップしている。
闇夜に、火という形が、人を荘厳な気持ちにさせ、人の気持ちをとる、ということを両者とも、よーく知っていたということでしょう。
信長による、安土城のライトアップは、信長的には、最晩年にあたります。
そういう意味では、信長は、最晩年まで、尊敬する清盛の影を追い続けていたのかもしれませんね。
「信長は、平清盛を、「成功した武家の始祖」として、尊敬していた」
これ以外に、信長が、平家を選択した理由がありますか?
「信長は、元々平家の流れだったのだ。それ以外にない」
という話は、笑う以外にありません。
信長は、使えるモノは徹底的に使ったリアリストです。
自分に意味のあるプロパガンダしか、しない人間です。
ですから、信長が平家を名乗るなら、それは、意味のあるプロパガンダにならざるを得ないのです。
なので、
「信長は、元々平家の流れだったのだ。それ以外にない」
という言説は、ポイントをはずした指摘と言わざるを得ないのです。
信長と清盛のこれだけの共通点・・・これは、信長が意識的に、模倣したとしか考えられません。
あのオリジナリティにあふれた信長が、模倣したということは、それだけ、清盛に尊敬の念を抱いていた・・・使える施策ばかりだと評価していたということでしょうね。
信長と清盛・・・二人の巨人が、日本を変えた・・・新しい日本を作るために、動いていたことは、現代の我々に、
「ほら、今の日本も、新たな日本に作り変えろよ!誰か!」
というメッセージに聞こえるのは、僕だけではないでしょう。
新しい日本を作らなきゃ!
以上
ま、昨日、平清盛関係の番組を、民放で見たからですねー。
まあ、以前から、指摘してきましたが、織田信長と、平清盛の共通点というのは、非常に多いですね。
昨日も、平清盛は、厳島神社において、ライトアップを行なっていたという話を新たに聞きましたけど、
信長も安土城のライトアップをやっていて、
「史上初ではないか?」
などと言われてましたが、なんのなんの・・・清盛がやってるじゃーん、ということで、これも、清盛を意識してのことだと推測されますね。
元々、信長については、
「なぜ、信長は、当初、平氏を私称していたのか?」
という問題について、思考したんですね。
そこにどういう理由があるか?
で、信長の思考を考えた時、信長は自家を強くする方法論として、
「商業地からの税金収入を重視し、足利義昭を奉戴し入京した際には、堺、近江の大津、草津に代官を起き、交易による収入管理へ移行していった」
ということから考えて、同じような方法論をとった平清盛を、先人として、理解していたからこそ、
信長は、平清盛を尊崇し、平氏を私称したと考えられるわけです。
また、清盛は、仏教の末法思想が跋扈した、平安の世に生きていながら、非常に合理的な考え方を示しています。
例えば、陰陽師が、祈祷し、雨が降りだした時も、
「4月5月の春の嵐が収まれば、梅雨になって雨が降るのは至極当然」
として、陰陽師の功を、否定しています。
あるいは、大河ドラマ「平清盛」でも描写されていますが、当時の「平清盛」以外の人間が恐れた神輿に対して、
その神輿を、
「あれは、ただの箱じゃ」
として、神輿を矢にて射る、という事件を起こしています。
平清盛は、明らかに合理的にモノを考えることが出来た・・・当時の人間の中で、唯一、合理的精神を持った人間だったということが証明出来るでしょう。
このありかたは、信長に共通するモノであることは、明白ですね。
「仏が来世利益を約束し、神と崇められるなら、実際に現世利益を約束し、実行している、この織田信長は、神以上ではないか!」
そう喝破した信長は、神輿を「ただの箱」とした清盛と同じ合理性の海にいる人間と見ていいでしょう。
清盛にしろ、信長にしろ、この合理性に裏打ちされた精神力を持っていたからこそ、数々の困難を打ち破り、
貿易による巨利を背景に、政治課題を解決していったと見られるわけです。
清盛に至っては、宋銭の輸入まで、行なっている。もちろん、日本初のことです。
つまり、二人の武将は、どうやって、自家の力を伸ばすかという課題について、貿易を選択したのです。
お金こそが、人の心を取る、お金こそが、自家の軍事力を養うのだ、ということを理解していたのは、信長であり、清盛だったんですね。
さらに人の心を取る、ということでは、信長も清盛も、自身がシンボルとした安土城、厳島神社を、両者とも、ライトアップしている。
闇夜に、火という形が、人を荘厳な気持ちにさせ、人の気持ちをとる、ということを両者とも、よーく知っていたということでしょう。
信長による、安土城のライトアップは、信長的には、最晩年にあたります。
そういう意味では、信長は、最晩年まで、尊敬する清盛の影を追い続けていたのかもしれませんね。
「信長は、平清盛を、「成功した武家の始祖」として、尊敬していた」
これ以外に、信長が、平家を選択した理由がありますか?
「信長は、元々平家の流れだったのだ。それ以外にない」
という話は、笑う以外にありません。
信長は、使えるモノは徹底的に使ったリアリストです。
自分に意味のあるプロパガンダしか、しない人間です。
ですから、信長が平家を名乗るなら、それは、意味のあるプロパガンダにならざるを得ないのです。
なので、
「信長は、元々平家の流れだったのだ。それ以外にない」
という言説は、ポイントをはずした指摘と言わざるを得ないのです。
信長と清盛のこれだけの共通点・・・これは、信長が意識的に、模倣したとしか考えられません。
あのオリジナリティにあふれた信長が、模倣したということは、それだけ、清盛に尊敬の念を抱いていた・・・使える施策ばかりだと評価していたということでしょうね。
信長と清盛・・・二人の巨人が、日本を変えた・・・新しい日本を作るために、動いていたことは、現代の我々に、
「ほら、今の日本も、新たな日本に作り変えろよ!誰か!」
というメッセージに聞こえるのは、僕だけではないでしょう。
新しい日本を作らなきゃ!
以上