「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

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明智光秀は、なぜ信長を殺したのか?(本能寺の変の本当の真相!)

2012年06月05日 | 信長論考!
信長の死・・・本能寺の変のことを少し考えていたら、

明智光秀って、本能寺の変の後、朝廷からお金を貰っているんですよね。

まあ、これまでは、信長を倒し、天下人になった光秀・・・時の権力者に媚びる朝廷と公家たち・・・という構図で説明されてきましたが、

それにしては、お金を下賜するタイミングがあまりに早すぎる・・・どうも僕には、

公家と光秀の間に、あらかじめ、暗黙の了解で話が出来上がっていた、ように見えます。

「朝廷の敵である、信長討伐に功あり、よって、金銀を下賜する」

的な朝廷の風景に見えるんですね。

もちろん、これは、明智光秀が、

「あらかじめ指令されていた、信長討伐」

を朝廷に報告に行った、と見えるってことなんですけど、

信長は意図的に朝廷とは距離を置いていた・・・本能寺の変で京に入ったのも、実は一年ぶりくらいだったりするわけです。

その信長のあり方とは、正反対なあり方でしょ?光秀のあり方・・・。

信長は、朝廷での職を貰っても、すぐに辞退していた・・・これは、足利義昭に管領職を与えられそうになったのを辞退したのと同じ思考で、

既存の権威の序列に、入りたくなかった信長、ということでしょう。


だから、朝廷は信長をコントロール出来なかったわけです。


信長が何らかの朝廷の職についていれば・・・天皇の権威で持って、公家が信長に命令することが出来る。

でも、朝廷の職についていない信長には、なんの権威も効かないわけです。


もちろん、信長は、実力抜群で、命令ひとつで、どんな権威も破壊することが出来る。


なにしろ、信長は、天皇及び公家が、平安時代から恐れてきた比叡山延暦寺を焼き払ってしまったんですからねー。

これ、神輿に矢を射た、清盛と同じ行為なんですけどね。今、気がつきました。

神輿に矢を射た清盛を、公家達は、恐怖の目で見たでしょうねー。

そして、武家的実力をつけてのしあがって来たら・・・それをコントロールするために、位打ちするのは当たり前・・・だから、源義朝と位的に差が出たのは当たり前。

そう見られますねー。

と、このあたり、信長と一緒なので、おもしろいですね。


その位打ちが効かない信長・・・もちろん、公家達は、焦るわけです。

「信長は、コントロールが出来ない、猛り狂った虎じゃあ」

そんなことを当時の公家たちは、共通の意識として、持っていたんじゃないでしょうか?


さて、ここで、「平清盛」でも、出てきたシーンを思い出してみましょう。


悪左府頼長は、コントロール出来ない「平清盛」の代わりに、誰をコントロール下に置こうとしました?

自らの身体さえ使って・・・。

そ。清盛の弟、「平家盛」くんを、「与し易し」と見ぬいて、コントロール下に置きましたよね?

「おまえは平家を俺に売ったのじゃ。藤原摂関家に平家を打ったのじゃー!」

というようなことを頼長さんに宣言されていましたが、まあ、あれが典型的な公家の手なんです。

武家を支配するための。


つまり、信長は、平清盛状態なんですよ。


ここでも、共通点を見つけられちゃいましたねー。おもしろい。

ま、その家盛くんは、死んじゃうわけで、平家の危機は去るわけですけれど、公家はあの手この手で、武家を支配しようとし、

支配出来ない武家がいると、与し易い武家を見つけ、その武家をコントロールし・・・例えば、家盛が生きていたとしたら、家盛を炊きつけ、

清盛の勢力を削ぐ・・・実際、そうなっていましたね。家盛がまるで平家の棟梁のようになり、清盛は冷や飯食らいに落とされていた・・・。


あれが、武家に対する公家のあり方なんですよ。

公家の戦い方なんですよ。


簡単には公家に支配されない武家・清盛と、与し易く簡単に公家に支配されちゃう武家・家盛の構図・・・この構図、どこかにあてはまりませんか?


そうです。簡単には公家に支配されない武家・信長と、くみしやすく簡単に公家に支配されちゃう武家・光秀・・・そういう構図にそっくりじゃないですか!


光秀は長く京にあって、公家と織田家の取次役をやっていました。

自然、公家と親しかった・・・つまり公家たちの危惧・・・コントロール出来ない武家・信長に対する恐怖感を、光秀は肌で感じていたでしょう。

そして、信長は、あの天皇家・公家にとっての年来の宿敵でもある、比叡山延暦寺を命令一下滅ぼしてしまった、果断な行動力と実力を持った信長・・・そりゃ怖いよね。

公家たちはかつて清盛をコントロールしたように、位打ちをする・・・それが効かないんだから、余計怖いわけです。


そして、信長は、暦の改定を申し入れてくる・・・これは天皇家の権限のひとつなんですよね。暦を制定するということは。


まあ、これ天正10年・・・天正という言葉も信長チックですよね。なにしろ、信長は自らを「天主」と称したわけですから、

この「天正」という元号にも、

「これからは俺が天を正す時代にするんだ。正しい世づくりのため、天を正す時代が、今なのだ」

という信長の意図が透けてみえるようです。


ま、それは置いておいて、まあ陰陽寮・・・ま、国の機関ですよね。今だったら気象庁になるんですかね。

そこの技官が作った京暦は、天正11年の1月を閏月にしたのに対して、東国で一般に使われていた三島暦は、天正12年の2月を閏月にしたそうで・・・ウィキの受け売りです。これ(笑)。

まあ、多くの信長本には、この暦の改定を朝廷に求めたのは、天皇家の権威をひとつずつ剥奪していく信長の意図があった、と書いてありますが、

この話を具体的に見ていくと、どうもそうではありませんね。

潔癖で合理的精神に富んだ信長の気持ちになれば、地元の暦業者に、

「三島暦と京暦が違うんで、いろいろ困っとるんですわ。貴方様の力でなんとか一本化できませんやろか」

と言われれば、

「確かに、今のままでは、いろいろ不便だ。よし、一本化すりゃあ、民も喜ぶし、この日本のためだ」

という思いになるのは、当たり前でしょう。


もちろん、信長の底意としては、

「暦を扱うのは、朝廷の・・・というより天皇の大きな権限・・・これに今の俺が口出しして・・・さあ、どういう扱いになるかな?」

と、自分の力を試すリトマス試験紙として、この行為の結果を見ていた信長があったのは、当然でしょうね。


まあ、信長が本能寺の変で倒れてしまうんで、この暦の改定話は、うやむやになっちゃうんですけど、

「三島暦の方が、実際正しい」

ということが、民間に情報として流れた結果、京暦は軽んじられ・・・朝廷の権威はさらに下がった結果になったんだそうで・・・技術的にも貧すれば鈍するだったのが、

当時の朝廷だった、ということでしょうね。


ま、話を元に戻しますが、そういう「貧すれば鈍する」な公家達から見れば、信長は大きな脅威なわけです。


その信長が暦の改定すら言い出したとなると、公家たちの記憶に残る、天皇家最大の敵の姿が、まざまざと蘇ってくるわけです。


天皇になろうとした将軍、天皇の位を簒奪しようとした、足利義満そのものの姿です。


彼は天皇家から実質的な権力をドンドン剥ぎとっていったんですね。

天皇家が主催する、あらゆるイベントの実行権を、剥奪し、義満が主催しちゃう・・・まあ、暦の改定は言い出さなかったですけど、

・・・そういう意味じゃ、信長の方が、義満より、より上な要求をしたことになりますねー。


だから、公家には、信長の姿が、足利義満の姿にダブったんでしょうね。


天正10年、実は安土へ天皇の行幸まで、計画されていたと言います。

とすれば、もちろん、あの安土城足下の、大極殿のコピーの建物に天皇が入ることになるわけで、信長からすれば、

「ほら、天皇さんすら、俺の足元にひれ伏してるんだぜー。これが、実際の俺の力なんだよー」

と民衆にプレゼン出来ちゃうわけで、ある意味、完成するんですよ。プレゼンが。


もう、天皇家も公家も、負けを認めていたことになりますね。


そして、天正10年2月11日、武田家は信長によって、滅ぼされます。


天皇家が武家をコントロールする際に行なっていた行為、遠い昔、あの後白河法皇がやっていた、

「有力武家同士を戦わせ、漁夫の利を得る」

方式は、もう使えないということです。


ま、この時代は、足利義昭がその任についていた・・・有力武家に指令を出して、織田信長包囲網を作らせましたが、

信長に完敗してしまい、その多くが滅ぼされてしまった・・・。


そして、武田家さえ、滅んだ。


こりゃあ、天皇家も公家も、負けを認めざるを得ない・・・。


そして、信長をコントロールする術としての、位打ちの最後の最後の切り札、

「三職推任」

に打ってでるわけですよね。


この流れで考えてくれば、どう考えても、朝廷側が、信長をコントロールする最後の切り札として、この、

「三職推任」

を持ちかけた、としか考えられませんよね?


足利義満というひとは、天皇位を簒奪する一歩手前で殺されました。

もちろん、朝廷側の人間によって。


天皇家を危うくする人間は、例え武家と言えど、殺されてしまうんです。

それがこの日本のお約束なんですね。


そして、公家は、暦の改定すら申し込んできた信長に、足利義満の影を見た。

そして、安土城の足下に大極殿そっくりの建物があることも知った・・・行幸すれば、天皇を足蹴にする信長の姿が完成してしまう・・・。

そして、位打ちの最終形「三職推任」にすら、答えを出さない信長を見て、

「これは、もはや・・・最後の手しか、ないんやおまへんか?」

そう公家たちは、お互いの表情を盗み見ながら、考えたのでは、ないでしょうか?


だって、最後の切り札「三職推任」すら、効かなかった・・・もはや、公家でコントロール出来る信長ではないことが明らかになったわけですから、

公家たちの恐怖感は、頂点に達している・・・さらに天皇を侮辱するような、安土城のつくりを知れば、

公家の存在意義は、天皇家をお守りすることですから、そりゃあ、激昂するでしょう。


かねてから、そういう公家の気持ちもわかっている、平家盛のように、与し易しの、明智光秀に連絡をつけることは、公家にとって、ごく当然のことですよねー。


そして、天皇家を守ろうとする公家たちは、天皇家及び自分たちのために、明智光秀をコントロールしたんですよ。

「信長は、天皇家をないがしろにしている。安土城の作り、あんたも見たやろ。あれは将来、信長が天皇家を破却し、自分が天皇以上になろうとしている証拠や」

「なんやら、聞いたが、信長は、「天主」閣に住んでいるそうや、ないか。自分は天皇より上や、と言っているようなもんやないか・・・」

「主上も、お嘆きあそばされている。主上の敵、いや、朝敵、信長を、倒すことこそ、武士の本懐や、ないか?」

「あんたも、楠木正成の故事は、知っているやろ?」

こんな話が公家と光秀の間に、あったと考えるのが、自然でしょ?


もちろん、公家は指令を出しているわけではありません。思わせぶりの内容を話しているだけなんです。


こういうズバリな内容を思わせるような、思わせぶりの話で、光秀の気持ちを炊きつけた・・・そうなるわけですよ。

公家のやりそうなことじゃないですか。逃げ道は作っておく。

「わては、そんなこと、言ってません。・・・光秀はんが、勝手に解釈して、行動に出ただけです」

もし光秀が信長の暗殺に失敗した時に、信長側の使者から詰問されれば、こう答えたでしょう。

いろいろな状況を、考えて行動するのが、公家ですからね。

いや、それすら、言わないだろうな。

「わて、何も知りません・・・なにしろ、明智光秀はんとは、一年以上会ってもおまへんよってに」

とか、言うでしょうね(笑)。

信長側の使者に、どう話すかも、その時にあらかじめ考えていたんですよ。

なにしろ、公家は、保身が最も大事な仕事ですからね。

だから、天皇家を守ることも、言わば、保身なんだな。


だから、公家は、直接に指令を出したりしません。絶対にね。


そこは、「あ、うん」の呼吸・・・主上の意図を、天皇の意図を、さりげなく・・・もちろん、公家によってでっち上げられた意図ですけど、

それをさりげなく、さりげなく、光秀に流した・・・それが光秀の中で、ドンドン大きくなって・・・本能寺の変になった・・・そう見るべきじゃないですか?


だって、このタイミングですもん。


信長から暦の改定を申し入れられ、天皇の行幸が予定され、武田家が滅亡し、三職推任ばなしを信長に蹴られ・・・公家的には、もう追い詰められた最後の状況でしょ?


公家の最後の最後の手段・・・それが光秀を動かし、本能寺の変が起こった。


こう見るのが、自然ですよー。ほんと。


だから、光秀はいち早く、朝廷の公家達に、

「やったよ、僕。偉いでしょ!」

って、言いにいったんですよ。


だから、公家側も、ほくほくした顔で、

「ようやった。これで天皇家の危機は、回避された」

くらいのことを言ったでしょう。


そして、お金を下賜した・・・そう言うストーリーですよ。これは。


公家はコントロールできなくなった武家を、殺すんです。

天皇家を危うくする武家を殺すんです。


後白河法皇を幽閉し、天皇家を敵にした清盛は病気で死にますけど、平家は源氏によって、滅ぼされた。

京を危うくした木曾義仲も頼朝の命に従った鎌倉の兵に殺され、後白河法皇を危うくした義経も結果的に殺された。

位打ちにあい、京側に取り込まれそうになった実朝は、武家によって殺された。

朝廷から権力を奪った鎌倉幕府も、結局は滅ぼされた。

天皇になろうとした足利義満も殺され、そしてその系譜上に、信長の死があるわけです。


天皇家を危うくした武家は、公家によって、殺される・・・光秀はその手足になって働いたに過ぎないんです。


だから、光秀に、天下取りという意識はなかったはずです。

むしろ、天皇家の為に働いた忠臣、第二の楠木正成との意識の方が強かったでしょう。

だから、目的を達してしまったあとは、グダグダになったんです。


目的を達成し、役目を終えたからこそ、退場したのが明智光秀だった、ということです。


公家が密議を交わしていたことは、多くの公家が光秀挙兵前後の日記を破り捨てていることで、明白です。

なぜなら、公家の最も大事な仕事は、子孫の為に、詳細な日記を残すことですからね。

その大事な仕事の成果を破りすてるということは、それだけ、知られてはいけない事実がそこに詳細に書かれていた、ということです。


秀吉が公家に対して、恫喝した、という記録も残っていますから、

頭のいい秀吉です。

そのあたりの公家の行動は、見抜いていた、ということでしょうね。


いずれにしろ、かつて遠藤周作氏が言った疑問、

「歴史学会は、日本で何故これほど天皇家が続いてきたかについての答えをくれない」

に対する答えが、ここにあるんです。


「信長程の実力を兼ね備えた武将であっても、天皇家を危うくしたら、天皇家を信奉する人間によって、殺されてしまうからだ」


これが本能寺の変の真相だと、僕は思いますね。


そして、それこそが、天皇家が長く続いてきた理由そのもの、でもあるのです。


それが結論かな。


長くなりました。ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。



ではでは。

「天主」信長は、何故、殺された?(本能寺の変の黒幕は?)

2012年05月29日 | 信長論考!
えー、久しぶりに信長論考でも、やりましょうか。

まあ、この話は以前にも話したんですが、巷でよく言われている、

「本能寺の変の謎」

という奴についてですねー。


信長は、明智光秀に殺された・・・じゃあ、その黒幕は?

っちゅー話がまことしやかに話されていますが、僕が見る限り、黒幕なんていません。

まあ、あれは、本を売る為の売り文句で、あそこには、何の意味もありません。ほんとに。



昔、読んだ本に、遠藤周作という、当時、売れっ子の作家の言葉が乗っていて、

「日本の歴史学会は、天皇制がこれほど長く続いてきた理由について、答えをくれない」

という不満を申し立てていました。じゃあ、なぜ、天皇制が続いてきたんでしょう?

それについて、僕的な答えを言えば、

「古来から日本人の神は、天皇だった。だから、天皇制を破壊しようとする人間が出ると、日本人は身を呈して、こういう人間達を殺してきたからだ」

と言えるわけです。


上代で言えば、まあ、伝承ではありますが、天皇家をないがしろにしようとした蘇我一族は、誅殺されていますよね。

天皇になろうとした将軍、足利義満は、あと一歩で簒奪が完成するというところで、頓死しています。

そして、安土城の足下に、天皇の住居、大極殿とそっくり同じ建物を作り、その上にある安土城の天主閣に住んでいた信長は、

「俺は実質的に天皇より、上位の人間なんだ」

と民衆にプレゼンしまくり・・・それが仇になり、

「信長様は、天皇家をないがしろにしている・・・信長様は、天皇制を無くそうとしている。自分が天皇にとって変わろうとしている」

と、勘違いした明智光秀に殺された・・・僕は、それが信長が殺された理由だと、ごく普通に思っているんですね。


だって、明智光秀というひとの人となりを考えてみてください。

彼は部下にむちゃくちゃやさしかった武将として有名です。

さらに、あの時代、正室以外に側女をおかなかった。

当時、武家として重要なのは、跡目を作ることで、当時は現代の感覚とは違い、いつ人が死ぬかわからない時代でした。

だから、跡目はたくさん作るべきであって、それが家の隆盛につながるから、

男子にとって、子作りは、大事な仕事だったんですよね。

だから、正室以外に側女を置くことは、必須だった・・・そういう時代に正室の気持ちを考えて、側女をまったくおかなかった光秀・・・。

まあ、いろいろな見方があると思いますが、武家のあり様としては、あの時代としては、いささか、おかしいわけです。

一夫一婦制の現代から見れば、当然の話にとらえられますが、当時の時代の正義からは外れているわけです。


まあ、それだけ、時代の正義に外れるくらい、他人にやさしかった光秀と見ることが出来るわけです。

そこが、光秀のキモなんですね。


その光秀・・・本能寺の変、山崎の戦いを経験した後は、どういう現実を迎えましたか?

大事にしていた部下達は、四散し、多くは殺された。

あれだけ、やさしくしていた家族も四散し、正室は、自害ですよ。


こうなることは、光秀程の武将ならば、本能寺の変を起こす前に、わかっていたはずです。

まあ、地獄ですよね。部下、家族、正室を地獄に送るような所業なんです。本能寺の変を起こすということは。

であれば、大事にしていた部下や、家族、正室よりも、大事なモノの為に、光秀は、本能寺の変を起こした、ということになるわけです。

ここが、本能寺の変のキモなんですね。


では、大事にしていた部下、家族、正室を悲惨な目に合わせても、もちろん、自分の命すら無くしても、それでも光秀が守りたかった大事なモノとは、何でしょう?


よく、将軍足利義昭に、密かに命令されたのだ、と主張するひとがいますが、

光秀は、それより過去、信長と足利義昭、どちらをとるかを迫られた時に、信長をとっているわけです。

そこで、決断をしているんですね。

だから、時を過ぎたからと言って、信長でなく、義昭の命に従うことなんてないわけです。

だって、従って何か意味がありますか?

光秀の立場に立って考えて見れば、自分の部下や、家族、正室が不幸になるのをわかっていて、それでも、義昭の命令に従う意味なんて、ありますか?

それを考えただけでも、義昭黒幕説なんて、簡単に否定されてしまうわけですよ。


義昭黒幕説を取っているひとは、知識から、適当にモノを言っている人に過ぎない。

光秀の立場に立ってモノを考えられない・・・そういうひとだと思いますね。


「光秀も武将・・・だから、天下を取りたかったのだ。だから千載一遇のチャンスを見て、天下取りに出たのが光秀だ」

なぞというアホな人がいますが、光秀程の人間だったら、信長を殺したら、自分たちがどうなるか、

わかるってもんでしょう?

信長を殺した後の光秀の行動のグダグダぶり・・・つまり光秀は信長を殺すことだけが目的であり、

その後のことは、何にも考えていなかったことが、その行動のグダグダぶりからわかっちゃうんです。

だから、天下取りなんて、なーんも関係ないんです。本能寺の変については。


だって、光秀は、自分の命も、軍団の命も、家族も正室の命も無くなることは、わかっていたんですから。


光秀は、自分の部下や家族、正室が不幸になっても、それでもお釣りが来るような行動を欲したんです。

その行動の為に、信長を殺したんです。自分が殺されることもわかっていた・・・それでも、その行動には、甘い汁のようなロマンスがあった。


将軍を守るためでもない・・・となれば、もうおわかりですよね。


光秀は有職故実に明るかったと言われています。

であれば、歴史に詳しかったはずだ。

歴史上、武将として、最も尊い行動をとった人物に明るかったはずです。

この日本において、武将として、最も尊い行動した人物は誰でしょう?


おわかりですよね?


どんなに窮地に陥っても天皇の為に働き抜き、天皇の為に死んでいった人物・・・そう、楠木正成ですよ。

光秀は、この楠木正成の存在を知っていたんです。

そして、本能寺の変前夜の光秀の位置というのは、この楠木正成になるための条件が揃っていたんです。


安土城の足下に、天皇の住む大極殿とそっくり同じ建物を建てた信長を見て、光秀は直感したんです。

「信長様は、天皇を足蹴にしている・・・自分は天主閣に住み、天皇を足下に見ている・・・武将として、あってはいけない所業だ」

「信長様は・・・将来、天皇家を滅ぼし、自分が天皇の代わりになろうとしているのではあるまいか・・・いや、そうに違いない」

「天皇を足蹴にしている、この現状から考えれば、それしか、答えはないではないか!」

「信長を殺せば、我が軍団どころか、我が家族も、いや、私でさえ、死ぬるであろう・・・だが、天皇家を守るために死ぬなら、本望」

「我、第二の楠木正成に、ならん!」

ま、光秀が、こんなことを考えていたことは、すぐにわかりますよね。


大事なモノの為に、死ぬ。日本において、最も大事なモノは、天皇家・・・光秀はそれを知っていたんです。

だから、自分の部下達が非業に倒れようと、あれだけ大切にしてきた家族や正室が不幸になろうと、彼は天皇のために倒れることを指向したんです。

信長を殺すことによって。


光秀は、武将としての、甘いロマンスに逃げ込んだんです。


この光秀の考えは、間違っています。

なぜなら、信長は、自分の権威を与えてくれる天皇家を絶対に無くすことは、ないからです。

天皇家があるから、天皇家より、実質的には上なんだよ、と言うことが出来る。

俺は実は、偉いんだよ、と言えることが出来る。

天皇家は、すべての権威の大元ですから、それを無くすようなアホなことを、信長は絶対にしません。

信長は、安土城の足下にある大極殿に、何度か天皇に臨幸してもらうだけでよかったんです。


それを光秀は読みきれなかった。


光秀は、自分の為だけに、甘いロマンスに逃げ込んだんです。

そして、部下を殺し、家族と正室を殺した・・・自分の歴史的評価の為に。

単なる逃げ込み者だ。自分の為に、家族をそして、歴史的英雄の信長を殺した、超うんこバカなのが、明智光秀です。


だから、黒幕なんていないんです。

この理由以外に、超やさしい明智光秀が、部下や家族や正室を殺す理由がありますか?

その理由を説明出来てこそ、本能寺の変の謎が明らかになるのです。

そういう意味では、明智光秀もまた、(超勘違いのバカだけど)天皇家存続の為に力を貸した人間ということになるのです。


信長は、本能寺の変で亡くなる時に、

「あいつ、ほんと、こういうところアホなんだよなー」

と思って、死んでいったと思いますよ。


こういう自分で創りだしたロマンスに酔う人間って、現代にも、いますよね。

そうならないように、がんばらないと、いけません。

だって、超自己中のうんこカスということになっちゃうからね。

だから、光秀に、歴史的評価は与えられないんですよ。

ただの勘違い野郎のアホです、あいつは。

大楠公とは、比べ物にならないよねー。


だから、ちゃんとモノを考えて生きていかないといけないんだよねー。

それが結論かな。


というわけで、本能寺の変の真実でした。


ま、自らを、「天主」とか言っちゃったもんねー、信長。

それは言葉から考えても、「天皇」より上!ってことになっちゃうもんねー。

だから、光秀は、勘違いしちゃったんだなー。


言葉って、大事ですね。


ではでは。

信長は、絶対に織田幕府など、作らなかった!(正義が大事!)

2012年04月19日 | 信長論考!
えー、前回に引き続き、時系列で信長の人生を追う話ではなく、

「信長は、なぜ、平氏を名乗ったか?・・・それは、信長が平清盛を尊敬していたから!」

という話をひき続いて探っていきたいと思います。


さて、じゃあ、信長は、平氏を名乗ったのは、清盛を尊敬していたからとして、

じゃあ、そこにどういう意味があったのか?という話になります。

さて、この信長論考を最初から見てもらっている方には、わかると思うんですが、

信長の正義というのは、

「天下布武」

の印判に現されているわけです。


これー、よく指摘漏れがあるんですが、

この意味は、

「天下を、血ではなく、武で平らげる」

ということなんですね。


この、

「血ではなく」

というところが、最も大事なんですよ。


信長は、この時代、今の橋下徹市長と同じ気持ち、いや、それ以上に、時の政府に、怒りを抱いていたことは、言うまでもありません。

「日本をこんなに滅茶苦茶にしやがって、室町幕府なんざ、使えねえ。俺が、新しい統治機構を作り、前進する政治を行うんだ!」

もう、まるで、今の大阪維新の会や、橋下徹市長と同じ言い分です。


歴史は繰り返すんですねー。


ま、今は平和ですから、いいですけど、信長の時代は、戦乱で、むちゃくちゃでしたから、

だから、信長が立ち上がった、というわけです。

室町幕府は、足利将軍という血筋を頂点にして、その血筋によって、日本を統治してきた機構です。

ですが、その統治機構は、もう、使えないことが、信長にはわかってしまった。

「血を中心にした日本の統治機構は、もうダメだ。俺の心の師、まむしの道三がそれを改革したというに、その息子が旧勢力にそそのかされて、昔に戻すとは・・・」

「俺は、道三の敵を討ち、日本を、血ではなく、武によって、統治するのだ!」

まあ、信長が当時、こういうことを考えていたのは、だだわかりじゃないですか?


だから、彼の正義は、

「血ではなく、武による、天下統一!」

これ、だったんですねー。


では、その信長が、平清盛のあり方に感動し、平氏を名乗ったというのは、どういう意味でしょう。

単に血筋を誇示したのではない、ということは、わかりますね。

彼は、

「今後、清盛的あり方を目指す!貿易によって、力を付けていき、その力を元に、日本に君臨するのだ!血筋などもはや、関係ないのだ!」

と、メッセージを出したに過ぎないんですよ。


実際、清盛は、血筋、というより、その富や財力、兵力によって、力を養成していったわけでしょ?

「いや、清盛は、白河院の種だったから、あれだけ、早い出世をしたんだ!」

そういう指摘をするひともいるでしょう。


でも、僕は、それは、よくある、適当な説明付けだと思っているんです。


例えば八百比丘尼伝説、というのが、あります。

何百年も年をとらない色白の美しい女性が存在する・・・それが八百比丘尼だ。そして、その原因は、彼女が、人魚の肉を食べたから・・・。


八百比丘尼化の理由は、リアル・ニュータイプ理論でも説明していますが、色白で、美しいからこそ、多くの人間に視線を貰い、

「いい気持ちのエネルギー」をたくさん、体内に蓄積するから、ストップエイジングが起こっているに過ぎません。


だから、

「その原因は、人魚の肉を食べたから・・・」

という点は、まったくの嘘であり、誰かが適当にでっちあげた内容に過ぎないんです。


例えば、他にも、有名処では、織田信長を評する話で、

「鳴かぬなら殺してしまえ、ホトトギス」

という有名な句がありますが、これも、誰かが適当にでっちあげた内容に過ぎません。


なぜなら、織田信長を少しでも知っている人間なら、彼が超合理的な人間であり、

幾多の合戦で彼が異常なまでの勝率を上げている原因が、

「勝つ環境が整うまで、合戦はしないから。つまり信長の特徴は、勝つ環境が整うまで待てるところにある」

ということを知っているからです。

おおかた、長島一向一揆に対する、根切りという門徒虐殺命令や、石山本願寺の撤退後に、佐久間信盛父子に対して、高野山追放にした事件が、

ごっちゃになっていると考えられます。だいたい、佐久間信盛父子に対してだって、石山本願寺が落ちるまで、待った結果、

「こいつ、5年間もなーんも戦果をあげなかったじゃん!」

と、怒りを持ち続けたことが、石山本願寺が撤退した後、信長が極端な行動に出たと見るべきであって、

待ち続けたからこその怒りの行動なんですよ。


あるいは、激怒して、比叡山延暦寺を焼き討ちした事件を指しているのでしょう。

でも、あれも、比叡山延暦寺には、長い間煮え湯を飲まされたあげくに、宗教施設は中立でなければならないとした信長の正義にさらに反したから、

用意周到に準備し、焼き討ちを行ったわけで、怒りにまかせての行動というより、理性的に準備されたモノです。

だから、怒りにまかせて・・・というのは、信長には、あり得ないんです。


ま、竹生島に遊びに行っちゃった女子共を成敗した話は、あるけれど、あれは、自分の役目を勝手におろそかにして、遊びに行った女子達が悪いしね。

それに、規律上断罪すべき話でしょう。あの時代であれば。



ま、だから、信長の性質を表すのであれば、本来なら、

「鳴かぬなら、待っちゃうもんね、ホトトギス」

「鳴かぬなら、鳴かせる人間を見つけてこよう、ホトトギス」

「鳴かぬなら、手を打ち続けよう、ホトトギス」

と評されるのが、信長なんです。


みーんな、モノのわからない人間達が作り上げた、くだらないデッチ上げなんですよ。


だから、清盛の伝説も同じなんです。


つまり、清盛が、異例の出世をしたことに、その理由をわからない民衆が、

「あれは、白河院の子だから、あんな異例の出世をしたのだ」

という風に噂を立てたに過ぎないんです。


だって、あれほど、白河院嫌いの鳥羽上皇が彼を重用しているじゃないですか。

崇徳天皇をあれほど忌避し、会いもしなかった鳥羽上皇が、清盛を重用していることに、答えがあるわけです。

彼は、白河院の種などではなかった。むしろ、背景にある莫大な財産や兵力が、天皇及び公家側から、歓迎されたと見るべきです。


そして、その莫大な財産は、日宋貿易から、生み出された。


そのあり方に、羨望の眼差しを向けたのが、信長だと、すぐわかるじゃないですか。

貿易の財力を使って、勢力を伸ばした信長を見れば、すぐわかるじゃないですか。


僕は最初、信長を見ていて、

「なぜ、信長は、平家や藤原家を名乗るのに、源氏だけは名乗らないのだ?征夷大将軍になり、幕府を開くことは、考えなかったのだろうか?」

という思いを持ちました。


でも、こうやって見てくれば、すぐわかりますよね!


なにしろ、彼が生きている時代は、足利将軍、つまり、源氏の血をベースにした統治機構で、それがほとんど、機能していなかった時代なんですよ。


つまり、源氏の血による、統治機構は、

「これは、駄目だ!」

と、信長にレッテルを貼られていたんです。


橋下徹市長が、現行の政治に、

「ダメだ、こりゃ」

とレッテルを貼っているように。


尖閣諸島のオーナーが、現行の日本政府に、

「ダメだ、こりゃ」

とレッテルを貼っているように。


だから、信長は、征夷大将軍になって、幕府を開くなんて馬鹿げたことは、発想しなかったんです。

だって、橋下徹市長が、大阪維新の会で天下をとった時に、霞が関を抱き込んで、現行の統治機構のまま、政治をするはずが、ないでしょ?

それと同じことなんです。


だから、信長は、清盛のあり方を尊敬したんです。

彼は、貿易の黒字によって、政治を動かした。

血なんて特に関係なく、莫大な財力をもっていたからこそ、多くの武士を擁し、中央の政治を動かし、ついには、太政大臣に上り詰め、

日本の政治のトップに立つことができた。


「血ではなく、武による、天下統一」

信長の思考する正義、そのものを、清盛は、自分なりの方法で、実現していたんです。


だから、信長は、征夷大将軍なんて見向きもしなかったんです。


こういう結論が出てくれば、既存の信長本のレベルの低さがわかりませんか?

「この世を統治する方法は、近代以前では、幕府を開くしかなかった。だから、信長は、織田幕府を絶対に作ったはずだ」

こういう思い込みで書いてある本ばかりだ。


まず、その時点で、終わってますね。既存の信長本は。


信長の中心にある、正義は、一貫して、

「血ではなく、武による、天下統一」

です。

それを出発点にして、考えていかなければ、いけないことが、だだわかりになりましたね。


だから、彼は、絶対に、織田幕府など、作らなかったんです。

となれば、三職推任の話も答えがわかりますよね。

少なくとも、征夷大将軍になどは、なりはしなかった。


そして、彼の安土城の真下に、京の大極殿とまったく同じコピーの建物があったことを思えば、

信長は、ここに誠仁親王か、その第五王子であり、信長の猶子となった興意親王を入れ、現実的に、そこを日本中心の政庁としようと考えていたことが、わかります。


となれば、信長は、天皇を権威の中心とし、清盛がなった太政大臣か、関白の職に就き、権力を振るっただろうと推測できますね。


「血ではなく、武による天下統一」

という信長の正義が確立された瞬間に、征夷大将軍になる、という選択肢は、なくなったのです。

足利義昭の暗愚さを、間近で見たら、幕府というモノ自体の統治機構としてのダメさ加減も、わかるというもの・・・。

信長は、知恵者であり、大学教授みたいな、知識者レベルでは、ありませんから、知識をパズルのようにしか使えない、知識者レベルでは、計り知れない存在です。


人間の心の中心には、正義があり、その正義から、モノを見なければいけないんです。


信長は、そういう日本の知恵者の中でも、最も合理的な知恵者だったから、その正義を知り、合理的に考えていけば、最もわかりやすい人間なんですねー。


おわかり、頂けたでしょうか?


以上

なぜ、織田信長は、当初平氏を名乗ったか?

2012年04月12日 | 信長論考!
えーというわけで、今回は、信長論考特別版として、書きたいと思います。


ま、昨日、平清盛関係の番組を、民放で見たからですねー。

まあ、以前から、指摘してきましたが、織田信長と、平清盛の共通点というのは、非常に多いですね。

昨日も、平清盛は、厳島神社において、ライトアップを行なっていたという話を新たに聞きましたけど、

信長も安土城のライトアップをやっていて、

「史上初ではないか?」

などと言われてましたが、なんのなんの・・・清盛がやってるじゃーん、ということで、これも、清盛を意識してのことだと推測されますね。


元々、信長については、

「なぜ、信長は、当初、平氏を私称していたのか?」

という問題について、思考したんですね。


そこにどういう理由があるか?


で、信長の思考を考えた時、信長は自家を強くする方法論として、

「商業地からの税金収入を重視し、足利義昭を奉戴し入京した際には、堺、近江の大津、草津に代官を起き、交易による収入管理へ移行していった」

ということから考えて、同じような方法論をとった平清盛を、先人として、理解していたからこそ、

信長は、平清盛を尊崇し、平氏を私称したと考えられるわけです。


また、清盛は、仏教の末法思想が跋扈した、平安の世に生きていながら、非常に合理的な考え方を示しています。

例えば、陰陽師が、祈祷し、雨が降りだした時も、

「4月5月の春の嵐が収まれば、梅雨になって雨が降るのは至極当然」

として、陰陽師の功を、否定しています。


あるいは、大河ドラマ「平清盛」でも描写されていますが、当時の「平清盛」以外の人間が恐れた神輿に対して、

その神輿を、

「あれは、ただの箱じゃ」

として、神輿を矢にて射る、という事件を起こしています。


平清盛は、明らかに合理的にモノを考えることが出来た・・・当時の人間の中で、唯一、合理的精神を持った人間だったということが証明出来るでしょう。


このありかたは、信長に共通するモノであることは、明白ですね。

「仏が来世利益を約束し、神と崇められるなら、実際に現世利益を約束し、実行している、この織田信長は、神以上ではないか!」

そう喝破した信長は、神輿を「ただの箱」とした清盛と同じ合理性の海にいる人間と見ていいでしょう。


清盛にしろ、信長にしろ、この合理性に裏打ちされた精神力を持っていたからこそ、数々の困難を打ち破り、

貿易による巨利を背景に、政治課題を解決していったと見られるわけです。


清盛に至っては、宋銭の輸入まで、行なっている。もちろん、日本初のことです。


つまり、二人の武将は、どうやって、自家の力を伸ばすかという課題について、貿易を選択したのです。


お金こそが、人の心を取る、お金こそが、自家の軍事力を養うのだ、ということを理解していたのは、信長であり、清盛だったんですね。


さらに人の心を取る、ということでは、信長も清盛も、自身がシンボルとした安土城、厳島神社を、両者とも、ライトアップしている。

闇夜に、火という形が、人を荘厳な気持ちにさせ、人の気持ちをとる、ということを両者とも、よーく知っていたということでしょう。


信長による、安土城のライトアップは、信長的には、最晩年にあたります。

そういう意味では、信長は、最晩年まで、尊敬する清盛の影を追い続けていたのかもしれませんね。


「信長は、平清盛を、「成功した武家の始祖」として、尊敬していた」

これ以外に、信長が、平家を選択した理由がありますか?


「信長は、元々平家の流れだったのだ。それ以外にない」

という話は、笑う以外にありません。


信長は、使えるモノは徹底的に使ったリアリストです。


自分に意味のあるプロパガンダしか、しない人間です。

ですから、信長が平家を名乗るなら、それは、意味のあるプロパガンダにならざるを得ないのです。

なので、

「信長は、元々平家の流れだったのだ。それ以外にない」

という言説は、ポイントをはずした指摘と言わざるを得ないのです。


信長と清盛のこれだけの共通点・・・これは、信長が意識的に、模倣したとしか考えられません。

あのオリジナリティにあふれた信長が、模倣したということは、それだけ、清盛に尊敬の念を抱いていた・・・使える施策ばかりだと評価していたということでしょうね。


信長と清盛・・・二人の巨人が、日本を変えた・・・新しい日本を作るために、動いていたことは、現代の我々に、

「ほら、今の日本も、新たな日本に作り変えろよ!誰か!」

というメッセージに聞こえるのは、僕だけではないでしょう。


新しい日本を作らなきゃ!


以上

足利義昭は、素晴らしい武将か?

2012年04月10日 | 信長論考!
えー、久しぶりに信長論考、進めましょうか。

もう、半年以上ぶりに書くので、前回以前の記事を読んでいたら、これが、おもしれーでやんの。

自分で書いた内容、忘れちゃってたんで、我ながら楽しんでしまいました。


確かに兵站思想の旧式な武田軍が、京都を占領したとしても、信長に戦略的撤退をされて、

消費都市京都に閉じ込められた武田騎馬隊は、言いところ無く撤退するしか、無くなるでしょうねー。


さて、前回の記事は、置いておいて・・・。

尾張の小倅、いわゆる地方の一大名が次期将軍候補を奉じて京に登ったということで、

市中は、にわかに動揺したそうです。

もちろん、それまでは、管領が将軍を推戴し、京を牛耳ってきたわけだし、

そのために応仁の乱まで、起きた・・・。

地方の一大名が、京に登ってきたことも、大内義興をはじめとして、何度もある。

しかし、信長が他の地方大名と違うのは、管領や管領代やらを通して、将軍を担ぐのではなく、

信長自身が実力で、次期将軍を担いでいることでしょう。


つまり、見る人間が見れば、次の将軍が信長の傀儡だ、ということは、明らか、ということです。


つまり、信長の政治が、直接行われるかもしれない・・・という恐怖が京を覆ったのでしょう。


京の価値観を考えてください。

京においては、尊い血がすべての価値の元凶なんです。

天皇さんの血脈が、最も尊く、その下に藤原家を始めとしたお公家さん、そして、将軍家がある。

そういう血の格が完全に整えられた世界なんです。

将軍家というのは、血の価値で言えば、遙か下にある血脈なんです。

でも、武を仕切るから、血を扱うからこそ、身分の低い、武家にやらせよう・・・そういう意識なんです。


その京の人間の価値観に真っ向から、勝負してきた、どこの馬の骨かもわからない、信長。

そりゃ、当たり前ですよ。

信長の正義は、

「この時代、血ではなく、武によって、天下を取り仕切る!それが、天下布武じゃ!」

ですからね。


京の価値観を破壊する、信長の思想なんです。


だから、京は、大騒動になったんだ。

この理由を言わなければいけないのに、どの本も、公家さんの日記の受け売りしか書いていない。

「洛中洛外、騒動なり」「騒動もっての外、暁天に及ぶ」

だそうで、騒動だ騒動だ、と言うばかり。


京の人間は、本能的にこの価値観の全く違う信長を恐れたんだと思います。


よく信長のことを、価値観の破壊者という面だけで捉える言説がありますが、こうやって見てくれば分かる通り、

信長の正義が、既成の概念とは、違うだけなんです。

時代を読めていたのが、信長であり、既成の価値観にすがることしか、考えていないのが、信長以外のひとなんです。


だから、信長は、時代を読めていたからこそ、あんなに突出した。

そこを理解しないといけないんですね。

そこが、一番大事なところなんですよ。


さて、京中が大騒ぎになるも、信長軍の規律も大変厳しかったおかげで、騒動も収まりを見せたそうです。

ま、木曾義仲の失敗を知っている信長なら、そんな失敗は二度としないでしょう。

まあ、だいたい、元々規律に厳格だった、信長ですから、本番の京都だったら、さらに規律を徹底させたんじゃないですかね。


信長も信長なりに、京都占領策のプランは、すでに出来ていた・・・シミュレーションは出来ていたということでしょう。

(って、前の記事で、指摘してるな、それ(笑))

この時期、足利義昭の取り巻きに、明智光秀はいたはずですから、有職故実に詳しい光秀に信長は接触していただろうし、

京都占領について、光秀から意見をもらっていたことが、容易に推測出来ます。

まあ、この京都占領は、義昭側にとっても、信長側にとっても、ぜひ必要な行動でしたから、お互い利用しあう良好な関係だったはずですからね。


ま、問題は、ここから、なんですけどね。


信長からすれば、義昭は、パスポートに過ぎないんですよ。

京都という、血にのみ、価値を認める社会を、牛耳る為の。


「京は、武ではなく、血で牛耳る方が、楽だし、速いようだ」

信長は、この時期、絶対にそう思っていました。

だから、全国に命令すら出せる、将軍カードを手にしていたんです。

そう、義昭は、カードにしか、過ぎないんですよ。


ゲームをしているのは、信長であり、義昭は、カードにしか過ぎないんです。

だから、信長は、その後、言うことを聞かなくなった、つまり、カードとしての能力を失った義昭を追放してしまうでしょう?

別に殺す必要なんて、なかったんです。

彼は新たに、将軍カードより、はるかに使いやすい、天皇カードを手に入れるからです。

だから、わざと挙兵させて、これを討ち、追放の名目を得た・・・つまり、信長からすれば、カードを変える手続きをしたに過ぎないんだな。


まあ、義昭は、最後まで信長を苦しめた、とか、実は能力のある素晴らしい将軍だ、みたいなことを、へーきで、主張する本がありますが、

信長が、この日本にくれた日本平定のベクトル・・・それに続く、秀吉、家康による、日本平定、平和化のプロセスは、

この信長が創り上げた、日本平定のベクトルによってもたらされたものであって、義昭など、比較以前の問題です。


単なる一カードに過ぎないんです。

だから、彼は時代の正義がわからなかった。

当時の時代の正義は、日本全国平定であり、日本の平和化です。

それを信長は、最初から目指していました。

そのために、信長の人生は、あったんですね。


その正義から、考えれば、義昭のやったことは、新しい時代の正義を理解出来ず、

既成概念に溺れ、既得権益を主張したに過ぎない、時代の正義を理解出来なかった愚者です。

同時代の人間を評価する時は、その時代の正義が何かを理解し、

その正義に、その人物の行動を比較してみて、評価しなければ、ならないんです。


だから、

「義昭は最後まで信長を苦しめた。だから素晴らしい武将だったんだ」

なんて評価は、単なる一人の人間の感想に過ぎないってことが、だだわかりになるわけです。


教授だとかで、こんなことを言っている人間がいたら、そんな人間は、歴史的な人物の評価システムさえ完成出来ていない、だめ教授そのものだって、ことですよ。


さて、それまで、京を牛耳っていた、三好の残党が、まあ、三好三人衆ですが、摂津あたりにいたようです。

足利義栄を擁していたんですね。

もちろん、信長は、この三人衆を駆逐するわけですが、三好三人衆は、本国の阿波に逃げ帰るんですね。


実際に信長軍と戦って、その強さに恐れをなした、ということでしょうか。

そして、信長は、またたく間に、大和、山城、摂津、河内を配下に収めてしまうわけで、

いかにそれまで、小さな軍勢同士の小競り合いによって、この地が収められてきたか、が、わかるわけです。


信長は、本国、美濃を出る前に、この情報は得ていたのは、当然です。

畿内の状況、特にどれくらいの軍勢がいるかを索敵し、状況を常に確認していたんでしょう。

だから、一朝事あれば、自分の軍勢で、畿内を席巻出来ると踏んでいた。

だから、その準備もしていた・・・そこに、飛んで火に入る夏の虫・・・義昭が現れたから、全ては電撃的にうまくいった・・・そう見えただけで、

すべては、信長の中で、シミュレーション済みだったと思います。


なぜなら、あの梟雄、松永久秀が、「つくもかみ」を持って現れたのだから・・・。


英雄は英雄を知る。

久秀は、信長の思考力のすごさ、その合理性を誰よりも理解し、舌を巻いていたからこそ、信長傘下に入る決意をしたのです。

久秀程の英雄が。


それが、今回の結論かな。


というわけで、春の日も、のんびりですが、

今回は、これまで。


ではでは。




京都にいる信長軍に、もし、武田軍が戦いをしかけていたら?(信長論考!)

2011年07月20日 | 信長論考!

さて、僕は、人生の指導役として、織田信長さんを指名しています。

まあ、織田信長さんの人生をしっかりと論考し、生き方のヒントを貰おうと思っているわけです。

だから、信長論考をやっているわけです。

これまで、信長さんには、いろいろ教わりました。

まあ、これ、この記事だけでなく、ゲーム「信長の野望」「太閤立志伝」などをやっていて、

「信長って、そういうこと考えていたんだー。すげー」

と、気づいたこともあります。


例えば、信長さんは、

「日本の人口を100人として、仕事が出来る順に1番から、100番まで、順番をつけたとして、1から50番までの仕事の出来る奴を」

「俺の元に置き仕事をさせて、51番から、100番までは、敵に置いて戦えば、ぜーったい、俺の方が勝つじゃん!」

と考えていたんですね。これ、すごいよねー。でも、合理的だよねー。


というわけで、僕も高い目標を持ち、仕事の出来るプロと出会い、ガンガン周りにおいて、仕事しています。

まあ、男性のプロ、女性のプロを味方につけちゃえ、ということです。

これねー、いいよー。いろいろ人生よくなっていくからねー(笑)。


まあ、信長さんっていうと、まあ、あの戦国時代に、

「今さー、平和じゃないけどー、この国を平和にするには、どうしたらいいー?そっか、この性格のいい、僕がこの国を占領しちゃえば、いーんじゃん!かーんたーん!」

と、考えて、論考に入っていますからね。


だから、今川義元さんを倒した時に、実収200億とも言われる今川義元の領地、駿河、遠江、三河の国に目もくれず、

京都への回廊、美濃攻撃を開始しているんですよね。


まあ、明確な目標を早いうちに立てていたもんだから、行動にブレがないんです。

ここですよね。信長の素晴らしいところ。

だから、僕も目標立てて、毎日、楽しく、人生歩んでいるんですよねー。


というわけで、実際に、論考進めましょ(笑)。


前回は、六角承禎を倒したところでした。六角承禎は、自分の腕に酔いしれてしまった、酔いどれ者でしたから、

戦うことに喜びを感じるだけで、現実を引き寄せられなかっった。

信長のような論考者が、現実を引き寄せていくんですね。


まあ、前回、六角承禎が領地を捨て、逃走したので、近江は、織田信長さんの支配下になっちゃったんだよね。

実際には、六角氏の家臣が、織田家の支配下に入ったということなんだよね。


そして、近江を確保した、信長は、実質的に、京への回廊を確保したことになるわけです。


9月14日、この時、時の天皇、正親町天皇が、信長に、禁中警護と、京都市中での、軍勢の乱暴狼藉の禁止を要請したんですね。

六角承禎が敗走したのは、9月13日ですから、情報が速いことがわかります。というより、京側は注視していたんですね。

なにしろ、京は、玉ですからね。日本の中心ですからね。時の権力者に翻弄させれる運命にあるのが、京の人間達ということで、

「おお、また、権力者が来はってーなー。織田信長ってどない人間なんやろな」

なんて感じだったんでしょうねー。


というわけで、京の人間の代表として、正親町天皇が、

「京を守ってな。木曽義仲には、ならへんでくれな」

と言っているわけです。まあ、京を守る立場だし、当然ですよね。

というか、ここから、信長の時代が始まるわけですよね。


そして、9月26日。信長は、足利義昭を奉じて入京するわけです。

出陣が、9月7日ですからね。

20日足らずで、京都へ上がっちゃったわけですけど、これ、要は、前から織田信長の頭に、想定があったということなんですよ。

つまり、予定の行動だから、準備も頭の中で、何年も前から、出来上がっていたから、

「さーて、やっとこの時が、来たか。もう、シミュレーションは、とっくに終わっているし、やっちゃお」

という感じで、さらりとやっちゃった、ということなんですよね。


でもね、これ、すごいことなんですよ。

将軍奉じて京都に上ったら、日本全国の武将に命令を出せるということですからね。


さて、ここでわかるのは、

「信長は、もう、京に登るのは、シュミレーション済みだった」

ということです。だから、簡単にできちゃった。

そして、この時、日本の他の武将を見回したら、

京に登ろうなんて、考えている武将なんて、ひとりもいなかったんですよ。


このあたり、司馬遼太郎や安す手の時代劇製作者が、

「戦国時代、日本中の武将が、京に登ろうとひしめきあっていた」

的な表現をしたから、変な情報が広まっただけであって、

「京都に上り、将軍の権威を使い、日本占領の初手を打つ」

というのは、信長しか、やっていなかったんですよ。

信長が、日本占領の初手として考えていただけであって、最終的な目標は、全国制覇ですからね。


だから、京都に上っただけでは、何も出来ないんですよ。


だから、武田信玄が京都に登ろうとしたとか、もし、登っていれば、信長なんて・・・なんて話が出てくる。

兵站なんか、どうするんですか?武田信玄。

信長は、兵站の問題を解決して、京都に登ってきているんですよ?

このあたりからして、信長と武田信玄は、比べ物にならないんですよ。

だって、武田信玄が、京都にのこのこやってきたところで、目標は、信長の京都追放くらいで、

それも、兵站がしっかりしているわけではない。

日本占領を目標にしている信長なら、戦略的撤退だって、簡単に出来るし、

兵站が出来上がっているから、一旦京都に武田軍を引入れた後、攻撃をかければ、兵站のない消費都市京都に閉じ込められた武田軍は易々と破られます。

その戦法は、過去幾度と無く繰り返されていますから、信長が知らないはずないんですね。


だから、歴史にIFは無くても、シミュレーションをしてみれば、

「武田信玄が、京都に突入し、織田軍を撤退させても、結局は、京に閉じ込められた武田軍は、信長軍の徹底包囲によって、殲滅される」

ということが、わかっちゃうんですねー。


ま、今回、それを結論にしましょうか。

やべ、時間が、ねー!


ではでは。


プライドなんて、邪魔なモノ!(酔いどれ者になっては、いけない!)

2011年03月22日 | 信長論考!
どうも、ゆるちょです。

まー、この記事は、夜向け記事なんですけど、

書いているのは、超朝の時間帯です。

というわけで、朝の記事、というか、コメントについて関連するんですが、


まあ、僕が親と同居していることについて、

「いい年をして、親と同居!」

みたいなことを否定的に書いていましたが、

「アホか?」

と、言いたいですね。

大人になれば、誰でもわかると思いますが、

人間年をとれば、いろいろ障害なり、病気になり、なっていくものです。

「老いては子に従え」

というのは、

「年齢を重ねて親の身体が効かなくなってきたら、それを見るのは、子供の当然の役目なんだぞ」

ということを言っています。


つまり、僕は親孝行のために、同居しているわけですね。


親が病気になったり、弱っていくのを見るのはつらいものがあります。

でも、大人としてそれを受け入れ、親孝行をしながら、生きて行くのは、親にとっても、子にとっても、しあわせなことなんです。


そんなの人間として、当たり前のことでしょ?


要は、このコメントを書いたひとは、


「親孝行を考えたことのないひと」


というのが、だだわかりになってしまうんですね。


仕事ができないばかりか、親孝行もしたことのないひと。


これ、人間として、最低じゃないですか?


まあ、人は何を話すかで、何を考えているか、どういう状況の人間か、すらすらわかられちゃうんですよ。

中途半端にしか、仕事もできず、親孝行から逃げいる人間なんて、そんな最低な人間、関わりたくもありませんね。


さて、今日は、論考シリーズ、再開しちまいますか!


信長論考・・・ずっとやってませんでしたからね。

ひさしぶりに、やってみましょうかねー。


えー、前回の信長論考では、

「浅井長政が、信長の妹お市をもらったのは、将軍家足利義昭の意向に沿った形をとったから」

というのが、わかりました。


まあ、それだけ、あの時代、将軍家の権威というのは、高かったということなんでしょうねー。


さて、時代は、永祿11年(1568年)に移ります。

2月、信長は、北伊勢を攻略します。

信長の三男信孝を神戸友盛の嗣子に送り込み、さらに、信長の弟の信包を長野氏の名跡をつがせるべく送り込みました。

そして、津田一安を安濃津城の守将に送り込み、北伊勢を支配下に納めました。

まあ、謀略の得意な頭の回転の速い信長ですから、血を流さずに(秘密裏に、血を流したかもしれませんが)、

北伊勢を支配下においたのでしょう。北伊勢側も、信長に抗するより、支配を受けた方がなにかと今後いいだろうという

判断があったんだろうと思いますね。


信長はこの時期、支配を広げるのと同時に並行して、上洛に立ちはだかる近江の六角氏に懐柔策をしかけてます。

4月27日、六角氏の家臣、永原、佐治氏と盟約を結び、所領を安堵しています。

ですから、信長としては、できるだけ戦わずに、上洛することを狙っていたことが、このあたりで、わかってきます。


まあ、でも、それは、当然でしょうね。戦力はできるだけ、減らしたくないでしょうからね。


そういう意味では、硬軟両方の手段で、論考者信長が、事実を引き寄せようとしているのが、わかります。

もちろん、今の信長の目標は、上洛して、将軍家の権威の元、日本を牛耳ることですから、

最終的には、武力が必要になるということです。はい。


さて、信長は、いろいろと準備を整えながら、この時期、村井貞勝らを越前の一乗谷に遣わし、

足利義昭を美濃に迎える使者としています。

そして、7月25日、美濃の立政寺に足利義昭を迎え、上洛への供奉を承諾します。

すごいですね。美濃を平定したのが、前年の9月ですからねー。

まだ、一年も経っていないわけです。まあ、信長としては、目標は、自らの手による

全国平定ですから、この足利義昭の美濃入りは、カモネギ状態ですよねー。

「鴨がネギを背負ってやってきたわ」

と、信長が思ったかどうかわかりませんが、似たような感想を持ったことは事実でしょう。


つまり明確な目標を持って生きていれば、目の前にあるモノが、

自分の人生に役立つものか、どうか、がシビアに理解できる、ということをこの事実は教えてくれるわけです。


少なくとも朝倉義景には、この足利義昭の価値はわからなかった。

朝倉義景は、全国平定など考えていなかったし、

「朝倉家さえ立ち行けば・・・」

くらいの思いだったんでしょう。

だから、目の前の人間の価値などわからなかったんですね。


つまり、人間は、明確な人生の目標を持っていないと、いけない、ということなんですよ。

もちろん、僕は明確な人生の目標を持っています。もちろん、信長さんに教訓を教えてもらったからです(笑)。


さて、それは、さておいて、

信長は京都へのパスポートをゲットしたわけですが、

その直後からいろいろと工作を開始します。


8月2日、まず、近江甲賀の土豪に対して、近江に進発する日程を告げ、忠節を要請しています。

8月7日には、信長自ら近江の佐和山城に趣き、観音寺城の六角承禎に所司代職を約束して、足利義昭への

忠節を要請しています。信長は、7日間逗留して、六角承禎を説得しますが、結局、六角承禎は、承諾せず、信長は岐阜城へ

戻っています。


信長は、自ら、六角承禎を説得した、というところから考えると、信長にすれば、

「ここは、俺自らが説得しないとダメだろう。ダメもとだ。説得してみるか」

と、考えたということでしょうね。

つまり、上洛に関して言えば、この六角承禎を味方につけることが、その後の京をとりまく情勢にも有利に働くと

信長は踏んだ、ということでしょう。

そして、信長は、自分の説得能力に自信があった。なにしろ、朝倉家に恩義のある浅井長政すら、落とした信長ですからね。

信長の手にした将軍家というツールはそれだけ最高に説得力を持つものだったわけです。そして、信長はその効能を知っていた。

さらに、信長は、説得の勘所も知っていたんでしょう。

だから、信長は、7日間も、説得に費やしたと見るべきでしょうね。


じゃあ、六角承禎は、なぜ、そんな信長の提案を拒んだのでしょう?

武家として、将軍家に従わない、ということになるんですよね。

それは、武家として、あってはならないことです。

実際、将軍家の信長に城を落とされてしまうわけですけれど、つまり、信長の協力者になりたくなかった、ということでしょう。

割と単純な浅井長政とは、違って、六角承禎は、信長の真意を悟っていたのでしょう。

「こいつは、将軍家を道具に使って、自分の力を伸ばそうとしているだけに、違いない」

多分、それがわかった・・・つまり、実際に直に話したことで、信長の考えていること、その恐ろしさを理解してしまったのでしょう。

そして、信長が並の男ではないことも、わかってしまった。


つまり、信長を恐れたんですよ。六角承禎は。


だから、信長に協力したら、いいように使われて、適当なところで、後ろから斬られる、ということを想像したんでしょう。

要は、六角承禎は、信長を理解できなかったということです。


信長は、仕事のできる人間は、とことん使い続けます。

それに、信長は、人間に美を求める。

美しくない行為を行った人間を激しく嫌うんですね。

佐久間信盛は、後年、追放されますが、彼の折檻状には、信盛の美しくない行為が書き連ねてあった。

それだけ、信長が、人間の行為に、美を求めていた、ということでしょう。


あるいは、六角承禎は、自分の行いが美しくないことを知っていたから、信長を恐れたのかもしれません。


まあ、杉谷善住坊を使って、信長を射殺しようとした男ですからね。六角承禎は。


いずれにしろ、六角承禎は、信長とは、相容れなかった。

そして、それがきっかけになって、信長に滅ぼされるわけです。


あるいは、六角承禎は、信長の力を侮っていたのかもしれません。いや、実際、侮っていたんだ。

「観音寺城の守りがあれば、信長なぞ、恐るるに足りん!」

と考えていたのが、明白です。

ま、それが、彼の想像力の足りなさを証明してしまうんですけどね。


さて、織田家とすれば、六角承禎の説得に失敗したことで、実際に大軍を率いて実力による上洛作戦をすることに、

方針転換するんですね。


つまり、それまでは、平和裏に上洛しようと考えていた、ということがわかるわけで、

状況に合わせて、戦略を変えていける信長というものが、ここで、見えています。


それも、信長が自身で、六角承禎という人物を見極めているから、できることで、

やはり、信長は、自分の目というものをしっかり、使っていたということです。

一番大切なのは、人物をこの目で見て、どういう人物か、見極めることなんですね。

だから、信長が、7日間も説得にかけた、ということは、

「六角承禎を敵に回したくない」

という信長の気持ちの表れでもあるんですね。

それだけ、六角承禎という人物は有能な人物だったんでしょう。


実際、巧緻な戦闘は、得意な人間だった、ということが言われています。

いわゆるゲリラ戦のプロ的な、今で言えば傭兵部隊の隊長みたいな人物だったのでは、ないでしょうか。

戦いのプロだから、信長の考えている底がわかった。

だから、戦で、迎え撃つ気になったんでしょう。

自分の実力にも、観音寺城の実力にも自信があった。

いや、だからこそ、信長と戦ってみたい、という欲にかられたのかもしれない。

このあたり、信長のような、現実を引き寄せる論考者とは、違う人種です。

自分のプロの技術に酔いしれ、さらに敵を撃破する魅力に酔いしれた、酔いどれ者です。

論考者が、しれっと事実を引き寄せるのに対して、

酔いどれ者は、戦いそのものを好むに過ぎない。結果なんて、あまり考えていない。

「たぶん、いつものように、俺は勝てるだろう」

という安易な思い込みしかない。

論考者と酔いどれ者が戦えば、現実を引き寄せる論考者が勝利するのは、当たり前です。


さて、信長は、9月7日、尾張、美濃、北伊勢、さらに家康の援軍を合わせて、6万(一説には4万)とも言われる大軍を催し、

美濃の平尾に陣取ります。

しかし、6万の大軍って、ちょっと想像ができませんねー。その大軍を自分の意の元に動かせるんですから、

信長のこころの中は、アゲアゲだったでしょうねー。

人間、経験だけが、人を成長させます。

6万の軍団を統率する経験は、彼をさらに成長させたでしょうねー。


さて、信長軍団は、9月13日、観音寺城を落とします。

前夜、支城が、一気に落とされて、六角承禎は、あわてたと言います。

観音寺城は、山上の城で、多くの支城と共に連携することで、敵軍を撃退できるようになっていたわけですから、

六角承禎は、今回もその戦法で、行こうとしたのでしょう。

ゲリラ戦的な巧緻な戦いで、信長軍を悩ましながら、弱らせていこうとしたのでしょうが、

6万という大軍は、それを許さず、一気に支城群を落としてしまった。

さらに、一日で観音寺城まで、軍勢が迫り、六角承禎は、何をする暇もなく、一族を率いて伊賀に落ちたのでした。


酔いどれ者は、論考者の前に、何もできずに逃げたのです。


現実をシビアに見ている信長と、自信の腕と城に溺れた六角承禎という構図が見えてきます。


やはり、現実をシビアに見ている人間には、勝てないのです。

自分の実力を過大評価してしまった、城の能力も過大評価してしまったのが、六角承禎ということになりますね。


信長は、これまで、常に戦いに身を置いていた。だから、自分と自分の実力をいつも試されてきたので、自分の力を知っていた。

六角承禎は、これまでに、小規模の軍隊との戦いしか経験してこなかった。

だから、6万という大軍の戦闘というものを、想像でなかったのが、敗因ですね。


つまり、人間というのは、想像力も必要だ、ということなんです。

目の前の人間の能力というものを、過大評価する必要はないが、シビアに見定める必要があったんです。


6万もの軍隊を率いる人間が、目の前にいたのに、それを見抜けなかった六角承禎。

多分、プライドが邪魔をしたんでしょうね。


だから、プライドなんて、ただの邪魔者なんです。えてして、それは、人生を敗北させてしまう、アイテムだ。


ひとを見る目を持つこと、その大切さと、想像力。

プライドなんて、いらないってことが、この信長VS六角承禎の構図から、わかりましたねー。


それが、この記事の結論かな。


信長の生き方から、たくさん、教訓がもたらされます。

僕らはその教訓を胸に、明確な目標をしっかり持って、生きていくべきなのです。

それが、自分のしあわせにつながっていくのです。


ここまで、長くなりました。

ここまで、読んで頂いてありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。


ではでは。




お市御寮人が、浅井長政に嫁いだ本当の理由!(簡単な事だったんじゃん!(笑))

2011年01月27日 | 信長論考!
どうも!ゆるちょです!

えー、今日は木曜日、なんですが、まあ、ちょっと信長さんに会いたくなったので、信長論考!いっちゃいますか(笑)。

というか、最近、日曜日になると、ノブナガという人物が出ていますけど、

あれは、似て非なるものですからねー(笑)。


さて、今回も「信長公記」をテキストにしながら、信長の人生を読み解いていきましょう!


永禄十年(1567年)九月稲葉山城を落とし、美濃平定を成し遂げた信長は、井ノ口を岐阜と名づけ、居城を岐阜城に移します。

そして、天下布武の印章を使い始めます。


まあ、信長の新しいステージが始まった、というところでしょうか。

しかも、目指すは、天下布武。武によって、天下をとる。

これは、前回の記事でも、指摘しましたが、

「血ではなく、武で天下をとるのだ」

という表明であり、天下をとり、幕府を開いた頼朝や、足利尊氏を意識したもの、なんですね。

だから、意識としては、すでに天下人と同じ意識なんですよね。

「俺が新しい時代を作ってやる!」

そういう意識であったことは、誰の目にも明らかでしょうねー。


さて、そういう新たに勃興した織田信長の噂は、すでに前年奈良でも流されていたようですが、

このあたり、信長が意図的に流させた噂であると僕は見ています。まあ、実際、信長が流さなくても

実際に、信長が、尾張と美濃を実力で勝ち得たのは事実ですから、早晩、中央に信長の情報が流れるのは、

ごく当然なんですよね。


そういう中、11月9日、正親町天皇は、御蔵職の立入宗継を信長に遣わして、信長を、

「古今無双の名将」

と称える綸旨を与え、美濃・尾張両国の料所の回復を命じています。


まあ、これ、要は、

「天皇の料所、返してくれない?ほら、褒めてあげるからさー」

ってなことでしょうね。

まあ、この料所、返されたのかどうか、わかりませんが・・・まあ、今後の事を考えれば、返しておくのが筋ですかね。

まあ、信長の父、信秀は、天皇家をうまく使っていたようですし、そのあたりの感覚は、信長にもあるでしょうからね。

まあ、実際、信長にとって、天皇とは、日本で第一等の血筋・・・彼にとってみれば、高貴な血筋を利用して政治を行うことは、

「古いことだ。今後は、武による政治に移さねばならんのだ」

と、思っていたでしょうから、

「やっかいな敵」

という意識も実はあったかもしれません。

ただ、天皇には、武力はないんですね。

だから、実際には、権威が高いだけで、現実的能力は、ない・・・現実的政治には、乗り出してこないだろう・・・このあたりを信長は見抜いていたから、

後年、将軍家より天皇家を利用する形に移行していったんでしょうね。


さて、同じ11月から12月にかけて、信長は、美濃国内の寺社に対して、不法行為の禁止や、農民に還住を命じるなどの禁制を出しています。

これは、いわゆる、戦後処理と見ていいでしょう。新たな美濃の国づくりがはじまった、そう見るべきでしょうね。


そして、12月1日、奈良興福寺の衆徒に書状を送り、近日中に足利義昭を奉じて、上洛することなどを報じています。


前年、同じような噂が奈良で高まった・・・そして、ここにきて、信長が、それを実施する旨の書状を送ったということは、どういうことでしょう?


これ。


どう考えても、信長が、奈良興福寺とつながっていた、ってことじゃないですか。


前年の噂は、信長が興福寺の衆徒を使って意図的に流させた謀略だったってことが、これで証明されたんじゃないですか?


だから、謀略成功のお礼に、今度は、実際に足利義昭を奉じる時期を、明確に知らせた、ということでしょう。


つまり、謀略の依頼があって、それが成功したから、再度情報を流し、さらなる謀略にしているわけですよ。さすが信長ですね。

やることが、2段、3段構えです。この噂が流れれば、美濃から京に向かう街道筋の大名達は、牽制され、

何らかの態度を表明せざるを得なくなる。


実際、

「将軍家が、諸国の大名に伴を命じて、京都へ戻る」

というのは、真っ当な行為だし、将軍家とは、すべての武家の棟梁であり、これに従わない者は、誅されても、文句が言えない建前ですからね。


あくまで、信長は、供奉する武家ということになるわけで、まあ、実際、この時代の将軍家は、力のある武家のパスポートになっていたに過ぎませんからねー。


サポートされる武家に見放されると、先代の将軍、兄の足利義輝のように、暗殺されちゃう時代ですからねー。

まあ、武家と管領家、将軍家との三つ巴の暗闘というのは、要は血と役職と、武力のどれが、上か問題なんですよね。

まあ、松永久秀のお殿様であった、三好長慶は、信長より前の時代に、管領細川晴元、将軍足利義輝を、京都から追放したりしてますけど、

それで、戦いが終わるわけでなく、逆に、敵方に戦いの大義名分を与えることになって、まずます戦乱は打ち続くという状況を現出させていますから、

力のある武家にとって、管領や将軍家というのは、使い方を誤ると、ただただ、戦いが続くという現実を引っ張ってしまう。


そのあたり、信長は、よーく見ていたと思いますね。

「将軍とは、どう使えばよいのか」

を。


だから、信長以前の京都を制圧した武家・・・三好長慶や、大内義興、または、応仁の乱で活躍した義興の父、大内政弘のやり方を見ていると、

どうもあまり、うまくいってない・・・というか、やり方が間違っちゃった感じで、そういうのを見てくると、信長の京都制圧政策は、

「これが、答えじゃん」

的に見えるんですよ。やっと答えがだせた、みたいな感じに見えますねー。


だから、信長の京都政策を先にみてしまうと、信長の素晴らしさが、わからなくなってしまう。


やはり、比較なんですよね。他の武将のやりようと比較して、初めてわかるのが、信長のすごさ、ということになりますね。


まあ、少し話が脱線しましたが、信長は、奈良の興福寺をうまく使って、謀略を進めているわけです。素晴らしいですねー。


さて、この年、もうひとつ、大きな出来事があります。

近江の浅井長政と同盟を結び、お市御寮人を、浅井長政に嫁がせています。

まあ、このあたり、今月、いろいろ映像で見させてもらいましたねー。

こうやって見てくると、非常に分かりやすいんですが、この同盟は、

「京都への道を確保するために、浅井長政と組んだ」

というのが、実情だ、ということが、よくわかるわけです。

「将軍家を奉じて京に上る」

と、しきりに噂させ、世間の反応を待ち、それから、一手一手、手を打っている。


実は、浅井長政が、なぜ、織田信長と手を組んだのか、というのは、割と謎なんですよね。

というのも、浅井家は、北の朝倉家と縁が深いわけで、まあ、同盟関係にあるわけですよ。すでに。

そして、朝倉家と織田家というのは、敵対しているわけです。非常に仲が悪い。

まあ、結局、浅井長政も、その旧来の関係によって、織田家と戦うはめになっていくわけですが、

じゃあ、なぜ、そういう朝倉と織田の関係があることを知りながら、浅井長政は、織田家と同盟を結んでしまったのか?


これ、謎でしょ?


ただ、このように、順番に信長の政策を見ていくと、信長は、きっと、浅井家がぜひとも乗りたくなるような理由をチラつかせたんだろう、ということがわかるわけです。


もちろん、もう、答えは、書いています。

「武家として、将軍家を供奉し、一緒に京都へ出よう!」

こう誘ったんですよ。これは、武家の最高の名誉ですからね。


だから、浅井家としても、無下には、断れない。


もし、断れば、

「お前は、将軍家をないがしろにするのか。将軍家の意向を無視するのか!」

ということになる。だから、なぜ、浅井家が、信長を突然裏切ったか、ということになれば、これは、完全に、当の足利義昭の意向が、

「織田家をつぶせ」

というものに、なったから、そういう意向が、浅井家に伝えられたから、と読み解くことができるわけです。


なあんだ、簡単じゃん!


解けちゃったじゃん!


なるほどねー、そういうストーリーだったんだ。


決して、朝倉家とのつながりを重視したわけでなく、将軍家の意向を知ったからこそ、浅井家側が、


「旧来の情宜から、朝倉家をお助け申す!」


と、口当たりのいいことを、朝倉家側に宣言して、織田家と同盟していたことなど、ちゃらにしたんでしょう。


そういうストーリーだ、これは(笑)。


よーくわかっちゃったねー。


というわけで、浅井家と織田家は、将軍家の意向の元、同盟した、というわけです。


まあ、このあたりは、信長のツール使いのうまさが出てます。


もっとも、それが、いろいろバレちゃって、信長は、窮地に陥るわけですけどね(笑)。



いずれにしろ、ここでは、信長が、着々と上洛のために、手を打っている姿がわかったかなー、というところですね。



っていうか、浅井家の本当が、わかって、非常に、有効な論考になったと、思いますねー。



なんだよ、順序立てて論考すりゃあ、すぐわかることだったんじゃん!



ま、織田浅井同盟の真相は、信長の将軍家使いが、うまくて、それにのせられちゃった浅井長政、という結論ですかね。



いやあ、ほんと、歴史を論考するのは、おもしろいね!



という結論にして、今日はここまでにしましょう!



ここまで、長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。




信長が「俺、天下とれちゃうもんね!」と確信した理由!(血から武へ!)

2011年01月20日 | 信長論考!
どうも!ゆるちょです!

えー、というわけで、夜向け記事なわけですけど、

今日は、久しぶりに、お休みしていた論考シリーズをちょっとだけ、やってみるか、と

思いまして(笑)。

まあ、いろいろやってたんですけど、ちょっと信長、書いてみるか、ということで、

信長論考を久しぶりにやってみたいと思います。いやあ、どんな感じになるかなー。


まあ、結論は、いつものごとく、まったくわかりませんから、まあ、へろへろやってみましょうかー。



で、前回の信長論考ですが、11月24日ですから、2ヶ月休んでいたことになりますねー。


まあ、年末というか、師走の忙しさに負けたということでしょう。


さて、前回の記事では、

「覚慶(足利義昭)を最初からパスポート程度にしか考えていなかった」

ということがわかりましたね。

また、

「高い目標を立てておくこと。その目標にたどり着くための具体的なプランを立てておくこと」

が、とても大事で、それをしておかないと、ただの夢で終わってしまうということを教えてくれました。

まあ、日本を自らの手で占領する、という高い目標があったからこそ、足利義昭が転がり込んできたときに、無理をしてでも、

これをとりに行き、そして、その機能を最大限に使ったに過ぎないのが、信長だったんですね。


うん。信長の生き方っていうのは、いろいろな示唆があって、自分の生き方の参考にできますね。


より、具体的に考えておくことで、目の前にある現実を、理解しやすいということなんでしょうね。


さて、それでは、今日の論考に入っていきましょう!


信長は、足利義昭に、帰洛の供奉を申し出ていましたが、まだ、実現には、至っていません。

永禄九年(1566年)、信長は、33歳になっていました。

この年の4月11日、信長は、朝廷に馬、太刀、銭30貫文を献上し、自らの威勢を示しています。

このあたり、信長は、中央へ出て行く環境整備をしている、と見ていいでしょう。

平安時代、木曽義仲が京都支配に失敗した例が、武家には、悪しき先例として、覚えられていますから、

信長は、まず、朝廷へ好印象を与えるために、まず、貢ぎ物を贈り、朝廷側に好印象を与えたのだと考えられますね。


どこかに出て行こうとする場合、まず、その場を暖めておくことが大切なんですね。


これは、どの場所に出て行くにも、共通する原理です。

まあ、お笑いなんか、そうですよね。まず、若手が場を暖めておいて、そこにベテランが出て行くから、ドッカンドッカン笑いがくる。

なーんて、こと、聞いたりしますしね。仕事の場でも、例えば打ち合わせの場でも、最初は軽いおしゃべりから、入りますからね。

そして、場が暖まったあたりから、仕事が始まったりする。個人でも団体でも、同じなんですね。


さて、この年の8月、奈良において、信長が足利義昭を擁して尾張、三河、美濃、伊勢の兵を率いて上洛する、という噂が流れたとしています。


実際、美濃は、まだ、斉藤氏のモノのはずですから、こういう噂が流れるということは、美濃は、そろそろ信長のモノになりそうだ、と

皆が考えていた、ということがわかります。まあ、三河が入っているということは、松平元康が、一緒に上洛するだろうと見ているということで、

この二人のタッグは、強烈だ、と皆が見ているということですね。


この時代、連絡手段は、人づてしかないわけです。

その場合、伝言ゲームがうまくいかないように、いろいろ事実と違うことが、うわさになることはあると思います。しかし、逆に、そういうことをわかっていた

当時のひと達のことですから、それこそ、本当の情報であることの価値が非常に高いはずなんですね。

だから、人々は、モノを見る目や、情報を獲得するのに、現代の人間より、より長けていたのではないだろうか、と思うんですね。


連絡手段が発達していないから、当然、人間の方が、情報を見る目に長けていた・・・だから、噂が、より本質を突くことになっていたのではないでしょうか。


実際、信長は、この後、足利義昭を擁して上洛するわけですからね。


それを見抜いていた人間がいた、ということでしょう。侮れない時代ですね。


さて、次の年、永禄十年(1567)になると、信長は34歳です。

この年、まず、伊勢の北境の城を、滝川一益に命じて攻略させています。

その年の5月27日、信長の娘五徳、徳川家康の長男信康に嫁いでいます。もちろん、織田徳川同盟を強固にするためで、お互い大事な物をさし出して、

同盟を最も大切なモノとして、扱っています。


このあたり、信長は、目標に向かって、着々と、手を打っている感がありますね。


そして、9月、美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が、内応し、織田軍は、稲葉山城を急襲し、とうとう、これを落としました。

斎藤龍興は、伊勢長島に、逃れ、ここに、織田家による美濃平定がなったのです。


このあたり、すでに前年に、噂されていましたからね。そういう噂が流れたことも、美濃三人衆の気持ちを動かす背景にもなったと思いますね。


だから、こわいですね。噂が流れてしまうと、現実がそれをあと追いするように、そうなってしまう。

だから、噂って、こわいんですね。ひとの気持ちをも、動かしてしまい、現実を呼び込む力がある。

もちろん、これ、それを知っている信長が、謀略戦のひとつとして、奈良あたりに故意に流させたと考えるのが自然かもしれません。

だから、「流言飛語」というのは、ゲーム「信長の野望」でも、攻撃のひとつになっているんですねー。

なるほどー、いい勉強になります(笑)。

信長の立場になって考えれば、

「足利義昭を擁して、上洛するのは、全国統一に、ぜひ、必要な手続きだ。しかし、そのためには、美濃は抑えないといけない」

「であれば、美濃人のこころをまず動揺させ、こちらに内応させるのが、上策」

「であれば、まずは、義昭を上洛させる旨の流言を流し、美濃三人衆を内応させることにするか!」

と、考えても、不自然ではありません。というより、そうやったと考える方が、むしろ自然。

とすれば、信長とは、謀略戦の超玄人、と言っていいでしょうね。っていうか、もう、ずーっとそう言ってきましたね。

いやあ、すごいなあ。望みの事実をガンガン引き寄せる、論考者そのものですねー。


さて、信長は、この稲葉山城を居城にするにあたり、岐阜の地名に変更し、天下布武の印章の使用を開始しています。

もちろん、岐阜という命名は、天下統一の宿願を内外にメッセージとして、与える役割を果たしています。

天下布武の印章も、同じく、天下統一メッセージです。


つまり、信長は、

「美濃をとったら、天下統一ができる」

と、踏んでいたんですね。


まあ、でも、こう見てくると、それも、自然なことですよね。

信長は、天下統一のための具体策を、10代で読みきっているし、その意志を表すのは、

「美濃をとってから」

と、決めていたんですよ。だから、足利義昭を待たせておいて、謀略で、稲葉山城を落とした。


このあたり、すごいですね。


よく、この天下布武の印章を使い始めるのが、早過ぎる、実力が伴っていないのに、空威張りだ、みたいな論調の文章を見ますが、

僕的には、これは、まさに、信長の読み通り、素晴らしいタイミングだと思いますね。

僕はこの時代、天下統一を考えていたのは、信長以外にいない、としました。

皆、目的を持っていなかったんです。

他の大名は、自分の勢力を守ること、と近隣にいる敵対勢力とどう戦っていくかぐらいを目標にしていたくらいでしょう。

高い目標をおかず、目先のことにのみ、汲々としていたから、戦略的に高度なことも考えられなかった。

しかし、信長は、ひとりだけ、天下統一を構想し、そのための具体策を考えぬき、考えついていたんです。

だから、次々と天下統一のみを目標に、施策を打っていけた。だからこそ、その施策が功を奏して、尾張、美濃統一ができた。

それができれば、伊勢もとれる。家康の三河兵は、強い。

この大きな兵団があれば、他の地方勢力に悠々と対抗できる。もちろん、大きな軍事力を保持した、ということは、軍事的オプション以外でも、いろいろな策を

打てるということなんですね。美濃三人衆を内応させたのは、巨大な軍事力を背景に、噂やその他で、脅されたおかげで、結局、心が折れた、ということです。

孫子の兵法でも、最も上策は、兵をひとりも動かさず、敵のこころを折ることだ、としていますから、信長は、最も上策で、美濃をとったということになります。

これを経験した信長は、強いですよー。そりゃ。

信長は、強大な軍事力の使い方を、経験的に学んでしまったんですよ。この時点で。


戦うだけでなく、要は、相手の心を折ればよい。


それが、わかったら、そりゃあ、

「なんだ、俺、日本とれちゃうじゃん!」

って、思っても、不思議じゃないですよね。いや、むしろ、当然ですよ。


だから、この時期、

「俺、日本統一しちゃうもんね。血の力でなく、武によって、統一しちゃうもうね。それって、新しいだろ?」

って、言えたんです。この武によって、統一する!っていう宣言が新しいんです。


この時代、血への信頼から、武への信頼に変わってきている時代なんですよね。


思い出してください。斎藤道三は、元の守護を、代々血による信頼を得てきた守護を追い、美濃を統治した。

それでも、道三は、美濃守護の血をひくとされた、その子、斎藤義龍と彼らの元に集まった美濃勢に倒されています。

つまり、この時代、血から武へ、という革命的思想の変化が起こり始めた時代なんですね。

だから、信長は、ことさら、武!という言葉を使っているんです。武による天下統一。

それは、源頼朝も、足利尊氏もやっては、いないことです。彼らには、血筋という背景があった。

まあ、もちろん、信長も、元は藤原氏だとか、平氏だとか、名乗っていますが、彼とすれば、そんなもので、天下統一をする気はないんです。

なぜなら、もし、軍事的に天下統一するのなら、前例を真似るのが、簡単だからです。

頼朝や、尊氏のように。

しかし、足利義昭だって、いるし、元々、信長は、血による統治は考えていなかったと思います。

むしろ、

「実力のある人間が、天下統一を実施し、実質的に天下を握るべきだ。血に頼る時代は、終わったのだ」

という意識を持っていたと思います。だから、ことさらに、「武」を押したのだ、と考えられますねー。


このあたり、ものすごく、画期的なことなんですね。でも、このあたり、誰も指摘してないんですよね。まあ、それはいい。


血の時代が終わったと、信長が考えていた、ということは、織田家のあり方を見てもわかるはずです。

能力主義一本で、それが、信長軍を強くしている唯一の理由です。仕事ができるか、できないか。

できる奴は、成果次第で、上り詰めることさえ、できる。

それは、信長が自分に圧倒的に自信があるから、できた、自軍構成です。

信長は、自軍の誰より、自分が天下のことについて考え抜いていると自信があるから、そういう軍隊を持てたんですよ。

もちろん、人を見る目もあることは、自分で知っているから。

だから、能力のある人間が集まってくる。すばらしい循環です。そういう循環をもっていたから、信長は、あれだけやれたんです。


このあたり、素晴らしいですね。


信長が、新しい時代を作れた理由がたくさん、このあたりに出ています。


やはり、人間、論考者になるべきなんですよ。

そして、自分の周りに、いい循環をたくさんつくる。そうすれば、その循環が自分を高みに持って行ってくれる。


このあたりは、信長さんの生き方に示唆されていることになりますねー。


まあ、とにかく、信長は、

「俺は天下をとれる!」

と、確信したから、岐阜の街ができ、天下布武の印章が使われ始めたんですねー。


そのあたりが、今日の結論になりますかね。


いやあ、やっぱり信長は、おもしろい。


そして、順序立ててみてくると、非常に合理的だし、僕達が生きていく上で、たくさんの示唆をくれる。


やはり、日本人は、一度、信長を勉強してから、人生を決めていった方がいいような、そんなことまで、思えてしまいますねー。


織田信長。日本人の成功モデルのひとりとして、僕は尊敬しまくりますね。

もちろん、そのやりかた、自分の人生にパクらさせて頂きますね。

人生の師として、信長をさらに見ていきたいと思います。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではではー。




覚慶を、最初からパスポートとしてしか見ていなかった信長!

2010年11月24日 | 信長論考!
おはようございます!

さて、前回は、信長、家康から、宰相というものは何かを考えました。

自分の役割が、何かを見切り、自分を押し立ててくれる者のために政治を行ったのが、家康であり、

能力者を適材適所に使いまくったのが信長であり、それらが彼らの力になっていった、ということを言いました。

そして、自分の社会での役割というものを、社会人は、早く理解することが、重要だ、という結論になりました。


まあ、このあたり、家康、信長で考えちゃうとこの人達は歴史上でも超一級品ですからね。


まあ、おもしろいっちゃー、おもしろいですねー!

さて、永禄四年(1561年)松平元康と和睦した信長は、東の憂いを無くし、本格的に

美濃攻略を始めます。さて、タイミングがよいことに、5月11日、美濃国主、斎藤義龍が病死します。

義龍は、父の道三を討ってから、5年の命だったことになります。

この情報を得た信長は、5月13日に早くも西美濃に侵入しています。

斎藤義龍の子、龍興は、墨俣砦から出撃するも、信長軍に撃破され、墨俣砦は、織田方の手に渡ります。

織田軍は、墨俣砦を橋頭堡にして、龍興軍と戦い、その後、清洲に帰城しています。


このあたりは、「信長公記」を参考にしているんですが、墨俣砦というのは、この戦いで奪取した斉藤方の砦だったようですね。

まあ、秀吉物語の墨俣の一夜城話は、やはり、楽しい作り話だったんでしょうか。まあ、そのあたりは、ボカしておくのが、

いいのかな、という感じですけどね。


しかし、斎藤義龍の死は、あまりにもタイミングが良すぎる感じがしますねー。

信長が、尾張一円をもぎとり、今川義元を屠り、松平元康と同盟を結ぶ・・・という一連の流れの中で、

「じゃ、美濃取り、メインでやり始めっか」

と信長が、本腰を入れたら、美濃国主斎藤義龍が死んじゃうわけですから、あまりにもどんぴしゃな気がしますが・・・、

さすがに、信長の謀略は、そこまで、できるとは、思いませんね。

ただ、疑えば疑える義龍の死ですねー。


さて、永禄五年(1562年)一月十五日、松平元康は清洲城に来城し、信長と会見、同盟を結んでいます。


この時、信長は29歳、元康21歳です。松平元康からすれば、頼りがいのあるアニキと言ったところでしょうか。

謀略戦に長けた信長ですから、迫力満点だったでしょうし、信長にすれば、元康は、自分の日本平定計画に有用な人材ですから、

決して粗略にできませんからね。この時、お互いがお互いの目でその能力を見切りあっただろうと思います。

信長にしろ、元康にしろ、生き馬の目を抜く戦国時代ですから、相手の目を見ただけで、その能力や人格などを見抜けるほどの能力は

あったのだろうと、思いますねー。


翌一月十六日、信長は、宿老林秀貞らを岡崎城へ遣わして答礼をしています。この同盟は、本能寺の変まで、20年間守り続けられた

戦国期でも珍しい堅い絆になりました。


じゃあ、なぜ、そんな珍しいことになったんでしょう?


これは、やはり、お互いにとって、お互いが何よりも必要な人材だった、ということを信長も家康もわかっていた、ということなんでしょうね。

信長からすれば、徳川家は、東の押さえになりますし、家康は律儀でした。家康は苦労人ですから、同盟するなら、完全に相手に気に入られるまで、

やったのでしょう。自分の役割をしっかりと理解していた家康ですから、信長に対する自分の役割も百パーセント理解していたのだと思います。

だから、ひとの能力を見抜くことに長けた信長から、すれば、家康のその能力をしっかりと見抜いていたと思います。

だから、信長からすれば、自分の求めたことを百パーセント、やってくれる、同盟者だったのが家康だったんですね。

事実、後年、家康は自分の妻(築山殿)と子(松平信康)を信長に差し出すことさえやっていますからね(それぞれ殺害)。

そこまで、やる家康の性向を見抜いていた信長だからこそ、同盟を続けられたんですね。

家康からすれば、信長の強力な力というのを、見抜いていたのでしょう。信長の強力なベクトル。日本を平定しようという意志すら、

感じたかもしれません。だから、信長を裏切ることは、できなかったんでしょうね。

稀有な能力を持っている二人だからこそ、お互いの能力を深く理解したんですね。だから、最も長い同盟になった。

判断に優れる二人だから、長く続く同盟になったんですね。

これ、どちらか一方に、能力がなければ、利用されてポイですからね。

だから、信長は、家康の子を殺すことまで、したんでしょう。次の代で、徳川家に負けるかもしれない、という懸念があった。

だから、謀略を施した。それでも家康は、信長を裏切ることはないと見切ったからこそ、信長は家康にさえ、謀略をしかけたんですね。

いやあ、信長のすごさが、わかりますが、それでも、裏切らない家康もすごいですね。

この二人の関係性は、二人にしか、わからない、すごみの中で、成立していたんですね。


さて、永禄六年(1563年)信長三十歳の年ですが、3月2日、信長の娘、五徳と、家康の娘、信康との婚約が成立します。

織田、徳川双方とも、この同盟を強固にしたかったんですね。

そして、この年(あるいは次の年かもしれないらしいですが)、美濃攻略の本拠地として、小牧山に城を築き、そこに移っています。

清洲城だと、美濃攻略に遠すぎる、という問題点があったんですねー。


信長というひとを見ていると、常に策を打っている感じがします。


この小牧山移動にしても、武田信玄や上杉謙信、北条氏康という名だたる戦国大名と比べてみても、居城を移動させるなんてことは、

していないわけです。これは父である織田信秀の影響かもしれませんね。信秀は、敵を攻めやすい場所に居城を移動してましたから、

そういう発想を真似したのかもしれません。いずれにしろ、常にいい方向へ改良していく、その発想の自由さが、彼の力だったことは、言うまでもありませんね。

それに、もちろん、これは、松平元康との同盟関係が背後にあったから、東に対する脅威が去ったから、移動できたとも言えるんですね。

というより、そちらの理由が大きいかもしれませんね。東に睨みを効かせる必要がなかったから、美濃攻略だけに専念できたわけですからね。

そのための小牧山移動ですから、元康の存在が、信長のあり方に大きく影響している、と見るべきだと思いますね。



さて、永禄七年(1564年)になると、信長は、美濃のいくつかの諸城を落とします。そして、美濃国主の城、稲葉山城の城下町である井ノ口へ攻め入ることまで

しています。この年、信長は、上杉輝虎へ書状を出し、この件について、報告しています。まあ、遠交近攻策ですねー。

さらに信長は伊勢にも出兵しています。当時、伊勢には強力な大名がいなかったので、こちらも、掠め取るつもりだったんでしょうね。

信長の勢力増大が見て取れます。


そして、この年、時の天皇、正親町天皇が、使者を信長に立て、御料所の回復を命じるんですね。


つまり、中央にまで、信長の威勢というものが、伝わっていた、ということで、信長の台頭ぶりを伺わせるできごとなわけです。


さて、この年は、けっこういろいろなことがあるわけですが、一番おもしろいのは、この年、竹中半兵衛と、安藤守就のクーデターがあり、

稲葉山城を占拠してしまうという未曾有のことがあるわけです。斎藤龍興は、逃げてしまうし・・・まあ、この挙は、普段に酒色に溺れる国主、

斎藤龍興をいさめるため、なんて言われていますが、この年に起こっているんですね。城はすぐに龍興に返されるんですが、

美濃人達の、国主に対する思いが、微妙に変わってきているのが、この挙によって、わかりますね。

信長による圧迫・・・それに対して、恐怖を感じている国主、斎藤龍興。そして、美濃人たち。

そういう構図が、この挙から、わかると思います。

それだけ、信長の威勢が強くなっている、それが、原因で、こういう挙になったのだと思いますね。


さて、信長と言えば、この時期、作戦変更をしているんですね。今まで、西美濃攻略を念頭においていたのですが、一転、東美濃攻略を先にする方向に、

変更しました。まあ、そちらのほうが手っ取り早いというか、信長になびいている人間が多かったということなんでしょう。

そのあたり、国主、斎藤龍興への人望がどんどん崩れていっているということなんでしょうね。


永禄八年(1565年)七月、まず、美濃加治田城の佐藤紀伊守、右近衛門尉父子が、丹羽長秀を介して信長に内応します。もちろん、東美濃の武将です。

斎藤龍興側もこれには黙っていず、加治田城に攻勢をかけますが、信長はこれを救援。逆に、攻勢に出ていた堂洞城を落とし、さらに攻撃にきた斎藤龍興、長井道利の

部隊を撃破しています。

信長軍が、かなり攻勢に出ている様子ですね。

この年、信長は、武田信玄に対して使者を遣わし、その子勝頼と信長養女との縁組を申し入れています。前年、上杉輝虎にも書状をだしていますから、

これも遠交近攻策のひとつですね。それだけ、信長の目は、周りに向いていたということで、東の敵は、懐柔策ということでしょうか。


さて、この年、特筆すべきことがあります。前将軍足利義輝の弟、覚慶(のちの足利義昭)の京都帰洛について、供奉する旨を、覚慶側近の細川藤孝に

書状として、出しているわけです。まだ、東美濃の一部が落ちただけの、この段階で、ですよ。


それだけ、信長は、自分の勢力に対して、自信があったということでしょうか。それにしても、ちょっと早過ぎるような気がしますね。普通に見てみれば。


ただ、信長の思いからすれば、日本を平定する計画を持っている信長にしてみれば、そこに入ってきたこの覚慶帰洛の報は、どんぴしゃな渡りに船なんですね。

このパスポートを使えば、京都入りの名目が立つわけで、日本全国平定の初手として、京都に軍政をしくことを考えていた信長にすれば、

「これ、少し無理をしてでも、やらなきゃ、あかんやろ」

というところなんでしょうね。


そういう準備ができていたから、こういう機会をうまくとらえるわけで、自分がやりたいことの準備を常にしておくということの大事さが、わかります。


でも、これで、信長の考えていることが、わかりますね。覚慶は、単なるパスポートに過ぎないんですよ。それが生きたひとであろうと、なかろうと、

パスポートとして、機能すればよい。こういう考え方をしていたことが、普通にわかりますね。

血に対する尊崇なんて、はじめから無いわけです。使えるから、使うだけであって、そりゃ、覚慶のアイデンティティーは、血にしかないわけで、

この二人が手を結んだところで、考え方が全く逆なんですから、まあ、うまくいくはずもないことがだだわかりですけど、まあ、おもしろいですね。

かたや、血にまったく関心がない信長、かたや、血にこそ、アイデンティティーを求めている覚慶。


運命的とも言える、二人の出会いだった、ということでしょうね。


こうやって見てくると、この戦国時代、日本を平定しようとしていたのは、信長だけだった、ということがだだわかりになりますね。

目標が高いから、自分が全体の計画のどのあたりにいるのかが、だだわかりになる。

そういう高い目標を持っているから、覚慶の存在の意味、使い方がよーくわかっている。だから、少し無理をしてでも、とりにいく。

もちろん、覚慶側も、信長を利用しようという腹なんですけど、気宇壮大な信長の足元に及びませんから、ただ利用されて、いらなくなったら、ポイされた、

ということなんですね。


これから、見ると、目標というのは、高ければ高いほど、いい、ということがわかります。

そして、そのために、具体的なプランを立て、努力すること。ただ夢見ているだけでは、実現しない、という当たり前の現実がわかります。

信長はいいですね。いろいろなことを僕らに教えてくれる。

高い目標と、具体的なプランの構築が、結局、自分をよりよい方向へ連れて行ってくれるんですね。

そういう具体的なプランができていたからこそ、覚慶というパスポートをうまくつかいこなせたわけです。


このあたり、非常にわかりやすい信長の生き方です。


さて、今日の結論は、このあたりでしょうか。役者もそろいつつあって、だんだん、おもしろくなってきましたね。


ここまで、長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。