明智光秀って、本能寺の変の後、朝廷からお金を貰っているんですよね。
まあ、これまでは、信長を倒し、天下人になった光秀・・・時の権力者に媚びる朝廷と公家たち・・・という構図で説明されてきましたが、
それにしては、お金を下賜するタイミングがあまりに早すぎる・・・どうも僕には、
公家と光秀の間に、あらかじめ、暗黙の了解で話が出来上がっていた、ように見えます。
「朝廷の敵である、信長討伐に功あり、よって、金銀を下賜する」
的な朝廷の風景に見えるんですね。
もちろん、これは、明智光秀が、
「あらかじめ指令されていた、信長討伐」
を朝廷に報告に行った、と見えるってことなんですけど、
信長は意図的に朝廷とは距離を置いていた・・・本能寺の変で京に入ったのも、実は一年ぶりくらいだったりするわけです。
その信長のあり方とは、正反対なあり方でしょ?光秀のあり方・・・。
信長は、朝廷での職を貰っても、すぐに辞退していた・・・これは、足利義昭に管領職を与えられそうになったのを辞退したのと同じ思考で、
既存の権威の序列に、入りたくなかった信長、ということでしょう。
だから、朝廷は信長をコントロール出来なかったわけです。
信長が何らかの朝廷の職についていれば・・・天皇の権威で持って、公家が信長に命令することが出来る。
でも、朝廷の職についていない信長には、なんの権威も効かないわけです。
もちろん、信長は、実力抜群で、命令ひとつで、どんな権威も破壊することが出来る。
なにしろ、信長は、天皇及び公家が、平安時代から恐れてきた比叡山延暦寺を焼き払ってしまったんですからねー。
これ、神輿に矢を射た、清盛と同じ行為なんですけどね。今、気がつきました。
神輿に矢を射た清盛を、公家達は、恐怖の目で見たでしょうねー。
そして、武家的実力をつけてのしあがって来たら・・・それをコントロールするために、位打ちするのは当たり前・・・だから、源義朝と位的に差が出たのは当たり前。
そう見られますねー。
と、このあたり、信長と一緒なので、おもしろいですね。
その位打ちが効かない信長・・・もちろん、公家達は、焦るわけです。
「信長は、コントロールが出来ない、猛り狂った虎じゃあ」
そんなことを当時の公家たちは、共通の意識として、持っていたんじゃないでしょうか?
さて、ここで、「平清盛」でも、出てきたシーンを思い出してみましょう。
悪左府頼長は、コントロール出来ない「平清盛」の代わりに、誰をコントロール下に置こうとしました?
自らの身体さえ使って・・・。
そ。清盛の弟、「平家盛」くんを、「与し易し」と見ぬいて、コントロール下に置きましたよね?
「おまえは平家を俺に売ったのじゃ。藤原摂関家に平家を打ったのじゃー!」
というようなことを頼長さんに宣言されていましたが、まあ、あれが典型的な公家の手なんです。
武家を支配するための。
つまり、信長は、平清盛状態なんですよ。
ここでも、共通点を見つけられちゃいましたねー。おもしろい。
ま、その家盛くんは、死んじゃうわけで、平家の危機は去るわけですけれど、公家はあの手この手で、武家を支配しようとし、
支配出来ない武家がいると、与し易い武家を見つけ、その武家をコントロールし・・・例えば、家盛が生きていたとしたら、家盛を炊きつけ、
清盛の勢力を削ぐ・・・実際、そうなっていましたね。家盛がまるで平家の棟梁のようになり、清盛は冷や飯食らいに落とされていた・・・。
あれが、武家に対する公家のあり方なんですよ。
公家の戦い方なんですよ。
簡単には公家に支配されない武家・清盛と、与し易く簡単に公家に支配されちゃう武家・家盛の構図・・・この構図、どこかにあてはまりませんか?
そうです。簡単には公家に支配されない武家・信長と、くみしやすく簡単に公家に支配されちゃう武家・光秀・・・そういう構図にそっくりじゃないですか!
光秀は長く京にあって、公家と織田家の取次役をやっていました。
自然、公家と親しかった・・・つまり公家たちの危惧・・・コントロール出来ない武家・信長に対する恐怖感を、光秀は肌で感じていたでしょう。
そして、信長は、あの天皇家・公家にとっての年来の宿敵でもある、比叡山延暦寺を命令一下滅ぼしてしまった、果断な行動力と実力を持った信長・・・そりゃ怖いよね。
公家たちはかつて清盛をコントロールしたように、位打ちをする・・・それが効かないんだから、余計怖いわけです。
そして、信長は、暦の改定を申し入れてくる・・・これは天皇家の権限のひとつなんですよね。暦を制定するということは。
まあ、これ天正10年・・・天正という言葉も信長チックですよね。なにしろ、信長は自らを「天主」と称したわけですから、
この「天正」という元号にも、
「これからは俺が天を正す時代にするんだ。正しい世づくりのため、天を正す時代が、今なのだ」
という信長の意図が透けてみえるようです。
ま、それは置いておいて、まあ陰陽寮・・・ま、国の機関ですよね。今だったら気象庁になるんですかね。
そこの技官が作った京暦は、天正11年の1月を閏月にしたのに対して、東国で一般に使われていた三島暦は、天正12年の2月を閏月にしたそうで・・・ウィキの受け売りです。これ(笑)。
まあ、多くの信長本には、この暦の改定を朝廷に求めたのは、天皇家の権威をひとつずつ剥奪していく信長の意図があった、と書いてありますが、
この話を具体的に見ていくと、どうもそうではありませんね。
潔癖で合理的精神に富んだ信長の気持ちになれば、地元の暦業者に、
「三島暦と京暦が違うんで、いろいろ困っとるんですわ。貴方様の力でなんとか一本化できませんやろか」
と言われれば、
「確かに、今のままでは、いろいろ不便だ。よし、一本化すりゃあ、民も喜ぶし、この日本のためだ」
という思いになるのは、当たり前でしょう。
もちろん、信長の底意としては、
「暦を扱うのは、朝廷の・・・というより天皇の大きな権限・・・これに今の俺が口出しして・・・さあ、どういう扱いになるかな?」
と、自分の力を試すリトマス試験紙として、この行為の結果を見ていた信長があったのは、当然でしょうね。
まあ、信長が本能寺の変で倒れてしまうんで、この暦の改定話は、うやむやになっちゃうんですけど、
「三島暦の方が、実際正しい」
ということが、民間に情報として流れた結果、京暦は軽んじられ・・・朝廷の権威はさらに下がった結果になったんだそうで・・・技術的にも貧すれば鈍するだったのが、
当時の朝廷だった、ということでしょうね。
ま、話を元に戻しますが、そういう「貧すれば鈍する」な公家達から見れば、信長は大きな脅威なわけです。
その信長が暦の改定すら言い出したとなると、公家たちの記憶に残る、天皇家最大の敵の姿が、まざまざと蘇ってくるわけです。
天皇になろうとした将軍、天皇の位を簒奪しようとした、足利義満そのものの姿です。
彼は天皇家から実質的な権力をドンドン剥ぎとっていったんですね。
天皇家が主催する、あらゆるイベントの実行権を、剥奪し、義満が主催しちゃう・・・まあ、暦の改定は言い出さなかったですけど、
・・・そういう意味じゃ、信長の方が、義満より、より上な要求をしたことになりますねー。
だから、公家には、信長の姿が、足利義満の姿にダブったんでしょうね。
天正10年、実は安土へ天皇の行幸まで、計画されていたと言います。
とすれば、もちろん、あの安土城足下の、大極殿のコピーの建物に天皇が入ることになるわけで、信長からすれば、
「ほら、天皇さんすら、俺の足元にひれ伏してるんだぜー。これが、実際の俺の力なんだよー」
と民衆にプレゼン出来ちゃうわけで、ある意味、完成するんですよ。プレゼンが。
もう、天皇家も公家も、負けを認めていたことになりますね。
そして、天正10年2月11日、武田家は信長によって、滅ぼされます。
天皇家が武家をコントロールする際に行なっていた行為、遠い昔、あの後白河法皇がやっていた、
「有力武家同士を戦わせ、漁夫の利を得る」
方式は、もう使えないということです。
ま、この時代は、足利義昭がその任についていた・・・有力武家に指令を出して、織田信長包囲網を作らせましたが、
信長に完敗してしまい、その多くが滅ぼされてしまった・・・。
そして、武田家さえ、滅んだ。
こりゃあ、天皇家も公家も、負けを認めざるを得ない・・・。
そして、信長をコントロールする術としての、位打ちの最後の最後の切り札、
「三職推任」
に打ってでるわけですよね。
この流れで考えてくれば、どう考えても、朝廷側が、信長をコントロールする最後の切り札として、この、
「三職推任」
を持ちかけた、としか考えられませんよね?
足利義満というひとは、天皇位を簒奪する一歩手前で殺されました。
もちろん、朝廷側の人間によって。
天皇家を危うくする人間は、例え武家と言えど、殺されてしまうんです。
それがこの日本のお約束なんですね。
そして、公家は、暦の改定すら申し込んできた信長に、足利義満の影を見た。
そして、安土城の足下に大極殿そっくりの建物があることも知った・・・行幸すれば、天皇を足蹴にする信長の姿が完成してしまう・・・。
そして、位打ちの最終形「三職推任」にすら、答えを出さない信長を見て、
「これは、もはや・・・最後の手しか、ないんやおまへんか?」
そう公家たちは、お互いの表情を盗み見ながら、考えたのでは、ないでしょうか?
だって、最後の切り札「三職推任」すら、効かなかった・・・もはや、公家でコントロール出来る信長ではないことが明らかになったわけですから、
公家たちの恐怖感は、頂点に達している・・・さらに天皇を侮辱するような、安土城のつくりを知れば、
公家の存在意義は、天皇家をお守りすることですから、そりゃあ、激昂するでしょう。
かねてから、そういう公家の気持ちもわかっている、平家盛のように、与し易しの、明智光秀に連絡をつけることは、公家にとって、ごく当然のことですよねー。
そして、天皇家を守ろうとする公家たちは、天皇家及び自分たちのために、明智光秀をコントロールしたんですよ。
「信長は、天皇家をないがしろにしている。安土城の作り、あんたも見たやろ。あれは将来、信長が天皇家を破却し、自分が天皇以上になろうとしている証拠や」
「なんやら、聞いたが、信長は、「天主」閣に住んでいるそうや、ないか。自分は天皇より上や、と言っているようなもんやないか・・・」
「主上も、お嘆きあそばされている。主上の敵、いや、朝敵、信長を、倒すことこそ、武士の本懐や、ないか?」
「あんたも、楠木正成の故事は、知っているやろ?」
こんな話が公家と光秀の間に、あったと考えるのが、自然でしょ?
もちろん、公家は指令を出しているわけではありません。思わせぶりの内容を話しているだけなんです。
こういうズバリな内容を思わせるような、思わせぶりの話で、光秀の気持ちを炊きつけた・・・そうなるわけですよ。
公家のやりそうなことじゃないですか。逃げ道は作っておく。
「わては、そんなこと、言ってません。・・・光秀はんが、勝手に解釈して、行動に出ただけです」
もし光秀が信長の暗殺に失敗した時に、信長側の使者から詰問されれば、こう答えたでしょう。
いろいろな状況を、考えて行動するのが、公家ですからね。
いや、それすら、言わないだろうな。
「わて、何も知りません・・・なにしろ、明智光秀はんとは、一年以上会ってもおまへんよってに」
とか、言うでしょうね(笑)。
信長側の使者に、どう話すかも、その時にあらかじめ考えていたんですよ。
なにしろ、公家は、保身が最も大事な仕事ですからね。
だから、天皇家を守ることも、言わば、保身なんだな。
だから、公家は、直接に指令を出したりしません。絶対にね。
そこは、「あ、うん」の呼吸・・・主上の意図を、天皇の意図を、さりげなく・・・もちろん、公家によってでっち上げられた意図ですけど、
それをさりげなく、さりげなく、光秀に流した・・・それが光秀の中で、ドンドン大きくなって・・・本能寺の変になった・・・そう見るべきじゃないですか?
だって、このタイミングですもん。
信長から暦の改定を申し入れられ、天皇の行幸が予定され、武田家が滅亡し、三職推任ばなしを信長に蹴られ・・・公家的には、もう追い詰められた最後の状況でしょ?
公家の最後の最後の手段・・・それが光秀を動かし、本能寺の変が起こった。
こう見るのが、自然ですよー。ほんと。
だから、光秀はいち早く、朝廷の公家達に、
「やったよ、僕。偉いでしょ!」
って、言いにいったんですよ。
だから、公家側も、ほくほくした顔で、
「ようやった。これで天皇家の危機は、回避された」
くらいのことを言ったでしょう。
そして、お金を下賜した・・・そう言うストーリーですよ。これは。
公家はコントロールできなくなった武家を、殺すんです。
天皇家を危うくする武家を殺すんです。
後白河法皇を幽閉し、天皇家を敵にした清盛は病気で死にますけど、平家は源氏によって、滅ぼされた。
京を危うくした木曾義仲も頼朝の命に従った鎌倉の兵に殺され、後白河法皇を危うくした義経も結果的に殺された。
位打ちにあい、京側に取り込まれそうになった実朝は、武家によって殺された。
朝廷から権力を奪った鎌倉幕府も、結局は滅ぼされた。
天皇になろうとした足利義満も殺され、そしてその系譜上に、信長の死があるわけです。
天皇家を危うくした武家は、公家によって、殺される・・・光秀はその手足になって働いたに過ぎないんです。
だから、光秀に、天下取りという意識はなかったはずです。
むしろ、天皇家の為に働いた忠臣、第二の楠木正成との意識の方が強かったでしょう。
だから、目的を達してしまったあとは、グダグダになったんです。
目的を達成し、役目を終えたからこそ、退場したのが明智光秀だった、ということです。
公家が密議を交わしていたことは、多くの公家が光秀挙兵前後の日記を破り捨てていることで、明白です。
なぜなら、公家の最も大事な仕事は、子孫の為に、詳細な日記を残すことですからね。
その大事な仕事の成果を破りすてるということは、それだけ、知られてはいけない事実がそこに詳細に書かれていた、ということです。
秀吉が公家に対して、恫喝した、という記録も残っていますから、
頭のいい秀吉です。
そのあたりの公家の行動は、見抜いていた、ということでしょうね。
いずれにしろ、かつて遠藤周作氏が言った疑問、
「歴史学会は、日本で何故これほど天皇家が続いてきたかについての答えをくれない」
に対する答えが、ここにあるんです。
「信長程の実力を兼ね備えた武将であっても、天皇家を危うくしたら、天皇家を信奉する人間によって、殺されてしまうからだ」
これが本能寺の変の真相だと、僕は思いますね。
そして、それこそが、天皇家が長く続いてきた理由そのもの、でもあるのです。
それが結論かな。
長くなりました。ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
ではでは。