「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

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お市御寮人が、浅井長政に嫁いだ本当の理由!(簡単な事だったんじゃん!(笑))

2011年01月27日 | 信長論考!
どうも!ゆるちょです!

えー、今日は木曜日、なんですが、まあ、ちょっと信長さんに会いたくなったので、信長論考!いっちゃいますか(笑)。

というか、最近、日曜日になると、ノブナガという人物が出ていますけど、

あれは、似て非なるものですからねー(笑)。


さて、今回も「信長公記」をテキストにしながら、信長の人生を読み解いていきましょう!


永禄十年(1567年)九月稲葉山城を落とし、美濃平定を成し遂げた信長は、井ノ口を岐阜と名づけ、居城を岐阜城に移します。

そして、天下布武の印章を使い始めます。


まあ、信長の新しいステージが始まった、というところでしょうか。

しかも、目指すは、天下布武。武によって、天下をとる。

これは、前回の記事でも、指摘しましたが、

「血ではなく、武で天下をとるのだ」

という表明であり、天下をとり、幕府を開いた頼朝や、足利尊氏を意識したもの、なんですね。

だから、意識としては、すでに天下人と同じ意識なんですよね。

「俺が新しい時代を作ってやる!」

そういう意識であったことは、誰の目にも明らかでしょうねー。


さて、そういう新たに勃興した織田信長の噂は、すでに前年奈良でも流されていたようですが、

このあたり、信長が意図的に流させた噂であると僕は見ています。まあ、実際、信長が流さなくても

実際に、信長が、尾張と美濃を実力で勝ち得たのは事実ですから、早晩、中央に信長の情報が流れるのは、

ごく当然なんですよね。


そういう中、11月9日、正親町天皇は、御蔵職の立入宗継を信長に遣わして、信長を、

「古今無双の名将」

と称える綸旨を与え、美濃・尾張両国の料所の回復を命じています。


まあ、これ、要は、

「天皇の料所、返してくれない?ほら、褒めてあげるからさー」

ってなことでしょうね。

まあ、この料所、返されたのかどうか、わかりませんが・・・まあ、今後の事を考えれば、返しておくのが筋ですかね。

まあ、信長の父、信秀は、天皇家をうまく使っていたようですし、そのあたりの感覚は、信長にもあるでしょうからね。

まあ、実際、信長にとって、天皇とは、日本で第一等の血筋・・・彼にとってみれば、高貴な血筋を利用して政治を行うことは、

「古いことだ。今後は、武による政治に移さねばならんのだ」

と、思っていたでしょうから、

「やっかいな敵」

という意識も実はあったかもしれません。

ただ、天皇には、武力はないんですね。

だから、実際には、権威が高いだけで、現実的能力は、ない・・・現実的政治には、乗り出してこないだろう・・・このあたりを信長は見抜いていたから、

後年、将軍家より天皇家を利用する形に移行していったんでしょうね。


さて、同じ11月から12月にかけて、信長は、美濃国内の寺社に対して、不法行為の禁止や、農民に還住を命じるなどの禁制を出しています。

これは、いわゆる、戦後処理と見ていいでしょう。新たな美濃の国づくりがはじまった、そう見るべきでしょうね。


そして、12月1日、奈良興福寺の衆徒に書状を送り、近日中に足利義昭を奉じて、上洛することなどを報じています。


前年、同じような噂が奈良で高まった・・・そして、ここにきて、信長が、それを実施する旨の書状を送ったということは、どういうことでしょう?


これ。


どう考えても、信長が、奈良興福寺とつながっていた、ってことじゃないですか。


前年の噂は、信長が興福寺の衆徒を使って意図的に流させた謀略だったってことが、これで証明されたんじゃないですか?


だから、謀略成功のお礼に、今度は、実際に足利義昭を奉じる時期を、明確に知らせた、ということでしょう。


つまり、謀略の依頼があって、それが成功したから、再度情報を流し、さらなる謀略にしているわけですよ。さすが信長ですね。

やることが、2段、3段構えです。この噂が流れれば、美濃から京に向かう街道筋の大名達は、牽制され、

何らかの態度を表明せざるを得なくなる。


実際、

「将軍家が、諸国の大名に伴を命じて、京都へ戻る」

というのは、真っ当な行為だし、将軍家とは、すべての武家の棟梁であり、これに従わない者は、誅されても、文句が言えない建前ですからね。


あくまで、信長は、供奉する武家ということになるわけで、まあ、実際、この時代の将軍家は、力のある武家のパスポートになっていたに過ぎませんからねー。


サポートされる武家に見放されると、先代の将軍、兄の足利義輝のように、暗殺されちゃう時代ですからねー。

まあ、武家と管領家、将軍家との三つ巴の暗闘というのは、要は血と役職と、武力のどれが、上か問題なんですよね。

まあ、松永久秀のお殿様であった、三好長慶は、信長より前の時代に、管領細川晴元、将軍足利義輝を、京都から追放したりしてますけど、

それで、戦いが終わるわけでなく、逆に、敵方に戦いの大義名分を与えることになって、まずます戦乱は打ち続くという状況を現出させていますから、

力のある武家にとって、管領や将軍家というのは、使い方を誤ると、ただただ、戦いが続くという現実を引っ張ってしまう。


そのあたり、信長は、よーく見ていたと思いますね。

「将軍とは、どう使えばよいのか」

を。


だから、信長以前の京都を制圧した武家・・・三好長慶や、大内義興、または、応仁の乱で活躍した義興の父、大内政弘のやり方を見ていると、

どうもあまり、うまくいってない・・・というか、やり方が間違っちゃった感じで、そういうのを見てくると、信長の京都制圧政策は、

「これが、答えじゃん」

的に見えるんですよ。やっと答えがだせた、みたいな感じに見えますねー。


だから、信長の京都政策を先にみてしまうと、信長の素晴らしさが、わからなくなってしまう。


やはり、比較なんですよね。他の武将のやりようと比較して、初めてわかるのが、信長のすごさ、ということになりますね。


まあ、少し話が脱線しましたが、信長は、奈良の興福寺をうまく使って、謀略を進めているわけです。素晴らしいですねー。


さて、この年、もうひとつ、大きな出来事があります。

近江の浅井長政と同盟を結び、お市御寮人を、浅井長政に嫁がせています。

まあ、このあたり、今月、いろいろ映像で見させてもらいましたねー。

こうやって見てくると、非常に分かりやすいんですが、この同盟は、

「京都への道を確保するために、浅井長政と組んだ」

というのが、実情だ、ということが、よくわかるわけです。

「将軍家を奉じて京に上る」

と、しきりに噂させ、世間の反応を待ち、それから、一手一手、手を打っている。


実は、浅井長政が、なぜ、織田信長と手を組んだのか、というのは、割と謎なんですよね。

というのも、浅井家は、北の朝倉家と縁が深いわけで、まあ、同盟関係にあるわけですよ。すでに。

そして、朝倉家と織田家というのは、敵対しているわけです。非常に仲が悪い。

まあ、結局、浅井長政も、その旧来の関係によって、織田家と戦うはめになっていくわけですが、

じゃあ、なぜ、そういう朝倉と織田の関係があることを知りながら、浅井長政は、織田家と同盟を結んでしまったのか?


これ、謎でしょ?


ただ、このように、順番に信長の政策を見ていくと、信長は、きっと、浅井家がぜひとも乗りたくなるような理由をチラつかせたんだろう、ということがわかるわけです。


もちろん、もう、答えは、書いています。

「武家として、将軍家を供奉し、一緒に京都へ出よう!」

こう誘ったんですよ。これは、武家の最高の名誉ですからね。


だから、浅井家としても、無下には、断れない。


もし、断れば、

「お前は、将軍家をないがしろにするのか。将軍家の意向を無視するのか!」

ということになる。だから、なぜ、浅井家が、信長を突然裏切ったか、ということになれば、これは、完全に、当の足利義昭の意向が、

「織田家をつぶせ」

というものに、なったから、そういう意向が、浅井家に伝えられたから、と読み解くことができるわけです。


なあんだ、簡単じゃん!


解けちゃったじゃん!


なるほどねー、そういうストーリーだったんだ。


決して、朝倉家とのつながりを重視したわけでなく、将軍家の意向を知ったからこそ、浅井家側が、


「旧来の情宜から、朝倉家をお助け申す!」


と、口当たりのいいことを、朝倉家側に宣言して、織田家と同盟していたことなど、ちゃらにしたんでしょう。


そういうストーリーだ、これは(笑)。


よーくわかっちゃったねー。


というわけで、浅井家と織田家は、将軍家の意向の元、同盟した、というわけです。


まあ、このあたりは、信長のツール使いのうまさが出てます。


もっとも、それが、いろいろバレちゃって、信長は、窮地に陥るわけですけどね(笑)。



いずれにしろ、ここでは、信長が、着々と上洛のために、手を打っている姿がわかったかなー、というところですね。



っていうか、浅井家の本当が、わかって、非常に、有効な論考になったと、思いますねー。



なんだよ、順序立てて論考すりゃあ、すぐわかることだったんじゃん!



ま、織田浅井同盟の真相は、信長の将軍家使いが、うまくて、それにのせられちゃった浅井長政、という結論ですかね。



いやあ、ほんと、歴史を論考するのは、おもしろいね!



という結論にして、今日はここまでにしましょう!



ここまで、長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。




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