「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

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信長が「俺、天下とれちゃうもんね!」と確信した理由!(血から武へ!)

2011年01月20日 | 信長論考!
どうも!ゆるちょです!

えー、というわけで、夜向け記事なわけですけど、

今日は、久しぶりに、お休みしていた論考シリーズをちょっとだけ、やってみるか、と

思いまして(笑)。

まあ、いろいろやってたんですけど、ちょっと信長、書いてみるか、ということで、

信長論考を久しぶりにやってみたいと思います。いやあ、どんな感じになるかなー。


まあ、結論は、いつものごとく、まったくわかりませんから、まあ、へろへろやってみましょうかー。



で、前回の信長論考ですが、11月24日ですから、2ヶ月休んでいたことになりますねー。


まあ、年末というか、師走の忙しさに負けたということでしょう。


さて、前回の記事では、

「覚慶(足利義昭)を最初からパスポート程度にしか考えていなかった」

ということがわかりましたね。

また、

「高い目標を立てておくこと。その目標にたどり着くための具体的なプランを立てておくこと」

が、とても大事で、それをしておかないと、ただの夢で終わってしまうということを教えてくれました。

まあ、日本を自らの手で占領する、という高い目標があったからこそ、足利義昭が転がり込んできたときに、無理をしてでも、

これをとりに行き、そして、その機能を最大限に使ったに過ぎないのが、信長だったんですね。


うん。信長の生き方っていうのは、いろいろな示唆があって、自分の生き方の参考にできますね。


より、具体的に考えておくことで、目の前にある現実を、理解しやすいということなんでしょうね。


さて、それでは、今日の論考に入っていきましょう!


信長は、足利義昭に、帰洛の供奉を申し出ていましたが、まだ、実現には、至っていません。

永禄九年(1566年)、信長は、33歳になっていました。

この年の4月11日、信長は、朝廷に馬、太刀、銭30貫文を献上し、自らの威勢を示しています。

このあたり、信長は、中央へ出て行く環境整備をしている、と見ていいでしょう。

平安時代、木曽義仲が京都支配に失敗した例が、武家には、悪しき先例として、覚えられていますから、

信長は、まず、朝廷へ好印象を与えるために、まず、貢ぎ物を贈り、朝廷側に好印象を与えたのだと考えられますね。


どこかに出て行こうとする場合、まず、その場を暖めておくことが大切なんですね。


これは、どの場所に出て行くにも、共通する原理です。

まあ、お笑いなんか、そうですよね。まず、若手が場を暖めておいて、そこにベテランが出て行くから、ドッカンドッカン笑いがくる。

なーんて、こと、聞いたりしますしね。仕事の場でも、例えば打ち合わせの場でも、最初は軽いおしゃべりから、入りますからね。

そして、場が暖まったあたりから、仕事が始まったりする。個人でも団体でも、同じなんですね。


さて、この年の8月、奈良において、信長が足利義昭を擁して尾張、三河、美濃、伊勢の兵を率いて上洛する、という噂が流れたとしています。


実際、美濃は、まだ、斉藤氏のモノのはずですから、こういう噂が流れるということは、美濃は、そろそろ信長のモノになりそうだ、と

皆が考えていた、ということがわかります。まあ、三河が入っているということは、松平元康が、一緒に上洛するだろうと見ているということで、

この二人のタッグは、強烈だ、と皆が見ているということですね。


この時代、連絡手段は、人づてしかないわけです。

その場合、伝言ゲームがうまくいかないように、いろいろ事実と違うことが、うわさになることはあると思います。しかし、逆に、そういうことをわかっていた

当時のひと達のことですから、それこそ、本当の情報であることの価値が非常に高いはずなんですね。

だから、人々は、モノを見る目や、情報を獲得するのに、現代の人間より、より長けていたのではないだろうか、と思うんですね。


連絡手段が発達していないから、当然、人間の方が、情報を見る目に長けていた・・・だから、噂が、より本質を突くことになっていたのではないでしょうか。


実際、信長は、この後、足利義昭を擁して上洛するわけですからね。


それを見抜いていた人間がいた、ということでしょう。侮れない時代ですね。


さて、次の年、永禄十年(1567)になると、信長は34歳です。

この年、まず、伊勢の北境の城を、滝川一益に命じて攻略させています。

その年の5月27日、信長の娘五徳、徳川家康の長男信康に嫁いでいます。もちろん、織田徳川同盟を強固にするためで、お互い大事な物をさし出して、

同盟を最も大切なモノとして、扱っています。


このあたり、信長は、目標に向かって、着々と、手を打っている感がありますね。


そして、9月、美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が、内応し、織田軍は、稲葉山城を急襲し、とうとう、これを落としました。

斎藤龍興は、伊勢長島に、逃れ、ここに、織田家による美濃平定がなったのです。


このあたり、すでに前年に、噂されていましたからね。そういう噂が流れたことも、美濃三人衆の気持ちを動かす背景にもなったと思いますね。


だから、こわいですね。噂が流れてしまうと、現実がそれをあと追いするように、そうなってしまう。

だから、噂って、こわいんですね。ひとの気持ちをも、動かしてしまい、現実を呼び込む力がある。

もちろん、これ、それを知っている信長が、謀略戦のひとつとして、奈良あたりに故意に流させたと考えるのが自然かもしれません。

だから、「流言飛語」というのは、ゲーム「信長の野望」でも、攻撃のひとつになっているんですねー。

なるほどー、いい勉強になります(笑)。

信長の立場になって考えれば、

「足利義昭を擁して、上洛するのは、全国統一に、ぜひ、必要な手続きだ。しかし、そのためには、美濃は抑えないといけない」

「であれば、美濃人のこころをまず動揺させ、こちらに内応させるのが、上策」

「であれば、まずは、義昭を上洛させる旨の流言を流し、美濃三人衆を内応させることにするか!」

と、考えても、不自然ではありません。というより、そうやったと考える方が、むしろ自然。

とすれば、信長とは、謀略戦の超玄人、と言っていいでしょうね。っていうか、もう、ずーっとそう言ってきましたね。

いやあ、すごいなあ。望みの事実をガンガン引き寄せる、論考者そのものですねー。


さて、信長は、この稲葉山城を居城にするにあたり、岐阜の地名に変更し、天下布武の印章の使用を開始しています。

もちろん、岐阜という命名は、天下統一の宿願を内外にメッセージとして、与える役割を果たしています。

天下布武の印章も、同じく、天下統一メッセージです。


つまり、信長は、

「美濃をとったら、天下統一ができる」

と、踏んでいたんですね。


まあ、でも、こう見てくると、それも、自然なことですよね。

信長は、天下統一のための具体策を、10代で読みきっているし、その意志を表すのは、

「美濃をとってから」

と、決めていたんですよ。だから、足利義昭を待たせておいて、謀略で、稲葉山城を落とした。


このあたり、すごいですね。


よく、この天下布武の印章を使い始めるのが、早過ぎる、実力が伴っていないのに、空威張りだ、みたいな論調の文章を見ますが、

僕的には、これは、まさに、信長の読み通り、素晴らしいタイミングだと思いますね。

僕はこの時代、天下統一を考えていたのは、信長以外にいない、としました。

皆、目的を持っていなかったんです。

他の大名は、自分の勢力を守ること、と近隣にいる敵対勢力とどう戦っていくかぐらいを目標にしていたくらいでしょう。

高い目標をおかず、目先のことにのみ、汲々としていたから、戦略的に高度なことも考えられなかった。

しかし、信長は、ひとりだけ、天下統一を構想し、そのための具体策を考えぬき、考えついていたんです。

だから、次々と天下統一のみを目標に、施策を打っていけた。だからこそ、その施策が功を奏して、尾張、美濃統一ができた。

それができれば、伊勢もとれる。家康の三河兵は、強い。

この大きな兵団があれば、他の地方勢力に悠々と対抗できる。もちろん、大きな軍事力を保持した、ということは、軍事的オプション以外でも、いろいろな策を

打てるということなんですね。美濃三人衆を内応させたのは、巨大な軍事力を背景に、噂やその他で、脅されたおかげで、結局、心が折れた、ということです。

孫子の兵法でも、最も上策は、兵をひとりも動かさず、敵のこころを折ることだ、としていますから、信長は、最も上策で、美濃をとったということになります。

これを経験した信長は、強いですよー。そりゃ。

信長は、強大な軍事力の使い方を、経験的に学んでしまったんですよ。この時点で。


戦うだけでなく、要は、相手の心を折ればよい。


それが、わかったら、そりゃあ、

「なんだ、俺、日本とれちゃうじゃん!」

って、思っても、不思議じゃないですよね。いや、むしろ、当然ですよ。


だから、この時期、

「俺、日本統一しちゃうもんね。血の力でなく、武によって、統一しちゃうもうね。それって、新しいだろ?」

って、言えたんです。この武によって、統一する!っていう宣言が新しいんです。


この時代、血への信頼から、武への信頼に変わってきている時代なんですよね。


思い出してください。斎藤道三は、元の守護を、代々血による信頼を得てきた守護を追い、美濃を統治した。

それでも、道三は、美濃守護の血をひくとされた、その子、斎藤義龍と彼らの元に集まった美濃勢に倒されています。

つまり、この時代、血から武へ、という革命的思想の変化が起こり始めた時代なんですね。

だから、信長は、ことさら、武!という言葉を使っているんです。武による天下統一。

それは、源頼朝も、足利尊氏もやっては、いないことです。彼らには、血筋という背景があった。

まあ、もちろん、信長も、元は藤原氏だとか、平氏だとか、名乗っていますが、彼とすれば、そんなもので、天下統一をする気はないんです。

なぜなら、もし、軍事的に天下統一するのなら、前例を真似るのが、簡単だからです。

頼朝や、尊氏のように。

しかし、足利義昭だって、いるし、元々、信長は、血による統治は考えていなかったと思います。

むしろ、

「実力のある人間が、天下統一を実施し、実質的に天下を握るべきだ。血に頼る時代は、終わったのだ」

という意識を持っていたと思います。だから、ことさらに、「武」を押したのだ、と考えられますねー。


このあたり、ものすごく、画期的なことなんですね。でも、このあたり、誰も指摘してないんですよね。まあ、それはいい。


血の時代が終わったと、信長が考えていた、ということは、織田家のあり方を見てもわかるはずです。

能力主義一本で、それが、信長軍を強くしている唯一の理由です。仕事ができるか、できないか。

できる奴は、成果次第で、上り詰めることさえ、できる。

それは、信長が自分に圧倒的に自信があるから、できた、自軍構成です。

信長は、自軍の誰より、自分が天下のことについて考え抜いていると自信があるから、そういう軍隊を持てたんですよ。

もちろん、人を見る目もあることは、自分で知っているから。

だから、能力のある人間が集まってくる。すばらしい循環です。そういう循環をもっていたから、信長は、あれだけやれたんです。


このあたり、素晴らしいですね。


信長が、新しい時代を作れた理由がたくさん、このあたりに出ています。


やはり、人間、論考者になるべきなんですよ。

そして、自分の周りに、いい循環をたくさんつくる。そうすれば、その循環が自分を高みに持って行ってくれる。


このあたりは、信長さんの生き方に示唆されていることになりますねー。


まあ、とにかく、信長は、

「俺は天下をとれる!」

と、確信したから、岐阜の街ができ、天下布武の印章が使われ始めたんですねー。


そのあたりが、今日の結論になりますかね。


いやあ、やっぱり信長は、おもしろい。


そして、順序立ててみてくると、非常に合理的だし、僕達が生きていく上で、たくさんの示唆をくれる。


やはり、日本人は、一度、信長を勉強してから、人生を決めていった方がいいような、そんなことまで、思えてしまいますねー。


織田信長。日本人の成功モデルのひとりとして、僕は尊敬しまくりますね。

もちろん、そのやりかた、自分の人生にパクらさせて頂きますね。

人生の師として、信長をさらに見ていきたいと思います。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではではー。




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