どうも!ゆるちょです!
いやあ、一日、寒いですねー。
まあ、このあたりは、仕方ないなあって、あきらめが肝心ですね。
と、先週の所さんの番組「目がテン!」を見ていたんですけど、
けっこう興味深い実験をやっていたので、そのあたりをちょっと考えてみようかなあ、と思いますね。
えー、
「中国人は、絶対、謝らない!」
という噂を、
「ほんとか?」
ということで、検証していたんですね。
実験は、こうです。
まあ、テレビの別番組を作るという触れ込みで、中国人及び同世代の日本人(大学生くらいだったかな)を呼び出し、
それぞれ一人を、ある部屋に、たったひとりにする、というところから始まります。
そこには、
「世界で一番軽い皿」
と、名札をつけられた皿がむき出しでおいてあるわけです。
そりゃ、誰だって興味を持ちますよ。
しかも、ひとりで、置いてきぼりな感じですからね。
まあ、日本人の大学生が、最初に犠牲になるわけですが、
まあ、興味を持って軽さを測るためにもちあげる・・・と、皿は崩壊し、持ち上げた大学生は、顔面蒼白、周りを見回して、
「どうしよう!」
という顔になるわけで、運悪くそこに、番組スタッフが入ってきてしまうので、その時、その大学生は、どういう対応をとるかを
観察する・・・そういう流れなんです。
もちろん、皿には、予め壊れるように、仕掛けがしてある・・・というわけで、
日本人の大学生、と、中国人の大学生で、どういう対応をするかを、比較してみる、という実験なんですねー。
で、結果は、どうだったか!というと、日本人は、だいたいうろたえますが、
「すいません。ほんと、ごめんなさい!」
と、まず、謝るんです。もちろん、
「これ、最初から壊れていたのでは?」
と、思っているはずなんですけど、それは、指摘せず、自分の非をまず認め、相手の対応を待つ、という態度に出るんです。
これは、同じ日本人である僕らは、理解しやすい態度ですよね?
それに対して、中国人の大学生達は、どうだったか。
実験は、十数名にやったようですが、ひとりとして、謝ったものは、いませんでした。
「この皿は、最初から割れていた!」
ということを指摘して、自分の非であることは、全く認めない、という態度でした。
まあ、番組的な結論としては、
「中国人は、何か問題を起こした場合、許される習慣あるいは、環境にない。さらに、責任をとらされる場合、非常に重いものになる」
「だから、必死に、自分の責任を逃れようと抗弁するようになっている」
ということでした。つまり、中国人の世界とは、そういう許容というものがなく、個人の責任において、社会ができている世界であって、
これって、欧米に近いんですよね。
多分、同じ実験を、欧米人にしかけても、中国人と同じ反応を示すと思うんですね。
つまりですねー、日本人だけが、世界では、違う反応をしている、と考えられるんですよ。
従来、このことは、
「世界の仲間はずれの日本」
とか、
「世界に遅れている日本」
的なネガティブな説明してきた識者が多かったです。
でもね、僕はそう思わない。
社会的民族である、日本人は、社会とのつながりを持つことに価値を置きます。
だから、一度失敗したからと言って、
「人間というものは、失敗する動物だし、それだけで、その人間に全ての責任は押し付けられないものだ。管理側の責任も考えるべきだし」
「総体としての責任論が検討されるべきだ」
と言う考えから、個人に責任を押し付けない、という習慣があるんですね。
「全体責任」
という言葉がありますが(昔はいやな言葉だった)、その組織で失敗を共有することが、良いこと、という発想があるんですよね。
それが、まず、あるから、問題を起こした人間は、まず、自分が卑怯でない、ということを証明しなければならないんですね。
「私が、この事件を起こしました」
これだけは、日本人社会では、なんとしても、認めないと、
「その人間は、卑怯!」
というレッテルが貼られ、全ての釈明の機会が取り上げられてしまう。
「あいつは、卑怯じゃない」
と、評価されれば、
「この事件は何故、起こったのか?管理者側の問題はなかったか?彼を皿の前にひとりで残したのが、そもそも問題だったのでは?」
という方向に議論が進み、
「まあ、人間だったら、世界一軽い皿と書かれていれば、手を出すのは当たり前。とすれば、そんな皿の前に、ひとりにした番組スタッフにも責任がある」
という形になり、どちらかと言えば、番組スタッフに問題があった、という採決が下ったりするんですよ。日本では。
これなぜ、こういう形の採決が下ったりするんでしょう?
これねー、喧嘩両成敗にも見えるんですが、実はそれより、一歩踏み込んでいて、弱者を守り強者は、社会を守る義務がある、という考えを根底にしているんです。
この場合、何も知らずに連れてこられてひとりにされた大学生は、明らかに弱者です。社会的弱者。
それに対して、その場所を所有し、その場所をコントロールできる役割を担っている番組スタッフは、大学生に比べて、社会的強者なんですよ。
だから、弱者を守りながら、強者に義務を求めている、という構図になっているんですよ。
つまり、社会的弱者には、今後の成長を期待する態度であり、
社会的強者には、義務として、責任を求めているんです。
これは、社会を構成する人間に対する、社会的民族である、日本人の基本的態度を表現していると言えるんです。
つまり、社会がいい方向に成長するような、判断なんですよ。弱者には、成長を促し、強者は、弱者を守る義務があり、責任がある、ということなんです。
と、いう道理が見つかった、ということは、これ、日本にのみ、見られるとして、よく不可思議な現象の代表として見られる、
「判官びいき」
の理由を説明していることになりませんか?
つまり、日本で若者や社会的弱者として、日本人に思われるひとが、なぜか人気を獲得してしまう理由は、
「強者が、社会的弱者に対して、がんばれ!という感覚が普通にあるから」
ということになるんですよ。社会をいい方向に成長させようという社会的強者の想いがあるから、そういう想いになるんですよ。
なるほど、簡単に説明できちゃうじゃん。
つまり、それほど、日本人は、社会というものに、敏感で、社会の成長を願っているんだ、ということになります。
なにしろ、日本人は、社会で高度に役割を果すことを宿願にしていて、それに価値を置いていますからね。
だから、社会的弱者に対して、社会的強者は、鷹揚な気持ちで、
「まだまだ、だな。だが、今後の社会は、お前ら若いヤツにかかっているんだ。お前も社会的に成長し、社会そのものを成長させろ!」
、
と、根底で思っているから、いろいろな行動が出てくるんですね。
それに対して、収奪性民族である、弱者から収奪することにしあわせを感じる収奪性民族、欧米人や中国などは、社会のことより、まず、自分なんですよ。
だから、個人社会になるわけで、日本とは、まったく違う価値観の民族だ、ということがわかります。
収奪性民族と、社会性民族の違いを端的に言えば、
収奪性民族は、金を獲得するために働くという発想を持つ人々であり、
社会性民族は、社会で働いていることに価値を置き、お金は二の次というひとである、ということですかね。
もちろん、個人個人いろいろですが、大きな傾向として、そういう傾向がある、ということで、収奪性民族と社会性民族を規定しています。
つまり、収奪性民族では、そういう許容もないし、社会を発展させるために、という発想がそもそもなくて、
個人的に自分、あるいは、自分の家族などが、よければ、それでいい、という発想なんですね。
ということは、要は、収奪性民族は、個の利益しか考えていないのに、対して、社会性民族は、社会の発展まで、考えて、生活している、ということになるんです。
これね、この考えを推し進めれば、どういうことになるかと言えば、まあ、以前も言いましたけど、
世界を平和にする可能性を持つ、民族は、どう考えたって社会性民族筆頭である、日本人以外あり得ないってことになるんですよ。
世界各国を見てください。
自国の発展しか考えてない。
しかし、日本は、どうです?
世界平和を盲目的に望み、それが達成できることを至上の歓びに感じている。
それは、なぜか。
他国をお隣さん的に考えているからです。他国も日本と同じように、社会の発展を考えているだろう、だったら、世界平和なんてできるはずだ、
という考えに至っているからです。まあ、そこが、日本人の世界平和論の限界と言えるわけですけど、
その可能性を唯一平和的に考えられるのが、日本人なんです。
だから、以前もどこかで書きましたが、日本的文化の世界への輸出は、世界平和実行の手段でもあるんです。
だから、日本的価値観で描かれている漫画を輸出することは、世界平和への道だ、と僕は主張しているんです。
社会を発展させようという発想のある日本人と、個人のことしか、考えない収奪性民族。
どちらが、生き方に関して鷹揚だと思います?
日本人の方だって、素直に言えるでしょ?
日本人は、社会を使って、しあわせになろうとしているんですよ。
だから、社会性民族である日本人こそ、今後の世界を変えていくキーになると言えるんですね。
なんだか、すごい結論になっちゃったけど、このあたりを考えていくと日本特有の価値観、
「おもてなしのこころ」
にもつながっていくような気がしますね。
そのあたりは、また、別途考えましょう。おもしろそうなネタだから(笑)。
いずれにしろ、日本特有の「判官贔屓」のこころは、社会的強者による、社会的弱者を思いやる暖かいこころの発露だった、ということがわかったので、
ちょっと今回の論考は、おもしろかったかな、という結論にしておきましょう!
ではでは。
いやあ、一日、寒いですねー。
まあ、このあたりは、仕方ないなあって、あきらめが肝心ですね。
と、先週の所さんの番組「目がテン!」を見ていたんですけど、
けっこう興味深い実験をやっていたので、そのあたりをちょっと考えてみようかなあ、と思いますね。
えー、
「中国人は、絶対、謝らない!」
という噂を、
「ほんとか?」
ということで、検証していたんですね。
実験は、こうです。
まあ、テレビの別番組を作るという触れ込みで、中国人及び同世代の日本人(大学生くらいだったかな)を呼び出し、
それぞれ一人を、ある部屋に、たったひとりにする、というところから始まります。
そこには、
「世界で一番軽い皿」
と、名札をつけられた皿がむき出しでおいてあるわけです。
そりゃ、誰だって興味を持ちますよ。
しかも、ひとりで、置いてきぼりな感じですからね。
まあ、日本人の大学生が、最初に犠牲になるわけですが、
まあ、興味を持って軽さを測るためにもちあげる・・・と、皿は崩壊し、持ち上げた大学生は、顔面蒼白、周りを見回して、
「どうしよう!」
という顔になるわけで、運悪くそこに、番組スタッフが入ってきてしまうので、その時、その大学生は、どういう対応をとるかを
観察する・・・そういう流れなんです。
もちろん、皿には、予め壊れるように、仕掛けがしてある・・・というわけで、
日本人の大学生、と、中国人の大学生で、どういう対応をするかを、比較してみる、という実験なんですねー。
で、結果は、どうだったか!というと、日本人は、だいたいうろたえますが、
「すいません。ほんと、ごめんなさい!」
と、まず、謝るんです。もちろん、
「これ、最初から壊れていたのでは?」
と、思っているはずなんですけど、それは、指摘せず、自分の非をまず認め、相手の対応を待つ、という態度に出るんです。
これは、同じ日本人である僕らは、理解しやすい態度ですよね?
それに対して、中国人の大学生達は、どうだったか。
実験は、十数名にやったようですが、ひとりとして、謝ったものは、いませんでした。
「この皿は、最初から割れていた!」
ということを指摘して、自分の非であることは、全く認めない、という態度でした。
まあ、番組的な結論としては、
「中国人は、何か問題を起こした場合、許される習慣あるいは、環境にない。さらに、責任をとらされる場合、非常に重いものになる」
「だから、必死に、自分の責任を逃れようと抗弁するようになっている」
ということでした。つまり、中国人の世界とは、そういう許容というものがなく、個人の責任において、社会ができている世界であって、
これって、欧米に近いんですよね。
多分、同じ実験を、欧米人にしかけても、中国人と同じ反応を示すと思うんですね。
つまりですねー、日本人だけが、世界では、違う反応をしている、と考えられるんですよ。
従来、このことは、
「世界の仲間はずれの日本」
とか、
「世界に遅れている日本」
的なネガティブな説明してきた識者が多かったです。
でもね、僕はそう思わない。
社会的民族である、日本人は、社会とのつながりを持つことに価値を置きます。
だから、一度失敗したからと言って、
「人間というものは、失敗する動物だし、それだけで、その人間に全ての責任は押し付けられないものだ。管理側の責任も考えるべきだし」
「総体としての責任論が検討されるべきだ」
と言う考えから、個人に責任を押し付けない、という習慣があるんですね。
「全体責任」
という言葉がありますが(昔はいやな言葉だった)、その組織で失敗を共有することが、良いこと、という発想があるんですよね。
それが、まず、あるから、問題を起こした人間は、まず、自分が卑怯でない、ということを証明しなければならないんですね。
「私が、この事件を起こしました」
これだけは、日本人社会では、なんとしても、認めないと、
「その人間は、卑怯!」
というレッテルが貼られ、全ての釈明の機会が取り上げられてしまう。
「あいつは、卑怯じゃない」
と、評価されれば、
「この事件は何故、起こったのか?管理者側の問題はなかったか?彼を皿の前にひとりで残したのが、そもそも問題だったのでは?」
という方向に議論が進み、
「まあ、人間だったら、世界一軽い皿と書かれていれば、手を出すのは当たり前。とすれば、そんな皿の前に、ひとりにした番組スタッフにも責任がある」
という形になり、どちらかと言えば、番組スタッフに問題があった、という採決が下ったりするんですよ。日本では。
これなぜ、こういう形の採決が下ったりするんでしょう?
これねー、喧嘩両成敗にも見えるんですが、実はそれより、一歩踏み込んでいて、弱者を守り強者は、社会を守る義務がある、という考えを根底にしているんです。
この場合、何も知らずに連れてこられてひとりにされた大学生は、明らかに弱者です。社会的弱者。
それに対して、その場所を所有し、その場所をコントロールできる役割を担っている番組スタッフは、大学生に比べて、社会的強者なんですよ。
だから、弱者を守りながら、強者に義務を求めている、という構図になっているんですよ。
つまり、社会的弱者には、今後の成長を期待する態度であり、
社会的強者には、義務として、責任を求めているんです。
これは、社会を構成する人間に対する、社会的民族である、日本人の基本的態度を表現していると言えるんです。
つまり、社会がいい方向に成長するような、判断なんですよ。弱者には、成長を促し、強者は、弱者を守る義務があり、責任がある、ということなんです。
と、いう道理が見つかった、ということは、これ、日本にのみ、見られるとして、よく不可思議な現象の代表として見られる、
「判官びいき」
の理由を説明していることになりませんか?
つまり、日本で若者や社会的弱者として、日本人に思われるひとが、なぜか人気を獲得してしまう理由は、
「強者が、社会的弱者に対して、がんばれ!という感覚が普通にあるから」
ということになるんですよ。社会をいい方向に成長させようという社会的強者の想いがあるから、そういう想いになるんですよ。
なるほど、簡単に説明できちゃうじゃん。
つまり、それほど、日本人は、社会というものに、敏感で、社会の成長を願っているんだ、ということになります。
なにしろ、日本人は、社会で高度に役割を果すことを宿願にしていて、それに価値を置いていますからね。
だから、社会的弱者に対して、社会的強者は、鷹揚な気持ちで、
「まだまだ、だな。だが、今後の社会は、お前ら若いヤツにかかっているんだ。お前も社会的に成長し、社会そのものを成長させろ!」
、
と、根底で思っているから、いろいろな行動が出てくるんですね。
それに対して、収奪性民族である、弱者から収奪することにしあわせを感じる収奪性民族、欧米人や中国などは、社会のことより、まず、自分なんですよ。
だから、個人社会になるわけで、日本とは、まったく違う価値観の民族だ、ということがわかります。
収奪性民族と、社会性民族の違いを端的に言えば、
収奪性民族は、金を獲得するために働くという発想を持つ人々であり、
社会性民族は、社会で働いていることに価値を置き、お金は二の次というひとである、ということですかね。
もちろん、個人個人いろいろですが、大きな傾向として、そういう傾向がある、ということで、収奪性民族と社会性民族を規定しています。
つまり、収奪性民族では、そういう許容もないし、社会を発展させるために、という発想がそもそもなくて、
個人的に自分、あるいは、自分の家族などが、よければ、それでいい、という発想なんですね。
ということは、要は、収奪性民族は、個の利益しか考えていないのに、対して、社会性民族は、社会の発展まで、考えて、生活している、ということになるんです。
これね、この考えを推し進めれば、どういうことになるかと言えば、まあ、以前も言いましたけど、
世界を平和にする可能性を持つ、民族は、どう考えたって社会性民族筆頭である、日本人以外あり得ないってことになるんですよ。
世界各国を見てください。
自国の発展しか考えてない。
しかし、日本は、どうです?
世界平和を盲目的に望み、それが達成できることを至上の歓びに感じている。
それは、なぜか。
他国をお隣さん的に考えているからです。他国も日本と同じように、社会の発展を考えているだろう、だったら、世界平和なんてできるはずだ、
という考えに至っているからです。まあ、そこが、日本人の世界平和論の限界と言えるわけですけど、
その可能性を唯一平和的に考えられるのが、日本人なんです。
だから、以前もどこかで書きましたが、日本的文化の世界への輸出は、世界平和実行の手段でもあるんです。
だから、日本的価値観で描かれている漫画を輸出することは、世界平和への道だ、と僕は主張しているんです。
社会を発展させようという発想のある日本人と、個人のことしか、考えない収奪性民族。
どちらが、生き方に関して鷹揚だと思います?
日本人の方だって、素直に言えるでしょ?
日本人は、社会を使って、しあわせになろうとしているんですよ。
だから、社会性民族である日本人こそ、今後の世界を変えていくキーになると言えるんですね。
なんだか、すごい結論になっちゃったけど、このあたりを考えていくと日本特有の価値観、
「おもてなしのこころ」
にもつながっていくような気がしますね。
そのあたりは、また、別途考えましょう。おもしろそうなネタだから(笑)。
いずれにしろ、日本特有の「判官贔屓」のこころは、社会的強者による、社会的弱者を思いやる暖かいこころの発露だった、ということがわかったので、
ちょっと今回の論考は、おもしろかったかな、という結論にしておきましょう!
ではでは。
大変面白く読ませていただきました。
少し興味を持ちまして、記事にあるお皿を使った実験を行った明確な記録や記事等ありましたら教えていただけないでしょうか?
よろしくお願いいたします。
いやあ、昔はこんな事を書いていたんですね。
この実験、「所さんの目がテン!」でしょうから、
そちらのホームページ上に何か記事があるかもしれません。
僕的にはこの実験に関する記事はこれだけだったと思いますね。
日本人は正直な事が評価されます。
正直でないと逆に相手にされませんからね。
「和を以て貴しとなす」が最高正義の日本では、
「正直でない」と評価されてしまったら、
コミュニティにいられなくなりますから、
そこが世界と違うところなんですね。
皿が壊れている。そこに自分しかいない・・・。
そういう状況になったら、まず、状況説明を求められますからね。
にしても、結構がんばって書いていたんだなあ、
ってところでしょうか。
ハクさん、コメントありがとうございました。
久しぶりに採用出来るコメントだったなあ。
昔の記事を読むのも、悪くないですね。
ではでは。