「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

足利義満の目は200年前の直系の先輩、平清盛を見つめていた!(貿易と美しい建物!)

2014年09月01日 | 夜の日本学


一人の髪の毛の長い背の高い細身の女性が机に座り、ノートパソコンを叩いています。

彼女の名はレイカ(31)・・・とある雑誌の取材記者です。

「えー、それでは、タケルさん、夜の日本学「先人考察編」・・・お願いします。今日は誰について語ってくれるんですか?」

と、レイカはノートパソコンを叩きながら、赤縁のメガネを手で直し、こちらを見つめます。

「うん。そうだな・・・今日は室町時代の怪物政治家「足利義満」をとりあげてみようか」

と、タケルは話し始めます・・・。


さて、今日の「夜の日本学」はじまり、はじまりー・・・・。


「足利義満と言えば、まだ、5歳くらいの頃、尼崎あたりの景色を気に入って「お前たち、このあたりの景色はいいから、京都に持ち帰ろう。お前たち担いで行け」と」

「命令したと言うんだね」

と、タケルは言葉にする。

「足利義満と言えば、このエピですよね?タケルさんはどう解釈します?」

と、レイカ。

「ま、子供の頃から「俺偉い病」だったんだろって感じだね・・・と言うか何か自分で言えば大人がなんとかしてくれる・・・そう思い込んでいた」

「少々頭のネジのゆるい子・・・そう見た方がいいかもしれない」

と、タケル。

「なるほど・・・よく現実を理解出来ていない子って、小さい頃はよくいますからね・・・」

と、レイカ。

「彼は当時の武将、大内義弘が「義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。この事とは皆が知っている」と」

「言葉にされているんだ・・・つまり、庶民に厳しく、武力を持った有力守護大名には、優しかったと言うんだな」

と、タケル。

「それは義満と言う人物をどう読み解けばいいんでしょう?」

と、レイカ。

「これだけだとわかりにくいけど・・・義満は、邪魔な存在の守護大名に対しては挑発して、挙兵させて、幕府のチカラで討伐すると言うことを結構繰り返しているんだ」

「しかも、彼は将軍の直属の常備軍である奉公衆を新たに設置し、奉行衆と呼ばれる実務官僚も整備している。つまり、彼はやる時はやるオトコなんだ」

「多分、有力守護大名にやさしいのは表面上だけ・・・「こいつ邪魔だ。今を生きる、必要なし」と見定めたら、挑発して、挙兵させて、取り除いちゃう」

「・・・それを繰り返しているんだから、有力守護大名だって、義満のその知恵のまわり方や手練れたやり方には目を見張るモノがあっただろうし」

「それが結果、義満を将軍として従一位・太政大臣にまで上り詰めさせる事になるんだ」

と、タケル。

「普段はやさしく接しているのに、一旦「必要なし」と判断されたら、滅ぼされちゃうわけですから・・・義満はそれだけの判断力と行動力を持った抜群の」

「武将だったことになりますね」

と、レイカ。

「ああ・・・普段優しいってのは、義満は猫を被っているんだよ・・・ま、義満に比べれば、凡将と言ってもいい大内義弘あたりじゃあ、それが見抜けないって事だよ」

「まさに「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」って奴だね・・・」

と、タケル。

「義満の父、義詮は義満が9歳の時、死去し、その時、義満が将軍位を継いでいますが、実質的には、当時の管領、細川頼之が義満の烏帽子親として」

「彼の教育を見ていましたから・・・権力は彼の元にありました」

と、レイカ。

「その義満が自らの将軍家としての権力を確立させるのは、義満が1378年右近衛大将に就任し、鎌倉幕府7代将軍、惟康親王以来、ま、と言っても50年ぶり」

「くらいなんだけど、足利将軍家としては初の征夷大将軍と、右近衛大将兼務となり、さらに五ヶ月後には、権大納言を兼務し、公家としても動き始めた」

「あたり・・・義満が20歳前後で、将軍家としての権力が確立するんだね」

と、タケル。

「1379年、義満21歳の時、象徴的な事件が起こっています。興福寺の学侶や衆徒が春日大社の神木を奉じて洛中に強訴をかけたのです」

「公家達は神木を恐れて出仕を控えたのですが、義満は我関せずと黙々と出仕を続け、1380年には、一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを」

「立て続けに大々的に再興し、むしろ学侶や衆徒に圧力を加え、結果、この強訴は史上始めて失敗に終わっています」

と、レイカ。

「平清盛も神輿に矢を射た。信長は比叡山を焼き討ちした。そして、義満も、神を信じなかったんだね・・・皆、神を信じないと言う点では共通性を持っている」

「「絶対の知恵者」は「神などいない」事を確信しているのさ」

と、タケル。

「強訴が失敗に終わった興福寺側は大打撃を蒙りますが、1381年が開けると義満は使者を興福寺に派遣し、直接要望を聞き、延暦寺側とも直接交渉が出来るような」

「仕組みを作ることでガス抜きを図っています。所領での興行や仏教再興策なども実施され、この義満の硬軟両方の政策は、寺社側との融和策となり」

「後年義満が興福寺や延暦寺に赴くと、こぞって歓迎を受けています」

と、レイカ。

「「和を以て貴しとなす」こそ、日本の最高正義であることをまた、義満もまた、理解していた・・・と言うことだね」

と、タケル。

「また、義満の対有力守護大名政策ですが・・・こちらもタケルさんが指摘していた通り、守護大名家の兄弟の確執を利用して弱体化させたり」

「必要なしと判断された守護大名家は、挑発され、挙兵した所を討伐され、滅ぼされたりしています」

「美濃源氏の土岐氏は、有力守護大名として、美濃、尾張、伊勢の三カ国を領有していましたが、1389年、義満31歳の時、兄弟の確執につけ込んだ義満によって」

「美濃、伊勢は没収、土岐氏の所領は美濃一国に弱体化されています。また、1391年、義満33歳の時には、当時、11カ国を領有し、「六分の一殿」と呼ばれた」

「山名一族が義満の巧妙な挑発に遭い、挙兵し、征伐されています。さらに1399年、義満41歳の時、6カ国の守護大名だった大内義弘が」

「これまた、義満の巧妙な挑発に遭い、挙兵し、滅ぼされています」

と、レイカ。

「さすが、「絶対の知恵者」は戦も強いんだね・・・なんか、足利義満と言うと、小さい頃に見た「一休さん」のバカ殿ぶりが脳裏に蘇ってきて」

「金閣寺でバカ殿役やってる、アホなおじさんのイメージがあるんだけど、挑発はするわ、戦は仕掛けさせるわ・・・実際、トップとして戦にも出てるわ」

「結構、武将武将している、おじさんだったんだねー」

と、タケル。

「義満は、1383年、武家として、初めて源氏長者になっています。源氏長者とは、源氏として最も官位の高い人間が就任するので、それまでは官位の高い」

「公家が代々なってきたんですね」

と、レイカ。

「なるほど・・・義満は准三后・・・太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じた皇族・貴族の称号・・・にまでなっているからね。これは言わば公家であっても」

「皇族と同じ扱いだから、武家としては征夷大将軍と右近衛大将を兼任して頂点に立っているし、公家的にも、皇族に準ずる扱いだから、頂点・・・」

「いやあ、すごいね・・・「絶対の知恵者」として、当時、並び立てる人間はいなかったんだろうね」

と、タケル。

「義満と言えば、なんと言っても、南北朝の合一と勘合貿易、そして、金閣寺の造営ですけど・・・知恵者は貿易の旨味を美しい建物の造営に使うんですね」

と、レイカ。

「平清盛も中国との貿易で財を成し、厳島神社を造営していますし・・・義満は若い頃、安芸厳島神社に参詣していますから」

「もちろん、平清盛の存在も知っていたんでしょうね」

と、レイカ。

「もちろん、知っていたさ・・・だから、勘合貿易を開始し、その旨味を金閣寺と言う金で出来た政庁として、具現化したんだよ」

「もちろん、義満の目は、200年前の彼の直系の先輩「絶対の知恵者」平清盛に向けられていた・・・」

と、タケル。

「平清盛を超えてやると意気込んでいた?」

と、レイカ。

「ある意味超えていた・・・勘合貿易は、大きな旨味を義満に与えた・・・だから、金で出来た政庁を作れたんだ・・・あの美意識は素晴らしいね」

「彼はいわゆる中国かぶれ・・・先進国のブランド品を買い漁る、後進国のおばちゃんとその意識は大差ないだろうけど」

「彼の美意識は、当時の中国のブランド品によって磨かれていった・・・もちろん、その最初は、平清盛の厳島神社の素晴らしさに感動した体験にあるだろうね」

と、タケル。

「それと、1392年の南北朝の合一・・・義満34歳・・・これこそ、義満の生きた意義だと僕は考えているけど、南朝方もかなり衰微していたんだよね」

「そこに「絶対の知恵者」にして「絶対の権力者」となった義満が登場となれば、衰微した南朝も折れる以外手はなかったと考えるべきだろうね」

と、タケル。

「南朝側にすれば、折れ時だったんでしょうね・・・」

と、レイカ。

「義満と言えば・・・「天皇になろうとした将軍」なんて噂もありますが、タケルさんはどう見ます?」

と、レイカ。

「だって、義満は源氏長者になったんだろ?だったら、源氏の血こそ大事と考えているに決っているじゃん。しかも、万世一系が天皇の意味だろう?」

「自分の血脈に絶対のプライドを持つ、義満は天皇になったりはしないさ・・・源氏長者で、十分旨味は味わっているし、そんな素人の考えそうなこと」

「「絶対の知恵者」の義満は、やらないよ・・・そんな事言ってるのは、志の低い、「俺偉い病」の「知識者」程度だよ」

「それこそ、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」そのものだね」

と、タケルは笑って、言葉にした。


「ま、そんなところだなー。さて、んじゃ、レイカちゃん、今日も飲みに行こうか」

と、タケルは言葉にする。

「はい、どこまでもお供します」

と、レイカは言うと、赤縁のメガネを取り、髪を解いた。


(おしまい)


義満って、戦う武家だったんですね。

「絶対の知恵者」にして、神を信じない、絶対の権力者。

平清盛とも、通ずるモノがありましたね。

やっぱり、「絶対の知恵者」は、似てくるもんなんですね。


ではでは。

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2 コメント

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物言い (Unknown)
2014-09-02 22:38:22
あえて言います。歴史上の人物の関係を正しく理解している上で、この記事の文章を書いたのならばいいのですが、基本的な事を勘違いしているのでは?
足利氏は源氏の末裔です。足利将軍家は平氏である平清盛の直系の子孫ではありません。
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内容と題名から。 (ゆるちょ)
2014-09-03 03:52:24
物言いさん、コメントありがとうございます。

内容と題名を読んで貰えれえば、理解して頂けると思いましたが、

僕が足利義満を平清盛の直系の子孫と言ったのは、

貿易による巨万の富と、それを利用して金閣寺と言う、

美しい美学に富んだ建物を残した点が、

貿易立国を目指し神戸に首都を移し、

美しい厳島神社を整備した点が同じという理由であり、

その点で、直系の子孫と言っています。

絶対の知恵者は同じあり方になるんですね。
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