大河ドラマ「八重の桜」感想 乙女通信
「「男性大河ファン」の直感的で素直な感想」
●歴史にはいちいち意味がある!会津戦争は武家の責任の取り方だったが、西南戦争は・・・!西郷はすっげー策士だったんだね、最後まで!怖いひとだ、西郷隆盛!
というわけで、一週間遅れの八重の桜、第三十八話「西南戦争」のレビューになります。
まあ、遅いですねー。にしても、この記事は書かなければいけませんね。
この「八重の桜」の表現すべき主題のひとつに、
「なぜ、会津は滅ぼされなければならなかったのか?」
というテーマがあります。これは一貫して問われかけてきた命題で、今回も八重が、
「西郷さんに聞いても教えてくれなかった」
と話していましたよね。僕はこの物語の中で、最も大事な主題だと思っているんですが、だからこそ、今回、西郷に山川浩さんが問いただしたシーンがあったのだと、
思っています。いや、あそこでそういうシーンを作らないと、この物語が成り立たない・・・それくらい大事なシーンだったと思います。
いやあ、西南戦争の物語って、今まで大河ドラマでたくさん見ましたけど、最前線でもない場所で山川浩に出会っちゃうという今回のシーン程唐突なシーンはなかった、
ですけどねー。夢オチのシーンか、幻を見たとか、そういう表現に逃げるのかと思いましたが、実際に出会ったことになってるので、
ちょっとおもしろかったですねー。
「犬を見つけててさー」
っていう理由づけも西郷さんらしくて、おもしろかったですねー。
でも、おもしろかったのは、西郷は何も言わないんですよね。
「会津は人柱になったのか?今の日本は会津人の血の上に成り立っているんじゃないか!」
という山川浩の問いかけに、
「わしはそれを忘れたことはなか」
と答えるのみで・・・そういう表現なんですねー。
この劇中の西郷は、何も言わないことで、その思いを強調したことになるんですね。
「秘すれば花」
と世阿弥は言いましたが、まさにそれを地で行く、そういう強調表現になっていました。
ところで、僕は西南戦争の意味を私見では、
「日本において、反乱分子の塊になってしまった薩摩士族を、積極的に削除するために、日本の為に、西郷が起こした、自滅を狙った政治的行動」
と見ています。
大久保利通は、それがわかっていたんじゃないかなとさえ、思うほどですが、今回の劇中の西郷の言葉がその思いに合うモノだったので、おもしろかったですね。
「わしが皆を抱いていく」
というようなセリフだったと思いますが、西郷はもう内乱を起こさせない為に、西南戦争を起こした・・・そういう内容になっていたかと思いますね。
西南戦争を描いた作品と言えば、大河ドラマにもなった司馬遼太郎氏の書いた「翔ぶが如く」が有名なんですが、
あの作品は、読者に戦中派、つまり、第二次大戦を経験した人間の多い時代にその読者に迎合して書いた作品なんですよね。あれは。
だから、当時の読者の怒りの意識、
「軍部上層部がアホだったから、戦に負けた」
という読者の意識に迎合して、
「西南戦争は、西郷を始めとした、軍上層部がアホだったから、敗北した」
という主題で書かれた作品なんですね。
だから、まあ、西郷を始めとした、上層部がアホに描かれている。
当時の読者はそれを読むことで、快哉を叫んだことだと思いますが、時代が変われば、それがいかに志の低い表現であるかがわかります。
ただ本を売るために読者に迎合して作品を作ることがいかに愚かしいことか・・・と、僕には思えます。
自分の為に歴史を曲げる・・・それは罪だとさえ、思います。
なぜなら、歴史は知恵の宝庫であり、僕らがしあわせに生きていく為の重大なヒントをいつでもくれるからです。
そういう使い方をせずに、金儲けの手段にのみ使うとは・・・恐れ多い使い方だと思いますね。僕は。
まあ、それはいいとして、今回、あっさりと描かれた西南戦争ですが、やはり「八重の桜」としては、主題として描いてきた、
「会津戦争は何故おこったか」
を表現する上では、非常に重要な歴史イベントだったと思います。
実際、会津戦争は、日本を治めてきた統領たる徳川家が、日本の統領たる資格を失った・・・それを薩摩が気づいたところから始まるわけですよ。
徳川幕府に日本を治めるに足る人材がもういない・・・この現実に薩摩が気付き、倒幕の為の政治が始まる・・・なにしろ、薩摩は島津斉彬の頃は、
幕府を助けるカタチをとろうとしていたんですからね。
それがメッキがはがれ、幕府にその人材がいないと見るや、薩摩は長州と手を握り、倒幕に走った。
幕府側も切り札として、徳川慶喜を将軍にするんですが、この徳川慶喜が絶対に上には置いてはいけない「俺偉い病」の人間だったから、
幕府どころか、徳川家そのものも失ってしまうという大失態・・・いや、なるべくしてなる現実を引き寄せた・・・そこまで幕府の人材は払底していたんですね。
そして、徳川慶喜は、自分が創りだしてきた「負のエネルギー」の責任すら、取らなかった・・・平家の二の舞いを避けたとも言っていいかもしれませんが、
徳川慶喜が出した「負のエネルギー」の責任を取らされたのが、会津藩だった・・・そう説明すべきだと僕は思いますね。
だから、「負のエネルギー」は絶対に振りまいてはいけないんです。
それは絶対に戻ってくるものだから。
日本社会は、金子みすゞさんが言うように、「こだま」なんですよ。
「遊ぼうって言ったら、遊ぼうって言う。遊ばないって、言ったら、遊ばないって言う。こだまでしょうか?いいえ、誰でも」
そういうCMが東日本大震災の時にしきりに流されましたね。
あれが日本社会なんです。
「こだま」
なんです。
だから、「負のエネルギー」を振りまけば、絶対に自分に「負のエネルギー」が返ってくる。いや、自分に集中すると考えた方がいい。
結果、平家になる。
それが歴史の教えてくれる、知恵なんですよ。
徳川慶喜はそれを避けた・・・だから、その「負のエネルギー」が会津藩に向かった・・・そう考えるべきなんですね。
「エネルギー保存の法則」
が、正しく機能したと言うべきでしょうね。
徳川家が創りだした「負のエネルギー」は会津藩を押しつぶした。
それが会津藩が無くなった理由です。実際は、ね。
で、ですよ。じゃあ、西南戦争は、なぜ起きたのか?という、もうひとつの主題が語られるべきなんですよ。
今回、鬼の佐川官兵衛さんが奮戦しましたが、彼らには会津藩の名誉回復の思いが濃厚にあったことが描かれていましたね。
薩摩によって発せられた「負のエネルギー」・・・会津戦争からの名誉回復・・・それは会津藩士による「負のエネルギー」の揺り返しと見ていいと思いますね。
まあ、しかし、僕はこの佐川官兵衛が大好きでしたね。このキャラ・・・熱いのに、大事なところでヘマを犯してしまったり・・・。
殿の前で寝ちまったり、大事な戦に寝坊してしまうなんて、人間臭くていいじゃないですか。
というか、男、佐川官兵衛のあの会津弁がよかった・・・徳川慶喜の前でわざとあてつけの舞を見せたりと、非常に多才でもありました。
男臭い、いい顔してるんですよ。佐川官兵衛さん・・・いや、中村獅童さんとこの場合言うべきでしょうねー。
お疲れ様、中村獅童さん・・・実にかっこいい佐川官兵衛さんでした・・・うん。ほんと、そう思うな。
で、話を戻しますが、西南戦争・・・これをどう見るか、なんですけど、上にも書きましたが、僕の私見では、
「日本において、反乱分子の塊になってしまった薩摩士族を、積極的に削除するために、日本の為に、西郷が起こした、自滅を狙った政治的行動」
という言葉になります。
まず、戦争というのは、政治的行動の一表現なんですよね。
だから、明確な目標が必要なんです。そこには。
そして、その目標が達成出来るか、その可能性が論じられなければならない。
そして、目標が達成出来る可能性が高いと判断出来た場合に初めて、戦争というのは、起こるべきなんですよ。
しかし、実際の西南戦争は、幕末、長州が起こした外国船砲撃や、薩摩が起こした対イギリス戦争と同じで、
勝ち負けの可能性を考えず、無闇矢鱈に、自尊心を満足させるための行動でしかない。
武士としてのプライドを満足させるための行動でしかないんですよ。
戊辰戦争にて、近代戦を戦った、薩摩軍と到底同じ人達と考えられない程、戦争に対する意識が後退している。
戊辰戦争で、近代戦を指揮した大村益次郎は、戊辰戦争後に、
「九州から、足利尊氏的な存在が現れ上京してくるだろう。だから、アームストロング砲をたくさん作っておけ」
と側近に言い放ち、大阪に銃の弾の製造工場を置きました。
これはどう考えても、西郷隆盛と薩摩藩を想定した言葉ですよね。
その大村益次郎は、常々、
「戦闘とは、常に合理的に勝ち負けを勘案し、相手の弱点に兵力を集中し、一点突破を旨とし、その後、分散した敵を各個撃破するを上策とする」
と側近達に説明していたそうです。
まあ、ナポレオンの兵の運営思想とほぼ同じですが、戦闘の基本中の基本でしょうね。それが。
つまり、敵の兵力を合理的に勘案し、自軍の兵力と緻密に比較するところから、まず、作戦というのは、始まるわけですよ。
そして、敵を分断する作戦を考え、敵の弱点を暴き出し、そこに兵力を集中する。
それが作戦思想の基本となるんですよね。
それを精密に運用したのが、戊辰戦争での大村益次郎であったわけです。
西郷はそれを見ていたはずなんです。
「八重の桜」でも描かれた会津戦争を思い出してください。
大山巌率いる新政府軍がアームストロング砲で、鶴ケ城をボコボコにしたのが、会津藩降伏のきっかけになっていたじゃないですか。
会津藩を降伏させたのは、なにより、大砲だったんです。
さらに言えば、戊辰戦争で何より大切だったのは、最新の銃をどれだけ装備出来ていたかです。
それは「八重の桜」でも、しつこい程描かれていたじゃないですか。
覚馬の買い付けた最新の銃は会津藩に届かなかった。
対して薩摩藩は少し古い銃でも、たくさん買い付けて、量で持って圧倒した。
それでも、最新の銃をたくさん装備している方が圧倒的に有利・・・それは現場の感覚としてあったはずです。
そして、八重が会津戦争のさなか、経験した恐怖・・・弾が無くなるという事実・・・これが八重の一番の恐怖になっていることが描かれていましたよね。
つまり、この時代の戦争は、大砲をどれだけ運用出来るか・・・それと最新の銃の装備と大量の弾の確保・・・この3点が最も勝ち負けを左右する重要な要素になるんです。
そして、もちろん、合理的な戦略・・・何を目標に戦闘行動に移るのか・・・それが最も大事な大戦略になるんです。
会津戦争の場合、新政府結束の為に、徳川家を倒せなかった「負のエネルギー」を会津藩を倒すことで一掃することに眼目が置かれていた。これが戦略です。
戦術的に言えば、新政府側は、アームストロング砲を多数装備し、遠距離からの大砲攻撃で、拠点としての鶴ケ城を破壊し、会津藩を降伏させる作戦に出た。
自軍の損耗を少なくし、敵側を圧倒する非常に合理的な戦術ですよね。
多分、大村益次郎の戦略、戦術でしょう。
これは、大村益次郎自らが作戦指揮を取った上野の彰義隊を壊滅させた時の作戦に酷似しています。
、
まあ、戦術的には砲のプロ、大山巌が実施するのですが、そりゃ上手くいくわけです。
これ、面白いことに気づいたんですが、合理的な思考の出来る人間は、政府軍側にいるんですよね。
大山巌しかり、大久保利通しかり。
前時代的思考・・・つまり、武士的思考の者が政府から離れ、西郷隆盛の元に集った・・・そう見るべきなんじゃないですかね?
薩摩藩の中でも、壮士的思考の人間が、武士的思考の人間が、西郷隆盛の元に集った。
明治新政府に残った薩摩藩の人間は、もはや武家の時代ではなく、日本という国家の枠で考えられる合理的思考の人物だった・・・そういうことだと思いますね。
だから、西南戦争は、薩摩藩がイギリス艦隊に砲撃をしたように・・・武士的に発想の元、自分のプライドを満足させるだけの行動になったのだ
・・・そう考えると納得がいきます。
つまり、日本国民に進化出来なかった、前時代の亡霊達が、武家的発想で、起こした内乱・・・そう位置づけることが出来ますね。
だから、彼らには戦略も無く、ただ自分たちの武威を示し、満足出来ればよかった・・・日本国民に進化出来なかった、武士という、哀しい亡霊たちの祭りだった。
そう断定することが出来そうです。
そして、その哀しい亡霊達の末路を西郷隆盛は知っていた・・・だから、祭りに浮かれる若者達を哀しい笑顔で最後の場を作ってあげたのが西郷だった。
そりゃあ、西郷はわかっていたでしょう。
だから、ドラマでは描かれなかったですが、西郷は壮士達の前で、
「わたしの身体を投げ出しましょう。あなた達で使ってください」
的な言葉を吐いているんですよね。
「んじゃ、おまん達の祭りにつきあってあげるよ」
そういう思いだったんでしょうね。西郷隆盛は・・・。
新政府軍は、合理的な集団です。
戦略も立てるし、戦術も徹底している。
大阪には銃の弾の工場があり、フル稼働している。
補給路もしっかりと確保し、万全の体制とはいえないけれど、絶えず補給はされる。
西郷軍に比べれば、大砲の数も段違い。
対して西郷軍は、自分のプライドを満足させる為だけに立ち上がった武士の集団です。
戦略なんて無いし、戦術は個人任せ。
銃は戊辰戦争当時の古い銃。
弾だって潤沢とは言えない。いや、むしろ、不足気味だ。
大砲なんて、それほど揃えていない。
つまり、この戦いは、日本国民に進化した合理的集団と、前時代の武士の亡霊との戦いだったから、初めから、武士は滅亡するために戦った、
・・・そういう位置づけなんですね。
西郷は、武士の最後の祭りにただただ付き合った・・・その末路も知っていた・・・そういうことなんですね。
実際、西郷が献策したと言われる、二方面作戦・・・ドラマでも出てきましたが、一方を熊本鎮台に張り付かせて、一部を割いて、
政府軍にぶつける戦い・・・これは絶対にやってはいけない戦い方です。
上でも言いましたが、戦いは兵力を一点に集中し、相手の弱点を突き、軍団を分断させて、分断し、兵力の少なくなった敵を各個撃破するのを目標とします。
ですから、二方面作戦なんて、余程兵力に余裕がある場合に出来ることで・・・西郷は薩摩士族が早めに兵力を損耗することを狙って、
そういう作戦を献策した・・・としか僕には思えません。
というか、西郷軍には、作戦を合理的に献策出来る人物がいなかった・・・いたとしても、西郷以外の将領級にそういう人物がいなかった、と言えるかもしれません。
それにおもしろいことに、西郷軍を苦しめた熊本鎮台・・・西郷軍は、銃や砲、銃の弾を補給するために、熊本鎮台を落としにかかったのでしょう。
戦闘において、まず、課題になるのが、補給をどうするか・・・ですからね。
現実的に戦闘になれば、弾は無くなっていくわけですから・・・それで熊本鎮台に目をつけた。
しかし、会津戦争を見ればわかるように、城を落とすには、強力な砲が必要です。
会津藩の降伏もアームストロング砲の徹底的な攻撃力があったから、成功したわけですから・・・銃だけでは、落ちないのが、鉄則です。
しかも、熊本鎮台に籠もるのは、合理的薩摩人達・・・司令官は谷干城・・・この人おもしろいことに戊辰戦争時に日光口で山川大蔵さんと戦った戦将なんですよね。
ドラマでも、
「なぜ、薩摩は日光口を抜けないんですかな?」
というセリフがありましたが、あの時、日光口で山川大蔵さんと戦っていたのが、この谷干城さんなですね。
で、おもしろい事にその時の経験があって、谷干城さんが、山川大蔵さんの陸軍への入隊を後押ししているんですね。
だから、今回、一番最初に山川浩さんが、熊本鎮台に入城した・・・それを喜ぶ八重さん達のシーンがありましたが、彼は、恩人に報いたいという意識が濃厚にあったから、
抜け駆けして、一番に谷干城が守る熊本鎮台に入城した・・・という話になるんですね。
そういえば、この時、西郷さんのやったことで、非常に政治的な手法があるんですが、
熊本鎮台に、西郷隆盛陸軍大将名で、
「全員整列し、我が軍に敬礼を持って、見送ること」
的な手紙を書いているんですね。
これね。すごいなと思いますよ。
だって、こんな手紙見たら、誇り高い薩摩人達は、絶対に西郷に従わないでしょ?
でも、西郷軍の人間達は、この手紙を見て、西郷は本気だって思うじゃないですか。
でも、違うんです。西郷の意図は、熊本鎮台の薩摩人が絶対に自分たちに従わないように、こういう相手をなめたような手紙を書いたわけですよ。
つまり、どこまでも、薩摩士族削除の為の手を打ってるんです。
西郷にしてみれば、熊本鎮台の薩摩人が自分に従ってしまったら、最初の戦略が成り立たないわけです。
西郷は熊本城を建てた、加藤清正と戦をしているようなものだ・・・と言って周囲を笑わせたという話がありますが、
もちろん、これは徳川家康の対薩摩藩戦略で、島津氏抑えのための城なんですよ。
西郷は、この城を薩摩士族削除の為の戦場に決めたんです。言わば薩摩士族削除システムです。熊本城は。
彼は砲を持たない自軍の弱点をうまく突き、最も苦手な攻城作戦をとらせて、自軍を弱らせる作戦に出た。
攻城に手間取るうちに、日本陸軍、海軍が九州に上陸すれば・・・いや、海軍はどこからでも、上陸できますからね。
補給能力に劣る自軍に、弾や砲の補給目的の為の、熊本鎮台攻撃をちらつかせれば、絶対にそうなると西郷は踏んでいたでしょう。
西郷はあくまでも合理的に自軍の弱点を勘案し、最も苦手とする攻城作戦に自軍を引きずりこみ、消耗させる手に出た。
砲を持たない自軍が攻城に成功する事はない・・・だから、西郷は熊本鎮台内の薩摩人が自軍に絶対に加担しないように、例の手紙を送ったんです。
西郷の目論見通り、最後の武士達は、熊本鎮台に張り付き、城を抜くことはもちろん出来なかった。
補給も思う通り出来ず、やがて、日本陸軍が九州に上陸し、南下してくる。
田原坂で激闘するも、弾が無くなっては、損耗するばかり。剣による白兵でしのぐも、警察隊にいる会津武士を中心とした抜刀隊がこれに対抗し、万事休す。
田原坂を抜かれた西郷軍は、熊本鎮台を諦め、諸方を転戦し、最終的には、鹿児島へ戻り、城山で自刃・・・西郷の思い描いた意図どおりの終結を見たわけです。
だから、西郷にすれば、最後の武士達の祭りを華やかにしてあげたかった・・・それだけだったと思います。
だから、目的は最後の武士達が華やかに祭りを楽しめれば、それでよかったんです。
それが西郷の意図だったんですよ。
それと同時に、日本陸軍の強さも確かめたかった・・・最強の武士と言われた薩摩隼人とどれだけわたりあえるか・・・彼は将来的に対外戦争も見据えていました。
ロシアの南下に対する牽制の意識もあって、征韓論を進めたとも、言われていますからね。
それが日露戦争の勝利にもつながった・・・のかもしれませんね。
ま、それは言い過ぎかもしれませんが。
なるほどね・・・西郷隆盛の構想の大きさがよくわかりました。
というか、「八重の桜」のレビューというより、西南戦争と西郷隆盛のレビューとなってしまいました。
ま、この話は一度じっくり考えてみたかったので・・・なるほどね、西郷隆盛の意図はそこだったか・・・。
ま、今回の話で、維新の元勲のみなさんは、退場になってしまいましたが・・・いろいろなお約束が出てきて楽しかったですね。
「西郷、もう大概にせぬか」
という木戸孝允さんだったり、赤マントの篠原さんが銃で撃たれたり、泣いちゃう大久保利通さんだったり、
「3月には、東京で花見が出来るたい」
と言う桐野利秋さんだったり、おもしろかったですねー。
しかし、西郷さんが、山川浩さんと出会っちゃうってのは、おもしろかったですねー。
ああ、そういえば、西郷さんが死ぬ時の、
「もう、よか」
も、お約束でしたねー。
いやあ、大河ドラマウォッチャーとしては、ああいうお約束が楽しいんですよね。
そして、お約束でない、西郷さん突然の出現も楽しめました。
会津戦争は武家として、徳川家の蜂起した「負のエネルギー」の責任を取った、戦いでしたが、
西南戦争は、古い武家の最後の生き残りが、自滅した、武家の最後の祭りだったんですね。
武家のプライドが、最後に爆発し、最後の踊りを踊らせた、そういう出来事だったんですね。
言わば、自分の「負のエネルギー」に自滅した武家の亡霊・・・そう言う出来事だったんですね。
いやあ、勉強になりました。歴史の出来事って、それぞれ、意味があるんですねー。
いやあ、長く書きすぎましたか。
ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
今週のあれ、どうなん?
なんか、この時代の女性って強かったんだねー。って、最後の3人の女性を見て、思いました。
「「男性大河ファン」の直感的で素直な感想」
●歴史にはいちいち意味がある!会津戦争は武家の責任の取り方だったが、西南戦争は・・・!西郷はすっげー策士だったんだね、最後まで!怖いひとだ、西郷隆盛!
というわけで、一週間遅れの八重の桜、第三十八話「西南戦争」のレビューになります。
まあ、遅いですねー。にしても、この記事は書かなければいけませんね。
この「八重の桜」の表現すべき主題のひとつに、
「なぜ、会津は滅ぼされなければならなかったのか?」
というテーマがあります。これは一貫して問われかけてきた命題で、今回も八重が、
「西郷さんに聞いても教えてくれなかった」
と話していましたよね。僕はこの物語の中で、最も大事な主題だと思っているんですが、だからこそ、今回、西郷に山川浩さんが問いただしたシーンがあったのだと、
思っています。いや、あそこでそういうシーンを作らないと、この物語が成り立たない・・・それくらい大事なシーンだったと思います。
いやあ、西南戦争の物語って、今まで大河ドラマでたくさん見ましたけど、最前線でもない場所で山川浩に出会っちゃうという今回のシーン程唐突なシーンはなかった、
ですけどねー。夢オチのシーンか、幻を見たとか、そういう表現に逃げるのかと思いましたが、実際に出会ったことになってるので、
ちょっとおもしろかったですねー。
「犬を見つけててさー」
っていう理由づけも西郷さんらしくて、おもしろかったですねー。
でも、おもしろかったのは、西郷は何も言わないんですよね。
「会津は人柱になったのか?今の日本は会津人の血の上に成り立っているんじゃないか!」
という山川浩の問いかけに、
「わしはそれを忘れたことはなか」
と答えるのみで・・・そういう表現なんですねー。
この劇中の西郷は、何も言わないことで、その思いを強調したことになるんですね。
「秘すれば花」
と世阿弥は言いましたが、まさにそれを地で行く、そういう強調表現になっていました。
ところで、僕は西南戦争の意味を私見では、
「日本において、反乱分子の塊になってしまった薩摩士族を、積極的に削除するために、日本の為に、西郷が起こした、自滅を狙った政治的行動」
と見ています。
大久保利通は、それがわかっていたんじゃないかなとさえ、思うほどですが、今回の劇中の西郷の言葉がその思いに合うモノだったので、おもしろかったですね。
「わしが皆を抱いていく」
というようなセリフだったと思いますが、西郷はもう内乱を起こさせない為に、西南戦争を起こした・・・そういう内容になっていたかと思いますね。
西南戦争を描いた作品と言えば、大河ドラマにもなった司馬遼太郎氏の書いた「翔ぶが如く」が有名なんですが、
あの作品は、読者に戦中派、つまり、第二次大戦を経験した人間の多い時代にその読者に迎合して書いた作品なんですよね。あれは。
だから、当時の読者の怒りの意識、
「軍部上層部がアホだったから、戦に負けた」
という読者の意識に迎合して、
「西南戦争は、西郷を始めとした、軍上層部がアホだったから、敗北した」
という主題で書かれた作品なんですね。
だから、まあ、西郷を始めとした、上層部がアホに描かれている。
当時の読者はそれを読むことで、快哉を叫んだことだと思いますが、時代が変われば、それがいかに志の低い表現であるかがわかります。
ただ本を売るために読者に迎合して作品を作ることがいかに愚かしいことか・・・と、僕には思えます。
自分の為に歴史を曲げる・・・それは罪だとさえ、思います。
なぜなら、歴史は知恵の宝庫であり、僕らがしあわせに生きていく為の重大なヒントをいつでもくれるからです。
そういう使い方をせずに、金儲けの手段にのみ使うとは・・・恐れ多い使い方だと思いますね。僕は。
まあ、それはいいとして、今回、あっさりと描かれた西南戦争ですが、やはり「八重の桜」としては、主題として描いてきた、
「会津戦争は何故おこったか」
を表現する上では、非常に重要な歴史イベントだったと思います。
実際、会津戦争は、日本を治めてきた統領たる徳川家が、日本の統領たる資格を失った・・・それを薩摩が気づいたところから始まるわけですよ。
徳川幕府に日本を治めるに足る人材がもういない・・・この現実に薩摩が気付き、倒幕の為の政治が始まる・・・なにしろ、薩摩は島津斉彬の頃は、
幕府を助けるカタチをとろうとしていたんですからね。
それがメッキがはがれ、幕府にその人材がいないと見るや、薩摩は長州と手を握り、倒幕に走った。
幕府側も切り札として、徳川慶喜を将軍にするんですが、この徳川慶喜が絶対に上には置いてはいけない「俺偉い病」の人間だったから、
幕府どころか、徳川家そのものも失ってしまうという大失態・・・いや、なるべくしてなる現実を引き寄せた・・・そこまで幕府の人材は払底していたんですね。
そして、徳川慶喜は、自分が創りだしてきた「負のエネルギー」の責任すら、取らなかった・・・平家の二の舞いを避けたとも言っていいかもしれませんが、
徳川慶喜が出した「負のエネルギー」の責任を取らされたのが、会津藩だった・・・そう説明すべきだと僕は思いますね。
だから、「負のエネルギー」は絶対に振りまいてはいけないんです。
それは絶対に戻ってくるものだから。
日本社会は、金子みすゞさんが言うように、「こだま」なんですよ。
「遊ぼうって言ったら、遊ぼうって言う。遊ばないって、言ったら、遊ばないって言う。こだまでしょうか?いいえ、誰でも」
そういうCMが東日本大震災の時にしきりに流されましたね。
あれが日本社会なんです。
「こだま」
なんです。
だから、「負のエネルギー」を振りまけば、絶対に自分に「負のエネルギー」が返ってくる。いや、自分に集中すると考えた方がいい。
結果、平家になる。
それが歴史の教えてくれる、知恵なんですよ。
徳川慶喜はそれを避けた・・・だから、その「負のエネルギー」が会津藩に向かった・・・そう考えるべきなんですね。
「エネルギー保存の法則」
が、正しく機能したと言うべきでしょうね。
徳川家が創りだした「負のエネルギー」は会津藩を押しつぶした。
それが会津藩が無くなった理由です。実際は、ね。
で、ですよ。じゃあ、西南戦争は、なぜ起きたのか?という、もうひとつの主題が語られるべきなんですよ。
今回、鬼の佐川官兵衛さんが奮戦しましたが、彼らには会津藩の名誉回復の思いが濃厚にあったことが描かれていましたね。
薩摩によって発せられた「負のエネルギー」・・・会津戦争からの名誉回復・・・それは会津藩士による「負のエネルギー」の揺り返しと見ていいと思いますね。
まあ、しかし、僕はこの佐川官兵衛が大好きでしたね。このキャラ・・・熱いのに、大事なところでヘマを犯してしまったり・・・。
殿の前で寝ちまったり、大事な戦に寝坊してしまうなんて、人間臭くていいじゃないですか。
というか、男、佐川官兵衛のあの会津弁がよかった・・・徳川慶喜の前でわざとあてつけの舞を見せたりと、非常に多才でもありました。
男臭い、いい顔してるんですよ。佐川官兵衛さん・・・いや、中村獅童さんとこの場合言うべきでしょうねー。
お疲れ様、中村獅童さん・・・実にかっこいい佐川官兵衛さんでした・・・うん。ほんと、そう思うな。
で、話を戻しますが、西南戦争・・・これをどう見るか、なんですけど、上にも書きましたが、僕の私見では、
「日本において、反乱分子の塊になってしまった薩摩士族を、積極的に削除するために、日本の為に、西郷が起こした、自滅を狙った政治的行動」
という言葉になります。
まず、戦争というのは、政治的行動の一表現なんですよね。
だから、明確な目標が必要なんです。そこには。
そして、その目標が達成出来るか、その可能性が論じられなければならない。
そして、目標が達成出来る可能性が高いと判断出来た場合に初めて、戦争というのは、起こるべきなんですよ。
しかし、実際の西南戦争は、幕末、長州が起こした外国船砲撃や、薩摩が起こした対イギリス戦争と同じで、
勝ち負けの可能性を考えず、無闇矢鱈に、自尊心を満足させるための行動でしかない。
武士としてのプライドを満足させるための行動でしかないんですよ。
戊辰戦争にて、近代戦を戦った、薩摩軍と到底同じ人達と考えられない程、戦争に対する意識が後退している。
戊辰戦争で、近代戦を指揮した大村益次郎は、戊辰戦争後に、
「九州から、足利尊氏的な存在が現れ上京してくるだろう。だから、アームストロング砲をたくさん作っておけ」
と側近に言い放ち、大阪に銃の弾の製造工場を置きました。
これはどう考えても、西郷隆盛と薩摩藩を想定した言葉ですよね。
その大村益次郎は、常々、
「戦闘とは、常に合理的に勝ち負けを勘案し、相手の弱点に兵力を集中し、一点突破を旨とし、その後、分散した敵を各個撃破するを上策とする」
と側近達に説明していたそうです。
まあ、ナポレオンの兵の運営思想とほぼ同じですが、戦闘の基本中の基本でしょうね。それが。
つまり、敵の兵力を合理的に勘案し、自軍の兵力と緻密に比較するところから、まず、作戦というのは、始まるわけですよ。
そして、敵を分断する作戦を考え、敵の弱点を暴き出し、そこに兵力を集中する。
それが作戦思想の基本となるんですよね。
それを精密に運用したのが、戊辰戦争での大村益次郎であったわけです。
西郷はそれを見ていたはずなんです。
「八重の桜」でも描かれた会津戦争を思い出してください。
大山巌率いる新政府軍がアームストロング砲で、鶴ケ城をボコボコにしたのが、会津藩降伏のきっかけになっていたじゃないですか。
会津藩を降伏させたのは、なにより、大砲だったんです。
さらに言えば、戊辰戦争で何より大切だったのは、最新の銃をどれだけ装備出来ていたかです。
それは「八重の桜」でも、しつこい程描かれていたじゃないですか。
覚馬の買い付けた最新の銃は会津藩に届かなかった。
対して薩摩藩は少し古い銃でも、たくさん買い付けて、量で持って圧倒した。
それでも、最新の銃をたくさん装備している方が圧倒的に有利・・・それは現場の感覚としてあったはずです。
そして、八重が会津戦争のさなか、経験した恐怖・・・弾が無くなるという事実・・・これが八重の一番の恐怖になっていることが描かれていましたよね。
つまり、この時代の戦争は、大砲をどれだけ運用出来るか・・・それと最新の銃の装備と大量の弾の確保・・・この3点が最も勝ち負けを左右する重要な要素になるんです。
そして、もちろん、合理的な戦略・・・何を目標に戦闘行動に移るのか・・・それが最も大事な大戦略になるんです。
会津戦争の場合、新政府結束の為に、徳川家を倒せなかった「負のエネルギー」を会津藩を倒すことで一掃することに眼目が置かれていた。これが戦略です。
戦術的に言えば、新政府側は、アームストロング砲を多数装備し、遠距離からの大砲攻撃で、拠点としての鶴ケ城を破壊し、会津藩を降伏させる作戦に出た。
自軍の損耗を少なくし、敵側を圧倒する非常に合理的な戦術ですよね。
多分、大村益次郎の戦略、戦術でしょう。
これは、大村益次郎自らが作戦指揮を取った上野の彰義隊を壊滅させた時の作戦に酷似しています。
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まあ、戦術的には砲のプロ、大山巌が実施するのですが、そりゃ上手くいくわけです。
これ、面白いことに気づいたんですが、合理的な思考の出来る人間は、政府軍側にいるんですよね。
大山巌しかり、大久保利通しかり。
前時代的思考・・・つまり、武士的思考の者が政府から離れ、西郷隆盛の元に集った・・・そう見るべきなんじゃないですかね?
薩摩藩の中でも、壮士的思考の人間が、武士的思考の人間が、西郷隆盛の元に集った。
明治新政府に残った薩摩藩の人間は、もはや武家の時代ではなく、日本という国家の枠で考えられる合理的思考の人物だった・・・そういうことだと思いますね。
だから、西南戦争は、薩摩藩がイギリス艦隊に砲撃をしたように・・・武士的に発想の元、自分のプライドを満足させるだけの行動になったのだ
・・・そう考えると納得がいきます。
つまり、日本国民に進化出来なかった、前時代の亡霊達が、武家的発想で、起こした内乱・・・そう位置づけることが出来ますね。
だから、彼らには戦略も無く、ただ自分たちの武威を示し、満足出来ればよかった・・・日本国民に進化出来なかった、武士という、哀しい亡霊たちの祭りだった。
そう断定することが出来そうです。
そして、その哀しい亡霊達の末路を西郷隆盛は知っていた・・・だから、祭りに浮かれる若者達を哀しい笑顔で最後の場を作ってあげたのが西郷だった。
そりゃあ、西郷はわかっていたでしょう。
だから、ドラマでは描かれなかったですが、西郷は壮士達の前で、
「わたしの身体を投げ出しましょう。あなた達で使ってください」
的な言葉を吐いているんですよね。
「んじゃ、おまん達の祭りにつきあってあげるよ」
そういう思いだったんでしょうね。西郷隆盛は・・・。
新政府軍は、合理的な集団です。
戦略も立てるし、戦術も徹底している。
大阪には銃の弾の工場があり、フル稼働している。
補給路もしっかりと確保し、万全の体制とはいえないけれど、絶えず補給はされる。
西郷軍に比べれば、大砲の数も段違い。
対して西郷軍は、自分のプライドを満足させる為だけに立ち上がった武士の集団です。
戦略なんて無いし、戦術は個人任せ。
銃は戊辰戦争当時の古い銃。
弾だって潤沢とは言えない。いや、むしろ、不足気味だ。
大砲なんて、それほど揃えていない。
つまり、この戦いは、日本国民に進化した合理的集団と、前時代の武士の亡霊との戦いだったから、初めから、武士は滅亡するために戦った、
・・・そういう位置づけなんですね。
西郷は、武士の最後の祭りにただただ付き合った・・・その末路も知っていた・・・そういうことなんですね。
実際、西郷が献策したと言われる、二方面作戦・・・ドラマでも出てきましたが、一方を熊本鎮台に張り付かせて、一部を割いて、
政府軍にぶつける戦い・・・これは絶対にやってはいけない戦い方です。
上でも言いましたが、戦いは兵力を一点に集中し、相手の弱点を突き、軍団を分断させて、分断し、兵力の少なくなった敵を各個撃破するのを目標とします。
ですから、二方面作戦なんて、余程兵力に余裕がある場合に出来ることで・・・西郷は薩摩士族が早めに兵力を損耗することを狙って、
そういう作戦を献策した・・・としか僕には思えません。
というか、西郷軍には、作戦を合理的に献策出来る人物がいなかった・・・いたとしても、西郷以外の将領級にそういう人物がいなかった、と言えるかもしれません。
それにおもしろいことに、西郷軍を苦しめた熊本鎮台・・・西郷軍は、銃や砲、銃の弾を補給するために、熊本鎮台を落としにかかったのでしょう。
戦闘において、まず、課題になるのが、補給をどうするか・・・ですからね。
現実的に戦闘になれば、弾は無くなっていくわけですから・・・それで熊本鎮台に目をつけた。
しかし、会津戦争を見ればわかるように、城を落とすには、強力な砲が必要です。
会津藩の降伏もアームストロング砲の徹底的な攻撃力があったから、成功したわけですから・・・銃だけでは、落ちないのが、鉄則です。
しかも、熊本鎮台に籠もるのは、合理的薩摩人達・・・司令官は谷干城・・・この人おもしろいことに戊辰戦争時に日光口で山川大蔵さんと戦った戦将なんですよね。
ドラマでも、
「なぜ、薩摩は日光口を抜けないんですかな?」
というセリフがありましたが、あの時、日光口で山川大蔵さんと戦っていたのが、この谷干城さんなですね。
で、おもしろい事にその時の経験があって、谷干城さんが、山川大蔵さんの陸軍への入隊を後押ししているんですね。
だから、今回、一番最初に山川浩さんが、熊本鎮台に入城した・・・それを喜ぶ八重さん達のシーンがありましたが、彼は、恩人に報いたいという意識が濃厚にあったから、
抜け駆けして、一番に谷干城が守る熊本鎮台に入城した・・・という話になるんですね。
そういえば、この時、西郷さんのやったことで、非常に政治的な手法があるんですが、
熊本鎮台に、西郷隆盛陸軍大将名で、
「全員整列し、我が軍に敬礼を持って、見送ること」
的な手紙を書いているんですね。
これね。すごいなと思いますよ。
だって、こんな手紙見たら、誇り高い薩摩人達は、絶対に西郷に従わないでしょ?
でも、西郷軍の人間達は、この手紙を見て、西郷は本気だって思うじゃないですか。
でも、違うんです。西郷の意図は、熊本鎮台の薩摩人が絶対に自分たちに従わないように、こういう相手をなめたような手紙を書いたわけですよ。
つまり、どこまでも、薩摩士族削除の為の手を打ってるんです。
西郷にしてみれば、熊本鎮台の薩摩人が自分に従ってしまったら、最初の戦略が成り立たないわけです。
西郷は熊本城を建てた、加藤清正と戦をしているようなものだ・・・と言って周囲を笑わせたという話がありますが、
もちろん、これは徳川家康の対薩摩藩戦略で、島津氏抑えのための城なんですよ。
西郷は、この城を薩摩士族削除の為の戦場に決めたんです。言わば薩摩士族削除システムです。熊本城は。
彼は砲を持たない自軍の弱点をうまく突き、最も苦手な攻城作戦をとらせて、自軍を弱らせる作戦に出た。
攻城に手間取るうちに、日本陸軍、海軍が九州に上陸すれば・・・いや、海軍はどこからでも、上陸できますからね。
補給能力に劣る自軍に、弾や砲の補給目的の為の、熊本鎮台攻撃をちらつかせれば、絶対にそうなると西郷は踏んでいたでしょう。
西郷はあくまでも合理的に自軍の弱点を勘案し、最も苦手とする攻城作戦に自軍を引きずりこみ、消耗させる手に出た。
砲を持たない自軍が攻城に成功する事はない・・・だから、西郷は熊本鎮台内の薩摩人が自軍に絶対に加担しないように、例の手紙を送ったんです。
西郷の目論見通り、最後の武士達は、熊本鎮台に張り付き、城を抜くことはもちろん出来なかった。
補給も思う通り出来ず、やがて、日本陸軍が九州に上陸し、南下してくる。
田原坂で激闘するも、弾が無くなっては、損耗するばかり。剣による白兵でしのぐも、警察隊にいる会津武士を中心とした抜刀隊がこれに対抗し、万事休す。
田原坂を抜かれた西郷軍は、熊本鎮台を諦め、諸方を転戦し、最終的には、鹿児島へ戻り、城山で自刃・・・西郷の思い描いた意図どおりの終結を見たわけです。
だから、西郷にすれば、最後の武士達の祭りを華やかにしてあげたかった・・・それだけだったと思います。
だから、目的は最後の武士達が華やかに祭りを楽しめれば、それでよかったんです。
それが西郷の意図だったんですよ。
それと同時に、日本陸軍の強さも確かめたかった・・・最強の武士と言われた薩摩隼人とどれだけわたりあえるか・・・彼は将来的に対外戦争も見据えていました。
ロシアの南下に対する牽制の意識もあって、征韓論を進めたとも、言われていますからね。
それが日露戦争の勝利にもつながった・・・のかもしれませんね。
ま、それは言い過ぎかもしれませんが。
なるほどね・・・西郷隆盛の構想の大きさがよくわかりました。
というか、「八重の桜」のレビューというより、西南戦争と西郷隆盛のレビューとなってしまいました。
ま、この話は一度じっくり考えてみたかったので・・・なるほどね、西郷隆盛の意図はそこだったか・・・。
ま、今回の話で、維新の元勲のみなさんは、退場になってしまいましたが・・・いろいろなお約束が出てきて楽しかったですね。
「西郷、もう大概にせぬか」
という木戸孝允さんだったり、赤マントの篠原さんが銃で撃たれたり、泣いちゃう大久保利通さんだったり、
「3月には、東京で花見が出来るたい」
と言う桐野利秋さんだったり、おもしろかったですねー。
しかし、西郷さんが、山川浩さんと出会っちゃうってのは、おもしろかったですねー。
ああ、そういえば、西郷さんが死ぬ時の、
「もう、よか」
も、お約束でしたねー。
いやあ、大河ドラマウォッチャーとしては、ああいうお約束が楽しいんですよね。
そして、お約束でない、西郷さん突然の出現も楽しめました。
会津戦争は武家として、徳川家の蜂起した「負のエネルギー」の責任を取った、戦いでしたが、
西南戦争は、古い武家の最後の生き残りが、自滅した、武家の最後の祭りだったんですね。
武家のプライドが、最後に爆発し、最後の踊りを踊らせた、そういう出来事だったんですね。
言わば、自分の「負のエネルギー」に自滅した武家の亡霊・・・そう言う出来事だったんですね。
いやあ、勉強になりました。歴史の出来事って、それぞれ、意味があるんですねー。
いやあ、長く書きすぎましたか。
ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
今週のあれ、どうなん?
なんか、この時代の女性って強かったんだねー。って、最後の3人の女性を見て、思いました。