「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

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覚慶を、最初からパスポートとしてしか見ていなかった信長!

2010年11月24日 | 信長論考!
おはようございます!

さて、前回は、信長、家康から、宰相というものは何かを考えました。

自分の役割が、何かを見切り、自分を押し立ててくれる者のために政治を行ったのが、家康であり、

能力者を適材適所に使いまくったのが信長であり、それらが彼らの力になっていった、ということを言いました。

そして、自分の社会での役割というものを、社会人は、早く理解することが、重要だ、という結論になりました。


まあ、このあたり、家康、信長で考えちゃうとこの人達は歴史上でも超一級品ですからね。


まあ、おもしろいっちゃー、おもしろいですねー!

さて、永禄四年(1561年)松平元康と和睦した信長は、東の憂いを無くし、本格的に

美濃攻略を始めます。さて、タイミングがよいことに、5月11日、美濃国主、斎藤義龍が病死します。

義龍は、父の道三を討ってから、5年の命だったことになります。

この情報を得た信長は、5月13日に早くも西美濃に侵入しています。

斎藤義龍の子、龍興は、墨俣砦から出撃するも、信長軍に撃破され、墨俣砦は、織田方の手に渡ります。

織田軍は、墨俣砦を橋頭堡にして、龍興軍と戦い、その後、清洲に帰城しています。


このあたりは、「信長公記」を参考にしているんですが、墨俣砦というのは、この戦いで奪取した斉藤方の砦だったようですね。

まあ、秀吉物語の墨俣の一夜城話は、やはり、楽しい作り話だったんでしょうか。まあ、そのあたりは、ボカしておくのが、

いいのかな、という感じですけどね。


しかし、斎藤義龍の死は、あまりにもタイミングが良すぎる感じがしますねー。

信長が、尾張一円をもぎとり、今川義元を屠り、松平元康と同盟を結ぶ・・・という一連の流れの中で、

「じゃ、美濃取り、メインでやり始めっか」

と信長が、本腰を入れたら、美濃国主斎藤義龍が死んじゃうわけですから、あまりにもどんぴしゃな気がしますが・・・、

さすがに、信長の謀略は、そこまで、できるとは、思いませんね。

ただ、疑えば疑える義龍の死ですねー。


さて、永禄五年(1562年)一月十五日、松平元康は清洲城に来城し、信長と会見、同盟を結んでいます。


この時、信長は29歳、元康21歳です。松平元康からすれば、頼りがいのあるアニキと言ったところでしょうか。

謀略戦に長けた信長ですから、迫力満点だったでしょうし、信長にすれば、元康は、自分の日本平定計画に有用な人材ですから、

決して粗略にできませんからね。この時、お互いがお互いの目でその能力を見切りあっただろうと思います。

信長にしろ、元康にしろ、生き馬の目を抜く戦国時代ですから、相手の目を見ただけで、その能力や人格などを見抜けるほどの能力は

あったのだろうと、思いますねー。


翌一月十六日、信長は、宿老林秀貞らを岡崎城へ遣わして答礼をしています。この同盟は、本能寺の変まで、20年間守り続けられた

戦国期でも珍しい堅い絆になりました。


じゃあ、なぜ、そんな珍しいことになったんでしょう?


これは、やはり、お互いにとって、お互いが何よりも必要な人材だった、ということを信長も家康もわかっていた、ということなんでしょうね。

信長からすれば、徳川家は、東の押さえになりますし、家康は律儀でした。家康は苦労人ですから、同盟するなら、完全に相手に気に入られるまで、

やったのでしょう。自分の役割をしっかりと理解していた家康ですから、信長に対する自分の役割も百パーセント理解していたのだと思います。

だから、ひとの能力を見抜くことに長けた信長から、すれば、家康のその能力をしっかりと見抜いていたと思います。

だから、信長からすれば、自分の求めたことを百パーセント、やってくれる、同盟者だったのが家康だったんですね。

事実、後年、家康は自分の妻(築山殿)と子(松平信康)を信長に差し出すことさえやっていますからね(それぞれ殺害)。

そこまで、やる家康の性向を見抜いていた信長だからこそ、同盟を続けられたんですね。

家康からすれば、信長の強力な力というのを、見抜いていたのでしょう。信長の強力なベクトル。日本を平定しようという意志すら、

感じたかもしれません。だから、信長を裏切ることは、できなかったんでしょうね。

稀有な能力を持っている二人だからこそ、お互いの能力を深く理解したんですね。だから、最も長い同盟になった。

判断に優れる二人だから、長く続く同盟になったんですね。

これ、どちらか一方に、能力がなければ、利用されてポイですからね。

だから、信長は、家康の子を殺すことまで、したんでしょう。次の代で、徳川家に負けるかもしれない、という懸念があった。

だから、謀略を施した。それでも家康は、信長を裏切ることはないと見切ったからこそ、信長は家康にさえ、謀略をしかけたんですね。

いやあ、信長のすごさが、わかりますが、それでも、裏切らない家康もすごいですね。

この二人の関係性は、二人にしか、わからない、すごみの中で、成立していたんですね。


さて、永禄六年(1563年)信長三十歳の年ですが、3月2日、信長の娘、五徳と、家康の娘、信康との婚約が成立します。

織田、徳川双方とも、この同盟を強固にしたかったんですね。

そして、この年(あるいは次の年かもしれないらしいですが)、美濃攻略の本拠地として、小牧山に城を築き、そこに移っています。

清洲城だと、美濃攻略に遠すぎる、という問題点があったんですねー。


信長というひとを見ていると、常に策を打っている感じがします。


この小牧山移動にしても、武田信玄や上杉謙信、北条氏康という名だたる戦国大名と比べてみても、居城を移動させるなんてことは、

していないわけです。これは父である織田信秀の影響かもしれませんね。信秀は、敵を攻めやすい場所に居城を移動してましたから、

そういう発想を真似したのかもしれません。いずれにしろ、常にいい方向へ改良していく、その発想の自由さが、彼の力だったことは、言うまでもありませんね。

それに、もちろん、これは、松平元康との同盟関係が背後にあったから、東に対する脅威が去ったから、移動できたとも言えるんですね。

というより、そちらの理由が大きいかもしれませんね。東に睨みを効かせる必要がなかったから、美濃攻略だけに専念できたわけですからね。

そのための小牧山移動ですから、元康の存在が、信長のあり方に大きく影響している、と見るべきだと思いますね。



さて、永禄七年(1564年)になると、信長は、美濃のいくつかの諸城を落とします。そして、美濃国主の城、稲葉山城の城下町である井ノ口へ攻め入ることまで

しています。この年、信長は、上杉輝虎へ書状を出し、この件について、報告しています。まあ、遠交近攻策ですねー。

さらに信長は伊勢にも出兵しています。当時、伊勢には強力な大名がいなかったので、こちらも、掠め取るつもりだったんでしょうね。

信長の勢力増大が見て取れます。


そして、この年、時の天皇、正親町天皇が、使者を信長に立て、御料所の回復を命じるんですね。


つまり、中央にまで、信長の威勢というものが、伝わっていた、ということで、信長の台頭ぶりを伺わせるできごとなわけです。


さて、この年は、けっこういろいろなことがあるわけですが、一番おもしろいのは、この年、竹中半兵衛と、安藤守就のクーデターがあり、

稲葉山城を占拠してしまうという未曾有のことがあるわけです。斎藤龍興は、逃げてしまうし・・・まあ、この挙は、普段に酒色に溺れる国主、

斎藤龍興をいさめるため、なんて言われていますが、この年に起こっているんですね。城はすぐに龍興に返されるんですが、

美濃人達の、国主に対する思いが、微妙に変わってきているのが、この挙によって、わかりますね。

信長による圧迫・・・それに対して、恐怖を感じている国主、斎藤龍興。そして、美濃人たち。

そういう構図が、この挙から、わかると思います。

それだけ、信長の威勢が強くなっている、それが、原因で、こういう挙になったのだと思いますね。


さて、信長と言えば、この時期、作戦変更をしているんですね。今まで、西美濃攻略を念頭においていたのですが、一転、東美濃攻略を先にする方向に、

変更しました。まあ、そちらのほうが手っ取り早いというか、信長になびいている人間が多かったということなんでしょう。

そのあたり、国主、斎藤龍興への人望がどんどん崩れていっているということなんでしょうね。


永禄八年(1565年)七月、まず、美濃加治田城の佐藤紀伊守、右近衛門尉父子が、丹羽長秀を介して信長に内応します。もちろん、東美濃の武将です。

斎藤龍興側もこれには黙っていず、加治田城に攻勢をかけますが、信長はこれを救援。逆に、攻勢に出ていた堂洞城を落とし、さらに攻撃にきた斎藤龍興、長井道利の

部隊を撃破しています。

信長軍が、かなり攻勢に出ている様子ですね。

この年、信長は、武田信玄に対して使者を遣わし、その子勝頼と信長養女との縁組を申し入れています。前年、上杉輝虎にも書状をだしていますから、

これも遠交近攻策のひとつですね。それだけ、信長の目は、周りに向いていたということで、東の敵は、懐柔策ということでしょうか。


さて、この年、特筆すべきことがあります。前将軍足利義輝の弟、覚慶(のちの足利義昭)の京都帰洛について、供奉する旨を、覚慶側近の細川藤孝に

書状として、出しているわけです。まだ、東美濃の一部が落ちただけの、この段階で、ですよ。


それだけ、信長は、自分の勢力に対して、自信があったということでしょうか。それにしても、ちょっと早過ぎるような気がしますね。普通に見てみれば。


ただ、信長の思いからすれば、日本を平定する計画を持っている信長にしてみれば、そこに入ってきたこの覚慶帰洛の報は、どんぴしゃな渡りに船なんですね。

このパスポートを使えば、京都入りの名目が立つわけで、日本全国平定の初手として、京都に軍政をしくことを考えていた信長にすれば、

「これ、少し無理をしてでも、やらなきゃ、あかんやろ」

というところなんでしょうね。


そういう準備ができていたから、こういう機会をうまくとらえるわけで、自分がやりたいことの準備を常にしておくということの大事さが、わかります。


でも、これで、信長の考えていることが、わかりますね。覚慶は、単なるパスポートに過ぎないんですよ。それが生きたひとであろうと、なかろうと、

パスポートとして、機能すればよい。こういう考え方をしていたことが、普通にわかりますね。

血に対する尊崇なんて、はじめから無いわけです。使えるから、使うだけであって、そりゃ、覚慶のアイデンティティーは、血にしかないわけで、

この二人が手を結んだところで、考え方が全く逆なんですから、まあ、うまくいくはずもないことがだだわかりですけど、まあ、おもしろいですね。

かたや、血にまったく関心がない信長、かたや、血にこそ、アイデンティティーを求めている覚慶。


運命的とも言える、二人の出会いだった、ということでしょうね。


こうやって見てくると、この戦国時代、日本を平定しようとしていたのは、信長だけだった、ということがだだわかりになりますね。

目標が高いから、自分が全体の計画のどのあたりにいるのかが、だだわかりになる。

そういう高い目標を持っているから、覚慶の存在の意味、使い方がよーくわかっている。だから、少し無理をしてでも、とりにいく。

もちろん、覚慶側も、信長を利用しようという腹なんですけど、気宇壮大な信長の足元に及びませんから、ただ利用されて、いらなくなったら、ポイされた、

ということなんですね。


これから、見ると、目標というのは、高ければ高いほど、いい、ということがわかります。

そして、そのために、具体的なプランを立て、努力すること。ただ夢見ているだけでは、実現しない、という当たり前の現実がわかります。

信長はいいですね。いろいろなことを僕らに教えてくれる。

高い目標と、具体的なプランの構築が、結局、自分をよりよい方向へ連れて行ってくれるんですね。

そういう具体的なプランができていたからこそ、覚慶というパスポートをうまくつかいこなせたわけです。


このあたり、非常にわかりやすい信長の生き方です。


さて、今日の結論は、このあたりでしょうか。役者もそろいつつあって、だんだん、おもしろくなってきましたね。


ここまで、長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。

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