蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

せめぎ合う季節

2017年08月31日 | つれづれに

 太宰府の原風景の核になる宝満山(800m)を、秋雲が飾った。
 吹き過ぎる風が、ウインドチャイムを涼やかに転がす。

 灼熱に苛まれた8月が逝く。体温を超す暑さに呻吟しながら、ようやく乗り越えた夏だった。32.3℃と、昼間の日照りにはまだ厳しい残暑が続いているが、朝晩の風に爽やかさが芽生え始めた。朝のシャワーの後に浴びる冷水に、微かな冷たさが混じる。久住高原長者原の「たではら湿原」に、真っ青なヒゴタイが咲いたとニュースが報じていた。
 日が落ちると、カネタタキの鈴が冴え、それに覆いかぶさるように夜毎コオロギの声が厚みを増していく。「蟋蟀庵」に、ようやくその名にふさわしい季節がやって来た。

 洗濯物を干したり取り込んだり、額を叩く日射しに目を眇めながら庭をうろつきまわる(「博多弁では「そうつきまわる」という)私をからかうように、ハンミョウが足元に戯れかかる。毎年、朝早くから日が暮れるまで、庭中を行ったり来たりしながら飛び回っている彼(彼女?)のお蔭で、我が家の庭には蟻が姿を見せない。七色に輝く美しい甲虫だが、小さな虫たちにとっては獰猛な肉食獣なのだ。

 風に乗って道を滑空するウスバキトンボの姿も少なくなった。かつては、帽子で叩き落せるくらい、道幅いっぱいに群れ飛んでいた姿も、ここ数年急激に少なくなってきた。季節感を彩るさまざまなものが形を替えていく。環境破壊、温暖化……無秩序な文明の進化が、どれほどの価値ある自然を喪わせていったことだろう。これからも、加速することはあっても、もう決して取り戻すことは出来ないのだ。

 アラスカをこよなく愛したカメラマン・エッセイスト星野道夫がカムチャツカでクマに襲われ、43歳で亡くなって20年になる。その写真展を観に、久留米市美術館に走った。写真集、エッセイ集……我が家の本棚の一段を、彼の作品が埋めている。写真も勿論素晴らしい感動を生むが、それ以上に彼の書く文章の美しさ!
 いつか彼のような言葉を綴りたいと思いながらブログを書き続けているが、勿論及ぶべくもない。死して熊になった星野道夫。命をかけて切り取った美しい写真を見ながら、目頭が熱くなるのをこらえ切れなかった。

 「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もう一つの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、こころの片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地のさほど大きい。」
 
 「人と出会い、その人間を好きになればなるほど、風景は広がりと深さをもってゆきます。やはり世界は無限の広がりを内包していると思いたいものです。」

 「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがいのないその時間である。」

 玄関脇のキンモクセイに二つのセミの抜け殻を見付けた。毎日観察している庭である、ごく最近羽化したツクツクボウシでもあろうか。これで、この夏のセミの羽化は106匹となった。
 キンモクセイの花言葉は「陶酔」……この夏、私は何に陶酔したのだろう?私には私なりの過ごしてしまった「かけがいのない時間」がある。

 ラカンマキの垣根に這わせたカラスウリに、青い瓜坊がふくらんでいる。
 玄関の石畳の上に、アオカナブンの亡骸が転がっていた。秋は命が滅びる時、しかしそれは次の再生への欠かせない儀式なのだ。

 長月……背中を見せ始めた夏を見送りながら、さあ新しい秋への想いを育てて行こう。
 遠く天神の杜で、フクロウが鳴いた。
                    (2017年9月:写真:秋雲)

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