蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

野性、匂う

2019年02月24日 | つれづれに


 山道に差し掛かったところで、トレッキングポールを伸ばした。およそ2か月ぶりの「野うさぎの広場」だった。バッグに提げた「イノシシ除けの鈴」(別名「カップルとのニアミス防止鈴」)が、春風の中をリンリン鳴る。時折立ち止って、「小鳥呼び笛」をキュルキュルと鳴らしてみるが、寄ってくる鳥はいなかった。ヒグマやワタリガラスをこよなく愛し、カムチャツカのクルリ湖のほとりでヒグマに襲われて亡くなり、自身熊の一族になったと先住民族に祭られた動物写真家・星野道夫の写真展で、記念に買ってきた笛である。練習しているが、なかなか上手くならない。

 右腕の痛みばかり気にして閉じこもる日々が長かった。睨み付けても、痛みが消えるわけではない。日差しがあまりに優しく甘かったから、久し振りに山道を歩きたくなった。
 歌舞伎大好き人間のカミさんは、4Kのテレビの前で歌舞伎三昧……スカパーの衛星劇場を月額2千円で契約し、土曜日の夕方だけ放映される歌舞伎の舞台を録画し続けてきた。いつの間にか8時間ディスクが90枚近く溜まっていた。700時間近い量である。そろそろ観始めないと、生きているうちに全部観られなくなるよと、数日前から一気に観始めた。ほかに観たい番組もあるし、歌舞伎ばかり観ている訳にもいかないから、1枚観るのに3日ほどかかる。最短でも9ヶ月掛かる計算である。
 一昨日から、6枚目の「菅原伝授手習鑑」を通しで観始めた。「加茂堤」「筆法伝授」「道明寺」「車引」「賀の祝」「寺子屋」……8時間を超える大作である。時代を替え、舞台を替えて、様々な役者がいい芝居を見せてくれる。
 團十郎、菊五郎、幸四郎、彦三郎の「車引」をカミさんの為にセットして、あとの操作を教え、一人歩きに出た。

 木漏れ日の広場は、今日も人影なく、ただ静寂の中にあった。マイベンチの倒木に座り見上げた空は、ちらちらと梢の間から日差しが零れかかり、落ち葉散り敷く野に横たわって微睡みたくなるような、眩しい陶酔があった。30分以上、静寂の中に座っていただろうか、2月とは思えないような温かさの中に、森閑とした時が過ぎて行った。
 ふと、生々しい獣の匂いを感じた。此処は、野うさぎも遊び、時たまイノシシにも出くわす場所である。身近に野性の気配があっても不思議はない。その気配に、何故か気持ちを高ぶらせながら帰途に就いた。
 来るときに、山道に落ちた枯れ枝を何本も払った。行き止まりの山道だから、殆ど散策の人も通らない。よくもこれほど落ちるものだと思うぐらい枝が落ち、来るたびに道の脇にポールで払い除ける。こうして自然に枝を払いながら、この天満宮の檜林は育って行くのだろう。
 イノシシが掘り返した痕は、今日も顕著だった。猛々しい野性が頑張っている証しである。時たま、山道を横切る根っこがある。罠のように輪を立てているものもあるから、気を付けないと脚を取られて転倒する。人工股関節装着のサイボーグとしては、油断ならない道でもあるのだ。
 あと1ヶ月あまり後には、この山道をハルリンドウが可憐に飾る。秘密基地「野うさぎの広場」でも、散り敷く落ち葉の間に点々と、青いハルリンドウの花が姿を見せてくれることだろう。
 暖冬で推移した冬が、呆気なく春に席を譲ろうとしていた。

 山道を出て、106段の曲折する急な階段を下り、博物館の裏の四阿に向かう。木道の傍らで、嬉しい出会いがあった。成蝶のまま越冬したイシガケチョウが、日差しの中にヒラリと舞って出た。こんな出会いがあるから、この散策路はいつも楽しい。右腕の痛みを暫し忘れて、飛び去るイシガケチョウを目で追っていた。

 帰り着いたら、「菅原伝授手習鑑」は「賀の祝」の終わりだった。梅幸、先代芝翫、先代猿之助、辰之助、扇雀を名乗っていた頃の藤十郎、先代仁左衛門……もう殆どが故人となった古い映像だが、4Kの精密な画面が情感を煽ってくれる。
 吉右衛門、富十郎、芦燕、京蔵、松江(若い頃の魁春)、雀右衛門の「寺子屋」を観ながら、このブログを書いている。時々目を上げて、「天王寺屋!」「播磨屋!」と声を掛けることで、臨場感に自己陶酔するのもご愛嬌である。
 
 そろそろ、洗濯物を取り込む時間である。
               (2019年2月:写真:木漏れ日の「野うさぎの広場」)

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2 コメント

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おはようございます!! (wacky)
2019-02-25 07:11:18
御隠居様、久しぶりの野うさぎの広場へのおでかけ、少しずつ前向きなお気持ちになられたご様子で嬉しく拝読させていただきました。これから、だんだん春めいてきたら、楽になられるのではと希望をもって・・・

それにしても、歌舞伎、見るだけでも大変そうですね!!まあ、掛け声まで!?ととろ奥様臨場感たっぷりたのしまれることでしょうね。
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一歩早い啓蟄 (蟋蟀庵ご隠居)
2019-02-25 08:35:58
wackyさん

 ご心配かけました。正直なところ、痛みはほとんど軽減していませんが、痛みも慣れるものですね。あとは「時薬」と割り切って、日常生活を送っています。
 暖冬をいいことに、例年より早めに冬眠から覚めて蠢き始めています。花の春は、もうすぐですね!

 歌舞伎の大向うは、歌舞伎大好き人間の「ととろ」に肘で小突かれながら指導を受け、見よう聞き真似で20年、時たま歌舞伎座や国立劇場、新橋演舞場、明治座、金丸座、八千代座などで他流試合して学び、あとは博多座の大芝居で、気儘に声掛けを楽しんでます。
 芝居が2倍楽しめますよ。
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