蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

雨の瞑想

2013年06月24日 | つれづれに

 九州上陸をしきりに脅しながら、呆気なく東シナ海で消え去った台風4号。台風一過、束の間の薄日を半日落とした後、また雨が還ってきた。梅雨本番はこれから、7月中旬の梅雨明けまで、まだ1か月近い雨の季節が残っている。
 
 雨に似合う風物詩の一つ・カタツムリが急激に減っているという記事を見た。また一つ、喪われていくものがある。
 先年訪れた際に、カリフォルニアに住む娘のコンドミニアムの玄関先にパンジーを植えた。ひと晩で食い荒らされていた。「カタツムリだよ」と娘が言う。夜、懐中電灯を片手にパンジーの側に蹲って驚いた。わらわらと芝の間や立木の間から群がり寄るカタツムリの列が出来ていた。片端から拾い採って、遠くの藪に投げ捨てた。その数実に数十匹。
 「無駄だと思うよ」と娘が笑う。翌朝、やっぱり食い散らされたパンジーの哀れな姿があった。その夜、再び蹲った目の前に、「押し寄せる」と表現したいほどのカタツムリの群れがいた。駆除する薬剤はあるのだが、愛猫サヤのお散歩コースであり、薬は撒きたくないと娘が言う。帰国するまで、毎晩不毛の戦いを続けた。殺せないのは、私の性分である。

 そのカタツムリが滅びつつあるという。原因の一つは、20年ほど前に貨物に紛れて侵入した外来種・地中海産のオオクビキレガイという細長い殻のカタツムリだという。薄暗く湿った所を好む日本産と、乾燥に強く、ほぼ年中活動する外来種との戦いは、都市化が進んで乾燥した場所が増えた戦場では、おのずと勝負は見えている。殻を捨てたナメクジも交えて、これからの推移を見守ってみよう。
 翌日の記事にあった。カタツムリのように殻を背負うと、乾燥や外敵から身を守るには都合がいいが、殻を作るために余分な養分を必要とする。だから、食べ物が少なくても生きていけるように、ナメクジは殻を捨てたという。進化の妙に、改めて感心する。
 蝸牛(カタツムリ)、蛞蝓(ナメクジ)……漢字を見ているだけでも楽しくなってくる。

 都議選が勝った負けたと喧しい。僅か43%の投票率しか取れない民の絶望感を顧みず、昨日までやる気もない公約を掲げて二つ折りになるほど最敬礼していた候補者が、権力を手にした途端に反り返り、上から目線で傲岸に党利・党略・権勢欲に明け暮れる。こんな争いを「蝸牛角上の争い」という。カタツムリの左の角にある触氏と、右の角にある蛮氏とが、領地をめぐって争ったという寓話(「荘子」)から、「つまらない争い」のことを言う。言い得て妙である。

 ラカンマキの垣根の上を、今年もせめぎ合いながらカラスウリが蔓を延ばしている。その葉裏に、一匹のアマガエルが目を閉じて瞑想していた。雨を待っているのだろうか、「われ関せず」と超越し、じっと雨を待つ姿に心鎮まる思いだった。カメラを近づけたら、「…るっせえなァ」と言わんばかりに、目を開いて睨みつけてきた。

 行きつけのクリニックの待合室の写真を入れ替える。暗闇の中に浮かぶツクシカラマツと、今盛りのオオバギボウシ、アメリカの娘が一昨年の母の日に贈ってくれた斑入りシラサギカヤツリで爽やかさを演出する。

 雨の季節の徒然である。
                   (2013年6月:写真:睨むアマガエル)

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