蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

命に思うこと

2018年07月12日 | つれづれに

 壮麗に東の空が焼けた。午前4時、この時間なら、都会でもこれほどに美しい黎明の空を見ることが出来る。21時という早い消灯と苦手なパイプ枕で眠りも浅く、早々とベッドから出て、病室の窓から明け初めた空を見上げていた。

 「貯血」……初めて聞いた言葉だった。手術に先立ち、予め自分の血液を輸血用に採っておく。出血が多い手術だから、400ccから800cc貯血するところ、私は血が濃い(ヘモグロビンの数値が高い)から、400ccでいい。しかし、貯血の場合はひと晩入院するのが決まりになっていると言われ、一人でリュックを担いで二日市駅からJRに乗った。快速で4駅、博多駅の次の吉塚駅から徒歩3分の近場だった。
 カミさんは沖縄での緊急手術で輸血を受け、C型血清肝炎で40年苦しんだ。当時の沖縄は血清肝炎の罹患率が非常に高く、勿論「貯血」という仕組みも、自己血で賄う余裕もなかった。ここまで命を繋いできたカミさんの生命力を凄いと思う。私だったら、とてもここまで頑張れていないだろう。

 京城から引き揚げて小学校1年から3年間、箱崎神社の側に住んだ。吉塚駅は箱崎駅の隣りの何もない所で、線路に忍び込んで五寸釘を列車に轢かせて潰し、やすりで研いで陣取りゲームや蛙刺しで遊んだ辺りである。勿論、当時の面影は気配もなく、マンションとビルが林立する近代的な街に生まれ変わっていた。
 6階の個室を取ることが出来た。6年前の左肩腱板断裂の手術の際は6人部屋だった。同室の仲間たちの豪快な鼾に10日間悩まされ、しかも見舞い客が持ち込んだ風邪で、全員が咳と発熱に悩まされながら、それぞれのリハビリ病院に散って行った。だから、もし次に入院することがあれば、何が何でも個室にしようと決めていた。
 窓から東公園に立つ日蓮上人の銅像の後姿が斜めに見える。あの辺りは、カミさんの子供の頃の遊び場でもある。偶然なのか運命的なのか、気付かないままの昔々の小さな接点である。ビルの隙間に、僅かに遠い山の稜線が切り取られていた。

 腕のいい看護婦さんが一発で血管を探り当て、10分で400ccを抜き、1時間で200ccの点滴を受けたら、ふらつくこともなく、あとは夕飯と眠るだけ……退屈で寝苦しいひと晩が待っていた。美しい朝焼けが、寝不足の目に生々しく沁みた。
 主治医のI先生が、忙しい仕事の合間を縫って4回も様子見と説明に来てくれた。患者の目をしっかり見ながら話してくれる、近頃少なくなったタイプの先生で、何時の間にかしっかり信頼関係が醸成されていた。パソコンとカルテばかり見て患者を見ない医者が増えた中で、こんな先生は貴重である。医者は病気を治すだけが仕事ではないことを、改めて思った。
 退院して昼前には帰宅、この日、太宰府は36.2度。入院時の体温と同じ暑さに、ぐったりとソファーにへたり込んだ午後だった。クマゼミの初鳴きが待っていた。追いかけるようにアブラゼミも初鳴きを聴かせた。

 翌日、八朔の木の下辺りを掃除していたら、セミの抜け殻が幾つも転がっていた。羽化の途中で落ちて蟻に引かれた幼虫も1匹、梅雨末期の台風と豪雨の中で、いつの間にか羽化が始まっていた。数えたら11個、延べ百数十匹のセミ(ヒグラシ、アブラゼミ、クマゼミ、ツクツクボウシ)が、この八朔の辺りで誕生する。
 カメラを抱えて、藪蚊に苛まれながら闇の中に立ち尽くす……私の夏が始まった。

 この夜、悲しい出来事が一つ……縁石の上に4センチと3センチくらいの黒い落ち葉のようなものが貼り付いていた。目を凝らすと、軒下に数年前から棲みついているアブラコウモリ(イエコウモリ)の仔が2匹、まだ巣立ちには及ばない小さな子供である。誤って巣から落ちたのだろう。残念ながら、どうしてやりことも出来ない。間違いなく助からないだろう。
 1匹だけで棲みついていたら可哀想だなと思っていたが、伴侶もいて子供が生まれていた。そのことが嬉しいだけに、弱々しく首を振る小さな蝙蝠の姿を見るのはつらかった。
 自然は時として非情、生存していくことは、決して楽なことではない。人も同じ……だからこそ、今ここにある命を大切にしたいと思う。

 2匹のクマゼミは、翌朝抜け殻を残し、既に飛び立っていた。新しい命の始まりである。
                  (2018年7月:写真:病室の朝焼け)