蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

雨の中の誕生!

2014年08月20日 | 季節の便り・虫篇

 今年の「夏」は、いったい何処に行ってしまったのだろう?たまに覗く束の間の晴れ間を除いて、連日豪雨と雷と曇り空が続く。梅雨末期のような異常な大雨の日々、まだ向こう1週間は青空を望めそうもない。

 雨の切れ間を縫って、蝉が急き立てられたように鳴き続ける。ワシワシ(クマゼミ)は盛りを過ぎ、8月12日に初鳴きを届けてきたツクツクボウシが少しずつ勢力を拡大してきた。 
 午前中はクマゼミとアブラゼミの天下だったのに、今日の雨の合間に遠く聞こえるのはアブラゼミだけである。迎え火も送り火もなく、孫たちの帰省もない寂しいお盆も終わり、庭の隅に蝉の死骸が目立つ季節になった。ツクツクボウシの初鳴きを待っていたように、夜の闇にカネタタキが涼やかに鳴き、ミツカドコオロギが少し哀しい声を切れ目なく忍び込ませてくるようになった。いつの間にか夏は後姿を見せ始め、忍び足で遠ざかりつつある。

 各地の豪雨被害のニュースが流れる朝、待っていた誕生があった。8月6日に八朔からはるばる這い歩いて勝手口の壁に取り付いた蝶の前蛹が、翌7日に蛹になった。日頃八朔の梢を飛び交う姿から、クロアゲハと思い込んで羽化を待っていた。以来2週間、雨風のひどい日々が続き、壁に繋ぎ止めていた糸の片方が切れ、斜めに傾いだ危なっかしい姿で風雨にさらされていた。羽化の力が掛かったとき、たった1本の糸で大丈夫だろうか?途中で落ちたら、充分に翅が伸びないままに命を落とすこともある。(これまで何度もそんな姿を見てきた)心配しながら折にふれて見守る毎日だった。

 夜来激しく降り続いた雷雨が小康状態になった午前10時頃、物置の片付けを済ませて振り返った目に、見事な黒い蝶の姿が飛び込んできた。雨にも負けず、棍棒状の触覚をピンと立て、スッキリと翅を伸ばして傷一つない姿を風に揺らしていたのは、ナガサキアゲハの雌だった。尾状突起がないからナガサキアゲハ、赤と白の羽紋があるから雌と図鑑で確かめて、浮き立つ気持ちでシャッターを落とした。雨よ、せめてこの翅が乾き、飛ぶ力が満ちるまで降りやんで欲しい!

 雨は小康状態だが、まだ空一面は鉛色の雲である。広島市北部山裾に開けた住宅街、安佐南区と安佐北区の甚大な被害状況が切れ目なく報道される。死者18人行方不明13人、被害が急速に拡大して行っている。今年、全国でどれほどの水害があったことだろう。復旧の作業に手を付ける間もなく、次々に前線から濃密な雨雲が送られ、水害・土砂災害をもたらし続けている。「こんなこと、初めて!」という罹災者の声を何度聞いたかしれない。近年「想定外」という言葉も、もう日常茶飯となった。

 人知では想定できない災害。人知では御しきれない原子力。福島原発の事故処理は、打つ手打つ手が全て効果なく、汚染水の凍結処理もまた暗礁に乗り上げた。一面に並べられた汚染水格納タンクの異様な姿は、人の愚かさを象徴するようで醜い。使用済み燃料の最終処理の目途さえ立っていないのに、為政者と電力会社の目先の利権を追う再稼働の動きはやむことがない。助成金という札束欲しさに、再稼働を求める住人もいる。「今さえよければ、自分さえよければ……」そんな風潮が、百年の計を誤らせていく。廃炉に至るまでの気の遠くなるような年月とコストを考えるがいい。子孫にツケを残す計り知れないリスクを慮るがいい。利権金権が絡むと、人は、こうまで愚かになるものなのか。
 辺野古の海のボーリング調査も、希少生物ジュゴンの生息圏を容赦なく破壊し、住民の反対を押し潰して始められた。集団的自衛権の議論が沈静化しているのも不気味である。水面下で、傲慢且つ愚鈍な宰相は何をたくらんでいるのだろう?暗雲は尽きることなく日々の暮らしを脅かし続けている。

 そんな末法の世に、健気に命を繋いでいく小さな生き物たち。少し気持ちを癒された、雨の中の命の誕生だった。
          (2014年8月:写真:ナガサキアゲハ4態)

<追記>昼餉を終えて見に行ったら、ナガサキアゲハはすでに何処かへ飛び去った後だった。
 その下の鉄棒に、もう一つの蛹を見つけた。見失ったキアゲハだろうか?それとも、これもナガサキアゲハだろうか?……また期待と心配の毎日が始まる。嬉しい悩みではある。