蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

目で涼む

2013年08月14日 | つれづれに

 夕刻、又この団地に救急車が入った。連日の猛暑は容赦なく、熱中症との果てしない戦いに倦み疲れ、喘ぐような毎日を送っている。太宰府の昼下がり、35.6度の気温にも、もう驚きもしない。時に体温を超える暑さに見舞われながら、異常が異常でなくなった気象に耐える。ひたすら耐える。

 クマゼミも、もう鳴かない。8月2日に初鳴きを聴かせたツクツクボウシも、ここ数日我が家の庭で声が途絶えた。虫たちにもつらい残暑なのだろう。
 「体が小さい昆虫は体表から水分が蒸発しやすく、水分を探し、補給できるかが生死に関わる問題とされてきた。当時は、昆虫は感覚器で外気の湿度を感じていることが分かっていたが、その仕組みは解明されていなかった。」
 1980年から福岡大でゴキブリの感覚器の研究に取り組んでいる、横張教授の記事を新聞で読んだ。ゴキブリが触覚で湿度の高低を感じる仕組みを世界で初めて突き止めたという、こだわりの研究者である。

 ネットのウィキペディアによれば、「ゴキブリが出現したのは約3億年前の古生代石炭紀で、『生きている化石』ともいわれる。全世界に約 4,000 種、うち日本には南日本を中心に 50 種余り、世界に生息するゴキブリの総数は1兆4853億匹ともいわれており、日本には236億匹(世界の1.58%)が生息するものと推定されている。」
 その生命力と環境変化への順応力の強さは、遠く人間の及ぶところではない。誰もが忌み嫌う心理の底には、その逞しさに対するやっかみもあるのかもしれない……などと、意味不明の感嘆詞を心に呟きながら、猛り立つ日差しを空しく睨みつける午後である。(因みに、最も古いヒト科の化石は500万年前のもので、エチオピアで発見された。)

 東側の仏間の腰高窓の外に園芸用の柱を立てて格子を組み、ネットを張ってある。例年そこに夕顔の蔓を這わせ、夕暮れに大輪の花を見て微かな甘い香りを楽しむのが恒例になった。
 その夕顔の間に、今年はご近所からいただき、種子から育てたオキナワスズメウリの苗を植えた。(何故か、リュウキュウネズミウリと何度も名前を間違えて家内の失笑をかった。一度刷り込まれた記憶を改めるのは容易ではない。)糸のように細い螺旋状の蔓をネットに絡ませながら勢いよく育っているが、まだ花を着ける気配はない。色とりどりの手毬のような実を着けたら、写真を撮ってブログに書こうと昨秋から楽しみにしているが、この猛暑の中、まだまだ遠い先の話である。
 朝日が昇ると、その影が障子に映る。束の間の涼を目に映して、我が家の一日が始まる。

 西に傾いた夕日の中を、遠く石穴神社の杜で鳴くアブラゼミとツクツクボウシの声を聴きながら、乾き切った庭に水を撒く。隣りの父の家を売るとき、裏に掘った井戸の蛇口一つの権利を残した。お蔭で福岡大渇水の時も気兼ねなく水を使えたし、豪快に庭木に水を撒くことが出来る。
 ホースの飛沫を避けて、今日も2匹のハンミョウが虹色の翅を煌めかせながら飛び遊ぶ。昨年2月、早春の晴れた日に塀から顔を覗かせて以来、どうやら我が家の庭で世代交代を繰り返しているようで、この夏も毎日庭で遊ぶ姿が見られた。こんな自然とのふれあいは嬉しい。
 八朔の枝先に取り残された蝉の抜け殻がひとつ、風に揺れていた。(残り50個ほどの抜け殻は、回収して軒下の籠に収めてある。特に、どうしようという目的があるわけではないが、何となく……)
 庭石の側面に、フクログモが長い袋を幾つも立てていた。夕風の中に微かな秋の気配を探しながら、小一時間の撒水を終えた。ふくらはぎを、しっかり藪蚊が刺していた。例年になく少ない藪蚊だが、雌は生き血を吸わないと卵を産めないから、ある程度仕方がないと諦めているが……やっぱり痒い!

 父の庭から移し植えた松の根方で、ヒメミズギボウシが咲いた。そして、庭の片隅でカネタタキが小さな鉦を叩きはじめる。小さな秋の先触れである。
                 (2013年8月:写真:障子に映る涼感)