蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

初夏

2009年05月10日 | つれづれに

 八朔の下陰に佇み、耳を澄ませる。……昨年、裏作だったのか実の数も大きさも物足りないままに終わった。それでも味だけは例年通りの美味しさで、孫達に送ってやれるほどの実りではあったのだが……。お礼肥えに骨粉と油粕をたっぷり根方に施肥して待った今年、驚くほど沢山の花をつけた。ここ数日、健気なマルハナバチが2匹、羽音を唸らせながら終日せっせと受粉をしてくれている。懐かしく、嬉しい羽音である。受粉を終わった花は、花びらと雄蕊を雪のように根方に散らし、朝晩の掃き掃除が私の日課となった。花びらと雄蕊を散らした雌蕊の根本には、小さな八朔の赤ちゃんが日ごと数を増していく。収穫の秋を夢見ながら、いつまでもマルハナバチの羽音を聴いていた。

 1000円渋滞のゴールデン・ウイークの狂乱も去った。眩しい日差しの中に全身を委ねていると、いつ終わるともなく続く新型インフルエンザ騒動も遠い別世界の出来事である。残念ながら、娘が楽しみに待っていた7月の渡米もとりあえず見送った。秋のメキシコ・ロスカボスのダイビングに期待を掛けながら、静観する日々である。

 強い初夏の日差しが青葉に照り映え、訪れる蝶たちの姿も頻りになった。アゲハチョウ、モンシロチョウ、キチョウ、カラスアゲハ……セセリチョウが慌しくツツジの蜜を吸って、一瞬の訪ないで風に飛ばされるように青空に消えた。時折、ジャノメチョウが木陰に舞う。今年一番のツマグロヒョウモンが庭先をかすめた。庭のあちこちに飛んだスミレの株を幾つもプランターに集めて、食餌の用意は出来ている。やがてプランターのパセリに、キアゲハの幼虫も忽然と姿を現すことだろう。

 連休を先取りして、由布高原、国東半島を訪ねた。いつもの由布湿原は、ニホンサクラソウが一面に花開き、遠目にはピンクの絨毯のように美しかった。心無い花盗人や踏みにじる狼藉者を防ぐためか、花群の周囲にロープが張り巡らされているのが痛々しい。エヒメアヤメ、ジロボウエンゴサク、ヤマエンゴサクが散り咲いているが、このところの乾燥のせいか、今年はバイカイカリソウの姿が乏しい。吹き募る強い山風を避けるように、岩陰や窪地に隠れ潜むように数輪が可憐なランタンを提げていた。雲ひとつなく晴れ上がった青空を背景に、由布岳の姿が雄雄しかった。
 花を愛でた後は、いつもの木立のレストラン「ムスタッシュ」でのランチである。木漏れ日の落ちるテラスでマスターとの会話を楽しみながら、緑の風に吹かれて命を洗った。
 午後は、杵築の古い街並みを散策し、連休前の閑散とした明礬温泉連泊の、のんびり旅である。毎日、青磁色の露天風呂は独り占めだった。

 国東が荒れていく。家内の足を労わりながら、ゆっくりと泉福寺、両子寺、文殊仙寺を巡った。30年ほど前に訪ねた頃は、どこも車の離合に苦労するほどの狭い地の道だった。放射状の谷筋ごとに、奥深い山肌に佇む古寺には、深山幽谷の静寂と風情があった。今は舗装道路が張り巡らされ、いたるところに無造作に道端に置かれていた野仏の姿も殆ど見られない。数知れない野仏が持ち去られたという。両子寺も観光化してしまった。300段を超える険しい石段を登り詰める文殊仙寺……私の十二支の守りである文殊菩薩に因む古寺は、国東に数ある寺院の中でも最も好きなお寺だった。イワタバコが岩盤に群生し、巨岩古木に囲まれた静寂の空間に身を置く一瞬は、法悦にも似た貴重な時間だった。その文殊仙寺のすぐ傍まで、道路拡張工事が進んでいた。
 出来るだけ多くの人達に触れさせたいという考え方もあるだろう。しかし、苦労しなければ行きつけない静寂があってもいい。そこに行かなければ見られない仏があってもいい。高嶺にあってこそ美しい花があってもいい。……人の営みは、破壊なしには叶わないのだろうか。
 仁王像は、沈黙の中に何を語ろうとするのか、緑の静寂の中にただ時を超越して佇んでいた。

               (2008年5月:写真:両子寺仁王象)