蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

山庭の春

2006年05月01日 | 季節の便り・旅篇

 昨夜までの冷たい風が嘘のように、穏やかな暖かい夕べだった。右手遠くに湧蓋山(1500m)の稜線が夕日に美しいシルエットを見せ、眼下に広がる畑の向こうには、右肩に硫黄山(1580m)の白煙を靡かせた三俣山(1745m)、平治岳(1643m)、黒岳(1720m)と連なる久住山系の峰々が雄大な景観を繰り広げる。崩平山(1288m)の中腹に建つ山荘の、贅沢過ぎるほどの素晴らしい展望だった。
 文学講座の仲間達と、昨秋「奥の細道」を辿る旅をした。講師のT教授を囲み、芭蕉の足跡を追う晩秋の陸奥は、思いがけず雪と紅葉を併せ味わう豊かな旅となった。その時の仲間の一人、Eさんの山荘訪問が実現し、車2台を連ねて男2人女6人で今月2度目の久住・飯田高原に駆け上がることになった。
 昨日の激しい黄砂の名残がまだ少し残るものの、暖かな春の日差しの中を快適なドライブだった。大分自動車道・玖珠インターで高速を降り、いつものように四季彩ロードを抜けて湯坪温泉に走る。新緑の木立を抜けて窓から吹き込む山風が爽やかだった。野焼きした山肌に待望の黄色い輝きがある。20日前に、この日への期待を篭めていたキスミレの群落が眩しいほどに咲き広がっていた。
 車を止めて斜面を上がる。吹く風はまだ少し冷たく、背中の日差しの温もりが嬉しい。雲雀の囀りを絡ませながら、初めてキスミレの群落を見た仲間の歓声が響いた。期待したもう一つ、蕨の芽吹きは例年になく遅く、山肌からようやくこぶしを覗かせるばかりだった。それでも、僅かな時間で明日の朝食の味噌汁には十分な量が袋に満たされる。
 長者原でKヒュッテを経営する一家が、先年飯田の町で「野尾野」という山菜料理の店を開いた。そこで春の山菜尽くしの昼食を摂り、迎えに来たE さんご夫妻の案内で山荘に向かった。

 16年の歳月を費やして築き上げられた山荘は、木立と野草に囲まれて見事に自然と調和し、数々の木々や草花が彩りを添えていた。ヤマザクラは既に盛りを過ぎたが、足元の草むらにはヒトリシズカ、ヤマシャクヤク、シュンラン、ナルコユリ、エヒメアヤメ、カタクリ、サギゴケ、キスミレなどが山庭の春を謳っていた。オーナーご夫妻の心のこもったもてなしが、至福の時間を演出してくれる。
 ご主人手作りのケーキとコーヒーでブレークしたあとは、近くの飯田町の水源地で咲き誇るニリンソウの群落を愛で、筌の口温泉まで走って長いドライブの疲れを癒した。錆色の熱い温泉で肌を真っ赤にして湯船から上がる頃、春の日差しは斜めに傾き、山間の早い田植えに備えて水を湛えた棚田にも日暮れが迫っていた。
 昨日、しこたまに買い込んできた食材で焼くバーベキューは限りなく豪華だった。ビールで乾杯の後、テラスの手摺りに持参したワイングラスを並べて、フランスの赤ワインとドイツの白ワインを注いだ時、思いがけない発見があった。琥珀色のグラスに逆さまに写し取られた木立と山並み、そして赤いグラスに照り映える夕日……。ウグイスやシジュウカラの声が降る中、眼前に広がる壮大な風景に酔い、ワインの芳醇な香りに酔い、夢に見ながら果たせなかった至福の時間が豊かに過ぎていった。
  (2006年4月:写真:ワイングラスの木立と山並み)