創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・池田大作をブッた斬る-26

2019-06-11 06:38:25 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
    藤原弘達 1988=昭和63年  (日新報道/¥1,000)
   ------(P.102)---(以下、本文)-------

創価学会的“魂の押売り”
 あるとき池田大作は、戸田城聖の言葉を引いて、創価学会がいわゆる新興擬似宗教の類でないことを説く。(「聖教新聞」34・6・20号)
 「戸田先生は『学会は新社会主義である』とおっしゃった。すなわち、あくまでも全国民の幸福を基準にして態度を決定し『個人の幸福』と『社会の繁栄』とが一致する王仏冥合の思想を根本にしたものである。(中略)創価学会は信仰の団体である。政治の団体ではない。ただ学会から推薦されて立った議員たちが、将来時代の要求として大衆の要望としてそのようなものをつくらざるを得ない場合にはやむをえないことであり、大衆の要望にこたえていかなければならないと思う」

 戸田城聖死して翌年のことで、このとき池田はまだ会長職を継いでいなかったが、既に第三代会長の自信を固めていたらしい発言だ。
 「新社会主義……」であるとか「全国民の幸福を基準に」態度を決定するといった発言は“ご利益”や“難病治療”請負い・新興擬似宗教より、政治団体ばりであった。

 宗教には奇跡がつきものだという。見えない目を癒したり、足萎えが立ち上がったとか、奇跡は治病に一番現われている。全国各地に残る大師(空海)伝説にも奇跡が一杯である。
 新興宗教の布教、伝道の第一幕は、むろん病気癒しだ。奇跡だ。病気癒しの奇跡から、世直しを信じさせる。敗戦後の新興宗教、擬似宗教も、総てこのコースを辿った。そして、病気癒しから世直しの段階にくると、戦後の擬似宗教たちは一様に、おとなしい精神生活改善に変わつていった。保守的厶ードを代表し、政治的にも保守勢力の基盤になる。

 ところが、創価学会は他の新興擬似宗教と同じコースをとらなかった。彼らの野心は、昭和三十四年現在の会員数一二八万世帯という数字に一段と煽られた。  学会の政治団体化と組織強化に政治スローガンはなじまないというわけで、もっばら「王仏冥合」「第三文明」が表に出た。しかし、折伏には「王仏冥合」でも「第三文明」でもない。  “宿業転換”と“ご利益”だ。“末法のセールスマン"といわれた如く、学会の折伏は猛烈、執拗を極めた。
 押し売り同然じゃないかといわれた時、ある学会員はこういったそうだ。

 「押し売りは、商売で儲けようと思ってやる。我々は、総ての人々を、日蓮正宗の教えによって幸福にしてあげるためにやっている。まして、権力のない我々が、どうして宗教の押しつけなどできょうか」
 自分の利益のための折伏でない、あなたの幸福のためだと、まことに、おためごかしでやってくる。天皇制時代の信仰の強制ばかりが押しつけではない。「販売は断られた時から始まる」という、米国のセールス格言を知ってか知らずか、学会員は折伏に燃えた。まさしく、魂の押売り商人である。

 ゴム紐売りが一昨日、刑務所から出てきたばかりだ。助けると思って買ってくれ」と凄む。脅しやしない、お願いしただけだといっても、いわれた方は脅迫されているのである。折伏は、ゴム紐売りと同じく脅しはない。ゴム紐売りは刑務所帰りを口にし、折伏は宿業や罪を口にする。
 しかも、折伏は「相手が反対しようが賛成しようが、ぜんぶ自分の功徳になる。それで悪口を言われた。なんだ、病気のくせに、貧乏のくせに、と言われれば言われるほど、早く宿命転換できる。罪が消える。一石三鳥ではありませんか」(池田大作講話)という原理だから、ますます魂の押売りに励んだわけだ。この章の初めの方で、日蓮正宗創価学会流を覚醒剤とみたのだが、右のような池田の論理にしても学会員にはそれなりの覚醒剤的キキ目をもつ。

 ところで、池田も日蓮仏法を覚醒剤とみていたフシがある。これは、政教分離宣言後の公明党議員と懇談の席上での発言。(段勲編「創価学会・公明党の研究」晩聲社)
 「少し力をつけて日本中を変えよう。ケン力学会はじめよう。それでまたたたかれて…静かになって……これをくり返そう。忍従ばかりで、いい顔ばかりしていたら成仏はできない。……だいたい日蓮主義というものは元来過激だね。その方が男らしいよ。おとなしいと『みんな日蓮宗ですね』と妙信講あたりがいうよ。
 どうみても日蓮大聖人の仏法ははげしいね。だからへタ読むと気違いになるよ…… またいつかやろう。もう少しガッチリしてきたら。もうそれ以上いかないというとき、いっぺんやろう。こっちは大折伏を号令するから」

 「へタ読むと、気違いになるような激しい仏法」と池田はいうが、彼自身はさめ切って決して狂信者にはならず、激しい仏法へと人々を誘いこんでいくだけの男なのである。
     ----------(つづく)---------105

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