創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・池田大作をブッた斬る-24

2019-06-09 08:48:35 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
    藤原弘達 1988=昭和63年  (日新報道/¥1,000)
    ------(P.95)---(以下、本文)-------

擬似宗教の大衆欺瞞--会員は単なる票数、記号にすぎぬ
 創価学会がいかに強弁しようと、学会は新興宗教の中の一宗派である。日蓮正宗本山・大石寺に“板本尊”(マンダラ)が存在する以上、“本尊”は大石寺、教義は創価学会というのは、それこそ信者をたばかるものだ。

 世間では、“板本尊”を持っているからホンモノ、持っていないからニセモノといったことは、どうでもいいことだ。創価学会が日蓮正宗から分かれた創価教という一派を名のる新興宗教であったところで、世間がこれを宗教であるかどうかを決めるわけではないから、宗教活動は自由である。あくまでも私事である。
 したがって、宗教法人・創価学会が大石寺と別個の布教活動をするのは、なんら不都合ではない。不都合は、大石寺を離れて別派になるとカンバンの権威がなくなることだ。

 吹けば飛ぶような零細組織から、折伏で信者を組織するために、大石寺と“板本尊”を大いに売り込んだ。日蓮正宗の権或を売ってきた以上、大石寺のカンバンは依然としてそんなところにはない。私がかって、創価学会は「戦後民主主義の落ち穗拾い…」といった,私なりの評価する面があったワケである。
 『新・創価学会を斬る』に私はこう書いた。

 「いかにも形の上ではカッコよくできたかにみえる戦後の民主主義的変革といえるものも、そこからこぼれ落ちたところの民衆を救い上げる力には少しもなっていない。それを主観的にせよ救い上げようとした創価学会のエネルギーというものを私はむしろ大いに評価している……。(中略)
 いまの日本で底辺に法を説くことはやさしい。説くだけなら自由だし、妨害はない。この底辺の大衆エネルギーを利用することはもっと易しい。ちょつと利用しただけでも結構りっぱな“宗教”ができあがるのだ。そして見事なる大伽藍もつくられ、多くの信者がこれに参り、末寺まで組織され、結構その“宗派”は栄えてきている。

 しかし本当に日本の底辺に分け入り、その苦悩を救い上げようとした人の魂はそうすることによってどれだけ生かされていることであろう。(中略)
 問題はむしろその点にあるのである。創価学会は池田大作自らが自己変革といいながら、現在の時点においてすでに過去の堕落した既成宗教の長い歴史をまこと短いサイクルで経過したといえるかもしれない。そしてすでに日本のさまざまな宗教が歴史的にくり返してきた同じような堕落と頽廃の時点に自分自身が立っていないとはたして本気で考えているのであろうか」

 この最後の問いかけに関する限り、現在、改めて問い直すにやぶさかでない。マトモに答えないことを承知の上で……。既成教団を含めて、現代の日本における宗教・信仰が、巨大な建造物や施設の中にないことを感じるのは、私一人ではあるまい。宗教法人という名の寺院・教会(既成、新興の別なく)は、もはや“聖域”でも何でもない。宗教法人の経営をみれば分かることである。
 良い悪いの問題でなく、“宗教法人栄えて宗教衰退”というのが現実であり、創価学会のみに限らない。

 創価学会の堕落とは“ご利益”とバチという中世的教義で釣りあげた信者を公明党の選挙集票マシーンとして組織したことである。堕落とよぶよりむしろ、意図的な社会犯罪といわねばならない。
 それ故、学会・公明党が政治に進出した時から、底辺大衆を救いあげる折伏活動は、学会経営と公明党票田開拓のシステムに変わっていった。学会経営の規模が発展すれば公明党の選挙基盤も拡がるのだから、学会折伏活動はセールスマンのマーケット開拓に等しいものだったのである。獲得した会員は“紙本尊”を買ったお客様ではない。もはや“落ち穂”は、拾いあげた瞬間から人間としてでなく、売りあげた“紙本尊”の数におきかえられる。個々の会員は、学会組織の一分子以上でも以下でもない存在に止まる。

 前にも指摘したように、本尊は本山・大石寺、教義は創価学会というのは、新興宗教の創価学会が既成宗派・日蓮正宗のカンバンを借りて権威を繕っただけのことであった。日蓮正宗信者ではあるが、創価学会流の教義の下、会員は「池田先生」に忠誠を尽くすこと、「池田先生」に「帰命」することが日蓮正宗信者の道だと洗脳されていった。
  これに関して、雑誌「現代」(52・12号)の内藤国夫がリポートした「創価学会と池田大作会長の変貌」に、こんな部分がある。

 「創価学会および学会員に対し『池田会長はご本仏、つまり生き仏ですか』と聞いたら、もちろん『そうではない』と返事される。心中ひそかに『ホトケさまのようなお方である』と思ってはいても。
 だから『仏さまでないなら帰命するというの、おかしくないですか』と重ねてたずねると、きまって、こう答えられる。
 『私たちは日蓮大聖人さまに、一心不乱に帰命しています。そして、そうすることが、会長先生にも帰命することになるのです』」

 一方、学会幹部に池田大作は「私が現代の仏法の指導者である」と教え、「私から幹部に任命されることは、記別を受けること……」だといった(創価学会幹部用テキスト「前進」昭和42・2)。
 ここにいう「記別」とは、
 ① 仏が弟子の未来成仏を明らかにすること、
 ② 仏が弟子に記別を授けることを授記と呼ぶ  (池田大作監修・創価学会教学部編「御書辞典」)というのだから、記別を与える池田大作は、三段論法で「ホトケ」ということになる。
 創価学会に入り、池田大作を「ホトケ」として帰命するよう洗脳されると、会員は既に単なる記号になっているワケだ。
     ----------(つづく)---------99

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