創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・池田大作をブッた斬る-40

2019-06-26 06:43:36 | Weblog
 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
    藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
    ------(P.160)---(以下、本文)-------
 
▼ 連合論、解党論、連合党をいう公明党のダマシにのるな
 野党連合により比重をかけるなら、公明党の行動は社公民三党共闘に熱を入れそうなものだが、事実は、その気配など一向に現われてこない。
 たとえていえば、昭和六十三年の臨時国会である。税制国会とよばれるこの国会では、政府・自民党は抜本的税制改革法案成立をめざしたものだ。政府・自民党税制改革法案は、中曽根内閣で失敗した消費税導入を柱にしていたが、召集前から、明電工事件、リクルート株讓渡問題など、前途多難を予想させたものだ。
 
 自民党はじめ社会党の現職、前職代議士の名前が飛び出した明電工事件、リクルート株讓渡問題では竹下、宮沢はじめ政府高官、民社党委員長,塚本三郎の名まであがる始末。公明党は砂利汚職で前参議院議員・田代富士男がひっかかるし、ついに池田克也の名前まで出てくる。
 無キズは共産党のみといった具合で、何やら与野党ともにモタつく混迷の条件だけができてしまった。そして、こういう時ほど、公明党の突っ放したりスリ寄ったりの駆引が最も活発化するのだ。
 
 公明党としては、せっかく世間的には政教一体問題が風化しかかったと思う時に、党員議員の池田告発で足元に火がついた。連鎖反応の如く創価学会内が騒然となると、公明のみせかけの野党色はすぐさま玉虫色に変わってしまう。これまでの例でみても、公明党の玉虫色は、反自民か自民寄りかの間を、乗り心地のよい方を求めてきまって往きつ戻りつするだけである。
 矢野は六十二年の中曽根内閣の売上税のことを「去年、名誉会長は、売上税は悪税とおっしやった。わしらもそう思ってたんだから、わが意を得たり、勇気百倍という感じだね……」といっているのだが、今度の消費税導入の税制改革に池田名誉会長の意見が出るまでは公明の動きは流動的だったが、どうやら自民すり寄りのサインが出たとみていたが、自民単独の強行採決を境として、選挙を意識しての強硬突き放しに変わったり、ともかくめまぐるしい変転ぶりである。
 
 社公民三党共闘なんて、もうないのだ。社公民なんぞ、矢野公明党は眼中にない。公明党からすれば、目下のところ、社会党の議席は公民を合わせたものより下回る以上、野党連合構想の主導権も社会党にはないといいたいらしい。「連合」プラス市民無党派をいいだす(「週刊朝日」インタビュー)のは、そこだ。
 得体の知れぬ市民無党派などを持ち出してきたところをみると、これも、すこぶるつきの池田大作発想に間違いない。選挙戦におけるフレンド票集めの新手である。
 野党連合や連合党に、創価学会フレンドを組織しようなど、まことにネオ・ファシズムくさい。野党連合にプラスするなら、市民連合だろう。無党派と限定するのが、ゴマ化しの証拠だ。
 
 私は、矢野公明党が、野党連合の実現を、その先に連合新党を構想する自己否定とやらで日本の政治状況を変えるなどと、まことに壮大なビジョンを語る(前記「週刊朝日」)のを読み、初めから眉ツバだと思っているものだ。矢野のいう自己否定なんか、要するに単なるお喋りなのだ。政権交代可能な二大政党の状況をつくるべしとプチながら、「名誉会長も将来は二大政党時代が望ましいと発言してはる」と付け加えるのを忘れない(同前)矢野の発言などに、「天下の公党」としての自主性など全く認められない。
 つまりは、池田腹話術師が、矢野という“操り人形”を使って喋っているだけのことである。
 
 そういえば、ある公明党員は、こんなことをいった。「公明党の委員長は、池田名誉会長のように、片目を細くみせる。竹入委員長がそうだった。矢野委員長も、近頃は片目を細くする」と。
 ウソかホントか。顰みにならう、というわけだ。
 矢野を池田の腹話術人形に譬えたが、“公明党総裁”は池田のかねてからの願望で、昔も今もそれだけは変わらない。ただ、現在は既にその道は閉ざされてしまったたけだ。
 
 『創価学会を斬る』の中から引いてみる。
 「……今度、この本の出版にあたって、創価学会からさまざまな圧力があったが、そのなかで『池田大作会長のことについての批判は許さない』という注文もつけられた。そこで私は、『政界にのりだしたらどうだ』といったところ、『それは非常に結構です、どうかそういうように池田会長が政界に出馬できるような論陣をはって下さい』というようなことを、私のところに(出版妨害に)やってきた公明党都議会議員が強調していた」
 
 右の都議会議員とあるのは、今日の“反池田軍団”の総帥(?)といわれたりする藤原行正である。藤原行正が、今年になって雑誌の対談で私に語ったところでは、当時、池田大作が「将来、公明党委員長になれるように書くことを、藤原弘達に話してこい」と執拗に命じたんだそうである。
 矢野発言に出てきた、自己否定のことに戻る。矢野の連合構想は、「最終的には、公明党を発展的に形態変化させ、連合の中の一つの部分になる……」というものだが、創価学会との政教分離が大前提でなかったら、とても信用できたものではない。
 
 事は簡単である。公明党は自前の選挙をやること、創価学会は学会員の政党支持の自由を認める、つまり、学会組織として公明党の選挙運動をやめることである。公明党が自前の選挙の洗礼を受けぬ以上、野党連合に動き、二大政党時代をいうのは思い上りも甚だしいというものである。創価学会という集票マシーンから離れて、独り立ちの政党として存立し得るのかが、まず公明党に問われている。
 創価学会は、学会員の政党支持の自由を、世間から信用され得る形式と方法で保障すべきである。学会員に、自民党支持も社会党員も民社党員も、或いは共産党シンパがいても、一切問題は起きない政党支持の自由だ。
 
 以上のような条件は、学会・公明党にとって実行可能と思われるものは、何一つとしてない。
 しかし、公明党には、あえてこれらの条件を“踏み絵”として突きつけねばなるまい。いや、“踏み絵”はキリシタン宗門改めだった。ここは、大石寺の戒壇の“大御本尊”(板マンダラ)をもじって、“踏みマンダラ”としておこう。
 “踏みマンダラ”を踏んだ公明党でなければ、いつさい信用すべからず。学会・公明党のダマシに乗せられるな、である。
     ----------(つづく)---------164
コメント
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