--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
------(P.109)---(以下、本文)-------
創価学会-池田大作をブッた斬る
藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
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▼ 池田批判はそんなに勇気がいるか
公明党・大橋衆院議員、藤原都議の二人が反池田に立ちあがったことは、一般の想像を絶するものがあるようだ。大橋敏雄は、こう“決心”したのである。
「私もすでに六十二歳、長く生きてもせいぜい十年でしょう。どっちみち死んでいくなら、創価学会の改革と公明党の民主化のために全力をあげたという事実を世に残していきたい。それがまさしく私の死場所だと思うに至ったわけです」(「池田大作への宣戦布告」文芸春秋63・6号)
「私もすでに六十二歳、長く生きてもせいぜい十年でしょう。どっちみち死んでいくなら、創価学会の改革と公明党の民主化のために全力をあげたという事実を世に残していきたい。それがまさしく私の死場所だと思うに至ったわけです」(「池田大作への宣戦布告」文芸春秋63・6号)
藤原行正は、雑誌のインタビューで、こう語っている。(「『池田教』から日蓮正宗に戻れ!!」朝日ジャ一ナル63・7・1号)
「--あらためて確認するが、『反池田』は、『反創価学会・反公明党』という意味ではないのか。
『それは違う。今度のことで、ある学会員の方に『恩知らず』と言われたが、事実誤認だ。学会員のみなさんの力があったからこそ、議員になれたことはよく知っている。(中略)それを池田さんは自分の力で、議員という地位を与えてやったかのように振る舞っているんだからね。
私は、学会にも党にも何の恨みもない。池田大作個人を問題にしているわけだ。それでも、池田とともに死ぬつもりで私たちを弾圧する側に回る学会員がいれば、とことん闘うよ』」
「--あらためて確認するが、『反池田』は、『反創価学会・反公明党』という意味ではないのか。
『それは違う。今度のことで、ある学会員の方に『恩知らず』と言われたが、事実誤認だ。学会員のみなさんの力があったからこそ、議員になれたことはよく知っている。(中略)それを池田さんは自分の力で、議員という地位を与えてやったかのように振る舞っているんだからね。
私は、学会にも党にも何の恨みもない。池田大作個人を問題にしているわけだ。それでも、池田とともに死ぬつもりで私たちを弾圧する側に回る学会員がいれば、とことん闘うよ』」
大橋敏雄は公明党を除名になったが、藤原行正の身分はそのままだ。その藤原がいうように、学会内では池田を守って「死ぬ気で」造反者を弾圧にかける動きも起こりうるとすれば、まさに山口組対一和会の抗争めいてくる。むろん私は、学会造反者側を一和会に見立てるわけではない。創価学会が山口組に見えてくる、という意味である。
しかし、そのまま山口組に譬えるわけにはいかない。山口組は暴力団だ。犯罪性、反社会性はいうまでもないが、市井のアウトロー集団である。池田大作は生き仏として、創価学会三〇〇万会員の上に臨み、野党第二党・公明党の事実上の党首である。こういうのが山口組ふうの仁義なき戦いを仕掛けるなどが万が一あったりしては、まさに民主主義そのものを扼殺することになる。私は、当面の可能性をいっているのではない。創価学会の体質を指しているのだ。
しかし、そのまま山口組に譬えるわけにはいかない。山口組は暴力団だ。犯罪性、反社会性はいうまでもないが、市井のアウトロー集団である。池田大作は生き仏として、創価学会三〇〇万会員の上に臨み、野党第二党・公明党の事実上の党首である。こういうのが山口組ふうの仁義なき戦いを仕掛けるなどが万が一あったりしては、まさに民主主義そのものを扼殺することになる。私は、当面の可能性をいっているのではない。創価学会の体質を指しているのだ。
言論出版坊害事件の再発の恐れだって、絶無とはいえないのである。学会・公明党内において言論の自由がない以上、その危険は十分に存在する。言論の自由がなければ、民主主義は死ぬ。仏法民主主義なんてまやかしは不要である。まかり間違っても、創価学会的民主主義などというなかれだ。
学会・公明党にまず必要なのは、池田批判、反池田行動の自由であろう。その行動を通じてのみ、自浄・再生の道が開かれるかもしれぬ。私の立場からすれば、学会民主化は学会員がきめる問題であり、一方、現代日本の民主主義の課題の一つとして学会・公明党問題は、学会・公明党と関わる総てから池田の引退、公明党の解散以外に解決の方法はないのである。学会・公明党内の運動が池田追放のみを目ざしていくならば、まことに日暮れて道遠しである。
学会・公明党にまず必要なのは、池田批判、反池田行動の自由であろう。その行動を通じてのみ、自浄・再生の道が開かれるかもしれぬ。私の立場からすれば、学会民主化は学会員がきめる問題であり、一方、現代日本の民主主義の課題の一つとして学会・公明党問題は、学会・公明党と関わる総てから池田の引退、公明党の解散以外に解決の方法はないのである。学会・公明党内の運動が池田追放のみを目ざしていくならば、まことに日暮れて道遠しである。
学会内部の若手の造反も続いているようだが、これまで池田親衛隊ばりの活動をしてきた中からも池田批判の声があがっているのも事実である。ただ、学会改革は池田独裁排撃、組織の民主的連営といっても、ゼロから再組織するのでなければ、殆ど不可能である。 宗教団体の民主的組織などナンセンスだ、という人もいる。宗教は教義絶対である。民主的に教義を検討するなどありえない。
つまり、宗教は本質的にトップダウンの組織を選ぶ。上意下達のみである。創価学会が信徒団体として全員が本山直結の弟子であればまだしも救われたかもしれぬが、財力と組織力が本山を支配するこの組織に、民主主義はなじまない。まさに、絶対矛盾である。
例えば、こういう問答が出てくるつ池田批判をしたために埼玉県創価学会で起きた幹部会員解任・除名騒動における論争だ。(「週刊ポスト」63・6・7号「巨大教団の内幕追擎」より。除名・解任された幹部会員は三人。対するは西村という埼玉総県長)
例えば、こういう問答が出てくるつ池田批判をしたために埼玉県創価学会で起きた幹部会員解任・除名騒動における論争だ。(「週刊ポスト」63・6・7号「巨大教団の内幕追擎」より。除名・解任された幹部会員は三人。対するは西村という埼玉総県長)
「三人 『ぼくはね(と守屋)、組織の矛盾とか裁定の不満とか、そういうことをね、(地域の幹部に)話したわけですよ。ところがそれについて一言も返答がない。(中略)それでいきなり除名ってなんですか。これは信仰上の問題ですよ』
西村 『信仰上の問題だったら、自分たちで(信心を)やればいいじやないか』
三人 『創価学会は信仰の団体じゃないんですか』
西村 『団体だけれども……。組織だからさ、中心者(池田氏)がいて、組織の体系ができてるわけだろう。中心者の発言に対して納得、承服できなかったら、やめる以外にないじやないか』
三人 『どうして。納得できないんだから、中心者の方が変わればいいじやない』
西村 「学会は池田先生のものなんだ』」
西村 『信仰上の問題だったら、自分たちで(信心を)やればいいじやないか』
三人 『創価学会は信仰の団体じゃないんですか』
西村 『団体だけれども……。組織だからさ、中心者(池田氏)がいて、組織の体系ができてるわけだろう。中心者の発言に対して納得、承服できなかったら、やめる以外にないじやないか』
三人 『どうして。納得できないんだから、中心者の方が変わればいいじやない』
西村 「学会は池田先生のものなんだ』」
民主主義についての論争ではない。どこまでやっても、不毛の“口論”にしかすぎないことが分かるだろう。
----------(つづく)---------113