創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・池田大作をブッた斬る-21

2019-06-06 18:48:15 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
   藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
    ------(P.87)---(以下、本文)-------

戦後後民主主義を食い荒らす鬼子
 『二ッポン日記』の著者として右名なマーク・ゲインいうところの「マッ力ーサーの呪縛」は象徴天皇制を残した日本国憲法にクッキリと刻印されている。そのような平和憲法、平和と民主主義の旗印で、新興宗教もまた大衆をこの矛盾した体制にそれなりに順応させるほかない存在であったし、およそ解放の活力にあふれたものでは決してなかったということである。

 M・ゲインが「シカゴ・サン」紙特派員として占領直後、一九四五年十二月から一年間、占領下の日本を取材したものが『二ッポン日記』(井本威夫訳、筑摩書房)であるが、第一章・三月六日の「東京」の部分に、こんな記述がある。
 「さらに、この憲法で何よりも悪いのは、マックァーサー元帥自身書いたという軍備放棄に関する規定である。なぜなら、日本の新聞か日本歴史をちょっとでも読んだことのある人なら占領が終わりさえすれば、日本がなんらかの口実をもうけて軍隊を再建するとはとうてい疑えないからである。日本で地震が避けられないのと同様に、これはまず不可能なのだ。かくてま さにその本質上、新憲法は欺瞞を生むものである。欺瞞の内在する憲法は断じて永続しうるもものではない」

 「日本のために」新憲法を仕立てあげたアメリカ側の動機は、誰も推測しえない。一つの動機は、日本の基礎法の制作者として永く歴史に留まりたいというマックアーサー元帥の欲望かもしれない。
 他の一つは、軍の命令によれば何でもできる--民主的憲法さえもというかの軍人の信念でもありえよう。そして国民の咽喉もとにつきつけられ強制されたどんな憲法でも、民主的なものでありうるという考え方に内在する矛盾に思いをめぐらしたものは、明らかに一人もいなかった」

 果たして一人もいなかったかどうか、ここではあえて問うまい。それが、どうであろう。インチキであろうと、押しつけであろうと、ともかくもこうして生まれた日本国憲法は、実に四十年余に亘り、いささかの変更もなく生存し続けているのだ。
 そして日本国憲法の下、その精神において自由を謳歌した新興宗教の殆どが、本質的には何も変えないままに、おとなしい利己的な保守退嬰のムードを下から支えるものとして体制内に収斂されていつたのである。

 ただ、その中で、新興宗教勢力としてはやや遅れて出てきた創価学会だけが特異な信仰組織、独特のエネルギーをもって巨大信仰集団にふくれあがり、憲法を守るといいながら政教分離の大原則をふみにじり、危険なファシズム的衝動を内にはらみながら民主主義の空洞化にひたすら突進してきた、といえなくもないのだ。
 まことに創価学会・公明党は、戦後民主主義の虚妄、欺瞞をそのまま生きざまの上に映し出しており、同時に、その母体を内から食い荒らす鬼子ということができる。

 ところで、今回の公明党による大橋議員除名に関して「赤旗」アメリカ特派員・山根記者が米紙ロサンゼルス・タイムズの「宗派・信仰、政治、日本における騒然とした混沌」という特集記事を伝えている。(「赤旗」63・9・30号)
 「……同党の政教一体を批判して迫放された大橋代議士の『アウトダフェ(異端者の火刑)』は、『かって全国民が天皇崇拝の軍国主義の渦巻きにひきずりこまれた、日本において、深刻な政教分離問題をよみがえらせた」と述べています。

 そういう創価創価学会にとっても、二十年前に私が「斬った」ところの悪夢的衝撃はまだ終わっていないだろう。この学会・公明党をこれからどうすもか、これに何らかの決着をつけることは、現代日本の未来への前進のために緊急で不可避の課題であろう。
     ----------(つづく)---------90

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