創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・池田大作をブッた斬る-39

2019-06-25 07:05:59 | Weblog
 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会-池田大作をブッた斬る
    藤原弘達 1988=昭和63年 (日新報道/¥1,000)
    ------(P.156)---(以下、本文)-------
 
▼ 公明党が「連合」をいう本当の魂胆
 公明党が連合を口にするのは、なにも今に始まらない。ある時は革新連合、ある時は保革連合、またある時は野党連合であった。公明党の主唱する連合論は、革新連合かと思えば保革連合--あの二階堂擁立構想みたいに、もはや革新などとはいえない公明・民社という日和見勢力と二階堂をダシに自民党田中派と組もうとする実質的“保守連合”まで、いろんな力ードの組合せがあった。
 
 それこそ、クランクイン直前に流れた未完成のシナリオ・二階堂擁立劇など、連合と呼ぶより“野合”の名こそふさわしいものだった。そこで躍った彼らがいかに無責任で、およそ「天下の公党」として国民への約束ごとを無視した政治姿勢をとったことか、その点だけはまさに終始一貫している。当時の委員長・竹入と書記長・矢野の発言、並びに現委員長・矢野の発言を並べる時、ただもう呆れるのみである。
 
 朝日新聞政治部編『田中支配』(朝日新聞社)の竹入発言--
 「…公明党は野党、総裁選は自民党の党内問題であるから、公明党が直接、自民党内に手を突っ込むことはできない。隔靴掻痒の感がする。しかし“外野席”からハンカチを振るだけで、これだけのインパクトがあるなら、次にこういう状況があったら上着をぬいでやる」
 二階堂擁立が流れた後の書記長・矢野の発言--(昭和五十九年、テレビ番組に出演、インタビューに答えて)
 「いまはもう、保守か革新かの時代ではない。自民党との連合か、野党連合か、乗りごこちのいい方に乗ります」
 四年後の今日、委員長としての矢野絢也は週刊誌のインタビューで次のように発言しているが、無責任といおうか、無邪気といおうか、それとも有権者、国民をてんでナメているのか、その総てを含んでおつりのくる内容である。(「週刊ポスト」63・7・22号)
 
 「--“野党を一本化する”というのは、つまり公明党を解体するということですね」
 『私が解体なんていうと、ちょっとまずいんですけどね』
 --委員長が除名される?
 『ともかくバララバラの野党を一本にまとめるということは、公明党の名前が将来、発展的に解消していくこともあり得るということです』」
 
 また「週刊朝日」(63・7・1号)では、こう発言している。
 「しかし、労働運動では『連合』が結成された。こうなった以上、野党の方だって『連合』プラス市民無党派という形で政局にかかわることを期待されるのは当然です。(中略)最終的には、公明党を発展的に形態変化させ、野党連合の中の一つの部分となり、政権交代を狙えるまで持っていきたい。自己否定の論理ですよ、これは」
 
 さらに、このインタビューでは矢野のオマケ発言がある。
 「--でも、四年前の二階堂擁立構想の時のように、自民党の一部と組むことも考えているのでは。
  矢野 あれは世にも壮大なブラックユーモア。田中角栄さんの一番番頭の二階堂さんを担いで田中支配の政治構図を壊そうとしたわけよ。ちょっと悪乗りしすぎた感じもあるが、現状打破はこれからもユーモアを持って大いにやるべきですよ。要するに、政治は生きものだから乱に臨み、変に応ずるところがないとね」
 
 こんな全くのでまかせでいやしくも政党政治=オープン・デモクラシーをやろうというのだから、もはや救いがたい堕落であり、精神的痴呆症というほかない。政治は生き物だから乱に臨み、変に応ずる(臨機応変か?)というが、これでは豊田商事の先物べーパー商法ではないか。二階堂擁立がブラツクユーモアだったこれこそ政治を弄び、政党私物化の池田発想そのものだ。もし、そうではないというのであれば、「もっと日本語を勉強し直せい、大バカモノ」と矢野公明党には戒告しておきたい。
 
 だが私には、今さら公明党のハラの中まで究明する必要など覚えない。公明党が池田大作の思惑で動かされているのだということがかくも明らかである以上、公明党の連合論にしても、政権獲得へのせいぜい「三国志」的戦略の応用問題くらいに受け止めておけばよい。まことにチャチな「三国志」的戦略が、それなりに一段と警戒を要する段階にきているということである。学会・公明党が連合論をもちだすのは、戦略などというもオコがましい。乱世に乗じて混乱を大きくすればそれなりの効用はある、との計算であろう。
 
 かって、財界筋、銀行筋を動かして、民社党に合併話を持ちかけた時の池田の魂胆を、民社委員長(当時)西村栄一にしてもそれなりに「行くところがないから、貰ってくれというわけだろう」と、当初は見抜いてはいたようだ。見抜いていながら合併話に乗りかけたのは、民社党の全く主体性のない日和見主義的体質からだ。民社、学会・公明党が、互いに相手の弱みを読みながらの駆引。だから、国会での大作追及をかわすテコに利用されただけでチョン。当初からまとめる気など全くなかったのだ。
 
 野党連合も社公民(社民連をぶらさげて)連合で自民党と対決という政治地図を描くのか、それとも社会党とは手を切って公民連合で自民党と連合するのか、或いはドタン場で民社を置いてきボリに、自・公連合をやってのけるか、そんなことはもはやどうでもよい予測になろうが、一つだけ確実なことはいえる。
 自民対公民の連合ではむろんのこと、社公民野党連合においても、公明が主導権を握るなんということは当初から考えられていないのだ。こう見てくると、矢野の“解党”論など単にシャミ線ひいているにすぎず、“自己否定”論に至っては全くの嘘っぱちで、総て公明党の夜郎自大ふうな引っかけセリフにすぎない。
 
 目的はただ一つ、政権の一角になんとか辿りつく最短距離、野党その他との連合のポーズは総て自民党との取引を有利にするための見えすいた駆引に過ぎない。
     ----------(つづく)---------160
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