第一のヒミコ モモソ姫 その1
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支那の歴史書には「ヒミコ」なる人物が 何人か登場します。
しかし記紀では徹底して ヒミコを無視しています。
記紀を書かせた持統女帝や時の最高権力者の不比等らの祖先について 支那の歴史書には
都合の悪いことが書かれているのでしょう。
それらのヒミコについてや、時の権力者にとって 都合の悪いことをまとめていきたいと思います。
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そもそもヒミコとはなんでしょう。
もともと支那人は中華思想におぼれているので(今でもそうですが)支那の周りの国や、
民族を人間扱いしていなかったようです。
卑字、蔑字(卑しんだり蔑んだりする表現の文字)を使ったり、動物の字を当てたりします。
鮮卑、匈奴など汚い表現が凄すぎますね。和国や和人なども卑字で表現されています。
その点朝鮮人は偉かったですね。支那人が蔑んだ名前を付ける前に自分たちの国は「朝鮮」つまり
朝日の当たる鮮やかな国だと 支那人に伝えたから 卑字で呼ばれることがなかったのです。
もちろん我が国の「ヒミコ」も卑字蔑字で書かれています。
いまだにその卑字をありがたがって使っている馬鹿な歴史学者がたくさんいます。
あいつらに日本人としての誇りはないのでしょうか。
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江戸幕府に朝鮮通商使節が訪ねてきたときに 将軍あての親書に 和国の文字に卑字が
使われていたので 幕府が怒り親書を投げつけて返し 書き直させたという逸話もあります。
昔の人は日本に誇りを持っていたのに いまだに卑字蔑字をありがたがっているなんて
どうかしてますね。いまでも支那人に遠慮しているのでしょうか。
それとも日本人が支那人に馬鹿にされているのに気が付いていない 大馬鹿なんでしょうね。
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こんなものを並べてはいけません。私は馬鹿ですと言っているのと同じです。
内容は正しいです。桜井市は昔は大和の大豪族で、出雲王家の分家の登美家の地盤でした。
ヒミコの活躍した 鳥見山(登美山)や三輪山があり ヒミコの祭礼やヒミコの司祭する大祭に参集した
各地の豪族たちの宿舎のあった巻向もあり、登美家や大王家の古墳もたくさんあり、まさに古代史の舞台でした。
しかし支那人が日本人を馬鹿にして蔑んだこんな卑字をいまだにありがたがった使っているなんて馬鹿丸出しです。
はやく撤去しましょう。良識ある日本人として 気分悪いから。
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支那人は自分たちの周りの国の人間は みな野蛮人と思っていました。
野蛮な国の名や野蛮人の名前なぞ適当に表記したり、卑字蔑字や動物の文字を当てはめました。
ヤマトの磯城王朝第六代大王国押人(くにおしひとー後の贈り名は孝安)は107年に後漢の安帝に
自ら朝献に行っていますが(記紀では隠しています。大和国の代表として大王が 支那の皇帝に臣下の礼を取ったのが
許せなかったのでしょうが、歴史的事実で支那の歴史書に書いてあります) 支那人は彼の6文字の内2字だけ表記して
「師飛しひ」と記録しました。
おまけに ご丁寧に 役人が転記するとき写し間違うて「師升」となっています。
省略するわ、名前を間違えるわ 要は支那人以外はヒトと思っていないからいい加減なのです。
そのほか魏に出掛けて行った 物部豊連合王国の使節の田道間守(たじまもり)、八坂入り彦(やさ
かいりひこ)、武内の宿祢(たけしうちのすくね)、イクメ王(幼名をイサチ、後の贈り名を垂仁)
などまともに記録されている人はいません。
すべて省略した上に間違えて記録されています。日本人みたいな野蛮人の名前なんて
どうだっていいのです。卑字蔑字で適当に表現すれば。
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話は初めに戻りますが ヒミコとは姫皇女 もしくは姫巫女なのです。つまり「ひめみこ」
なのです。
後漢や魏に直接出向いた和人から聞いた人の名や身分の名前を 適当に省略して記録したのでしょう。
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それでは 姫巫女とはなんでしょうか。
今の桜井市の鳥見山(とみやま)は ヤマトの磯城王朝当時では 登美山(とびやま)と呼ばれて
その山頂は 登美の霊畤(とびのれいじ)と呼ばれる祀りの広場でありました。
登美家は当時のヤマトの大豪族で出雲王家の分家です。
登美の霊畤と呼ばれる祀りの広場からは 三輪山に祀られている 太陽の女神(出雲王国国教の
幸ノ神三神の母神、佐比賣の命(さひめのみこと))を遥拝する大切な場所であり、春と秋の大祭に
は 大和はおろか遠方から地方の豪族たちが集まり 大祭に参加しました。
それが祭政一致と呼ばれるものです。
その祭りの司祭者は 出雲系の登美家の姫が選ばれて 姫巫女(ひめみこ)と呼ばれていました。
支那人はこの「ひめみこ」を省略して「ひみこ」としたのでしょう。
※このブログでは ヒミコ、ひみこ、和国、和人と表記しています。
支那人が書いた 日本人を蔑んだ 蔑字卑字は気分が悪いので つかいません。
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登美の霊畤の入り口です。等彌神社境内から登ります。この神社も昔は富神社 もしくは
登美神社と言ったのでしょう。かつて登美家の地盤だった桜井市には「とび」という地名があちこちにありますが
みな字が違います。「外」という地名も「とび」と発音します。
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しばらく登るとこの広場に出ます。ここか゛登美の霊畤です。
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今は雑木の間から三輪山が見えますが 昔はもっとすっきりと見えたのでしょう。
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※登美の霊畤訪問記は 2015年12月26日の記事です。
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話は初めに戻りますが 三国志、魏書、和人の項に出てくる「ヒミコ」が第一のヒミコで
「モモソ姫」です。
「その女が女王に立つと長かった和国の戦乱が収まり、平和が訪れた」と書かれた第一のヒミコです。
モモソ姫が姫巫女になる前は 和国は戦乱が続いていました。
後漢書東夷伝によると「後漢桓帝、霊帝の頃(146~189)は和国は大いに乱れて定まった王が
いなかった」と書かれています。もちろん記紀はひた隠しにしています。
だって万世一系の嘘を押し通していますから。
神武なる架空の大王が天上から降りて来て、九州から大和へ東征して以来和国には争いごとは
全くなかったことにしていますから。
戦いに敗れて ヤマトから逃げた大王も 新しい大王が 地方に派遣した将軍ということにされた大王が何人もいます。
実際に何度もあった血で血を洗う政権交代なんて 決してあってはならないのです。
それに自分たちが 渡来人の征服王朝だなんて、絶対に隠しておかなければなりません。
自分たちは天から降りてきた人たちの子孫なのです。つまり天上の神様の子孫なのです。
日本最古の出雲王朝は 戦争で倒したのではありません。
出雲王家から国を譲ってもらったのですから。
そういう事にしとかないと 渡来人の征服王朝のいう事なんて 国民は誰も言うことを聞きませんよね。
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その当時の和国大乱の争いは主に三つあります。
1.大和内部の豪族たちの争い
2.播磨、吉備に侵入した朝鮮人卑ボコの子孫たちと出雲王国の争い。
そして続いて播磨吉備に侵入したフトニ大王とその皇子の吉備津彦たちと 出雲王国とのし烈な戦争
(出雲王国では第一次出雲戦争と記録されています)
3.九州物部王国の第一次東征による大和入りとその後のヤマト内の内乱
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1.まず大和国内の豪族たちの争いについて
記紀では 大王家が大和全体および和国全体を掌握していたように見せかけていますが
実際に大王家が強力だったのは 3代目までで(天の村雲(徐福と出雲高照姫との間の長男五十猛と徐福と
宗像家市杵嶋姫との間の長女穂屋姫との間に生まれた皇子ですが 記紀では架空の大王神武にすり替えられました)、
沼川耳(ぬなかわみみ、のちの贈り名をスイゼイー天の村雲と出雲王家踏鞴五十鈴姫との皇子)、玉手看(たまてみ、
のちの贈り名を安寧 沼川耳と登美家五十鈴依姫との皇子)まで)で 4代目(スキトモ、のちの贈り名をイトク
ー玉手看と出雲王家沼底中姫との皇子)以降は力が衰えて、大和は主に三家の豪族が覇権を争う状況になっていました。
大王家の磯城家、出雲系の登美家、それに天の村雲の出身母体の尾張家です。
尾張家は徐福の長男五十猛の子孫を中心とした家系で 奈良県葛城市の高尾張村が地盤だった
ことから尾張家と呼ばれました。
のちにイクメ王に追われて東海地方に逃げたので 東海地方が 尾張の地名になりました。
※ちなみに大王を天皇と呼ぶのは天武からで このころは大王(おおきみ)です。
大王の名前を漢字二文字に書き換えたのは 右大臣不比等が大友皇子の曾孫、近江淡海を文書博士
に任命して書き換えさせたものです。
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2.播磨、吉備の戦争について
1世紀後半に渡来した朝鮮人卑ボコ(辰韓の王子)の子孫たち(以後卑ボコ子孫勢という)は 150年
頃丹波で豪族になっていました。そして突如播磨へ侵攻します。
そこは出雲王国の領土でしたが突然の侵攻に大した反撃もできないまま播磨は卑ボコ子孫勢に
乗っ取られてしまいます。出雲王家は親戚の磯城家に援軍を頼みますがフトニ大王は動きません
でした。
出雲とヤマトはその中央で 卑ボコ子孫勢により、分断されました。
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160年ごろフトニ大王は皇子の吉備津彦、若武吉備津彦を 突然播磨に出兵させて卑ボコ子孫勢
を打ち破り淡路島へ追いやります。
そしてフトニ大王も自ら出陣して吉備から伯耆へ侵攻し、出雲軍と戦争になります。
出雲王家にとり、親戚の磯城家の突然の侵攻にあわてた出雲王家は 必死に反撃し、
激しい戦争になり双方におびただしい戦死者が出たと言われます。第一次出雲戦争です。
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楽々福(ささふく)神社神門です。
この神社は吉備津彦、若武吉備津彦の兄弟と その母親の細姫(くわしひめ)
が住んだ住居跡に建てられました。フトニ王(もうこの時点では物部軍が大和の磐余に入り
フトニ大王は 大王ではなくなりました)は地元の若い美人と孝霊山の麓に住み奥方の細姫を
追い出したので 細姫は息子たちとここに住んだのです。
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楽々福神社拝殿と 左奥に本殿です。
本殿は千木は出雲仕切り縦削ぎですが 造りは出雲式の大社造りではなく
桁行方向に柱が4本立っていました。近寄れなかったのでよく観察できませんでした。
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楽楽福神社から国道183号線を南へ行くと 島根県奥出雲町横田へ行く道があります。
フトニ王の吉備王国軍は この道を奥出雲へ怒涛のように侵入したといわれます。
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ここの分岐は船通山へ向かう道です。
徐福が大勢の海童を連れて 秦国から大型船で石見の五十猛海岸へ上陸したことは
出雲王国民なら皆が知っていました。しかし徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫の
果安たちは 物部第二次東征で.出雲王国軍の手薄な場所を熟知していて 物部軍が出雲へ侵入す
るのを助けて出雲王国が負けるのに大いに貢献しました。この時の激戦で 出雲王国の大切な霊畤(祀りの式場)
の田和山神殿が破壊され、西、東の出雲王家は降伏し、五百年以上続いた和国最初の王朝は 秦国人徐福の
末裔の渡来人集団、物部王家により倒されたのです。出雲王家に記録されている第二次出雲戦争です。
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物部王家第二次東征で 物部軍を手引きして 大活躍したと自負していた果安は イクメ大王に直談判して
出雲国造が物部十千根に決まっていたのをひっくり返して出雲国造にしてもらいました。
そして記紀制作時、神武東征を出雲王国の初期にまでさかのぼらせたり、出雲戦争を隠して国譲りの話に
置き換えさせたのもみな果安らの仕組んだことだと言われます。
素戔嗚(徐福)が船通山に天から降りてきたと記紀にかかせたのも 果安です。
このため 徐福が五十猛海岸に上陸したことを知っている出雲王国民は 徐福が空からこの山に
下りてきたという話を聞いて あきれて「ほんなら 徐福は船に乗って この山に下りてきたのだべ」
と冷ややかにこの山を船通山と名付けたといわれます。
※徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫が今の出雲大社の宮司です。
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この道をこのまま進むと奥出雲、横田、三成、木次など奥出雲タタラ製鉄の中心部です。
そこから更にもう少し行くと出雲王国南部に出て 西出雲王家神門臣家、東出雲王家向家
などの 出雲王国の心臓部です。
出雲軍が必死に反撃に出たのも分かります。
このあたりで死闘が繰り広げられて双方に沢山の死者が出たと伝えられます。
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モモソ姫 その2へ続く
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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。
雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。
またウワナリ打ち神事の絵は 雲秀先生の本から引用しました。
また地図はMapionから引用しました。
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