アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 熊野三山と熊野古道、そして神武東征の道 その1 2019年11月19日

2019-12-23 22:44:42 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

北陸に住む友人が 最近ツアー旅行で 熊野三山を巡ったそうです。

私もかつて 世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の参詣道はすべて歩きました。特に熊野古道小辺路(こへち)、
中辺路(なかへち)、伊勢路(いせじ)はすべて熊野三山が絡みます。そして大峯奥駈道は熊野本宮大社がゴールでもあり
(逆峯)スタートでもあります(順峯)。

熊野三山とは 今回友人が巡った 熊野那智大社、熊野速玉大社、熊野本宮大社の3つの神社ですが そのいずれも
紀元前3世紀末に我が国に渡来した秦国人徐福を祀っています。

いずれの神社の主祭神も熊野速玉の命(はやたまのみこと)といいますが、和名を饒速日(にぎはやひ)もしくは火明かり
(ほあかり)と名乗った秦国人徐福のことです。記紀では素戔嗚(すさのお)とも書いていますが。

徐福の子孫たちは 饒速日の速を採り 速玉の命と呼びました。
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世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の地図です。
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紀元前三世紀末、徐福は大勢の海童たちを引き連れて 最初島根県の太田市五十猛海岸に上陸し 和名を「火明かり(ほあかり)」
と名乗ります。事前に忠実な部下の「矛卑ホヒ」を出雲王朝に使わして 上陸の許可を取り付けるという周到な悪巧みをしてからです。

ちなみにホヒの子孫が今の出雲大社宮司です。上陸した徐福は出雲に住み、出雲王家の高照姫を娶り 長男が生まれ 五十猛(いそたけ)」
と名付けます。徐福の父の名が徐猛と言ったので 「猛」を付けたのでしょう。

自分が出雲王国の王 つまり和国の王となるつもりでやってきた徐福は 当時の出雲王国の主王と副王を亡き者にしようとします。

当時の出雲の 主王八千矛(役職名は大名持で 記紀では大国主とか大黒とか大名持、大汝と書かれた)と副王の八重波津身
(役職名は少彦で記紀では事代主とか少名彦名と書かれた)をホヒや海童たちに命じて誘拐幽閉して殺害し
自分が出雲の王になろうとしますが 王国の組織がしっかりとしていて それが果たせずに いったん秦国へ帰国します。

※大名持が幽閉殺害された猪目洞窟と少彦が幽閉殺害された志津の岩屋の訪問記事はこのブログの2013年3月18日の記事です。

※徐福が上陸した石見五十猛海岸訪問記事は 2014年4月24日の記事に載せています。
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帰国した徐福は 秦の始皇帝に 更なる資金と海童たちを貰い 不老不死の薬を求めるふりをして和国(蓬莱島)へ二度目の出航をします。
そして今度は九州佐賀県の浮杯に上陸します。

今度は 和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り 出雲王家の九州分家、宗像家の三姉妹の末娘市杵島姫(いちきしまひめ)を娶り
次男穂穂出見(ほほでみ)をもうけます。ちなみにこのあと長女の穂屋姫が生まれ、出雲で生まれ丹後へ移住し、そして大和に移住した
徐福の長男五十猛(後に香語山と改名)と穂屋姫は結婚します。

二人のの間に生まれた「天の村雲」が 出雲王家の大和分家の登美家や賀茂家の協力で 初代大和の大王(おおきみ)になります。

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一方 徐福の次男穂穂出見は 九州物部王家を起こして その子孫が東征を実施するのです。つまり東征とは 徐福の長男五十猛の子で
徐福の孫の天の村雲が大和の登美家や賀茂家の助けを受けて成立した 大和の磯城王朝を 次男の子孫の九州物部家が倒す兄弟喧嘩です。

この史実は記紀には書けないため 御伽噺の海幸彦と山幸彦の兄弟喧嘩の話になりました。

なぜなら持統女帝は 血で血を洗う無政権交代など なかったことにして自分たちの祖先は天上から高千穂の峰に降臨したことにして
自分たちの祖先が 渡来人の征服王朝だということを徹底して隠したのです。出雲王朝なんてなかったことにしたのです。
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西暦165年頃に 九州物部王家の「彦渚武」王の皇子 物部の五瀬(いつせ)、その弟稲飯(いないい)、三毛入り(みけいり)が
第一次東征を開始、紀ノ川河口から大和入りしようとしました。

しかし紀の国は 初代大和大王 天の村雲の 腹違いの弟高倉下(たかくらじ)の地盤で、高倉下の子孫たちに
手強い反撃、迎撃を受けて 五瀬は戦死、竈山神社に葬られます。和歌山市の籠山神社も古くて大きく立派な神社です。
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竈山神社の立派な神門です。
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籠山神社の由緒書きには「神武天皇の兄が主祭神 」とかかれていますが あながち嘘ではありませんね。
弟たちが後に大和入りして架空の大君神武のモデルとなるのですから。

※竈山神社訪問記は2015年9月8日に載せています。
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生き残った稲飯と三毛入たちは一旦紀ノ川から退却し、熊野へ回り熊野川を遡ろうとします。
しかしそこでも大和の磯城王朝配下の武人たちに攻められて 動きが取れずやむなく安全な熊野川の中洲に留まります。

その地が 後に熊野本宮大社となりますが、明治の大洪水で十津川村が壊滅的な被害を受けたときに 熊野本宮大社も流されて無くなり
その後今の場所に再建されました。元宮の跡地には巨大な鳥居が立ち 「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれて今も聖地です。

このときの大洪水で 壊滅的な被害を受けた 沢山の十津川村の村人が 故郷を捨てて 熊野古道小辺路を歩き 高野山から大阪へ出て
北海道に移住しました。北海道新十津川村です。
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大斎原には今は巨大な鳥居がたっています。
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ここで熊野古道の写真です。まず小辺路(こへち)から
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小辺路は高野山から熊野本宮へ向かいます。しかし残念ながら和歌山県、奈良県の職員の程度が低く 世界遺産の参詣道は
ほとんど壊されてしまいました。文化遺産に対する認識が低いのですね。

小辺路も他の参詣道と同様 ほとんどがアスファルトの林道か国道で 中でも高野龍神スカイラインも歩かせます。
実際にアスファルトの道路を歩いていると 左右の山の中に いくらでも歩道を作ることができます。現に踏み後もあります。

しかしやる気がないので 林道は作っても 熊野古道の歩道、巻道はつくろうとしません。馬鹿ですね。

伯母子峠はかろうじて残っています。腰までの雪の中を歩きました。
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伯母子峠です。ここから右へ分岐すると伯母子岳へ行けますが この日は雪が深くて一人ラッセルに疲れて途中で引き返しました。
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十津川から果無峠を超えて本宮へ向かいます。果無峠付近も昔の道がわずかに残されています。
果無集落はまさに天空の集落です。
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果無集落の中を小辺路が通り、ここでは民家の縁側で休憩できます。ここで1時間くらい座って思いを昔に馳せました。
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この家のバーちゃんです。テレビやポスターに引っ張りだこの売れっ子ばーちゃんです。この写真もポスターです。
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熊野本宮大社に着きました。キレイどころがお出迎えしてくださいました。
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神社入り口です。はためく大旗には八咫烏(やたがらす)がいます。後で述べますが 立往生した物部軍を無事に大和の登尾家の地盤の
磐余(いわれ)に導いた 登美家の当主加茂建津之身に感謝した物部軍が 支那の神話にでてくる八咫烏として加茂建津之身を祭ったものです。
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拝殿には八咫烏の石像もあります。
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その2へ続く
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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」のトップページは こちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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