サホ姫 その2
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田道間守を大和から追い払った野見太田彦は ヤマトの添下郡(今の奈良市菅原町、秋篠街方面)
を領地にもらい その管理を長男と次男に任せて 連れてきた出雲兵と共に 出雲に帰ることになった。
一行は播磨を通り 日下部の野に宿泊した。
日下部には日下部一族が住んでいて、日下部氏はヤマトの登美家の分家であり、富太田彦の親戚でもあった。
その日下部氏から太田彦は招待されて もてなしの食事を提供された。
しかしその食事には 毒が盛られていて太田彦は急死しました。
後で知らされたことですが 日下部氏の家には 卑ボコの子孫の者がいて そいつが毒を盛ったと
云うことでした。旅先で亡くなったので 太田彦の遺体はその地に埋葬されることとなり
出雲から大勢の人が駆けつけて 古墳造りに立ち回ったということです。
たくさんの人が その野に立ち回ったので その地は「立つ野」と名付けられました。
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現在の兵庫県龍野市に、「野見の宿祢の古墳」があります。
(上の写真と下の説明文は 龍野市の公式ホームページから借用しました。)
龍野市野見の宿祢神社の写真と説明文です。
相撲の元祖であり、殉死の代わりに埴輪を考案したことで有名な野見宿禰は、大和の国から
故郷の出雲へ帰る途中この地で病死しました。
宿禰の死を悲しみ、出雲から多くの人が来て川からリレー式に石を運び墓を建てました。
野に人が立ち並んだことから、「野に立つ人」「立野」と言い、いつしか「龍野」になったそうです。
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また遺体の一部は 出雲にも持ち帰られて松江市宍道町にもお墓があります。
2015年12月13日の記事と2021年2月2日の記事に松江市の太田彦の古墳の記事があります。
※なお現在は その古墳の敷地に太田彦の子孫の菅原道真の菅原天満宮も建てられています。
菅原道真の生家も松江市宍道町です。
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さて田道間守がヤマトから追い払われて イクメ王が安堵したのもつかの間、今度は磯城王朝の
彦美知宇斯大王の誘いに応じた 武内宿祢が 紀国からたくさんの兵を集めて磯城王朝側に参加します。
かれは宇佐豊玉姫に冷遇され、魏から官位がもらえず失望し、かつ怒りが こみ上げてきて、物部軍から離れて
紀州に帰り機をうかがっていたのです。
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彦美知宇斯大王の軍に 武内宿祢の紀州軍が加わると 佐保彦の軍と合わせて東軍の勢力が
がぜん優勢になりました。西軍はこの状況に非常に落胆したといわれます。
イクメ王は 十千根をはじめとして 様々な物部軍関係者から武内宿祢に密使を送り物部軍に帰るように
勧めたそうですが 武内宿祢は がんとして聞き入れませんでした。
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しかしこの後 宇佐豊玉姫の葬儀を終えた豊国勢が 瀬戸内海から河内へ上陸しました。
この時点から 豊彦、豊姫は「豊来入り彦」、「豊来入姫」と呼ばれます。しかし記紀は
豊来では 豊の国からやってきた征服王朝というのがバレルので 「豊鍬入り彦(とよすきいりひこ)」
「豊鍬入り姫(とよすきいりひめ)」と書きました。なんのこっちゃという感じですね。
ちなみに 記紀は 九州から一度も出ていないイニエ王(イクメ王の父君)の事を「御間城(みまき)入り彦大王」
と書き換えて あたかも朝鮮の和国領土の任那(みまな)からやってきたように見せかけていますが
任那ができるのは 襲津彦大王と息長姫が三韓征服したそのあとなので 時代が全然合いません。
やることが無茶苦茶ですね、記紀は。
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豊彦と豊姫は イクメ王が磯城王朝と休戦したことを知り、しかもイクメ王がサホ姫と結婚して
サホ姫が三輪山で 太陽の女神を祭祀する姫巫女であることを知り 大いに不満を感じます。
宇佐家は代々月読の神を祀る家柄であり、豊玉姫も豊姫も月読の神を奉じているのに
サホ姫が司祭する 太陽の女神 すなわち大日霊女貴が政治の中心となっているので
自分たちの立場がなくなるのを恐れたのです。
そこで豊彦達豊国軍は 河内から突然大和南部へ進軍して登美の霊畤や三輪山を占領し、登美家の勢力を追い払ったのです。
登美家はヤマトの大豪族でしたが 突然の豊国勢の乱入に 対戦できず登美家当主の大賀茂津身は
山城の国南部の岡田(現京都府木津川市加茂町)へ地盤を移します。
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宇佐豊玉姫は亡くなる前に 親魏和王の金印と紫帯を娘の豊姫に渡していました。
そして伊都国に駐在している魏の和国駐在武官の張政は 豊玉姫の後任にトヨを文書で指名します。
トヨは魏書に台与と書かれています。これはタイヨではありません。トヨです。
ヤマト国と書かれた字を誰かが ヤマタイ国と間違えて読んでそれが広まったようですが台はトと読みます。
タイではありません。つまりヤマト国、トヨヒメです。
当時の和国が魏の属国である以上 張政の檄文書は絶大なチカラがあります。そこでイクメ王の物部軍と
豊国軍は再び合流します。すると俄然西軍が優勢になります。
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魏から親魏和王と認められた豊玉姫は 豊彦にとって自分の母であり、自分の妹の豊姫が母、豊玉姫の後継者なので
自分こそが和王であり、妹が和国の祭祀を司る姫巫女なのだと豊彦は思い 自分を王と名乗ります。
豊姫は三輪山の麓の笠縫村の檜原神社で月神を祀り 人々から「若日霊女貴」と呼ばれます。
そして若日霊女貴も次第に人気が出てきます。
そして豊彦はイクメ王にサホ姫と手を切ることを求めます。魏の和国駐在武官の張政が
豊姫を親魏和王の後継者と定めたので これに従わなければならないのです。
イクメ王は佐保姫と手を切りサホ彦を攻めることを決意します。
これを知ったサホ姫は幼いホムツワケの皇子を抱いて夜更けに兄のもとへ逃げ込みました。
サホ姫は兄のもとからさらに護衛を付けられて 東国へ向かい 尾張の国丹羽郡に隠れたといわれます。
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イクメ王のもとで 三輪山で太陽の女神を奉じ「大日霊女貴(おおひるめむち)」と呼ばれた
サホ姫は これで歴史の表舞台から姿を消します。
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奈良市の狭岡神社です。
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境内には記念碑があります。
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サホ姫伝承地と書いてあります。
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記紀を引用した割には正確です。サホ姫はたしかに大日々大王の孫です。
そして一時はイクメ王の后でしたから。しかし当時はイクメ王はまだ大王になっていませんでした。
記紀は第10代日子坐と第11代彦美知宇斯大王を隠していますから、サホ姫の父親を書けなかったのです。
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狭岡神社にはサホ姫の社はありません。
ネットで調べると近くの常陸神社境内にあると書いてあったので訪ねました。
確かにサホ姫大神と書いた社がありました。
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優勢になった西軍は 豊彦の息子八綱田(やつなた)が将軍となりイクメ王軍と共に佐保彦軍を
打ち破りました。さらにイクメ王は磯城王朝の都である和邇の地へ総攻撃を指示し、豊国軍と
イクメ王の物部軍が総攻撃をかけました。
彦美知宇斯大王軍と武内宿祢軍は破れて 丹波へ逃れました。
これでイクメ王は名実ともに ヤマトの大王となりました。
さらにイクメ大王は 彦美知宇斯王と武内宿祢のいる丹波への総攻撃を仕掛けて 彦美知宇斯王を
取り囲みます。
観念した彦美知宇斯王は 降伏し ここに約300年続いた磯城王朝は終わります。
大王の資格を失った彦美知宇斯王は幼名の彦多津彦を名乗り 娘たちや武内宿祢を連れて
丹波の網野の地に行きそこに網野神社を建てて父の日子坐大王を祀りました。
さらに 彦多津彦王は 稲葉国造に任命されて 武内宿祢を伴って稲葉の地に赴任しました。
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次は豊姫(豊来入姫、豊鍬入り姫)
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