アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて オホド大王(後の贈り名は継体)の足跡を訪ねる旅は越前桜旅になった 2018年4月5日 その1

2018-05-03 10:28:41 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
オホド大王の足跡を尋ねる越前桜旅 その1
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西暦248年に始まる 九州物部王国の第二次東征により、わが国最初の王朝である出雲王朝は倒されました。
しかしその後も 出雲国教の幸の神は各地で信仰され、特に東出雲王家の祖神のこもる 聖なる山 熊野山
(松江市天宮山)を祀る集会は 毎年行われ 全国に散った出雲王家の兵士達の子孫は 「散家」と呼ばれて
熊野山祭りの集会に参加しました。
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しかし倒されたとはいえ 出雲王家はまだ相当の財力と兵力を持っていたことは事実です。

実際に 九州物部王家のイクメ王は大和に進攻して磯城王朝を大和からおいだしたとはいえ、部下の但馬守
(朝鮮人卑矛(ひぼこ)の子孫)が葛城地方で王のように振舞うのを制御できずにいました。

そこでイクメ王は旧出雲王家の富家に 但馬守を撃つように頼み 富家の大田彦は 出雲兵を率いて葛城地方から
但馬守を見事追い払い淡路島へ逃走させました。これにより富家の大田彦と 出雲王家の大和分家の富美家
は 大和に領土を回復し、大田彦は物部の重臣の称号「宿禰」を与えられました。

ここにきて イクメ王は名実共に大和の「大王」(この時点ではまだ天皇なる言葉はありません)になるのです。

この事件は記紀では「野見宿禰」と「当麻蹴速」の相撲話に書き換えられました。この事件が大相撲の
起源だそうで、まったくのお笑いです。しかし考えてみると この戦争をそのまま歴史書として書くと
九州から来た徐福の子孫の物部王家が 大和に王朝を作っていた 出雲王家と徐福の子孫の連合王国の磯城王朝を
武力で制圧して 乗っ取ったという事実がばれて 持統や不比等がそんな事を許すわけが有りませんからネエ。

ちなみに 野見宿禰の「のみ」とは富家の「とび」のことで 「たいま」とは但馬のことです。また今の當麻寺
のある當麻は但馬守が地盤とした地域で 但馬(たじま)がなまって「たいま」となったものです。 
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一方 大和に進攻した物部王家の「イニエ王」は自分の部下だった武内宿禰が裏切り 磯城王家の彦道主大王
と連合した軍勢を破ります。彦道主大王は娘の燈バス姫をイクメ王に差し出して 武内宿禰とともに因幡の国へ
流されて 因幡国造家として余生を過ごします。

しかしイ二エ大王(後の贈り名は垂仁)は武内宿禰が許せなくて、刺客を放ちます。それを知ったヒバス姫皇后は
父親彦道主に知らせます。当時因幡の国に住んでいた武内宿禰は それを聞きとりもなおさず 農民の姿をして
西へ逃れ 出雲の富家に助けを求めます。

富家では 出雲王家の皇女大屋姫の子孫である武内宿禰を匿い意宇の森に住まわせます。
そして富家の姫を与えて結婚させ、出雲王家の称号「臣(おみ)」を与え「武内臣太田根」として
余生を過ごさせました。このことが将来の日本の歴史に大きな影響を与えます。
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武内臣大田根(たけしうちのおみ おおたね)の子孫からは日本史を動かす沢山の大王
(おおきみーまだこのころは天皇の称号はありません)が誕生しています。

武内臣大田根の曾孫が襲津彦大王で その後の平群王朝(支那の歴史書に言う和の五王)や蘇我の臣石川などが子孫です。
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ということで 話ははじめに戻りますが、蘇我総本家とイズモの富家は親戚関係なのです。
その蘇我総本家では振り比売の時代には 子供は振り比売一人になったといいます。そこで富家から次男の
彦太(ひこふと)を婿養子にもらう事になり、その年の熊野山の大祭に越前の蘇我総本家から振比売が訪れて
参加しました。そして大祭の後 彦太は振り比売を送って越前へ行き そのまま婿入りしたのです。
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富家に伝わる伝承によれば新婚の二人はまず 振り比売の祖先である「武内の臣大田根」を祀る「武内神社へ参拝しました。
今の松江市竹矢町です。
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そこから船に乗り阿太加夜神社へ向います。今の松江市東出雲町出雲郷(あだかえ と読みます)にあります。
其処は武内臣大田根が富家に匿われて 住んだ場所で意宇の森(おうのもり)と呼ばれる場所で
そこで命を全うしました。その屋敷跡に神社が建てられました。

※武内神社、阿太加夜神社の訪問記は 2014年4月10日の記事に載せています。
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そこからしばらく船を東へ進め、因幡の国で船を下ります。宇部神社に参拝する為です。
宇部神社は 武内宿禰が 因幡国造として大和から移り住んだ彦道主王(もう大王ではありません)に付き従い
移り住んだ場所で、イクメ大王が刺客をはなったという知らせで あわてて姿を消した屋敷跡に建てられました。

この神社の拝殿の前は 京都御所と同じく「右近の橘、左近の桜」が植えられています。
彼の子孫から沢山の大王が出たことを暗示しているのでしょう。
※宇部神社訪問記は 2017年10月12日の記事です。
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彦太と振姫は越前の福井で祝言をあげ 「オホドの君」と呼ばれて 活動を開始した。
水害の多かった九頭竜川の河口を切り広げて、三国港を整備した。そして日本海交易を盛んにし莫大な財をなした。

当時若さ、加賀、越の国には 出雲王家の親戚の磯城王家の大彦の子孫たちが国造家として住んでいて
「道の君」家と呼ばれていた。発展を重ねた蘇我総本家のオホドの君は それらの盟主となり
それらの国々はやがて蘇我王国と呼ばれるようになる。

次にオホドの君は敦賀の港から荷馬車で山越えして 琵琶湖と淀川を舟で運び瀬戸内海と日本海を継ぐ航路を作った。
そして難波から大和川を通り都へは直接往来で来たので 都にもオホドの君の名声は聞こえた。

蘇我オホドの君は淀川の中流域、乙訓今の三川合流地点(淀川、宇治川、木津川)に交易の拠点と広大な屋敷を作った。
その地の西は三島であり、かつて第八代出雲王家副王、言代主の八重波津身に嫁がれた玉櫛姫(活玉依り姫)
の実家があり 出雲王家領の一部もあった。そこには沢山の出雲族が移住しており、彼らの子孫も多数
乙訓屋敷に集り尾ほどの君の為に働き始めた。

また関東の国造家も ほとんどが出雲王家の子孫たちなので 彼らも乙訓の地に集り オホドの君の為に
働くようになり ますますオホドの君の名声はたかまった。

当時のオオサザキ(大雀)おうち用では親族の内紛が絶えず、王家の力は衰えるばかりであり、折りしも
オケ大王(仁賢)、ワカサザキ大王(武烈)が相次いで無くなり跡継ぎが絶えたという。

そこでオオサザキ王朝の重鎮二人が 乙訓の屋敷にオホドの君を訪ねて 大王就任を頼み込んだという。
重鎮二人は 大伴金村と巨勢の臣男人であり、巨勢の臣は襲津彦大王の子孫である。(上図参照)
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重鎮二人はオホドの君が大王就任の条件として 先々代大王のオケ大王(贈り名を仁賢)の皇女である
手白香姫(たしらかひめ)を后にするという時用件を持ち出した。オホドの君はこれを飲んで大君となり
オホド大王が誕生した。しかしこれがのちのち複雑な問題を引き起こします。

振姫との間には カナヒ、オシタテという二人の息子が居て 記紀ではこの二人を何故か大王扱いにして
それぞれ送り名を「安閑」、「宣下」としている。

しかし手白香姫との間には ヒロニワ皇子が誕生し のちにヒロニワ大王(欽明)となり この大王からの
系統が今の皇室に続く血筋です。
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※このブログの歴史内容は 斎木雲州著 「古事記の編集室」、「出雲と蘇我王国」、「出雲とやまとのあけぼの」
「万葉歌の天才」、「御伽噺とそのモデル」、「飛鳥文化と宗教争乱」  
勝友彦著「親魏和王の都」、「参院の名所旧跡」 谷戸貞彦著「幸の神と竜」 いずれも大元出版です。
またブログの内容に付いては 斎木雲集先生のご了解済みです。
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オホド大王の足跡を尋ねる越前桜旅 その2へ続く
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