「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

『水戸先賢烈士と其墳墓』福地徳 編(1929・昭和4年:杉雨樓書屋)

2023年01月25日 10時13分14秒 | 本・雑誌
『水戸先賢烈士と其墳墓』福地徳 編(1929・昭和4年:杉雨樓書屋)







「自序」によれば

水戸の「常磐原墓地」と「酒門原墓地」の両墓地は二代藩主の光圀より賜った先哲烈士の墓所であるが、十分なる管理がなされていないことを嘆き、墓域の清掃や保持活動、墓地の案内道標を設置するなどの活動をしてきた。
水戸に来訪する方々への手引書として、墓碑の『何々の墓、誰某撰文、何某書』を一々実地の墓碑に行き、筆写した。
先哲を敬愛する念で墓参を重ねた結果で公刊の意思はなく、自己の参考資料として記録したものと記してある。
しかしながら、これは大変な労作であり、時代を経て現在は読めなくなってしまった碑文もあるから貴重である。







巻頭の8頁に渡って立原翠軒の肖像や墓地の写真が掲載されてある。



碑文は読み下し文で記されてあるので分かりやすい。



添付されてある墓地案内図。

「常磐原墓地」と「酒門原墓地」の他に神崎寺、本法寺、神応寺、祇園寺、などの墓地についても記されてある。



水戸藩の2代藩主・徳川光圀は儒教に基づく藩政を目指した一環として寺社改革を進め1665 (寛文五)年に法令を定め移転や取り壊しを行った。
同時に、僧侶によらない自葬祭を奨励した。
さらに『文公家礼』にもとづいて喪祭儀を解説した『喪祭儀略』を頒行した
儒式(神式の要素も加味)による葬祭の仕方・墓石の大きさや形態まで規定し、簡素化を勧めた。

*著者の福地徳は現在の那珂市本米崎に生まれ「常総新聞」(後に「茨城新聞」と合併)の主筆を務めた。「杉雨」と号し、能書家としても知られた。
小鉾田市紅葉に在る「宮山楓軒頌徳碑」(昭和17年・1942) の撰文と書も担当した。
子息の一人が洋画家の福地靖だが、時には水墨画などを描くこともあり、その際の落款は父親が愛用のした「杉雨」印と朱泥を用いた。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。