「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

水戸の上市(うわいち)と下市(しもいち)

2020年09月24日 17時46分47秒 | 水戸の今と昔
水戸の上市(うわいち)と下市(しもいち)





水戸市本町「笠間印刷」の所持する、昭和二年調査制作「下市」という(木版の概略図)刷り物のコピーを「GOOD WOOD HOLIDAY」からお借りした。
昭和2(1927)年の本町1丁目から4丁目辺り迄の区域限定。
本町は1丁目から10丁目まであり、細谷の渡船場まで商家が続いた。
維新前は水戸の商店街と言えば、この通りを指した。

「下市」(しもいち)と大書きされている。
我々の世代までは「上市(うわいち)、下市(しもいち)」とよく言った。
近頃、使う人が少なくなった。

水戸藩初代藩主頼房は城郭の拡大を図り、佐竹時代の本丸に兵器などの倉庫を置き、二の丸に藩邸と三階櫓を築き、三の丸に重臣の屋敷、今の水戸警察署脇の空き濠から太田街道まで、更には現在の栄町・大工町を侍屋敷と定めた町(上町)。

竹隈の城跡を崩した土で低湿地を埋め立て、侍屋敷と評定所・蔵などを置いた。
同時に、三の丸の濠の西側の町人達を移住させた(寛永の田町越え)ことで城の東側に町が拓かれた(下町)。



文政5年(1826年)の古地図
赤い部分が町家で、北側に武家屋敷。



同じ地図の柳堤(やなぎつつみ)
江戸時代は上市と下市との間は、千波湖の中を通る(柳堤・新道)以外、町人の城下の通行できなかった。



柳堤(やなぎつつみ)
『常磐公園攬勝図誌』《1885年、明治18年・松平俊雄(雪江)》
上市方面から下市方面を望んだ図。
維新後は城下を通れたのであろうが、重要な通路であった。



「水戸上下市街略図」(明治7年)
「上町」を上市(うわいち)、「下町」を(しもいち)と呼ぶようになったのは明治時代からといわれる。



井清呉服店(七軒町・昭和初期)



水品電車が走る本町1丁目(昭和初期)
電車右側の西洋館は井金呉服店



昭和9(1934)年の下市。
同種・同職の町人を町ごとに集めたので穀町・肴町・塩町・材木町・青物町・紺屋町・白銀町などは、近年の町名変更まで使われた。



昭和13(1938)年の水害。
低湿地の下市は、度々水害に遭った(本1丁目角の「常陽銀行下市支店」辺り)。

*昭和2(1927)年の絵図から下市・上市(しもいち・うわいち)を思い起こしたが、戦前までの話で現在まで至らなかった。
「温故知新」今と未来を考えねばならない。
水戸のなかでも「下市・上市は」取り残されてしまった。

新型コロナウイルスの収束には数年を要するだろう。
新たな生活様式を模索する時代となったが答えは難しい。
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