『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

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読書感想284  反日種族主義(3)

2020-08-07 02:15:58 | 時事・歴史書

読書感想284  反日種族主義(3)

 韓国語版には日本語翻訳版にない3つの章がある。そのうちのひとつの簡単な紹介をしたい。

「16.亡国の暗主が開明君主へ変身する」

著者の金容三氏は、高宗のことを「亡国の暗主」であり、最近になって一部の学者が高宗を開明君主に仕立て上げ、改革を熱心に推し進めたのに日本の妨害で挫折したといった論を公開していることを「手のひらで天を遮る」行為だと批判している。「反日」であればなんでも尊重する世の中は笑い話だとも語っている。

では金容三氏の挙げる亡国の暗主の根拠を見てみよう。

1. 朝鮮が1910年に日本に併合され、朝鮮という国がなくなった主要原因の一つは高宗とその王妃である閔妃の外交政策の失敗にある。

2. 高宗と閔妃は世界史的に覇権勢力ではなく、常にその覇権に挑戦する勢力と同盟を結ぼうとした。

3. 1880年代にロシアの南進が始まると、高宗と閔妃は初めは宗主国の清を牽制するために、日清戦争後には日本を牽制するために引俄拒日政策、つまり親ロシア政策を推進した。

4. 閔妃弑殺は三浦梧郎駐朝鮮公使が日本軍、領事館、警察、浪人を動員して行った事件だ。これは日本とロシアの国益のかかった勝負だった。ロシアと日本が全面戦争を始められない段階で、日本がロシアと朝鮮王朝の連結の環である閔妃を除去する措置だった。

5. 閔妃弑殺にたいして、ロシアは1896年2月高宗をロシア公使館へ脱出させることで応じた。俄館播遷だ。ロシア公使館から高宗は親日派官吏の処刑を命じた。親衛部隊が総理大臣金弘集を殺害。ほかの大臣たちは群衆によって殺害された。

6. 俄館播遷中に高宗はロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に使者を送り、保護領にするように要請した。

7. 朝鮮末期には、朝鮮の軍隊は次々に外国の軍人によって訓練を受けた。最初は日本で日本式の軍事訓練を受け、次は清によって、そして米国によって、また日本によってだったが、閔妃弑殺後はロシア人の教官によってロシア式の訓練を始めた。

8. こうした高宗の親ロシア政策にもかかわらず、ロシアは三国干渉で日本から大連と旅順を得たことで朝鮮進出政策をやめて満州に集中する政策に切り替えた。そして、1900年には日本に朝鮮半島の分割を提案している。日本は受け入れず。

9. 閔妃と高宗の関係はどのようなものだったのだろうか。三浦梧郎公使は回顧録の中で高宗は閔妃の手のひらに乗せられている孫悟空だと酷評している。「閔妃は女性としては珍しく才能を備えた豪傑のような人物」で、「事実上の朝鮮国王は閔妃」だとしている。国王と謁見する場合に国王の椅子の後ろにすだれがあってそこに閔妃がいて、高宗に指示しているひそひそ声が聞こえる。すだれから顔を半分ぐらい突き出して助言したりもする。

10.「忘れられた10年」。日清戦争後の1895年から1904年に日露戦争が始まるまでの10年間は朝鮮が国家改革を通じて近代国家に生まれ変わることのできる最後の機会だったが、それを高宗をはじめとした指導部は無為に過ごしてしまった。改革の代わりに外勢、清、日本、米国、ロシアを引っ張り込んで国家独立を守ろうとあがいた。

11.危機において高宗は何をしたか。外国の領事館に自分の保護を要請した。1882年クーデター後には日本公使に日館播遷を要請し、1894年日清戦争では米国公使館への美館播遷を、閔妃弑殺後は俄館播遷に成功し、日露戦争では英国に英館播遷を要請した。「この人、国王にふさわしいのかどうか」という懐疑が襲ってくる。

12.高宗は統治能力が欠如した人物と欧米の外交官は判断していた。1週間に1回政府閣僚の首がすげかえられ、内閣の危機が途切れないと。

 

一番上が保身に走るだけならば、その下も同じように保身に走ることになるだろう。欧米とか日本へ行った留学生を活用しようという意欲も能力もないのか。そもそも留学生がいたのか。客観的に情緒を排して言えば、中世と近代が衝突し、中世が滅びたということか。

 


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
高宗 (nishinayuu)
2020-08-09 16:43:56
「高宗は統治能力が欠如した人物」というのは同感です。自分の身の安全と贅沢な暮らししか頭になく、国や民を護るという認識が欠如していたとしか考えられません。
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